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2. サルビリニアス

 バウドーは農業の村で、周囲を山に囲まれた盆地だった。主な農産物は小麦と豆のほか、ニンジンやキャベツといった野菜、果物なども栽培していた。村の人口は百人程度、その他に農作業を手伝いながら出入りしていく余所者が二、三十人ほど滞在する、典型的な田舎の農村だった。


 イーレンはそんな村にある、道場の弟子の一人だった。道場主はサルビリニアスという元帝国軍軍人で、バウドーの村の出身ではないものの、何か所縁(ゆかり)のある場所ということで、この地に道場を開いたのだった。剣術を教える道場は、どんな村でもそれほど珍しい存在ではない。護身術として剣術を習うことはごく普通のことだからだ。ただ、サルビリニアスの道場は護身術以上を目指す剣士向けで、弟子たちはみな職業軍人になる事を目標に、住み込みで修業をする者ばかりだった。


 イーレンは幼い頃にサルビリニアスに引き取られ、養子(こども)として暮らす身だった。物心付く前からサルビリニアスの道場で暮らしていて、剣を持てる年頃になってからは弟子として修行も始めていた。ただ他の弟子たちと違い、軍人になるという目標をきっぱり持っているわけではなかった。いつのまにか、サルビリニアスのお気に入りとして、他の弟子と一緒に剣を振るうようになっていたのだ。


 養父(おや)たるサルビリニアスが帝国軍の元軍人であり、相当に有能な司令官であって、かなり高位の役職に就いていたということは、イーレンはぼんやりと知っているだけだった。サルビリニアスは自分から身の上話をするような男ではなかったので、過去にどんな仕事をしていたのかはもちろん、そもそもどういう経緯でイーレンを引き取り育てることになったのかも、イーレンは知らなかった。サルビリニアスの過去を知る機会といえば、時折訪問してくる昔の部下や同僚と目される人々を迎えるときだった。イーレンは客の世話係をする機会がよくあって、来客者の口ぶりや態度を見ていたり、同席を許されたときに聞かされる武勇伝を耳にしたりすることで、サルビリニアスのことを間接的に知るのだった。


 しかしイーレンにとっては、彼はただ単に優しくて頼りになる大事な親だった。現在道場にいる弟子はイーレンのほかに七人、皆サルビリニアスを慕って他の土地からやってきた若者だった。しかし彼らは武道を極めるためにやってきたのであって、サルビリニアスをあくまでも師匠と見ている。そんな彼らとは違い、イーレンはサルビリニアスを家族として見ていた。


 とはいえイーレンも、弟子の一人としてけじめをつける分別をすでに持っていた。弟子のうちではサブレスに次いで二番目に若く、他の年上の弟子たちを兄姉として尊重していた。兄弟子のうちにはイーレンより剣歴の短いものも多いが、イーレンは自分を勘定の外におくよう心がけていた。特に半年ほど前からサルビリニアスが体調を崩し、たびたび寝込むようになってからは、兄弟子たちの指導に従って生活していた。



 イーレンが診療所から道場に帰りつくと、すでに日は暮れ、夕食の時刻になっていた。食卓に顔を出すと、道場のみんなは食事を始めたところだった。一番弟子のプレイオスが、パンを手に取りイーレンに向かって話しかけた。


「遅かったな」

「ごめんなさい、ヘックナーの手伝いをしていたから」

「話は聞いたぞ。ちゃんと役に立ったのかな?」

「もちろん!」


 イーレンは兄弟子たちに説明しつつ、夕食を口に頬張った。全員の関心は、当事者たちの人間関係ではなく、現場監督だったルイジャスがどのようにその場を仕切ったかという点に集中した。イーレンはそれが分っていたので、彼の口ぶりや行動を中心に詳しく話をした。それを聞いた弟子のエベルが、ルイジャスを褒めて言った。


「それはうまくやったもんだな」


 プレイオスは批判的に言った。


「武器を持った相手を説得するにしては、あまりよい言葉とはいえないね。特に感情的になっているときはそうだ。もう少し気持ちを落ち着かせてやったほうがよかったかもしれない」


