トップ・オブ・ザ・ワールド
ダンジョンと化したギルド・ベース上層。
「あんたたちの言うとおりみたいね……」
イバラの姿をした朱炎を見て、ママはリヴァーシの惨状がカストル達の仕業でないと、ようやく得心が行ったようだった。
「まだシュガー・ハイのこと疑ってたのかよ……」
カストル・ポルックスはママとの対決の果て、朱炎によって倒された。当のママも、広い空間では能力が制限される。コート姿の《虎中の天/タイガー・イン・マイ・ラブ》は勿論戦力として数えるには足らない。
つまり。
「参った」
今、この場で朱炎と対峙できるものは、元ママ親衛隊の、アラナミ・ビトウを残すのみ。とはいえ、彼我の戦力差は明白で、うめいても、目をそらそうとも、状況は最悪のまま変わらない。
「エート、お前。シュエン、って言ったか。お前、目的は何なのよ」
「ボクは神になる」
「お、おう」
胸を張る朱炎だが、ビトウも、ママも、明らかに引いていた。引いてはいたが、ビトウはこう返す。
「えー……そーだな、じゃあよ、俺がお前の側に付くということで、どうにか見逃しちゃくれないか」
『ビトウさん!』
『ビトウ、あんた!』
ラキとママの怒号が、ビトウの腕の中でけたたましく怒鳴りたてる。二人とも、自力で動けないことを、これほど悔やんだことはなかった。
「当然だろ!? まず戦っても勝てねえもん!」
ビトウはそれに、情けない悲鳴で返す。朱炎は、満足げに笑った。
「なるほど、賢い奴だね、お前は。名前を聞いてあげよう」
その質問に、ビトウはわずかに眉をひそめた。
「お、俺は、アラナミ・ビトウだ」
「なるほど、アラナミ君ね」
朱炎は、うんうんと合点がいったかのように頷いた。
「……ま、ボクの新しい治世には、君らみたいな目撃者はいらないんだけど、サ!」
一転、悪意の笑みをむき出しにする。その目は、ビトウを獲物としてしか見ていないし、朱炎の腕の肉からあふれ出した無数の蔦は何の躊躇もなく、アラナミの命を奪わんと迫った。
「俺のことを覚えてないような奴は、こっちから願い下げだよ!」
ビトウは、朱炎がイバラを名乗り、そのフリをしていた期間、その世話をしていたのだ。朱炎がそのことを思い出したときには、もはや朱炎が狙った場所に、ビトウの姿はない。
「……どこに行った?」
朱炎はママのオフィス中を見渡す。しかし、そのどこからも、影もかたちもなく、ビトウの姿が消えていた。それどころか、転がっていたはずのカストルの体さえない。
「どこだ……? どこに消えた?」
朱炎がきょろきょろと周囲に目をやる。その執着ぶりを見るに、本当にビトウらを逃がすつもりはないのだろう。それを察して、床に伏したビトウは指先に力を込めて、いっそう息を潜める。
ホログラムによるマスキング遺物、《曖昧に逸れる煙に白》。その偽装力はA級という高い等級に違わず、また、《アリアドネの糸》に仕込める小ささも特筆に値するだろう。それの力で、カストルとビトウたちの姿は、朱炎の目からすっかり隠されていた。
(指示を頼む)
ビトウはママの入ったビンを爪で擦る。モールス信号でメッセージを伝える。
(所詮は時間稼ぎだ。打開策にはならない)
実力差は明白で、そもそも、一度朱炎を倒した《虎中の天》としても、いま目の前にいる朱炎を破ったところで何かの解決になるとも思えない。
それに、カストルの回収も平行して行わなければならない。彼らは、まだカストルが死んだことを知らないから。
『私を復活させてください』
《虎中の天》が言った。
(正気か?)
ラキ改め《虎中の天》は、リヴァーシを恐怖の只中に陥れ、一夜にしてママの私兵たちを壊滅させた「黒い悪魔」その人だ。その力の凄まじさは、目の前で味わわされたビトウが嫌というほど知っているし、確かに事態は何らかの進展を見せるだろうが、それがどの方向に進むかは、まったく想像がつかない。
『……このオフィスの奥に、気体人間である、あたし自身の調整室があります。そこに、あなたの胴体を安置してあるわ』
おいおい、とビトウは口の中で苦笑した。ママまでがあの化け物を街中に放つことに同意するとは。だが、趨勢は決まった。反対するビトウに代案も出せない以上、やるしかない。
『あたしが時間を稼ぐ。その間に私のデスクの先のドアに向かって』
(ドアなんて見えない)
部屋は先の戦いで徹底的に壊されて、むやみに見晴らしがよくなっている。だが、ドアのようなものは見当たらない。
『あたしのデスクがあった場所に、下開きのドアがあるの。緊急事態だし、踏み割って。それじゃ、合図と同時に、あたしのビンを開けて頂戴』
ママ自身にここまで言われたのでは、もう何の反論もない。ただ、今まで、ずっと投げかけられていた言葉を、返すだけだ。
(死ぬなよ、ママ)
『ガキンチョが舐めた口を利いて』
気体のママの表情は読めない。だが、ビトウには彼女が笑っているように、ちゃんと見えた。
『あなたも死んじゃダメよ? アラナミ』
ビトウは頷く。そして、確かに、ゴーサインを受け取った。
「そりゃァッ!」
ビトウは、天井めがけて、ママが入ったビンを投げつける。ビンが割れる音と、朱炎が天井を見上げるのがほぼ同時だった。
『あんたの相手はこのあたし! 伊藤リラよ!』
気体の幽霊、ママ。その見えない脚が朱炎へと降り注ぐ。朱炎も蔦で防御を試みるが、その脚は空気そのもの。止められる理由がない。容赦ないキックの土砂降りにさらされる。
――この広さの空間で、あたしが姿と意識を保っていられるのは、せいぜい十秒かそこら。それまでに、どうか、決着を。
ママ――伊藤リラは、祈る。死は怖くない。それは、本来なら死滅都市のリヴァーシでひとりぼっちだった、数百年前にリラの下へと来るべきだったものだ。だから、この祈りは、今を生きる子供たちのためのもの。「リヴァーシに生きるものたちに、再び笑顔を」そして、朱炎へと全力の力を叩き込み続ける。
ママの穴倉の中で、ひときわ銀色に輝くそれを見つけるのに時間はかからない。ビトウは一度それを見ていたし、《虎中の天》にとって、それは分かたれた半身だ。
ママの調整室、その中心に、ラキの体が封じられた遺物、《影/ケージ》が鎮座していた。だが、その有無を言わせぬ丸さに、ビトウは手を出せない。
