走れクレバス・燃えろイバラ
時間はカストル一行とクレバスが分かれた直後に遡る。クレバスは周囲のガレキを寄せ集めた即興のハンマーで床板を割りながら、下層を目指していた。発電施設周縁に捕らえられているであろう、イバラを回収するために。
だが、クレバスが下層に向かっているのは、イバラの救出のためだけではない。どこかにあるはずの、真保呂朱炎の中枢を破壊するためだ。
ママと副ギルマスという、リヴァーシの街の二大司令塔が死んだ。それは、街の中のあらゆる情報が混線していることを意味する。いくらママ親衛隊がエリート揃いだとしても、一枚岩ではないはずだ。人命救助を優先するもの、カストル討伐に向かうものとさまざまだろう。
そんな混沌極まる状況下で、つつがなく情報が集まる場所があるとするなら、それはこの混乱を予期していたもの――この事態を引き起こしたもの――真保呂朱炎にほかならない。幸か不幸か、ママと副ギルマスが死んだからこそ、真保呂朱炎の居場所をあぶり出せる。そして、不自然に大量の送受信を行っている場所は、地下。
クレバスは舌打ちする。カストルとはあまり距離を開けたくはない。カストルはいつ死んでもおかしくない体調だし、道中に刺客を用意することもたやすくなる。
クレバスは第二階層、ギルド・ベースのエントランスホール直上に到着する。クレバスの記憶にあるエントランスホールの風景は、体育館のように広く、城のように優雅であり、そしてたくさんの人がいた。絨毯が敷き詰められ、十分な暖かさがあるそこは、いまもたくさんの人に緊急避難場所として利用されていてもおかしくなく、つまり床を突き破れば大惨事になりかねない。素直に階段を下りる以外の選択肢はなかった。
そうして、襲い来る蔦をあしらいながら、階段を探して走り回っていたときだった。
「てめェら……」
廊下の隅で、小さくなって震えている男たちが目についた。クレバスはとても探索者に見えない貧相な彼らに見覚えがある。ついさっき、クレバスに因縁をふっかけてきたチンピラたちだ。彼らは一かたまりになってガタガタと震えている。恐怖から? だが、クレバスに彼らを責めようという気はさらさらない。彼らは戦う意思も道具もなく、地獄に放り込まれたのだから、当然のことなのだ。だが、クレバスの目は、それ以外の要因――彼らの真っ白い息を見逃さなかった。すぐさま気温を測ると、その数値に愕然とした。
「マイナスだと?」
暖房が効いていない。それはどんなことがあろうともこの街に電気と熱を届けるはずの発電機が何らかの異常をきたしたことを、そして、この街には安全圏が――民家の中にさえも存在しないことを意味した。
「予備電源は何してやがンだ」
通常、メインの発電機に何らかのトラブルが起きたときのために、別に予備の発電機も用意してあるはずだが、それすら機能していないようだ。
「聞きしに勝るゲス野郎じゃねェか、真保呂朱炎とやら」
クレバスは灰色の髪をがりがりと掻く。この様子だと、下層のエントランスホールも避難所としての機能を十全に果たせていないだろう。
「あァ、もう! 仕方ねえ!」
クレバスの手のひらが、薄ら赤い光の軌道を描きながら、床に触れた。
「コード:SSⅣ・《ギブス》!」
床が流砂のように沈み込みはじめ、チンピラもクレバスもまとめて下層へと落ちていく。簡易滑り台だ。そして、その先端からエントランスホールへチンピラたちが投げ出されると、クレバスが悠々と登場する。
見回すと、クレバスが思ったとおり、そこには街の住民が集まって、か細く弱りつつある命を寄せ合わせて、暖を取っていた。
「てめェら!」
拡声器と化した手越しに、クレバスが声を張り上げた。
「死にたくねェなら、部屋の中心に絨毯と蔦を集めろ!」
「絨毯に火ィ……つける気か、お前」
チンピラの一人が、クレバスを振り返って、白い息を切らせながら言う。
「そんなことしたら、ここの酸素がなくなっちまう」
「てめェ、思ったより学あるな。見直したよ。けど心配はいらねェ」
クレバスは天井を、壁を、指差す。
「この部屋のドアは既にオレの――《かつては男と女》の能力で封印してあるし、換気扇も作ッた。遠慮なく火を焚け」
クレバスは踵を返す。下層へと続く階段へ向かうために。そして、誰にも悟られぬよう、苦笑した。
「どうして俺たちのことを助けてくれるんだ」
その背中に、チンピラは尋ねる。クレバスは振り返ることなく、だが、足を止めて、言葉を返した。
「見殺しにするのも気分悪ィだろ?」
クレバスは、背後に向けてピースサインを向けた。
エントランスホールはクレバスの手によって窮地を脱したかもしれない。だが、それはこの場所だけで、民家などへの電気供給が行われていないことは変わらない。そして、それはクレバスも同様。《ギブス》によって、少なくないエネルギーを失った。
だが、ネガティブになっている余裕はない。それに、奥の手だってまだ残している。
