1. イーレン
悲鳴が聞こえたような気がして、イーレンは首を巡らせた。彼女のすぐ横に寝そべっていたサブレスも、何があったのかと不審そうな表情を見せた。二人は顔を見合わせた。イーレンはサブレスに向かって言った。
「今の聞こえた?」
「なんだろう」
「行ってみようよ」
「うーん」
サブレスは面倒そうに顔をしかめたが、やがて体を起こして立ちあがった。彼はイーレンに頼まれると、嫌とは言えないのだ。二人は畦道に上がると、悲鳴が上がった方角を目指して走り出した。
二人がいるのは村の共同農地の一角で、今日は小麦の収穫の日だった。畑には村の若者たちが三十人ほど手伝いに来ていて、イーレンとサブレスも道場を代表して収穫に参加していた。二人に割り当てられたのは刈り取られた麦穂を集めることで、イーレンがやりたいと思っている刈り取り作業は大人たちの担当だった。麦穂を束ねて紐で縛ることは重労働だったが、交代で取る休憩時間もたくさんある。二人が隣の果樹園の木陰で休んでいたのも、ちょうどその休憩のときだからだった。二人が聞いた悲鳴が上がったのは、刈り取りをしているはずの麦畑の方だった。
二人が駆け付けてみると、畑の真ん中で村の若者たちが輪になって何かを取り囲んでいた。輪の中心には、一人の女が膝頭を押さえて倒れていた。そしてもう一人、別の女が刈り取り用の大鎌を持って立っていた。イーレンが見てみると、その大鎌は血に濡れていた。そして倒れている女の方をよく見ると、押さえている膝から先が無くなっていた。少し離れた地面の上に、右足が転がっているのが見えた。
「鎌を下ろせ」
大鎌を持つ女に声をかけたのは、今日の農作業を取り仕切っているルイジャスという男だった。彼は輪になった村人たちの間から三歩ほど前に出ていたが、二人に近づきすぎないよう距離を保っていた。
「鎌を下ろすんだ。そんなことをしても何にもならんぜ」
ルイジャスはやさしく、しかし厳しく諭すように言ったが、大鎌を持ったままの女は首を振るばかりだった。ルイジャスは倒れている女の方に顎をしゃくって続けた。
「なあ、お前があいつに色々腹を立てているのは分る。だがな、こんなことをしても解決にはならんぞ。それにもしあいつが死んだら、取り返しがつかないことになる。お前だってそうはなりたくないだろう」
「うるさい!」
大鎌を持った女は叫ぶと、また首を振った。しかしその強気の口調とは裏腹に、頬を涙が伝っていた。
イーレンは大鎌を持った女も倒れている女も知っていた。村の人間なので、全員が顔見知りなのだ。二人が一人の男をめぐって喧嘩していることも知っていた。その男は一カ月ほど前に村にやってきた流れ者で、イーレンにはどうして二人がそんなに熱を上げるのかまったく理解できずにいたが、とにかく二人が男に入れ上げていることは知っていた。ちらりと周りを見渡してみたが、今日の収穫の手伝いには、その男は来ていないようだった。
「なあ、せめてそいつの手当てをさせてくれよ」
ルイジャスは落ち着いた声で粘り強く話しかけた。イーレンは彼の落ち着きぶりに感心した。さすがは村長の右腕と評判の高い男だ。交渉は彼に任せておけばよいだろう。イーレンは人の輪の外を回って、ルイジャスの後ろの方に回った。
「このままほっといたら、血が無くなって死んでしまうぞ。そうしたら、お前は人殺しだ。殺人罪で告発するなんて、そんなこと俺にさせるなよ」
殺人と聞いて女の肩が震えたが、大鎌の先ががくっと下がるのが分った。ルイジャスはそれを見て、一歩だけ前に進み出た。
「さあ、鎌を下ろすんだ。これ以上面倒を起こすなよ」