 サブレスが不満そうに混ぜっ返した。


「汚れ役を僕らにやらせるなんて、ちょっとずるいと思ったけど」

「自分が動かなかった判断はよかった。ただ、バイヨが暴れ出したときルイジャスがどうするつもりだったかによるな」

「でも鎌を確保するぐらい、自分でやってもいいんじゃないかな」


 姉弟子のポーントが諭すように言った。


「交渉役が動くと目立つから、やっぱり別の奴が助ける方がいいのよ」


 サブレスはふうんと頷くと、スープに口をつけた。皆は口々に意見を言い合い、このような状況下でどのように行動すべきかということを話し合った。


 食事の後、イーレンは一人で鍛練所に向かった。鍛練所は板張りの広い部屋で、壁には練習に使う木剣や真剣が掛けてある。イーレンは自分の木剣を手に取ると、日課の素振りを始めた。幼いころから始めたその日課を、イーレンは欠かさず続けていた。素振り用の木剣は重く作ってあるが、今では難なく振ることができる。ただ楽に振っていては修行にならないので、素早く繰り返し打ち込むようにしていた。そのスピードはかなりのもので、素振りであるにも関わらず近寄りがたい雰囲気を滲ませていた。


 体を温めたイーレンは、続けて(かた)の練習を始めた。道場では基本の七形と、応用の八形をよく行っていて、イーレンはほとんど無意識のうちにそれらの形をこなすことが出来る。一から七へ、一から八へ、流れるように形をこなし、また打ちから受けへ、受けから打ちへと繰り返した。


 しばらく体を動かしていると、鍛練所に男が一人入ってきた。それはプレイオスだった。邪魔をしないつもりのようで、静かに入ってきて、壁際をゆっくりと歩いてくる。しばらく黙って、イーレンの形を見つめていた。


「明日は出発だろう」


 イーレンが(やつ)の形を終えると、プレイオスは口を開いた。イーレンは木刀を納めて返事をした。


「うん」

「準備は出来ているのか?」

「ええ」


 イーレンは、サルビリニアスの遣いとして、イーノという街まで一カ月ほどの旅に出る予定だった。プレイオスはその心配をしているのだった。


「困ったときはどうするんだ? 誰か頼れる人はいるのか?」

「わたし、こんなに遠出をするのは初めてなんだよ。知ってる人なんて誰もいない」

「師匠が教えてくれるだろう? 道中、誰が頼れるか」

「そうね、もしかしたら」

「なんだ、何も聞いてないのか?」

「うん」

「そんなことで準備が出来たとは言えんな!」

「大丈夫だって。行って帰ってくるだけだもん」

「お前は道場を代表して行くんだから、そんないい加減なことではダメだぞ」


 イーレンは、こういうことを言うときのプレイオスが苦手だった。彼はサリビリニアスが体調を崩して以来、道場の年長者として振る舞っている。確かにその役割は重要だが、かといってお小言を頂くのはうれしくなかった。サルビリニアスは、もともとこんな小言を言うような師匠ではなかったので、ますます息苦しく思えるのだった。


「明日の朝、聞いてみる」

「ちゃんと聞いて、しっかり務めろよ」

「あの、よかったら形の相手をしてもらいたいんだけど……」

「今日はもう寝ろ」


 肩をすくめただけで出て行ってしまったプレイオスを、イーレンは黙って見送った。もう長いこと、プレイオスとは手合わせをしていない。サルビリニアスの代わりというのは忙しいのだろうが、暇があったから鍛練所を覗きに来たのだろうに。少しぐらい付き合ってくれてもよさそうなものなのに、なぜか付き合いが悪い。何か気に障るようなことをしたかしらん。イーレンは心の靄を振り払おうと、鋭く木刀を振り続けた。



 翌朝、イーレンは夜明けと共にサルビリニアスの部屋を訪ねた。寝室の扉を開けて中に入ると、サルビリニアスはすでに半身を起してイーレンのことを待っていた。


 イーレンはサルビリニアスの顔を見て、心臓がドキリと一拍するのを感じた。彼とは毎日会っているが、今朝のサルビリニアスは特に具合が悪そうだった。眼は落ちくぼみ、頬は肉が落ちてこけている。熱があるのか顔には赤みがさしているが、とても健康的には見えない。果たして彼は、いつまで(こら)えていられるのだろうか。イーレンは初めてそのことに疑問を持った。