――これから出会うであろう敵が、シュガー・ハイよりは弱ェことを祈るしかねェな。
クレバスは先を急ぐ。長い長い階段を下りた先、ギルド本部の分厚いドアを開錠する。開けたからはかつての活気はなく、がらんどうの洞窟に、天井の女神のステンドグラスだけが、無機質に輝いていた。
壊すのがためらわれるものがないここからは再び、平常運転だ。自分の左脚を変形改造し、を鋭く尖らせる。
「せェいやッ!」
思い切り踏みつけるようにして、鋭く尖ったつま先を、岩盤へと突き立てる。だが、まだ刺さっただけだ。ぶ厚い岩殻を砕くには至らない。だが、クレバスは威力が足らないことさえも想定済みとでも言うかのように、笑った。
「よゥし、モード《震動鶴/サイズミック・クレイン》!」
すると、細やかな機械の動作音とともに、クレバスの右半身――腕も、脚も、胴さえも、融和し、巨大なひとつの鉄の釘へと、そしてその発射装置――パイルバンカーへと作り変えられていく。先ほどの左足でもパイル攻撃は、右半身を捧げた巨大パイルで床を攻撃するために、体を固定するためのものだったのだ。
「《震動鶴》発射ァ!」
右半身だった巨大パイルは、うなりを、噴煙を上げながら回転し、地震さえも引き起こしながらギルド本部の床を木っ端微塵に打ち砕いた。砂煙を巻き上げながら、クレバスは暗視スコープを起動する。巨大なシャッターを視認し、ギルド・ベース地下第二階層――発電施設周辺への道が開通したことを確信する。
「いやァに崩れ易いと思ったら、こういうコトかよ」
地下第二階層の岩肌すべてを隠しつくすかのように、びっしりと植物に覆われている。それは先ほどまでクレバスが足場にしていた天井さえも例外ではない。そんな風景の変容に驚く暇もなく、蔦の鞭による全方位攻撃がクレバスを出迎える。
「飽き飽きなんだよッ! この攻撃は! もう!」
風鳴りの音めがけて左腕を振りぬく。刹那、爆ぜるような音とともにクレバスの周囲半径数メートルを球形の旋風が、外と内を隔離するかのように渦巻き、土煙も蔦もガレキも見境なく吹き飛ばす。
「こんな雑魚ども、《かつては男と女》の力を使うまでもねェ。オレの力だけで十分だ」
ずたずたに引き裂かれた蔦の成れの果てが、水音を鳴らしながら、床に、壁にと叩きつけられる。
「《厳一徹ストリングス》。オレが持ちうる中で最も硬く、最も軽く、最も細い糸型遺物。だからエネルギーのロスを狙ってンなら、そいつァ無駄だぜ。この程度の先触れなら指一本で何度でも粉みじんにしてやらァ」
未だ姿を見せないが、しかし十中八九クレバスを監視しているであろう朱炎に向かって、吠える。
左手の人差し指、その先端から緑色のしずくが地面に向かって、滑り落ちている。《かつては男と女》ですら、それでようやく認識できる程度の存在感しか持たない糸が、その指先から垂れる。敵を食らわんと涎を滴らせる牙のように。
『……なぜ、ボクを攻撃する?』
深い闇の中、突如響いた「声」が、下生えを揺らした。
『この街にD級遺物はないとわかったんだ。《かつては男と女》には、もうこの街に関わる理由はないだろ? シュガー・ハイの目も離れたしここらで切り上げるのが合理的ってもんじゃないのか?』
「合理的……合理的、ねェ。確かにこんな面倒ごとうっちゃればいいだろうし、あの殺人重機を思い出す限り、《かつては男と女》への対処法も知ってそうだ」
殺人重機――《かつては男と女》の模造品は、その性能こそ天地の差だったが、基本的な構造自体は変わらない。たったひとつのコア・メモリーを撃ち抜くだけで破壊されることも含めて。
『率直に言おう。ボクは君の殺し方を知ってる。だからキミではボクには勝てない。ボクと手を組むか、そうでないなら手を引け』
コア・メモリーは記憶と記録を統括する。それさえ生き残っていれば、どれだけ破壊されても蘇るのは殺人重機からも明らか。そして、それが破壊されてしまえば、どれだけエネルギーが有り余っていようと沈黙してしまうことも。
「大きく出るねェ。ひょっとして、今までオレへの攻撃が半端だったり適当だったりするのは、そういうのが理由だったりする?」
クレバスは一歩を踏み出した。
「クソ食らえだ」
そして「声」の答えを待たずに腕を一振りすると、音もなく発電施設のシャッターが八つ裂きになって崩れ落ち、地響きを立てた。
『何故だ!? 何故そう不合理な道を選ぶ!? カストル・ポルックスはもう死ぬ! お前には何のメリットもないどころか、デメリットが山積みのはずだ!』
「究極の合理は不合理ッてご存知ない? オレは人間だから、仲間のために戦う。それだけだ」
『お前は何億人もの記憶を背負っているんだろ!? 生き残るのが第一じゃないのか!』
「そッちこそたいがいだぜ、真保呂朱炎。殺し方を知ってッからって勝てるとでも思ってンのか。ナメてんのか」
クレバスは、苔むした岩肌の上を進む。その歩みにも、瞳にも、よどみはない。