大鎌の刃が、刈り取られた麦穂の根元にばさりと落ちた。そして女は、がっくりと膝をついてその場にしゃがみこんだ。ルイジャスはじっとそれを見続けて、それ以上口を開かない。イーレンは二人がどうするかをしばらく見ていたが、ルイジャスが何もしないのを見て、先に前へ進み出た。
イーレンは泣いている女に目をくばりつつ、倒れている女の元へ歩み寄った。そして股の根元にある止血点を親指でぐっと抑えつけた。サブレスも、イーレンと同じように近づくと、麦穂を縛るために持っていた紐を一本つかみ、膝の切り口の上を思いきり縛り上げた。イーレンは女の顔色をうかがった。女は失血のせいで顔色が悪く、額には汗が浮かんでいたが、呼吸はそれほど乱れていない。こういうときはショックに気をつけなければならない。師匠に習ったことを思い出しつつ、二人は処置を続けた。
イーレンとサブレスが手当てをする一方で、切りつけた女をにらみつけていたルイジャスが村人たちを促すように手を振った。若者が一人、さっと前に出て大鎌を持ち去った。別の二人が女の腕を両側から押さえて動けないようにした。それから皆がわっと集まってきて、応急処置を終えた女をその場から運び出した。
ルイジャスも緊張が解けたのか、厳しい表情に安堵が浮かんだ。ルイジャスはイーレンたちをねぎらって言った。
「よくやったな、さすがは道場の子だ」
サブレスは鼻をかきながら照れくさそうな顔をした。ところが、イーレンはルイジャスに向かって言った。
「私も一緒に行っていい? ヘックナーのところへ連れて行くんでしょ?」
ヘックナーは村の医者の名前だった。
「そりゃ構わないが……」
「ありがと! サブレス、後は頼んだからね」
イーレンは、みんなが無視して近づこうとしないでいた、地面に取り残された女の右足を拾い上げると、けが人を運ぼうと今にも出発しようとしているフライヤーに飛び乗った。
フライヤーは、文字通り飛ぶように畑の間を通り抜け、村の真ん中を貫く通りへ向かった。足を落とされた女は、曲がり角で荷台がが揺れるたびに唸り声を上げた。間もなく、フライヤーは通りの中ほどにある診療所にたどり着いた。怪我人を三人がかりで診療所のベッドに運び上げると、役目を終えた者はそそくさと去っていった。血まみれの騒ぎはあまり得意ではないというのだ。イーレンは一人で残って、大声で診療所の主の名を呼んだ。奥の部屋から、無精ひげをかきながらヘックナーが出てきた。
「なんだイーレン、どこか怪我したのか」
イーレンは首を振り、診察台の上の女を指差した。それから切り落とされた足を、包んだ布の中から差しだした。ヘックナーはイーレンが運んできた足と、診療台の上の患者を交互に見て言った。
「おやまあ、これはひどいな」
イーレンは急かすように言った。
「これ、くっつくかな?」
ヘックナーはイーレンの言葉にさらに眉をひそめたが、横たえられた患者に注意を戻した。切り株になった膝の部分に、水差しから水を注いで具合を確かめた。
「止血してどれぐらいだ?」
「ええっと、十五分ぐらい」
「今日は刈り取りだったな。どうしたんだ? 事故か?」
「バイヨと喧嘩になって、それで」
「バイヨが? 何があったんだ?」
イーレンは、喧嘩の原因になった三角関係について、短く説明してやった。怪我人は眼をつぶったまま気を失っているようだったが、悪口にならないよう言葉を選ぶことは忘れなかった。実際に切られたところは見ていなかったが、大鎌で切り落とされたということも言っておいた。ヘックナーは首を振りつつこういった。
「若いな、まったく」
「それで、足は元通りになるかな?」
ヘックナーは首を振った。
「こんな診療所じゃ無理だ。縫い合わせただけじゃ腐って落ちてしまう。それより急いで傷口をふさいでやらんと」
「でもすぐに繋げば元に戻せるって聞いたことあるよ」