「どうすればいい、タイ米ちゃん!」
『この球を壊して、私の体を取り出してください!』
無茶だとビトウは思った。《影/ケージ》は対モンスター用の捕獲遺物。内外ともに非常に頑丈にできている。本来ならパスワードや鍵を利用して拘束を解除するのだろうが、当の《虎中の天》は「壊す」と言った。
だが、ママが今必死で時間を稼いでいる。カストルの体も放置したままだ。迷っている時間などない。とはいえ手持ちの遺物では火力が心もとないし、狭い部屋の中で球体を撃った場合、跳弾がこちらへ牙をむく可能性もある。
「……タイ米ちゃん、ものは相談なんだが、君はシュガー・ハイと合体してたな?」
『え、あ、はい』と気のない返事をしたところで、《虎中の天》は、ビトウの思惑に感づいた。
『私と合体する気ですか!?』
ダメです! とコートの首をガンガン振りながら言う。
『あれは、文字通りの合体です! 肉と神経系を無理やりにくっつけたり剥がしたりしてるんですよ!? それに、仮に私が復活できたとして、今度は兄さんを守ってくれる人が必要なんです! それはビトウさん、あなたしかいない!』
「死なねぇよ、俺は」
ビトウは、不敵に笑い、《虎中の天》を羽織った。
「俺はママに鍛えられた上、直々に言われたんだ。死ぬな、ってな」
そして一転、子供のような、無邪気な笑みを見せる。
「それに俺は、勝てる戦いしかしねェ」
裏切りを重ね――己が正しいと信じる道を行く強い精神力と、それを支える肉体のタフネス。ビトウは自分自身に全幅の信頼をおいている。
「力を貸せ、《虎中の天》!」
『……もう知らないですよッ!』
決断するが早かった。神経が、筋肉が、ビトウの左腕を引き裂いた。悲鳴とともに流れ出る血がぼたぼたと水音を鳴らす。失われていく血の代わりに恐怖と苦痛が、ビトウの深いところへともぐりこんで来る。麻酔なしで左腕を解体されているようなものだ。だが、それでも《虎中の天》は許さない。それに、これはビトウが望んだことだ。
『全身と合体したら、ビトウさんは完全に再起不能になります! だから今回は利き腕でない左腕一点集中短期決戦仕様です!』
「了……解!」
死に物狂いのビトウにはもはや見えていない。気づいてもいない。その左腕のかたちが、彼を恐怖に陥れた「黒い悪魔」そのものだと。そして、今や、それが彼の味方をしているなどとは。
「ゥオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
ビトウは叫ぶ。全身全霊を掛けて。そして、己の命の重さを、《影》へと叩きつける。
だが。
『……ッ!』
苦痛と、殴り慣れない方の腕で殴ったことよくなかったのだろうか。その拳は、滑った。《影》の鉄肌を上滑りして、天井を突き破り、《影》は上層の部屋へと逃げるように飛び出した。ちょうど、ママと朱炎が戦う戦場に。
『いけない!』
《虎中の天》は、《影》に追いすがるように、ビトウの体から離れる。だが、《影》を壊しきれていない以上、その中身と合体することもできない。朱炎の目も、今や闖入者の方へと向き、いやらしく笑う。立ち往生も秒読みだった。
「ママ親衛隊直属工兵のアラナミ・ビトウを舐めんなァァァァ!!」
アラナミ・ビトウ。その左半身は血にまみれ、そうでない場所からは脂汗が無数に浮いている。例外は、その右腕。
ビトウの右腕は天へ向かって掲げられ、その右手にはしっかりと銃把が握られている。
「受け取れ、タイ米ちゃん!」
そして、その黒い銃口が見据える先は、《虎中の天》――ではない。彼女がすがりつく、《影》――でもない。ビトウと、《虎中の天》が《影》につけた、その傷口。
銃声が鳴り響く。同時に、《影》の中に満たされていた血が、部屋中にばら撒かれ、ママのオフィスを赤く染め上げる。
『……やったの? ビトウ、ラキちゃん』
絶え絶えという風に、天井に溜まった空気がうめくと、赤い細腕が、一抱えもある銀球を軽々と差し出す。
「今まで、怖いことはたくさんあった」
しとり、しとり、と冷たい足音が、朱炎とママへ迫る。ママは、これ幸いと、銀球の中へ潜り込むと、細腕は、その壊れた銀球の口を、腕力でもって強引に塞いだ。
「恐怖が、私を狂わせ、暴走させていた。……それは、今も変わらない」
濃厚な惨劇の予感が、ビトウの、そして朱炎の鼻をつく。
「でも今は、兄さんが失われることが、なによりも、一番怖いッ!」
そこにいるのは、もはやラキ・ポルックスでも、その半身であり半心である《虎中の天》でもない。
「《果てしなく続く天/アンコンディショナル・ラブ》!」
その名は、《果てしなく続く天》。もはや何人たりともセーブはできない、ありのままのラキの力。彼女が頭を振ると、漆黒の長髪がオフィスをなぎ払い、壁を、柱を切り裂いた。外から雪風が、部屋へととめどなく流れ込んでくる。
「ビトウさん、兄さんを連れていって」
このままだと、私はどうなるかわからない。震える声でそう言う彼女の腕に、脚に、既に髪の毛は巻きついて、その目は火のついた直前の爆弾のように赤く充血し、熱を持っていた。
「無茶を言う……」
左腕から血をしとど垂らしながらも、ビトウの動きは迅速だった。カストルの体を掠め取るように抱き取って、壁の裂け目から一切の躊躇なく飛び出した。
「これで存分に……やれる!」
恐怖を糧に暴れる悪魔は、今や恐怖を制御しつつあった。
~
「ったく! 兄妹揃って介護を頼みやがる!」
ビトウは下層フロアの屋根に着地して、ため息をつく。今やギルド・ベースはすみずみまで植物が張り巡らされている。だが、ギルド・ベースは今も絶えず動き、変化し続けているし、太陽は沈んでいるため、楽な道のりとは言えなかった。
「おい、シュガー・ハイ! そろそろ目ェ覚ませよ!」
ビトウは、小脇に抱えていたカストルを降ろし、その頬を叩く。だが、反応はない。その原因に気づくまで、そう時間はかからなかった。失われた体温、青い肌、呼吸しない鼻、鼓動の尽きた心臓。
「し、死んでる?」
ビトウは、その顎鬚についた血を、手の甲でぬぐう。
――ママの時間稼ぎも、タイ米ちゃんの抵抗も、一体何だったんだ。