「さァ来いよ。オレはお前の敵だぜ。そんなに自信があンなら、存分に試してみやがれッてんだ」
見るからに失敗作といった風体の「イバラ」たちが、切り裂かれたシャッターの向こうから現れて、クレバスを取り囲む。だが、クレバスは不敵に笑う。風切り音と崩壊と血しぶきを引き連れて、闊歩しながら。
~
再び、まぶたを開けられたことを喜ぶべきか、それとも悲しむべきか。目を覚まして、イバラは真っ先にそんなことを考えていた。
体がだるい。おそらく、朱炎に盛られた毒のせいだろう。イバラの体は根で縛り上げられているものの、やる気になればすぐふりほどけるようなものだが、その気持ちすら萎えてしまっている。それでも、あてつけのように視界だけは開けていて、死と生のいとなみを冒涜し続ける《可燃性のすべて/アンダースタンド》の上は、赤と緑の補色で彩られたどぎつい地獄と化している。
「イバラ」たちは、狂ったように殺しあっている。
お互いの首を締め付け、切り裂き、引きちぎり、中には自ずから首を吊っているものさえいる。死んだ「イバラ」にはほかの「イバラ」がたかり、腹や足を獣のように食い散らかしている。吹き飛んだ肉体のパーツや、木や肉体の汁の水音が弾け、鉄に囲まれ、硬質な秩序の元に運営されていたはずの地下プラントは、地理もあいまって、まさしく地獄。
「うっ……おええ」
イバラは胃の中のものを全部吐き出して、身悶えする。涙が溢れて止まらない。何かがひとつ間違えば、そこここで死んでいるのは、自分だったのかもしれない。いや、まだ死んでいないというだけで、すぐに自分も死者の山に加わるのかもしれない。ウナバラ・イバラは量産品の中でも、少しだけ出来がいいだけの傀儡に過ぎず、彼女固有の意識も力も、そういう風に作られ、プログラミングされたにすぎないのだから。
かといって、このまま黙って死んでいくのはそれこそ自分に毒を与えた朱炎の思う壷。進むも地獄、留まるも地獄。イバラには、もう、どうしていいのかわからなかった。
――神が、導きを求めるだなんて、滑稽すぎるわね。
イバラは紫色の唇をゆがめて、皮肉っぽく笑うと、その体はするりと根の束縛から抜け出して、床に投げ出された。
「えっ?」
着地した、と思った瞬間、イバラは左に傾いて、そのままバランスを直せずに額を鉄の地面に打ちつけ、己の吐瀉物で服を黄色く汚す。鈍い金属音が、地獄に響きわたる。血や己の吐瀉物で滑ったのだろうかと考え、体を起こそうとしたときに、異変に気づいた。
右腕の自由が利かない。縛られて壊死したのだろうか、と最悪の予想が脳裏をよぎり、恐る恐る右腕を見る。……が、結論から言うなら、己の右腕を確認することはできなかった。
肩口からごっそりと右腕がちぎり取られていたから。
イバラは、悲鳴を呑んだ。何もかもが声にならなかった。イバラが転んだのは、右腕を失ったことによって、体のバランスをも喪失したことが原因だった。
イバラの喉元に酸い臭いがこみ上げ、それは一気に口から吐き出される。涙は、かわらず止まらない。
――これで、名実ともに、出来損ないの仲間入りってわけ。
自由意志だけに留まらず、肉体さえはぎ取っていく。それでも、命だけは奪わない。
「どうして、ここまでやるくせに殺してくれないの?」
失われた右肩にそっと触れると、指に短く刈り込んだ毛のような質感が残された。苔が傷口を保護するとともに、血管に詰まって出血を止めていた。
イバラの中に植え付けられた神としてのプログラムが、死ぬことを許してはくれなかったのだろう。けれど、少なくとも、イバラが自身に抱いていた神話は完全に朽ち果ててしまった。
そんな風に悲嘆に暮れていたから、イバラは近づく足音に気づくことができなかった。
「ウ……アア……」
うめくような、しゃくりあげるような声とともに、イバラの首へ、細い細い蔓がするりと巻き付くと、毒にも薬にもならない弱い力で、すがりつくように締め付けた。
後ろを振り向くと、そこには一体の「イバラ」がいた。幼子のような彼女は、全身が真っ赤になるほど血がまぶされている。おそらくは己の血だろう。塗りたくられた赤からかいま見える肌は雪のように青白い。その「イバラ」は、ちぎれかけの左腕を皮一枚で肩からぶら下げていて、その体には無数の歯形が残されていた。
「アア……」
幼い「イバラ」は言葉にならないうめきを上げる。その目は黒く淀んだ狂気に堕ちている。おそらくは、恐怖から逃れるために。もう長くはあるまい。殺してやるのが慈悲だろうし、イバラにはその力がある。
「嫌だ……嫌……!」
だが、できない。膝をついたまま、立ち上がることができない。
かつての、神を自負していたイバラにならば、目の前の幼子を一息に眠らせることができたかもしれない。だが、イバラはもはや神ではなく、人の域にすら達しない。そんな自分に何の権利があって彼女の生き死にを決めることができる?