イーレンは、師匠の言いつけでヘックナーの手伝いをすることがたびたびあった。医者の手伝いをすることで、体の仕組みや怪我の手当ての方法を学ぶためだった。切り落とされた腕や足を繋ぐ手術の話は、本で読んで知ったのだ。
「そりゃ都会の大病院なら出来るかもしれん。全部の血管と、神経を繋いでな。だがこんな田舎の診療所じゃ無理だ。それに、もう血を流し過ぎてる。早くふさがんと命が危ないぞ」
ヘックナーはてきぱきと準備を始めた。自分の手を洗い、遅まきながらイーレンにも洗わせた。それから傷口を念入りに消毒し、処置を始めた。イーレンはヘックナーに言いつけられて、器具や布を取り替えたり、薬を取ってきたりして手伝った。患者は痛みに耐えかねるのか、ときどき唸るような声をあげたが、イーレンは手を取って励ましてやった。最後に入院患者用のベッドの準備をし、手術の終わった女を二人がかりで運んでいった。青白い顔をした患者の脈を見ながら、ヘックナーは言った。
「なんとか輸血はしなくてもよさそうだ。しばらく入院することになるが、食って寝てれば回復するだろう」
イーレンはぶっきらぼうなヘックナーが好きだったので、少々乱暴な口ぶりにも思わず微笑みを浮かべた。二人が一息ついて診療室に戻ると、ルイジャスと村長が待っていた。村長は血に汚れた診療台を苦り切った顔で眺めていて、あまり機嫌がよさそうではない。ルイジャスは無関心そうに、部屋の反対側に立っていた。農作業の現場監督はルイジャスの役目だが、喧嘩の後始末は村長に任せたつもりのようだった。
「どうですか先生」
村長はヘックナーに尋ねた。ヘックナーは先生と呼ばれるのを嫌っていたが、村長はそんなことに構いはしない。
「まあ大丈夫だろう。しばらく入院することになるが、食って寝てれば回復する」
「そう、それはまあ、よかった」
「他に怪我人はおらんのかね」
ヘックナーは医者らしい気遣いを見せて尋ねたが、村長は首を振った。
「いえ、幸いにして誰も」
「そうか。犯人は?」
「あなた、何を聞きました?」
村長はじろりとイーレンを睨みつけながらそう言った。
「いんや何も。イーレンが言うには、刈り取りのときに喧嘩があったと」
「ええ、そうなんですよ。つまらん痴話喧嘩でね……」
それから村長は、いろいろ面倒なことになったと愚痴を漏らし始めた。村長は余所者があまり好きではなく、村に定住していない者とは深く付き合わない女だった。今回の喧嘩の発端も流れ者の男が原因と考えていて、怪我をさせた犯人よりもそちらの男の方を責めている様子だった。
村長とヘックナーが長い話を始めたので、退屈してきたイーレンはルイジャスの横へすり寄って小声で尋ねた。
「バイヨはどうなるの?」
「ちょうど来週保安官が来るから、引き渡すことになるな」
「そしたら?」
「殺人未遂かな。死ななくてよかった。死んでたら打ち首もあり得る」
「牢屋に入れられちゃうの?」
「まずは留置所だ。投獄されるとすれば、ウーベリの街へ連れて行くかな。そういうことは保安官が決める」
「そう……」
ウーベリは、徒歩で三、四日ほど離れた場所にある大きな街で、そこには監獄もあるのだった。
「切られた足はどうするのかなあ」
「まったく、道場の連中ときたら」
ルイジャスはあきれたようにつぶやいたが、イーレンは気にしていなかった。他にも聞きたいことがあったが、ヘックナーと村長の話は終わりそうにないし、すでに日が暮れる時刻になっていたので、道場に帰ることにした。出て行こうとするイーレンを、ヘックナーが呼び止めた。
「イーレン、サルビリニアスの具合はどうだ?」
「今朝は割に元気だったよ」
「そうか。今度往診に行くからな」
「うん、ありがとう」
イーレンは手を振ってヘックナーと別れると、道場へ向かって走っていった。