ショートショート037 未来の文化
映画は終わったが、まだ場内にはかすかに笑い声が響いている。
隣に座っていた妻が、私の足に手を乗せて話しかけてきた。
「おもしろかったわね」
「ああ。実にユーモラスだったな」
「特に、最後のシーンのやりとりは最高だったわ」
「古い映画だし、どうだろうと思っていたが、なかなか捨てたものでもないな。さて、そろそろ出ようか」
私は、妻と腕を組んで劇場を出た。陽は沈んでいる時刻だが、外にはまだ明るさが残っていた。
「ねえ、このあとはどうするの。よかったら、レストランにでも行かない。いいところを知ってるの……」
そうささやきかけてきた妻の瞳は、期待にしっとりと濡れていたが、私はそれを断った。
「すまない。今日はもう、家で食事の用意をさせてるんだ」
「あら、つれないのね。まあ、いいわ。また連絡してね」
「ああ、わかったよ」
妻はにっこりと笑みを浮かべ、軽く手を振って帰っていった。いい女だ。必要以上には、深入りしてこない。こういうところが、私は好きなんだろうな。
そんなことを思いながら家路を歩く。そう長い道のりではない。しばらくまっすぐ行って、その先の角を曲がったところにある、少し大きめの一軒家。それが私の家だ。
その角を曲がると、全身傷だらけの男がしゃがみこんでいた。
汚らしいやつめ。人の家の前で、何をしている。実に不快だ。
私はあからさまに顔をしかめ、蹴っ飛ばしてやろうとした。が、ふと思いついたことがあり、足を止めた。そうして財布から数枚の紙幣を取り出し、その男にやってみた。
男は目を丸くして驚き、へこへことおじぎをしてどこかへ去って行った。
やはり、わからんな。情けとは、いったい何なのだろうか。
私は少しのあいだ、玄関の前で首をひねっていたが、まあいいか、と頭を切り換えてドアノブに手をかけた。そんなことがわからなくても、べつに問題はない。
「ただいま」
ドアを開け、靴を脱ぎながら声をかける。いい香りがするな、と思っていると、奥の扉が開いて妻が顔をのぞかせた。
「おかえりなさい。お食事の用意は、もうできているわよ」
「ありがとう。君の手料理はいつも最高だからね。楽しみだよ」
「もう。そういうの、いいってば」
「本当のことさ」
うぶな少女のように赤面する、かわいい妻の頭を撫でてやりながら部屋着に着替え、食卓についた。
「いただきます」
軽くあぶられた肉を口に運ぶ。ほどよい塩味が口の中に広がり、肉が舌の上でとろけて消えた。
「うん、うまい。いつものことながら、絶品だね」
「どういたしまして」
「スパイスの具合がいい。焼き加減も、肉汁が滴り落ちるくらいの半生で、実に僕好みの味だ。本当においしいよ」
私は思ったことを、そのまま口に出した。お世辞ではなく、妻の味付けは私にとって完璧なものだった。
「それはどうも。それで、今日はどこに行っていたの」
しかし、ほめちぎることで話題をそらそうという試みは、失敗に終わった。今日のことを妻が気にかけていることは、わかっていたのだが。
私は、包み隠さず本当のことを言うことにした。べつに、後ろめたいことは何もないのだ。
「映画さ。ほら、いま話題の……」
「最近よく宣伝している、あれね。でも、ずいぶん古い映画だったと思うけれど」
「たしかに古いが、けっこう良かった」
「へえ。それで、今日はどなたと行ったのかしら」
妻の瞳があやしく光る。
「第二夫人とだよ」
「またなのね。最近、ちょっと多すぎるんじゃない。このあいだだって、第三夫人と、夜の海を見ながらお楽しみだったんでしょう……」
「おっと、勘弁してくれよ。君が第一夫人、正妻じゃないか。僕が君を、ないがしろにしているわけがないだろう。僕が一番愛しているのは、君だしね」
「あら、そうまで言ってくれるの。なら、あたしもあなたに甘えさせてもらわなきゃね。あたしもその映画、観に行きたいわ」