そんな風に逡巡しているうちに、新たな「イバラ」がうようよと近寄って来る。歯を赤く濡らし、虚ろな笑みを浮かべる「イバラ」たちにとっては、餌がひとまとまりになっているように見えるのだろう。
堰が切れたかのように、「イバラ」の一体が、口から蔦を吐き出す。イバラと、ほかの「イバラ」を串刺しにするために。それは他の「イバラ」たちも同様。思い思いの方法で、イバラに殺意をぶつけ、襲いかかる。
生まれて初めての、そして最期の膨大な害意。イバラはいま、死を想い、そして、己の敗北を思い出す。
――治療できなかった、カストル・ポルックス。
――一杯食わされた、真保呂朱炎。
その短すぎる走馬燈に、イバラは少しだけ涙をこぼした。
「クライマックスにゃア、ちと早ィ!」
次の瞬間だった。「イバラ」数体ぶんの輪切りが作られたのは。末路の代わりに訪れたそれに、イバラは顔を上げる。
「よウ、だいぶ汚れッちまってるが、てめェは神か?」
そこにいたのは、紅のサイボーグ。イバラが傀儡と嫌ったモノ。イバラの涙腺がじわりと暖かくなる。
「傀儡と交わす言葉は持ち合わせないわ」
もぎ取られた右肩を埋め合わせるように蔦の腕が伸び、編み上げられ、結実していく。おぞましく蠢く新たな右手の先には、青い果実。
酸鼻極まる修羅場にて、ひときわ臭い立つ、生への悪あがきの象徴。「本物の証明は、これでいいかしら」とイバラが言うと、クレバスは笑い、無言で頷いて、植物で編まれた右腕を、鉄で組まれた右腕で掴んだ。
「だいぶ弱ってるところ悪ィが、てめェにも一つ仕事を頼みてェ」
「私は何をすればいいの」
「この地下――てめェが眠ってたダンジョンの先に、おそらく真保呂朱炎の本体がある。そいつをブチ壊してくれ。そうすれば、『イバラ』たちの暴走もきっと終わる」
「わかったわ」
イバラは、屈託なく頷いた。
「いやァに従順だな」
狂った理由で一方的に壊されかけたこともあるクレバスが言うと、イバラは卑屈に笑った。
「私はもう、神でも人でもない。あなたと同レベルの傀儡だもの」
イバラはシニカルな口調で言う。その瞳はどこか危うげにらんらんと光っていた。目につくものを、それこそ自分さえも壊してしまいそうな光が。
「……なあ、てめェは緑の天使のステンドグラス、見たことあるか」
「あるけど」
「その意味を少し考えてみれば、ちったァてめェの正体に近づけるんじゃねェか? 神よ」
クレバスは、イバラの返答を待たずに、彼女に背を向けて立った。
「皮肉?」
クレバスは答えない。その間にも、粗製乱造――そんな言葉が似つかわしい、大小、欠損、さまざまな「イバラ」の群れが、死んだ目をして、すがりつくようにクレバスへと蔦の腕を伸ばしていたから。
クレバスはそれらを引きちぎり、燃やし、凍らせ、切り裂く。「イバラ」さえもまとめてなぎ払う。
「行けェ! イバラァ!」
クレバスが武器腕から火花を散らしながら叫んだ。「ここはオレがくい止めッからよ!」
「私に指示するな!」
クレバスが背を預ける相手、ウナバラ・イバラは叫ぶ。
「《雲をも掴む網/ヤッテプラプ・ムンコトゥッカ》!」
イバラの背から、葉の茂る二対の枝が生え、「イバラ」たちをかき分けていく。イバラとクレバスを囲む「イバラ」の群れが崩れたとき、大きな二対の枝が羽ばたき、「イバラ」たちを一息に吹き飛ばして、一本の道をつくる。遺物庫の地下、イバラが眠っていたダンジョンへの道だ。
「ごめんね、みんな。こんな悲しい戦い、すぐ終わらせるから」
イバラは、食い散らかされた姉妹たちの亡骸からに僅かに祈ると、まっすぐに、己の行くべき道を見た。
~
「オレはオレの仕事をせにゃアな」
クレバスの仕事。それは絶たれた電気系統の復旧だ。クレバスはリヴァーシの発電システムは知らないが、その本質はおそらく、ここに大量にいるイバラが握っている。ギルド・ベースの緑の天使のステンドグラスは、きっと「イバラ」の慰霊碑なのだろう。《厳一徹ストリングス》で、襲いかかってくる最後の「イバラ」をなで切りにしながら、クレバスはそんなことを思った。
「さて、そろそろ姿を現したらどォだ?」
クレバスは言う。だが、その答えを待たずに、銃を構える三本目の腕が発砲する。天井をめがけて。
「なァ、この街が大惨事ッてときに、どこほっつき歩いてるンだい? 予備電源よ」
ぎぃ、と悲鳴を上げて、天井から小さな機械が落下した。地面に落ちてひっくり返った「それ」は虫のような足をばたつかせながら、耳障りな機械音で叫び続ける。
「やッぱり採用してたか、S級遺物。動き回ることで自ら危険を回避する小型発電機」
クレバスは《サザンクロス》めがけて、銃の引き金を引く。だが、至近距離であるにも関わらず、鉛弾は無機質な白い箱に弾かれて、火花を上げるのみ。それきり、クレバスは、一切の手出しをしなかった。いや、出来なかった。
《サザンクロス》の自慢は、その機動性と頑健さ。あらゆる危険を回避し、電気供給を途切れさせない。雪に包まれた世界では絶え間なく電気を作り、暖房を機能させ続ける能力が評価され、《サザンクロス》は多くのギルドで予備電源として採用されている、名遺物だ。
「《サザンクロス》のAIに侵入して、メイン発電機を攻撃してたッてわけだ。ロクでもねェ」
クレバスが言うと、《サザンクロス》は電子的に歪められた――朱炎と同じ声で言った。
『お褒めに預かり光栄だよ、《かつては男と女》。でも、もう遅い。お前はボクと戦うことを選んだんだ。どう言いつくろっても許してあげないよ』