「死んでんじゃねぇよ、シュガー・ハイ!」
答えるものは何もない。ただ、雪混じりの寒風が吹き抜けた。引き裂かれた左腕を凍りつかせ、その心さえも氷の刃で切りつける。絶望に浸っている暇があるなら、暖を取ることを考えねばなるまい。ビトウはカストルの亡骸を背負い、それと入れ替えるようにライフルを抱え、屋根へと切り取り線を作るように弾丸を撃ち込む。屋根へ円形に刻んだ弾痕を踏み抜いて、中へと潜り込んだ。
しかし、部屋に突入するや否や、肌を突くような冷たさに、ビトウは身震いした。外気に負けず劣らず、冷え切った部屋。バイザーを降ろし気温を確認し、視界を確保する。温度はほぼ外と変わらない。
「ここは……食物庫か?」
食物庫。ギルドだけでなく、この街全体の食物を統括・管理する施設。それ自体が巨大な自販機でもあり、お金を払えばその場でさまざまな食品提供にも与れる。
積み上げられた木箱に降りた霜を指で払うと、「成型肉」「植物片」「菓子類」など、食物の分類が浮かび上がる。ビトウの予感はずばり的中していた。
「……ッ! シュエンッ!?」
暗闇の中に、ぼんやりと白く浮かび上がるその顔。もう追いつかれたのか? そんな疑問のままに、緑の瞳めがけて、ビトウはすかさず引き金を引く。すると、「イバラ」は抗うこともなく倒れ伏した。
ビトウが撃ち倒した「それ」が、追っ手ではないと判明するのに、そう時間はかからなかった。「イバラ」には既に霜が降りていて、そして、下半身がなかった。それの後頭部には大きな穴が開いている。おそらく、クレーンで引っ掛けられ、宙吊りになっていたのだろう。それも、一つだけではない。少し見上げれば、何体もの「イバラ」が鈴なりに連なって吊られている。さながら、葬儀の参列者のように。
「『なぜこんなものが、冷蔵庫に?』そんな風に考えてるんだろ?」
聞き覚えのある声による問いが、暗闇の中から投げかけられる。ビトウはとっさに拳銃を構え、声から距離を取る。
「答えは簡単だから、きっとすぐ導き出せる。『ここにあるものは全部食物なのだから、目の前の肉も、例外ではない』とね」
声は、先ほど聞こえてきた向きとは全く別の方向から響き、ビトウの脳裏に浮かんでいた答えを、ほとんどそっくりそのままなぞった。
だが、今更食人に嫌悪するほど、ビトウも子供ではない。彼は仲間を食らったモンスターを食べ、親兄弟の死体を肥料に育った植物を口にしてきた。そうでもしないと、生き残れなかったから。拳銃の銃口は揺らぐことなく、標的を探し続ける。
「誰だ、てめぇは!」
その声には、確かに聞き覚えがある。そんな思いばかりが先行するが、肝心の答えが出てこない。
「嫌だな。ビトウ。ボクだよ、ボク」
刹那。食物庫の暗闇を、ゆらめく赤い光が舐め上げると、それは金色の髪と、緑色の瞳を持つ、あつらえたかのように美しい青年を照らし出す。彼は、食物庫どころかリヴァーシの街そのものにすら不釣合いな、薄手のフォーマルな服装に身を包んでいた。
「本当に誰だよお前!?」
男は、声を上げて笑った。
「それ聞く? 真保呂朱炎に決まってるじゃん! 一応言っておくと、討論会で暴れた『イバラ』をぶっ殺した真保呂朱炎だ」
炎の中に銀色が閃き、氷の世界を炎で更新していく。ビトウはとっさにかがんで、攻撃に備えた。
「つまり、ボクこそがシュガー・ハイを殺しこの街を導く、次世代の英雄神だ!」
朱炎がそう高らかに宣言すると、ビトウの背後で何かが爆発し、熱風に吹き飛ばされるままに前転した。振り返るまでもなく、先ほど朱炎が投げた何かが原因だろう。ビトウはとりあえず牽制、とでも言わんばかりに、弾丸を放つ。だが。
「どこ狙ってるんだい?」
まともな射撃姿勢でもなければ、左手も壊れているビトウにがまともに標準をつけられるわけもない。一方、これが手本だとでも言わんばかりに、朱炎の手から銀の刃がビトウの頭めがけて滑り出る。触れたらまずいというのは初撃の時点で見えている。ビトウは木箱の横に体をもぐり込ませ、探索用の酸素マスクをつけると、そのまま匍匐前進で進んでいく。
「どうだいビトウ。ボクの『朱炎』という名に相応しい、美しい武器だろう!」
――おそらく、朱炎の武器はB級遺物をくくりつけたダーツだ。
《バタフライ・キス》は爆薬の遺物。量は少なくとも、威力は食物庫の惨状を見てのとおり。
ビトウは拳銃を《アリアドネの糸》を発射できるライフルへと持ち変える。確かな手ごたえが、ビトウを少しだけ落ち着かせた。
――少し待ってろよ、シュガー・ハイ。
カストルの亡骸に心の中で詫びながら、ビトウは観測手の変わりに《問わず鏡/ミラー、ミラー》を起動させ、朱炎を照準に入れる。その中心には、朱炎の胴。全霊の殺意を込めて、引き金を引いた。数度の炸裂音が、食料庫に響き渡る。
「おおっと、そこかァ」
しかし、着弾ゼロ。いたずらにビトウの居場所を知らせるだけだ。弾も撃ちつくした今、ビトウは迷わずライフルを捨てるという選択肢を選び、カストルを背負ったまま、乱立する木箱の塔の間を駆け抜けていく。朱炎は、ビトウを追いかけない。死に物狂いに逃げ出すビトウをにやけ顔で見送って、その後、ゆっくりと木箱の塔の間を掻き分ける。
「くそォ~、ビトウったら何処に逃げやがったんだよォ~」
木箱が、その中身が爆発し、クレーンが不規則に揺れ、吊られた「イバラ」が轟く炎の中へ落下する。朱炎は結局、ビトウの側を通り過ぎることすらない。幸か不幸か、「イバラ」の肉片がビトウを、そしてカストルを朱炎の目からカモフラージュしていた。
「まったくもォ~! ボクはいたぶるのが好きなのによォォォォォォォ~!」
ギュンドドドドド。ギュンドドドドド。ドルンドルンドルンドルドルドルドルドル。
「まとめてブッ壊すしかないじゃァァァァン!!」
ビトウから朱炎の姿は確認できない。しかし、事態は良くない方向に転がっていることだけは確信できた。そして、身を隠していることが死に直結することも。
「グチャミソになっちまえよォ!!」
ビトウの鼻の先を、爆発の嵐が駆け抜ける。
爆炎のレッドカーペットがビトウが隠れ蓑にしていた木箱ごと払いのけ、吹き飛ばし、焼き払いながら、食物もそうでないものもまとめてこんがりローストして、最後には、朱炎の言うとおり、「グチャミソ」の光景だけと、鼻腔を灼く炎の匂いがそこに残された。