 サルビリニアスは目だけでベッドの横の椅子を指した。イーレンは静かに、しかし急いでその椅子に腰かけた。サルビリニアスの手を取ると、大きな声を出さずにすむよう、愛情を込めてその口元に顔を近づけた。


「サール」


 イーレンは親しみをこめてそう呼びかけた。サルビリニアスをそう呼ぶのはイーレンだけ、それも二人きりのときに限られる。サルビリニアスはうれしそうに微笑んだ。


「お前を見ているとつくづく歳を食ったと痛感するな。初めてお前に会ったときは、股の下をくぐるほど小さかったがな」


 サルビリニアスの弱い声に、イーレンは思わず声を詰まらせたが、無理やり調子を合わせて返事をした。


「サールは……背が高いから」


 イーレンはそんな昔のことを覚えていなかったが、調子を合わせて返事をした。


「その時からお前は、普通じゃなかった。私が退役を決めたのは、お前を見たからだ。お前を育ててみたいと思ったから、引退して道場を開く決心をしたのだ。それまでは、死ぬまで軍にいるのだろうと思っていたんだがな」


 サルビリニアスは、これまでこんな話をしたことがなかった。イーレンは戸惑ったが、サルビリニアスは構う様子もなく、先を続けた。


「最初はもちろん確信があった訳じゃない。なにしろほんの子供のことだからな。だが私は間違ってなかった。お前は間違いなく、優秀な剣士だ」

「う、うん……」

「お前を見ていると、つくづく歳を食ったと思うなあ。残念なのは、もうこれ以上お前を見ていられないということだ」

「サール、そんなこと言わないで」


 イーレンの心は不安で一杯だったが、声が震えないようにそう言った。しかしサルビリニアスは聞いていないようだった。


「お前はまだ若い。修業は続けなければならん。お前が成長して何をするか、それはお前自身が決めるがよかろう。だがもうしばらくは、別の誰かに教えを請うのがいい」

「そんなのいや。修行なら、サールに教えてもらうのがいい」

「そうはいかん、そうはいかんのだよ……」


 サルビリニアスの声が小さく消えていくにつれて、イーレンはますますサルビリニアスに近づいていった。すでに、頬と頬が触れ合うほどに近い。突然、サルビリニアスはニヤリとほほ笑んだ。急にその眼に、生気が戻ってきたように見えた。サルビリニアスはイーレンにしか聞こえないほどの小声でささやいた。


「私が死んだら、お前は殺されるぞ、イーレン」


 イーレンは息を飲んだ。思わず身を引きそうになったが、サルビリニアスの腕に力がこもり、イーレンが離れようとするのを押さえた。


「道場を継ぐのは誰か、私が死んだら争いになる。それどころかプレイオスは、今すぐにも私を始末して跡目を継ぐと宣言しそうだ。そのとき、お前が邪魔になる。私を直接手に掛けるのは問題だが、お前を片づけるのは簡単だ」


 イーレンは目を丸くしてサルビリニアスの顔を見た。そんな話はまったく信じられなかった。イーレンの脳裏に、これまでの道場での生活が過ぎった。プレイオスが弟子入りしてきたときのこと、他の兄や姉が来たときのこと。軍に入隊するために道場を卒業していった兄弟子もいた。姿が見えなくなるまで手を振って見送ったものだった。年頃の近いサブレスが来たのは二年前だった。最初の晩、前の家を離れてさびしいといって泣いたっけ……。そして皆と交わした会話が思い出された。昨夜のプレイオスとの会話、他の弟子たちとの夕食。長い共同生活の間には喧嘩をしたこともあった。しかしすべてが楽しい生活の一部、家族の一員と思ってのことだった。それを否定するようなサルビリニアスの話に、イーレンは完全に面喰ってしまった。だが師匠の言葉を遮るわけにもいかず、ただ話を聞くしかなかった。


「こんな道場に未練はない。だいたいここは、お前を育てるのに少々金が必要だと思ったから作った場所だ。弟子なんぞ二、三人とれば、お前と二人で楽に暮らしていけるとな。それにお前を鍛えるのにも都合がいい。お前がここを去るならば、後はどうなっても構わんと思っていた。だが弟子どもに、お前を簡単に()らせるわけにはいかない」