そして、《サザンクロス》は大きく飛び跳ねる。白骨の山にそそり立つ鉄塔、《可燃性のすべて》へ向かって。そして、《可燃性のすべて》に取り付くと、ひどい金属音とともにその脚を突き立てた。
次の瞬間、部屋中のパイプが、バルブが、床が、壁が、狂ったように鳴動し、ひずみ始める。骸骨たちが擦れ合い、波を立てた。
『もう、お前はボクに勝てなくなった』
《かつては男と女》の身をもってして立っていられないほどの激震。白骨の山が荒潮のようにうねると、激しい衝撃とともに、クレバスの立つ鉄の通路が中央から半分に折れた。
「うおッ!?」
クレバスの体は空中へと投げ出される。落下のさなかで見たものは、どんなカメラよりも正確な《かつては男と女》の目さえも疑ってしまいたくなるほどの、身の毛もよだつ光景。
――骨に肉を吹き付けて、即興の腕を作ッている。
ピンク色の柱と見まがう、五メートル級の腕。鉄の床をぶち破るだけのパワーを持った巨腕が、骨の海に何本もそそり立っているのだ。それも、悪趣味に、緑色の瞳や髪の残骸など、原料が「イバラ」だと分かるパーツを鈴なりに残している。
クレバスは知らない。これが、骨に肉を吹き付けて、肉人形を形成するS級遺物《禁忌の孵化器/ベイビードントクライ》の力であることを。
ただ、ひとつだけ確信した。
「……てめェをブッ壊すのが、オレでよかッた」
イバラに姉妹殺しの汚名を負わせずに済んだことを、心から安堵した。たとえ偽善であったとしても。
『《かつては男と女》! お前はこの《サザンクロス》を壊す唯一にして最大のチャンスを失った! そしてボクは今や、この街の心臓部をつかさどる機械と一体化している! そんなボクを壊す! 壊す!? 流石はD級遺物! ジョークを言う機能まで付いてるんだな!』
鞭。拳。槍。刃。ぬめった桃色たちは、殺意だけはそのままに姿を変え、クレバスへと降り注ぐ。息をつく暇もない連続攻撃。もしクレバスが未だ呼吸を必要とする体を持っていたなら、一呼吸の間に転がる屍のひとつにされていただろう。
だが。
「うッ」
機械の体だからこそ負ってしまうリスクもある。いま、クレバスが踏み抜いた骸骨がそうだ。人間よりはるかに重量のある体が要求する足場の頑丈さは、人間のそれとは比にならない。いまやクレバスの下半身は骨の山を踏み抜いて、上半身だけでもがいている状態。その間にも、肉塊たちは無慈悲に距離を縮めていた。
『間抜けだな、《かつては男と女》!』
《サザンクロス》から、高らかに響く死刑宣告。ドオン、という轟音が骨を砕き、砂煙を舞い上げ、地獄絵図の地下室が、圧倒的な暴力に震えた。そこには、うず高く積み上げられた肉塊と、静寂だけが残った。
『やったッ!』
「やってねェよ」
《サザンクロス》のカメラアイが天井を仰ぐ。クレバス。《かつては男と女》。《サザンクロス》のはるか頭上に、その鋼の肢体は舞い上がり、空中に弧を描いていた。勝利者のごとく、《サザンクロス》を見下ろして。
『そんなバカな!? 埋まった態勢から飛び跳ねたというのか!?』
クレバスの脚と肩の形状が根元から変化している。おそらく、四肢の一つ一つが巨大なスプリングとなって、体を宙へと跳ね上げたのだろう。
「てめェに教訓をくれてやる。『サイボーグが人間の真似事したら、疑ッてかかれ』だ」
人間を超越した異形の肉体に、みるみるうちに新しい姿が与えられていく。
その左足と左腕は摩天楼を思わせる巨大な杭に。
その右半身は杭の射出装置に。
パイルバンカー、《震動鶴》。重量×加速×硬度という、威力の体現者とでも言うべきそれは、分厚い岩殻すらも容易く砕く、クレバスの誇る最大威力。
「こいつでトドメだッ!」
《震動鶴》に仕込まれた火薬の炸裂音が轟き、噴き出した炎が鉄を金色に照らす。加速、加速! ゼロコンマ単位で加速し、回転速度を増す鋼の鶴嘴。その獰猛な一撃が、《可燃性のすべて》に取り付いた《サザンクロス》の白い外装を打ち抜いて、内蔵された発電機関をもまとめて粉砕した。
「一丁上がりッ!」
クレバスは宙返りしながら骨が敷き詰められた床へと着地する。その姿は既に、普段のクレバスのものに戻っていた。
「さァて、イバラを迎えに行って、シュガー・ハイと合流しねェと――」
そう、足を踏み出そうとした瞬間だった。クレバスが違和感に気づいたのは。そして、クレバスに考える時間を与えるほど朱炎は愚かではなかった。クレバスの感覚受容器を、煮えるような熱が駆け抜ける。
「クソッ! 《サザンクロス》はブッ壊したはずじゃア……」
『そうだね。でも、普通は予備を用意するだろ?』
その声が誰のものか、考えるまでもない。むろん、真保呂朱炎だ。
「が、ハッ」
じり、じりと。行き場を失った電気が空気中ではじける音だけが、クレバスの耳には、やたら大きく聞こえた。
触れるまでも、見るまでもない。その胸元に、人間なら致死ダメージであろう穴が空いていて、そして、穴からは焼け焦げ、とろけた《かつては男と女》のコア・メモリーの残骸が覗いていた。
クレバスは、倒れた。いやに大きい音と、震動とともに。
D級遺物《かつては男と女》のコア・メモリー――あらゆる人々の記憶と、遺伝情報と、思いと、文化と、教育が、ほんの一瞬で、破壊されたのだ。そしてまもなく、クレバス――クレナイ・セキボの人格も消滅する。
《サザンクロス》に表情があれば、それは雄弁にこう語ったことだろう。「してやったり」と。