「おっと、ネズミが炙り出されてきたな?」
それはつまり、ビトウの隠れる場所がなくなったことを意味する。ビトウは出掛かった溜息を喉元で押し殺し、おぼつかない足取りで立ち上がる。
「後生大事に抱えてたシュガー・ハイはどうした?」
「……さすがに死体かついで戦うのもばかばかしくなってね。捨てたよ」
真保呂朱炎は頬を吊り上げ、笑った。相槌を打つように、ビトウも力なく笑った。その左腕で今も発射の時を待っているのは、A級遺物。チェーンソーのスターターが強弓の弦になっているという悪い冗談のような遺物だ。ビトウは敵の装備を見抜くことで、どうにか心の余裕を作ろうとしていた。
「だが、お荷物がなくなったなら、こっちのもんだ。俺は《ブラッド・レッド・ムーン》だろうが地味なダーツだろうが、当たりゃあ一発でオダブツだからな。やりやすいくらいだぜ」
嘘だ。《ブラッド・レッド・ムーン》と《バタフライ・キス》の組み合わせは、直線的な軌道しか持たないというデメリットを補って余りある威力と範囲を持つ。だが、その事実も朱炎が少しムッとした表情をしたことで、忘れてもいいと思えた。
「へえ……そういうことなら、楽しませてもらっちゃおッかな!!」
獣のごとく始動音を唸らせながら、朱炎は弦を引いた。ビトウは必死に走って逃げているが、狙う必要すらない。その軌道こそが、この場を統べる王。すべては、その破壊力を基準に動くのだから。
「お望み通り、ブチ殺してやるよォ!」
張り詰めた弦が、解き放たれた。弓から静謐や森厳といったものからかけ離れた轟音、しかし朱炎には爽快感あふれる開放音が、爆炎とともに食物庫を揺るがす。
膨れ上がった空気に弾き飛ばされるかのように、ビトウはよろける。それでも、障害物をかき分け、乗り越えながら、食物庫を必死に駆けていく。そのなかでビトウが思い出していたのは、仲間でも、家族でもなく、数日前の決闘のことだった。
――あのとき、俺はクレバスに賭けていたっけ。
ビトウは小物だ。だから、修羅場ではいつも生き残ることだけ考えていて、負けることが許される賭場では、いつだって無茶な冒険ばかりしていた。そして、最後にカストルが出た決闘でも例に漏れず、クレバスに賭けて大損したクチだった。
だが、ビトウはこの大一番の勝負所で、勝ちの薄い目に賭けている。深い海に差す光のような、か細く弱い線。明らかに感覚が狂っている。疲れているのだろうか? ダーツの雨をかわし、受身を取る準備をしながら、そんな風に思った。
きっと、カストルに賭けたいと思ったのは、彼が願うのが、家族との生活というほんのささやかな幸せだったからだ。そのために、若くしてギリギリまで切り捨ててきたからだ。
――そんなささやかな希望さえ叶えさせてやれないで、大人なんて名乗れないよなア。
火の粉が舞う土壇場で、ビトウは小さく笑った。
「いい加減、目ェ覚ませ!! カストル・ポルックス!!」
ビトウが喉を嗄らして叫ぶと同時に、それを爆風が上書きし、食物庫の中身をまとめてかき混ぜた。食料も、ビトウも、朱炎さえも。そして、その耳は聴いた。戦場には不釣合いな鼻歌を。
二人の目線は、軽快なリズムに誘われるまま、上へ向く。木箱で築かれた塔の上へ。あるものは、炎に目を輝かせて、またあるものは、戦慄と恐怖と煤を顔にこびりつかせて。
「なぜだ!! なぜ!! お前が!! そこに!! 立って!! 居る!!」
朱炎は頭をかきむしり、目を見開いて、その名を叫ぶ。
「シュガァァァァァァァァ!! ハァァァァァァァァイィィィィィ!!」
病的な痩躯に、白い肌と青黒い髪、吸い込まれそうなほどに澄んだオブシディアンの瞳。見間違えるはずもない、しかし、そこにいるべきでない、幽霊のような影を、炎が切り取った、その姿は、見間違えるはずもない。
カストル・ポルックス。
《糖酔/シュガー・ハイ》。
死んだはずのリヴァーシ最強の探索者が、確かにそこに立っていた。
カストルは透明に輝いた。炎を鏡のように映すその姿は、今までのどんなカストル・ポルックスとも違う。氷のような静けさと、金属のような確かさを携えていた。
「……食物庫になら、絶対砂糖の入れ物があると思ってな。《アリアドネの糸》を撃ち込んで探してたんだよ。そして、そん中にカストルをぶちこんでおいたんだ」
ビトウは、目じりに涙を溜めながら言う。いけない、まだ何も終わっていない、と思っても、立ち上がったカストルの姿は、ビトウの心を容赦なく揺さぶった。
「そんなことは聞いてねえ!! 雑魚にも用はねェ!! テメェは孤独の中で!! 苦しみぬいて死んでたはずだ!! それがどうして、どうして砂糖なんか摂取できる!? 蘇ろうと思える!?」
朱炎が、震える指で、カストルを指差す。その瞳は未だに目の前の現実を信じかね、息は激しく乱れていた。
カストルは雪のような口を開く。
ある人が、俺を信じてくれた。
ある人が、俺に賭けてくれた。
ある人が、俺を必要としてくれた。
ある人が、俺を助けてくれた。
ある人が、俺を愛してくれた。
「これだけ理由がある。十分だろ?」
炎の中から無数の白い粒子が浮かび上がり、食料庫の中にオーロラを作り上げる。光の帯は、古巣に戻るかのように、カストルの手のひらへと吸い込まれていく。
「何だ、それは!!」
何なのだろう。カストル自身も思った。ただひとつわかるのは、今までにない力がカストルの中で生まれているということ。糖を吸収し、加速度的に冴え渡る頭が言っている、「炎の中で焼け残った砂糖の中に入れられていたことが関係している」と。確かなのは、カストルの《糖酔》は、周囲のわずかな糖分さえかき集め、しかも細胞のひとつひとつから糖分を摂取できるように進化したということと、カストルが未だかつてなく、晴れやかな気分を味わっているということだ。