「わかった。今度の休みは、映画で決まりだな」
「やった。絶対よ。楽しみにしてるから」
妻の目から、鋭い光が消えた。ようやく機嫌をなおしてくれたようだ。
「それで、どういうところが良かったの」
「なんの話だい」
「だから、映画よ。良かったって、言ったじゃない」
「ああ。ううん、あまり話しすぎると、楽しみがなくなるんじゃないかな」
「メインストーリーは言わなくていいの。ちょっとしたエピソードとか、そういうのでいいから教えてよ」
「そうだな……」
私は思案し、ひとつのシーンを思い出した。
「そうそう、さっき、家の前に男がうずくまっていたんだが」
「いやね、何それ。ちょっとこわいわよ」
妻が心底いやそうな顔をしたので、私はあわててつけたした。
「今はもういないから、そこのところは大丈夫だ」
「あら、あなたが追っ払ってくれたのね。やっぱり、頼りになる人……」
「まあ、追っ払ったといえばそうなんだがね」
「それが映画と、何の関係があるの」
「そういうシーンがあったんだよ。主人公が、道端にうずくまっているホームレスを見つけたんだ」
「へえ」
「主人公はホームレスをあわれに思い、情けをかけてチップをやった」
「……もしかして、あなた、それと同じことをやったの」
「そういうことだ」
妻はそれを聞いて、はあ、と小さくため息をひとつついた。
「ねえ、どうしてそんなことをしたのよ」
「その映画で、主人公はどんなことを感じて、ああいうことをやったんだろうと、そう思ってね。だが、やはり分からんな。映画のホームレスにせよ、家の前にいたあの男にせよ、負けたからああいうふうになったんだろう。どうして情けをかけるのか……」
私が眉間を揉みながらそう言うと、妻はほがらかに笑って答えた。
「わかるわけがないじゃない。あなたは、その主人公とは違うもの。敗者は死に、勝者は子どもを作る。そういうものでしょう」
「それもそうか」
妻の言うことは当然のものだったので、私も素直にうなずいた。
「ところで、その映画って、恋愛ものなのよね」
「ああ。昔懐かしの、純愛ストーリーだった。宣伝の通りさ」
「どれくらい古いものなんだっけ……」
「ざっと千年前だね」
「へえ。なら、よっぽどおもしろかったんじゃない」
「ああ。なにしろ、今とは文化がまったく違う時代の話だからね。純愛の過程で起こる、一組のカップルのすれ違い。実にばかばかしくて、劇場は笑いの渦だったよ」
「たしか、何人もの相手と結婚するのは、タブーだったのよね」
「おおむね、そういうことだったそうだよ」
「それで、純愛だとか、すれ違いだとか、そんなものが美しく、せつないものと見られていたのよね」
「ああ」
「でも結局、人口が減って絶滅したのよね」
「その通りだ」
「それって結局、そのタブーがおかしかったんじゃないの。たくさん子どもを生んで、強い者が生き残るべくして生き残る。それが生き物でしょう。どうして、そんなタブーが幅を利かせていたのかしら」
「そんなことを僕に聞かれてもわからないさ。おかしな生き物だったんだろうよ」
「そうね。まあ、そのおかげであたしたちは、純愛というジャンルを、コメディーとして楽しむことができるのだけれど」
妻はそう言ってから、少し嫌そうな顔をしてつけくわえた。
「それにしても、そんなおかしな生き物に、あたしたちの祖先はペットとして飼われていたのでしょう。嫌な話だわ」
「まあ、そう言うなよ。彼らのおかげで、今の僕らは存在できているんだから。僕と、君と、それから僕らの可愛い子どもたちもね」
「それもそうね」
妻が納得したのを見て、私は、仲良く絵本を読んでいる、最愛の子どもたちに目をやった。
子どもたちはいっせいにこちらを見つめ、ニャー、と可愛らしい鳴き声をあげた。