『”送電”を警戒して《サザンクロス》に近づかなかったんだろ? もう全部台無しだけど』
自立機動型の発電機ならば、何かしらの送電能力は備えていてしかるべきであり、《サザンクロス》の送電は、電気を変換した電波によって行われる。予備電源として使えるほどの電力を持つ電波ならば、兵器として用いた場合、相応の威力を備えていてもおかしくない。
クレバスの瞳のしぼりは力なく緩み、赤々と揺れていた髪は、静かに色を失い、透き通っていく。その傍らの骨の山が蠢いて、骨と同じくらい白い、小さな箱が這い出た。《サザンクロス》。だが、その陶磁のような外殻には一点の汚れも傷も見当たらない。クレバスが破壊したものとは別個体だ。
部屋には静寂が戻り、ただ、クレバスの最期がもたらした震動だけが残された。
『D級遺物恐るるに足らず、だ! シュガー・ハイも死に、もうここにボクを止めるものはいない!』
《サザンクロス》に備え付けられたスピーカーから、高笑いが響き渡る。朱炎は、勝利の愉悦に酔いしれていた。
「……シュガー・ハイが死んだ? その話……詳しく聞かせろヨ」
クレバス。その体の結合部は、機械であるにも関わらず、死体のように弛緩していく。
『死んだってのは文字通りの意味さ。シュガー・ハイは力尽きた』
《サザンクロス》は嘲るように断言する。
『ボクが手を下さずに終わったのは残念だが……もう奴が蘇ることはないだろね』
「なるほど、なるほど……ネ」
だが、倒れ伏しながらも、クレバスは笑った。
「一ツ、警告しといてやる。今すぐシュガー・ハイの肉体を粉みじんにするンだ」
『ハッ! 奴は止まった時間の中で、断末魔を永遠に体感し続けたんだ。蘇生するなんてことはありえない!』
《サザンクロス》の中の朱炎は怒鳴り上げた。だが、壊れた《かつては男と女》は笑う。
「警告はした……あいつは強ェぜ?」
クレバスは笑い続ける。そして、《サザンクロス》は気づく――この部屋が、揺れている、と。
クレバスが倒れ伏したときから止まらない、何かの震動。弱々しかったそれは、低く唸るような重低音とともに、強く、大きく膨らんでいく。《サザンクロス》が覚えた、嫌な予感とともに。
「ついでに言ッとくと、あいつほどじゃねェが、オレも相当、ヤルぜ?」
張り裂けるような轟音とともに、鉄作りの天井が、張り巡らされたパイプと一緒に、裂けた。そこから覗いたのは、赤く輝く装飾を施された。巨大な二つの――否、二つの巨大な筒が一塊になった、鋼。
「紹介してやンよ。《バイセクテッド・ヒットラー》。俺の潜雪艦だ」
『そ、それがどうした! お前のコア・メモリーはもう破壊されたんだろう!?』
「そうだナ」
クレバスは、おもむろに己の胸の中心に開いた穴に手を突っ込む。そして、あろうことか、周囲のコードを引きちぎり、火花をはためかせながら、コア・メモリーを引き抜いた。
『そ、そんな、バカな!?』
「何を勘違ィしてやがンだ。オレはD級遺物、《かつては男と女》。人類最強最後の3Dプリンターだぜ? そこまで知ッてて、どォして『かたち』を疑わない?」
『なら、ならば! お前の本来のコア・メモリーはどこにある!?』
「知りたきゃア、教えてやンよォ!」
クレバスの背後に出現した、《バイセクテッド・ヒットラー》、その双胴が、さらに四つに分かたれた。そう、四つの腕に。そして、四つの腕と、クレバスの指は、《バイセクテッド・ヒットラー》の中心を指さした。
「オレの本体はなァ、ずっと、こっちの潜雪艦だったんだよ!」
『お前自身は、操り人形だったと言うのか』と、《サザンクロス》は怒号する。皮肉にも、イバラがクレバスを「傀儡」と表現したのは正しかったのだ。
「見せてやンよ! 《かつては男と女》の真の姿を!」
そして、クレバスは跳んだ。壊れかけた体を苦にもせず、高く、高く。天井の《バイセクテッド・ヒットラー》まで。
「合体!」
クレバスの声とともに、《バイセクテット・ヒットラー》から、《サザンクロス》のセンサーを狂わせるほどの熱風が吐き出され、砂煙が渦を巻き、閃光が瞬いた。
「……悪ィが、速攻でキメるぜ。この姿はあンまり可愛くねェからな」
巨大な四つ腕。
ワインレッドのスーツを思わせる装飾を施された、鋼の体。
唸りを上げるエンジンとモーター。そこから噴き出す蒸気。
質量の暴威とでも呼ぶべき巨体。それこそが、《かつては男と女》の真の姿。
『なァァァァにが真の姿だよォォオオ! イキってんじゃねぇぇぇよおおおおお!』
骨中に埋まっていた《サザンクロス》が、《可燃性のすべて》へと取り付く。二つの《サザンクロス》と、《可燃性のすべて》、《禁忌の孵化器》、それだけでなく、無数の骨たちが収束し、《かつては男と女》が見上げるほどの巨大な姿に変わっていく。
「たとえて言うンなら、がしゃどくろ、ってとこかァ」
『どうだ? てめえよりでかくなってやったぞ、《かつては男と女》』
《サザンクロス》改め、がしゃどくろは、《かつては男と女》よりさらに一回りは大きいであろう拳を振り上げる。
『叩き潰せば、どこにコア・メモリーがあろうと同じだ!』
「頭の悪ィ理屈だ」
《かつては男と女》は鋼の装甲を小さく揺すって、笑った。そして、胸部の装甲から、五本目、六本目の腕が現れる。そして、何かをたぐるようなそぶりをする。
『う、うおッ!?』
次の瞬間、がしゃどくろの脇から、一本の骨が抜け落ちる。それと同時に、白骨の巨体はバランスを崩し、傾き始めたのだ。