心臓は過去かつてなく軽やかに鼓動を刻み、思考には一片の曇りもなく、すべての炎の色と弾ける火花の数さえも数えられるようだ。カストルは思う。この力こそ、まさしく、カストルの墓碑銘とするのにふさわしい。すると、全身の細胞は声をそろえて謳った。「今、我々は死の呪縛から解き放たれ、生きながらにして天国にもっとも近い場所にいる」「我々をここまで導いてくれたのは、仲間の思いと、ラキともう一度会いたいという意思あってこそ」「ならばつける名前は、ただひとつ」「天だ」
カストルは、ゆっくりと一度だけ頷いた。
「《糖酔・天/シュガー・ハイ:トップ・オブ・ザ・ワールド》」
煤まじりの風に、砂糖の羽衣がなびく。清い純白を保ったままに。
「な、何だか知らねえが! オレ様の熱と炎はてめェには有効なはずだぜ、シュガー・ハイ!」
朱炎は立ち上がり、服に付いた埃を払いながら啖呵を切る。
「なんで?」
カストルが首を傾げると、朱炎の強気はむなしくしなびていく。
「なんでって……お前が加速して動いているなら熱や酸素不足からは逃げられないはずだし……」
朱炎が自信なさげに言うと、カストルはつまらなさそうに返事をした。
「そもそも超高速移動してるだけで体は空気との摩擦で燃え上がってんだぞ? お前は俺を殺すために最適な状況を作ったつもりかも知れねえが、今更炎の一つや二つ、気にもならねえよ」
カストルは、朱炎が立ち上がるのを待って、その方向へと手のひらをかざす。
「来い」
カストルが唱えた瞬間、朱炎は背中に強い衝撃を覚えて、再び転げ回った。振り返って背後を 見ると、そこには壊れたてのような、黄色い断面を晒した樽が転がっていた。
「何をしたシュガー・ハイッ!」
朱炎はとっさにカストルへ《ブラッド・レッド・ムーン》を向ける。それと同時だった。
「来い」
カストルが命じると、朱炎の足下で不吉な音がした。その音に釣られるように視線を落とすと、引きずられたかのような足跡がついている。その意味は理解できない。だが、少なくとも吉兆でないことは間違いなかった。
「来いッ!」
カストルの三度目の命じ。その瞬間、朱炎の体がふわりと宙に浮いた。
「うおおおおおッ!?」
そして、宙に投げ出された体は、磁石のように、あるいは餌を目指す虫のようにカストルへと向かっていく。弓の重量と負荷に絶えきれず、朱炎の肩は脱臼するが、構うわけもない。カストルは自分をめがけて飛んでくる朱炎に向かって、右腕を振り抜く。リヴァーシ最強の拳を前に朱炎ができることなど、歯を食いしばり、目をつぶることだけ。
「……?」
だが、一向に衝撃も、風もない。おそるおそる目を開くと、すぐに異常を察知した。
――左側の視界がない?
その理由も簡単に理解できた。カストルの腕が朱炎の頭部左側に埋まっているのだ。そして、体から力が奪い取られている。少なくとも、この状態を放置できない。
「離せェッ!」
朱炎は体を屈め、カストルのどてっ腹を蹴った、はずだった。しかし、蹴り足には全く手応えが感じられない。まさか……。
――足も、埋まってやがる。水を蹴ったみたいに。
そうして、朱炎は完全に状況を飲み込んだ。今のカストル・ポルックスは、生きたブラックホールのようなものなのだ。それはおそらく、糖尿病を発症するどころか、致死量と言っていいほどの大量の砂糖を取り込んだからこそ発生した、奇跡か、悪夢のような存在。それが、朱炎の目の前で微笑む《糖酔・天》なのだろう。
「虫酸が走るんだよ、てめえは!!」
朱炎は、拳を締めた。「カストル!」隙ありとばかりに、すかさずビトウが朱炎の背中に弾丸を叩き込む。だが、朱炎は怯まない。シャツが破けて、朱炎の隆々とした背筋が露出した。
「ムカつくんだよ、てめぇの顔は!!」
朱炎の右拳が風を切り、カストルの頭をとらえる。だが、それもカストルへと浸透していくだけ。カストルのほほえみは歪まない。
「うおらァ!」
次の瞬間、朱炎の右腕から衝撃波が炸裂する。朱炎の体は吹き飛ばされるようにカストルから解放される。だが、右腕の肘から先が焼失し、右半身の皮も剥げ、筋肉や骨が露出している。無惨の一言だ。
「あれだけの重傷を負って、まだ動けるか」
カストルの賞賛は素直だ。もっとも、手負いだろうが健常だろうが、朱炎にとってみれば、絶望的な状況は変わらない。
「……マジかよ」
うめいたのはビトウだ。朱炎が様々なものを失って、ようやく脱出したにもかかわらず、一方の、カストルの微笑みは無傷のまま。
そんな無様な朱炎に、カストルは言った。
「俺は中央広場に行くぜ。決着をつけるならそこで待っててやるから新しい体でも何でも用意してこい」
ずたずたになった朱炎の顔が、屈辱でより醜く歪んだ。
「うううううがああああああああああ!!」
朱炎は狂ったように叫ぶと、食料庫から走り去る。カストルはそれを追わず、宙を滑って、ビトウのそばへ向かった。「大丈夫か?」とカストルが聞き、引き起こすと、ビトウは「朱炎を追わないのか?」と返した。
「朱炎はもう、別にいいんだ」
カストルは言う。その瞳は炎の明かりを乱反射している。
「俺は中央広場に行く」
諸悪の根元、それを殺すすべを持った上で、どうでもいい、と言う。朱炎を殺すと息巻き、激昂していたカストルとは、まるで別人のように変わってしまっていた。ビトウは、今の透き通ったカストルからは、あらゆる情熱を感じられずにいた。
ビトウが気がついたときには、カストルは三歩も四歩も先を行っていた。
~
金髪はやけ焦げ、目も潰された。せっかく作った美形が完全に壊し尽くされ、その命どころか、次の一歩さえも保証されない。
それでも、朱炎の心は死んでいない。
「けど、最後に勝つのは、オレ様だ……!」
勝つまでやる。それこそ、短命であるカストル・ポルックスに対する最強の攻め手であることは間違いなく、同時に、それこそが朱炎の最大の武器なのだ。つまり、依然として朱炎有利の盤面は揺らいでいない。それどころか、カストルの提案は、朱炎にも願ってもないものだった。なぜなら、その場に街のすべてが集まるのだから。
朱炎は、最後の力を振り絞り、ギルド・ベースのメインシステムとリンク、声を絞り出す。
「シュガー・ハイは……中央広場だ……頼む、みんな……あいつを殺してくれ」
汚い声が、備え付けられたスピーカを通して、ギルド・ベース中に響きわたる。
この街には、まだまだ実力者が残っている。カストルは彼らを殺さずに、どこまで戦えるだろうか?