「でも……」

「もう、私はお前を守ってやれん。だからお前は、自分で身を守らねばならん。お前一人で、ここを出るのだ」

「出るってどういうこと? 逃げろというの? いや、行きたくない。サールを置いていくなんてそんな」


 イーレンは言葉に詰まってしまった。そんなイーレンに向かってほほ笑みを絶やさず、サルビリニアスは先を続けた。


「これを持っていくのがお前の使命だ。宛先はこちらに書いてある通りだ。後はそいつが、お前をいいようにしてくれるはずだ」


 サルビリニアスは、枕元から一枚の封書と、もうひとつ小さな紙切れを取り出した。封書は封蝋が施されていたが宛名がなかった。小さな紙切れには掠れた文字で<ハンツ、ランドン>と書かれていた。


 ハンツは、聞かされていた行き先とは反対の、帝国の北西にある都市の名前だった。それにランドンという名前には心当たりがない。いったい誰だろうか……。イーレンは聞きたいことが山ほどあったが、軽々しく口を開くことができなかった。扉の向こうに人の気配はないが、誰かが盗み聞きしているような気がしてならなかったのだ。


「どうやって探せばいいの?」

「行けば判る。お前なら探せる。簡単だろう?」


 サルビリニアスの言葉に気圧(けお)されて、イーレンはそれ以上口がきけなかった。


「それからもう一つ、お前に渡すものがある。ベッドの下を見なさい」


 イーレンはサルビリニアスの手を離すと、ベッドの下を覗き込んだ。そこにはひと振りの剣が、鞘に収まって置いてあった。イーレンはそれを手に取り、再び椅子に座りなおした。


「旅の共に、それをやる」


 イーレンは目で指示されて、その剣を鞘から抜き放った。そしてたちまち、その剣に魅了されてしまった。


 それは細身の片刃剣で、僅かに湾曲していた。刀身は黒光りする鉄でできており、眩しく輝く刃が付いていた。その刃には、なんとも言われぬ波のような紋が、切っ先から鍔まで続いていた。その波紋のひとつひとつが、言いようのない美しさと、武器としての恐ろしさを秘めていた。視線を柄に移すと、そこには濃紺の紐がきっちりと巻いてあった。複雑な文様を描くように、捻りながら巻き上げてある。柄は木製だったが、頭と縁の部分には繊細ながらも丈夫な金具が備わっていて、持ち運んでも痛まないよう工夫が凝らしてあった。鍔のシンプルなデザインとあいまって非常に実践的な武器に仕上がっている。全体として長くなく短くなく、また重さもそれほどではない。長い旅に持っていくには適した武器だった。


「以前見た物と全然ちがう」


 道場の修業のなかで、サルビリニアスはあらゆる種類の剣術を教えていた。帝国軍がよく使うのは両刃の長剣と槍だが、他国の武器や軍人が使わないような怪しい武器も様々に揃えていた。今手にしている武器も訓練を受けていたが、そのときはこれほどよい武器とは思えなかった。


「以前使ったものは形を真似た複製だ。鍛冶屋のサッフォーに打ってもらったものだ。出来はいいが、それだけだ。こいつはまったく別物だ」


 イーレンは切先が天井に当たらないよう、右手でゆっくりと剣を振り上げ、振りおろした。普段から剣を振ることに慣れ親しんできたイーレンだったが、初めて真剣を手に取ったときの震えを、今また感じたように思った。


「受け取れないよ、これほどのものは」

「お前に物をやれるのはこれが最後なんだ。他にはもう渡すものがない。持って行ってくれ」


 イーレンは剣を鞘に納めると、サルビリニアスを抱きしめた。サルビリニアスはイーレンの頭に顔をうずめ、その髪の匂いを大きく吸い込んだ。


「やっぱりお前は子供だな! どんな大人になるか楽しみだ……。それを見届けるのが生き甲斐だったが、残念ながらここまでだ」

「わたし、わたしは……」

「行きなさい、イーレン」

「はい、お父さん」


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