『うおおおおおおおおおおおおっ!?』
そのまま、叫び声を断末魔に、がしゃどくろは元の幾千、幾万の骨と散り散りになる。
『な、なぜだ、どうして! 何があった!』
《サザンクロス》は、半狂乱で叫ぶ。
「骨同士でくみ上げられるとき、キーになりそうな骨に、あらかじめ《厳一徹ストリングス》をくくりつけてたンだよ」
『馬鹿な!? ボクが骨をくみ上げたがしゃどくろを作るなんて一言も言ってないし、言ったとしても、どうくみ上げるかはボクの判断のはずだ!』
「てめェはD級遺物をナメすぎだ」
《かつては男と女》は、巨腕のひとつで、健在の《サザンクロス》を摘み上げた。
「これだけの大質量ボディだぜ? しかもD級。演算能力はケタが違う」
『てめぇ……正気なのかよ。そんな異常な量の情報と演算を平気で受け止めてるクレナイ・セキボ自身の人格は!』
「さァな。考えたこともねェが……試してみッか?」
《かつては男と女》の顔は、西洋鎧のようなマスクで隠されている。だが、《サザンクロス》には、その下の顔が笑っていると、ありありとわかった。
「計算内容は、『お前が壊れない確率』だ」
『や、やめろ、やめろォ! やめてくれェ!』
「お前はスクラップにならずにいられるかな?」
《かつては男と女》の万力の如き力で押さえつけられた《サザンクロス》はミシミシと音を立てて粉砕された。
~
ギルド・ベース地下ダンジョン、地下第三層。遺物集積庫、イバラの眠る地よりさらに下層のそこは、死臭で満たされていた。
クレバスのもたらした情報が正しいなら、このダンジョンのどこかに真保呂朱炎の本体がある。それを破壊するのがイバラに課せられたミッション。だから、モンスターに構ったりせず、ダンジョンごとまとめて潰してしまうべきなのだろう。だが、ここはギルド・ベース直下であり、イバラが目覚めた場所でもある。この場所の真実を知らない限り、イバラは、「神」という呪縛に囚われたままだ。
イバラは壊れた殺人重機の残骸のそばを差し足で通り抜けながら、己の眠っていた植栽プラントに足を踏み入れた。
「ひどいわね……あい変わらず」
そこはもはや植物のひとかけらさえもなく、自分が目覚めたときとは比較にもならない。そこに緑の面影はまるでなく、下層へ続く大穴が、黒々とした闇を晒してイバラを待ち構えていた。
しかし、イバラに迷いはない。恐れもない。その身ひとつで、洞穴へと飛び込んでいく。探索の始まりだ。
「《次世代の空覆い/ホノイノイェプ・ニソル》!」
イバラの右腕、その指先から白い綿毛が噴き出して、雲を形作る。即席のパラシュートだ。イバラは安定した速度で下層へ向かうが、その額には疑念の皺が走っている。
「……静かすぎる」
いま、イバラの最大の盾にして矛である右腕は移動用の植物展開に専念していて、自暴自棄にも、無防備な状態にある。だから、攻撃するとしたら今が最大の好機であるはず。だというのに、ダンジョンはイバラを迎え入れるかのように静寂を保ったまま。問いに煮え切らないままに、イバラは深淵の底へとたどり着く。植栽プラントの瓦礫こそ積み上げられているが、機械作りの壁の溝を見るに、この縦穴は大きな昇降機であるようだった。サイズからして、相当の大きさのものを運ぶことができるだろう。例えば、殺人重機。
「違うわよね」
だが、植栽プラントの出入り口は、殺人重機よりもはるかに小さく、殺人重機が出るには適さない。その答えが、両開きの銀色のドアの先にある。イバラの右腕がにわかに肥大化し、ドアをぶち破った。
「ここは……」
意味のわからない領域だった。イバラの眠っていた間よりも広い、ドーム状の空間。その壁から天井まで、六角形のタイルで埋め尽くされていて、近未来の地下墓地のような印象を受ける。だが、ここがダンジョンの最奥であることは間違いない。
なぜならそこには一人、長身の男が――名乗らずとも、その人を見下したいけ好かない笑みだけでわかる――真保呂朱炎がいるから。
「答えが欲しいかい、ウナバラ・イバラ」
「どうかしら」
答え。この場所の意味、イバラの生まれ――作られた理由。少なくとも、イバラが前向きになれる回答を真保呂朱炎は口にしないだろうし、持ち合わせてすらいないことさえありうる。ギルド・ベース奥深くに封じられたダンジョンは、文字通り、この街の暗部の一つで、そこに込められたイバラの真実もまた、ろくでもないものに違いない。ならば、知るべきは、目の前の男が、真保呂朱炎の本体か否か、のみ。
「あなたを止めれば、私の分身たちは止まるの?」
「ノーだ。ボクを倒しても、また次のボクが出てくるだけだよ」
「あなたはいったい何者なの?」
「……むかしむかし、リヴァーシに立派な研究者がたくさんいました。ある人はD級遺物のコピーを作り、ある人は雪に耐えられる樹を作り、ある人はギルド・ベースを設計し、ある人は気体人間の可能性を模索し、またある人は、良心の呵責に耐えながらも、イバラ、お前を作りました」
「……あなたが私を作ったというの?」
「まさか!」
朱炎は目を細めて、ゆがんだ笑みを浮かべ、自嘲する。
「周囲がそんな偉業を重ねる中、何にもできない無能がいましたとさ。それでこの話はおしまい」
朱炎の左腕が、イバラの右腕のように大きく膨らんだ。能力、それとも移植タイプの遺物? そんな風に考えている間に、イバラの世界が風とともに反転する。