朱炎はそのまま、いやらしい笑みを顔面に貼りつけて、死んだ。
~
「ママ親衛隊隊長、キビス・コウザネ。ジャンクマスター、アラダミ・ザエモン。リヴァーシ長者番付筆頭、アギバ・ネィア」
男が一人、雪に伏した。すでに倒れていた二人と、並ぶように。
中央広場。カストルが、決闘場所として指定したはずの場所だった。そこには多くのギャラリーと、気絶した腕利きたちが倒れている。そして植物や人々の亡骸が山のように積み上げられ、燃え上がる。そんな惨状の中、雪と風と月だけは変わらず、静かに降り積もっていく。
カストルさえも変わってしまった。その姿は勿論、心さえも、ビトウにはもうわからない。三人の強者を倒すときだって、ビトウはカストルを見ていられなかった。倒すべき敵から目を逸らす、カストルの姿は。
「リヴァーシのS級遺物使いはあんたで最後だぞ、先端生物学者、サイリア・テリクリア」
白銀のカストルが言うと、白髪の男は抵抗することもなく、手を挙げた。
「降参だ。私の遺物でも百パーセント勝てないと結果が出ている」
そう言ってサイリアは下がり、ギャラリーの一人に混じっていく。サイリアはギルド・ベースでも折り紙付きの実力者だ。だが、そんな彼がなにもせずに引いたとしても責めないくらいには、カストルの力は圧倒的だった。
「次の挑戦者はいないか!」
カストルが声を張り上げた瞬間。ドスン、という音とともに、雪を巻き上げ、巨体が中央広場に着地した。
ギャラリーの中には、その姿を知っているものがいる。
「黒い……悪魔!」
漆黒で武装した丸太のような四肢は雪景色でなお闇色。どうして黒い悪魔がここにいるかなど、誰も想像すらしない。咆哮は家屋ごと雪原を揺さぶり、ギャラリーを文字通りの意味で吹き飛ばした。
人々は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。カストルは、そんな人々には目もくれずに、目の前の黒い悪魔を見据えていた。
「ラキ……なんだよな?」
そう尋ねると。
「そうだよ」
黒い悪魔の体はするするとほどけ、生まれたままのラキの姿が現れ出る。ビトウは無言で、己の上着を投げると、それはラキが持っていた銀球に引っかかった。ママが入っている《影/ケージ》だ。
カストルは、ラキを抱きとめる。元気に笑う、追い求め続けたラキの姿が、いま、確かな現実としてそこにあり、カストルの手に触れられた。今までの戦いの日々は、すべて今日のためにあったのだと思うと、その目に涙が込み上げる。
「ここも、こんなに静かになるんだね」
他人より鋭敏な感覚を持つラキ――《果てしなく続く天/アンコンディショナル・ラブ》は感慨深そうに言った。
「お前が吠えれば、こうもなるよ」
「兄さん、ひどーい!」
雪のようなカストルは、涙がこぼれないように小さく苦笑すると、《果てしなく続く天》は頬を膨らませる。そんな妹を、カストルはいっそう愛おしく思った。
しかし、再会の喜びを分かちあう間もなく、振動を伴って、赤い鋼が雪原から突き出した。
「シュガー・ハイ!」
「カストル君!」
クレバスとイバラが顔を出す。
「お前がここにいるって案内があったから来てみたが……どォしたよ、その姿!」
「ちょっと見ない間に健康とか病体とかそういうのから超越しちゃったわね……」
あきれる二人をよそに、カストルは笑んだ。
「お前らにまた会えて嬉しい。だけど、謝らなきゃならねえ」
カストルは笑い続ける。諦めたかのように。
「俺は朱炎に負けた」
その目から、涙が流れていた。滝のように。白い地面を灰色に汚して。
「俺は二度、朱炎を殺した。それでも奴は俺の前に立ちふさがる。何度でもだ。一方俺はたったひとつの貴重な命を失った」
それだって、もうなくなる、とカストルは言った。
「この力は、死んだ俺に起こった、最後の奇跡なんだと思う。俺は、最期に、お前らに挨拶するために蘇ったんだ」
「兄さん」
《果てしなく続くの天》の瞳が涙で潤んでいた。
「タイ米、ラキと仲良く生きてくれ」
《果てしなく続くの天》が頷くと、ぼろぼろと涙がこぼれ、地面に無数のまだらのシミをつけた。
「クレバス。お前のおかげで、冒険できた。末期だった俺に生き甲斐を教えてくれてありがとう。……この時間がもっと続けばよかったんだが、約束は守れなさそうだ。すまない」
クレバスは泣かない。だが、その鋼の体からは絶えず露が生まれ落ちる。クレバスとカストルは目を見合わすことなく、無言で手と手を叩きあわせた。
「ビトウ。お前がいなけりゃ、みんなに挨拶することさえできなかった。感謝する。ママもありがとうな」
「ギルド最強から預かるには、もったないお言葉だ」
ビトウはゴーグルを上げ、その目元をごしごしと拭った。ママの封じられた銀球からは、めそめそという泣き声だけが響いていた。
「イバラ。お前には色んなものを与えられ、そして奪われた」
初キスとかな、とカストルは笑う。イバラの涙で濡れた頬が紅潮した。
「俺は最期にお前に傷跡を残そうと思う。神としてその命を全うしろ。俺のような生きることを諦めた奴らを残らずすくい上げろ」
「わがっでるわよ!!」
イバラの顔は涙も、涎も、鼻水も、なにもかもがない交ぜになって汚れていた。けれどもその目は悲しみに曇っていない。
「そして、これが最後だ。お前ら。頼むから朱炎だけはどうにかしてぶっ殺してくれ」
あばよ、みんな。
そう言い残して、リヴァーシ最強の探索者、《糖酔/シュガー・ハイ》のカストル・ポルックスは、燐光を振りまきながら雪の中に斃れる。
月光に抱かれて、燃え尽きるような最期だった。カストル・ポルックスは、多くの仲間に見守られながら、逝った。
だが、彼らには、喪失の痛みに浸る時間すらない。
巨大な影が彼らの頭上にかかった瞬間には、「それ」は、衝撃をともなって広場へと叩きおろされた。
「ふんぐぐぐぐぐぐぐぐぐ!」
広場どころか街すらいとわぬ質量の暴力を、《果てしなく続く天》は紙一重で受け止める。むろん、彼女とて逃げられなかったわけではない。だが、ここにはカストルの遺体と、彼が倒した三人が倒れている。《果てしなく続く》だけではない。そこからは、誰一人として、逃げていなかった。
「どうした、タイ米ちゃん! 投げ返せないか!?」
ビトウは声を張り上げる。何かが上から落ちてきたと言うなら、安全な場所に置くなり、何かしら処理の方法はあるはずだ。だが、《虎中の天》はそうしない。目を充血させるほどに力を込め続けている。
「微動だにしないの! まるで、押さえつけられてるみたいに!」
その悲痛な叫び声で、その場の人間は一斉に動き出した。
クレバスは《バイセクテッド・ヒットラー》をつっかえ棒に変形させ、イバラも緑の腕を拡大させ、どうにか押し返そうとしていた。
「押さえつける……? まさか!」
「どうしたのセキボ! 説明なさい!」
イバラががなり立てると、クレバスは「ギルド・ベースだ」と言った。
「クレバスはリヴァーシのギルド・ベースのあらゆるところにハッキングして、さまざまな箇所に自分のバックアップを残してンだ!」
「どうしてそう思う!?」とビトウが声を張り上げると、クレバスは「オレならそーするから」と言った。
「すごい説得力ね……」
だが、クレバスは当てずっぽうの推論で言ったわけではない。そうでもなければ、予備電源をハッキングしたり、見もしない景色を知っていたことの説明がつかない。
さらに、ギルド・ベースは今、無理矢理ダンジョンに変形させられているのだ。その一部がこちらめがけて振りおろされても不思議ではない。一カ所にギルドの有力者が揃っているなら、チャンスとしても上等だ。
「つまり、ギルド・ベースそのものが敵ってこッたよ! 乱暴に言うなら、敵はギルドベース・ロボだ!」
「わかりやすい……が! 打つ手はあるのかよ!?」
ビトウが叫ぶ。だが、誰も応えるものはない。じりじりと押しつぶされる未来しか、その先にはないのだろうか?
「……ひとつだけ、あるかもしれない」
そんな中、イバラがゆっくりと口を開いた。おそるおそる、と。けれど、それはカストル君の死さえ陵辱することにほかならない。そう嘯いた。
「やって!」
《果てしなく続く天》は、即答した。その脚が、また少し雪の中へとめり込んでいく。
「兄さんの言葉を忘れたの!? なんとしても、朱炎を倒すって!」
きっとそのための力になれるなら、兄さんも喜ぶ、と。
泣きそうな顔で、実際に血涙を流しながら、《虎中の天》は叫ぶ。
「やって! みんなを救って!」
「頼む、イバラ! てめェにしかできないことだ!」
クレバスが叫んだ。イバラの緑色の瞳は、すわっていた。
イバラは、カストルの遺体を膝に抱く。彼は笑って、美しく死んでいた。
「カストル君、私に力を貸して!」
イバラは、カストルの体へ意識を集中する。次の瞬間、不意に死んだはずのカストルの体が、跳ねるように蠢いた。イバラの果実を介して植えつけられた種が、カストルの体に残ったエネルギーを利用して、発芽しようとしているのだ。
だが、カストルの体が一度跳ねて、それきり。カストルの骸は、微動だにしない。だが、イバラは、カストルの体に植えつけられた種子を介して、どうしようもないほどの、エネルギーの奔流を感じていた。
――これを乗りこなせさえすれば……!
直接息を吹き込むしかない。文字通りの意味で。
「……イバラ、てめェ!?」
「カストル君の体には、未だ大量のエネルギーが残ってるはず! それを苗床に使う!」
イバラは、カストルの頭を抱きかかえ、その唇に、己の唇を重ね合わせていた。愛情深く、そして、味わうように。それはカストルの中の力に対しても、同じ。その荒ぶる力の渦に、魂で接吻をした。
――生きて。生きて、生きて、生きて、生きて、生きて。
朱炎が、何の罪もない人々を手にかけたように? 否。その力は命を守るために。イバラは弱まっていくカストルの生命反応を、必死にたぐる。手の中で冷えていく「それ」を、どこまでも強く強く、抱きしめる。
だが、死は無情にして灰色。背を向け、沈黙したまま、距離だけが遠のいていく。握った砂のように、手の隙間からカストルの命がこぼれ落ちていく感触だけが、イバラの中で確かだった。
そして、それを許せるほど、イバラは懐の深い神ではなかった。
「奇跡の一つや二つ起こせないで、何が神だッ!!」
イバラは叫ぶ。怒りも、悲しみも、失望も超越した激情で。
次の瞬間、カストルの体から、無数の新しい命が、勇敢に、天を覆うモノに向かって伸びてゆく。外だけではない。カストルの内側でも、植物は育っていく。その心臓をほぐし、体にエネルギーを張り巡らせていく。生体に電気を蘇らせていく。
イバラは視る。そこに確かな、命の息吹が蘇っていくのを。再度の奇跡が、その身に宿りつつあるのを。
「あ……」
《虎中の天》は感じていた。全身にのしかかっていた重さが、少しずつ和らいでいくのを。やがて、押し上げていたはずの巨大な力が、自分の手から離れていくのを。
落ちてくる巨大な力を受け止めているのは、緑の腕だった。イバラよりも、「黒い悪魔」よりも、《かつては男と女》よりもはるかに巨大な、緑の右腕。
「……オチオチ死んでもいられないのか」
緑の腕の主は、静かに言う。そして、緑の右腕と同じくらい巨大な左腕が続いて、巨大質量を押し上げた。
「まったく、かっこよくそれぞれに遺言残したのに、台無しだよ」
声の主は言うまでもない。
『カストル・ポルックス!!』
その姿を、再び現れた月光が切り取った。目の下を涙で腫らした、伊達男の相貌を。泣きながら、再開を喜ぶものたちを。
だが、次の瞬間には、誰の視線も、空に向いている。彼らは知っていた。反撃が始まることを。
「行くぞイバラ! ありったけの力を、俺に注ぎ込め!」
「ええ!」
イバラは、カストルを抱きしめたまま、意識をカストルの中深く深くへとダイブさせるや否や、改めて、そのエネルギー量に目を見張る。これをすべて使うことができたなら、カストルに植えつけた芽はどれだけ成長できる? それこそ蔦や木どころではない。林? 森? イバラはそれ以上に巨大なものを、カストルの中に見た。
「野郎ども、そして淑女諸君! 俺にしがみつけ! ギルド・ベースと、戦るぞ!」
――記念すべき決闘五十一勝目の相手としては悪くない。
そう言って楽しそうに笑うカストルは、子供のようにうれしそうで、楽しそうで、やはり、泣いていた。
「《糖酔・樹/シュガー・ハイ:キャッスル・イミテーション》!!」
カストルが叫ぶや否や、緑の腕は、二倍、三倍と巨大化する。それよりもさらに太く長い緑の脚、それを支える緑の胴までもが、星空を埋め尽くさんかのように、夜に帰らんばかりの勢いで育つ。街を芳醇な果実の香りで包み込んでいく。誰もが本能で確信した。この優しい匂いとともにあるものが敵なはずがない、と。
《糖酔・過》――最強の《糖酔》。
《糖酔・黒》――最愛の《糖酔》。
《糖酔・天》――最期の《糖酔》。
そして、《糖酔・樹》――最大の《糖酔》。
「緑の、天使だ」
その肩にしがみつくものたちが、誰ともなしに、つぶやいた。
蔦や葉や根や幹や茎や花でできた、巨大な翼。それは街の空を彩った飾りをまとって、空を覆う。少し歪かもしれない。だが、街並みを背にして立つその姿を、誰もがギルド・ベースの地下に燦然と輝くステンドグラスと重ねた。
向かい合う悪は、かつてギルド・ベースと呼ばれていた異形の巨人。それは、周囲の民家を蹴散らしながら襲い掛かってくる。緑の天使は、大気をかき混ぜながら敵の両腕を押さえ込み、腹部から新たな枝葉を伸ばした。
『ギルド・ベース内に残っている人を救出してくれ!』
避難先であるエントランスフロアには、まだ一般市民が多数取り残されているはずだ。
「おゥよ!」
「了解!」
伸びゆく枝から、クレバスとビトウがギルド・ベースへと侵入する。
『シュガアアアアア!! ハァァアアアアアイ!!』
ギルド・ベースが吼え、緑の天使の腕を振り払う。緑の天使がバランスを崩すと、ギルド・ベースが、天上にて手を組んだ。アームハンマーの構えだ。その重量を受け止めてしまえば、たとえ緑の天使が無事でも、リヴァーシの街並みは吹き飛んでしまうかもしれない。
振り下ろされる腕は、徐々に、徐々に、加速する。緑の天使は、体勢を整えるだけで精一杯。リヴァーシの命が、秒読み段階に入った。万事休すだ。
そのときだ。
「ママ! 少し我慢してね!」
『この街を守るためなら、安いもの!』
ラキが、ママの入った《影》を抱え、暴風吹き荒れる暗黒の空へと、まっすぐに飛び上がる。その肉体を、漆黒が包み込んでいく。そして、ラキは銀球を宙に放り上げた。
「ディアボロス・スパイク!」
巨大な黒腕が、銀球の中心を捉えた瞬間、身を切るような乱気流が、静止する。だが、静寂のときも長くは続かない。狂った空の沈黙を、銀球が流れ星のように灼き抜いた。ただ一点、ギルド・ベースの脚部めがけて。
『グオオオオオオオオ!!』
ギルド・ベースの脚がへし折れる。それと同時に、クレバスとビトウが、ギルド・ベース内に非難していた人々を引き連れて、外へと飛び出した。
「やっちまえッ! シュガー・ハイッ!!」
『よしきた!』
緑の天使の中枢。イバラは、カストルの細い肩に触れる。細く、白く、しかし、力を蓄えている肩を。カストルに連動し、緑の天使の腕が、ギルド・ベースの首根っこを掴む。
『いいのか!! オレ様の中にはこの街を支える遺物が、知識が残されている!! オレ様を壊しちまえば、遅かれ早かれ、てめぇら全員道連れだ!!』
『知らねぇよ!』
緑の天使の咆哮が、高く広い夜空に轟く。ギルド・ベースが宙に持ち上がる。リヴァーシの街を静かな風が吹き抜けていく。緑の天使の背中に揃った一対の翼が、巨大な腕に姿を変えた。真保呂朱炎に、今度こそ引導を渡すために。
『俺たちは今を生きる!! それだけだ!!』
拳が、ギルド・ベースに叩き込まれる。一撃、二撃。それらはリヴァーシを揺らし、ギルド・ベースを砕き、削り、その破片たちを地平線めがけて吹き飛ばしていく。
『アアアアアアアアアアアアアアア!!』
ギルド・ベースはもがき、少しでも己の傷跡を残そうと、破片をリヴァーシの街へと降らす。だが、そのかけらさえも、リヴァーシの街の探索者たちが、それぞれ思い思いの得物を用いて、空からの災悪を砕く。探索者のひとりひとりが、リヴァーシを守っている。
『くたばれ、朱炎!!』
『嫌だアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
最後に残った、ギルド・ベースの尖塔。緑の天使は、大きく振りかぶって、それをはるか彼方へと投げ放った。
その方角は、東。
昇り行く太陽が、夜の向こう側から、顔を出していた。