「《糖酔/シュガー・ハイ》。便利なチカラだ。使い捨ての体なら、なおさらね」
暗闇から目を開くと同時に、イバラはその声を聞く。ほんの一瞬だが、自分が気を失っていたのだと思うと、背筋が冷たくなった。
「ボクの研究は人間キメラ。他の人間のいいとこどりしようってわけ。こんな能力と生まれてから死ぬまで付き合わされる身には同情するけどな。そして、キメラの肉体を楽しむため、クローン技術と意識のコピー研究に没頭したんだ」
朱炎は、あざけるように笑う。
「ほらほらクソ雑魚イバラ何休んでんだハゲが!」
朱炎の右手が閃く。その男の体格に似合わぬ異様な細さから、イバラは、一瞬でその正体を見抜き、首の動きだけで攻撃をかわす。
「それ……私の腕?」
朱炎の右腕の付け根に刻まれた傷跡――千切られたような傷口から無数の蔦が這い出している。蔦のムチはイバラの頬を掠め、背後のパネルの一枚を砕いていた。
「ご名答ォッ!」
朱炎の脚が、イバラの頬を蹴り抜いた。とっさの防御でイバラは緑の右腕を振り上げる。それを、朱炎の――かつてイバラのものだった右腕が受け止めた。
「《神の審判/ゴッド・キャンセル》……とでも名づけようか。このアンチD能力を」
イバラの緑の右腕を押さえ込んでいる朱炎の右腕は、細い女の腕だ。今のイバラの右腕なら、その気になれば、容易に払いのけられるはず。だが、イバラの右腕は言うことを聞かない。それどころか、少しずつ萎れ始めている。イバラのものだった細腕は、質量差をひっくり返していた。
「イバラ。お前が神たる所以はどこにあると思う?」
再び、朱炎がイバラを蹴り飛ばす。
「そ、そんなもの……ない」
それが、イバラが見つけた現実。再び、朱炎がイバラを蹴り飛ばす。イバラの奥歯が砕けた。
「わかんねー奴だなァ。ある前提で話してんだっつーの。わかれよ。てめぇと他のゴミイバラの違いだよ。頭ちったァ使ってみろよそのインプットされた以外空っぽの頭をよぉ!」
朱炎は、まるでサッカーボールでも蹴るかのように、真正面からイバラの頭を蹴る。背面のタイルが、ひび割れ、砕ける。へたりこんだイバラのそばに、それはパラパラと散り落ちた。
「へっ、さすがに頑丈だなァ、てめェの骨はよ」
「ほ、ね……?」
額を切ったのだろう。朱炎を見上げるイバラの視界は血で赤く霞んでいる。
朱炎の心は病んでいる。それは明らかなのに、濁ったイバラの目には、朱炎を蝕む闇が見えない。
「そう。お前らイバラは骨を中心に、肉を吹き付けることで作られる。肉の遺伝子は同じだから、お前のアイデンティティは骨にしかないってわけ! そしてェ!」
四方八方から蔦が迫り、イバラを縛り上げる。
「この骨と肉の遺伝子がもたらす能力! その組み合わせこそが《禁じられた遊び》を封じるアンチD級! つまり今やボクが神、イバラと言っても過言ではない!」
ドーム空間に、朱炎の高笑いがこだまする。
「ということで、次はボクから聞こうじゃないか、ウナバラ・イバラであることさえ奪われたゴミクズ。お前は一体なんなんだ?」
「……」
繰り返していた自問自答。それが今、他人の口から放たれ、イバラの胸を抉る。しかし、見えない心の傷跡から答えが漏れ出すことはない。いくら覗き込んでも、手を伸ばしても、イバラの中には何もない。
『……なあ、てめェは緑の天使のステンドグラス、見たことあるか』
代わりに思い出されるのは、イバラがあんなにも嫌っていたクレバスの言葉だった。
――知ってるわよ。
知っているに決まっている。自分によく似た女性のステンドグラスは、憎らしいことに、多くの人に囲まれ、そして高みから人々に光を振りまいていた。地中の穴倉に幽閉され、ひとり黙々と実を作って満足しているイバラとは大違いで、皮肉にすらならない。
誰があんなものを掲げたのだろう? そんな怒りと苛立ちが募る。
「……誰が?」
あのステンドグラスは、イバラが掲げたものでも、作ったものでも、断じてない。ならば、それはイバラ以外の誰かが飾ったものということになる。
『その意味を少し考えてみれば、ちったァてめェの正体に近づけるんじゃねェか? 神よ』
「あはは……」
そういう意味だったのか。あの機械人形の言葉は。
「おろろーん? 自分探しの果てにいかれちゃいまちたか? イバラちゃアアアアアアアん!!」
朱炎の右腕から、緑色の濁流がイバラめがけて襲い掛かる。それは吹き荒れる能力無効の嵐であり、圧倒的質量を携えた死の姿だった。
ウナバラ・イバラ。その目、押し寄せる緑を見つめていた。まっすぐ、曇りのない瞳で。
「……なぜ避けない!?」
そして、そんなイバラを、朱炎は呆れ、混乱した目で見ていた。イバラは、朱炎をジッと見て、「あなたは私を殺さないと思ったから」と言った。「むしろ、殺せない、かしら」
「な、なぜそんなことを言う」
「そもそも、私を殺したいなら、毒で昏倒して、腕をもぎ取ったときに首を掻っ切ればよかったじゃない。私がここまで降りてくるときだって、そう。殺すタイミングはいつでも、いくらでもあったでしょ? ならもう、あなたは何らかの理由で私を殺せないと判断するしかない」
次は、朱炎が黙りこくる番だった。
「《ウナバラ・イバラ》の力を使うには私の遺伝子と骨が必要って言ったわね? でもそれは完全な正解じゃなくて、私が生命活動を停止してないことも条件なんじゃないの?」
あなたみたいな人によって悪用されることを避けるために。イバラはそう付け足した。
「《ウナバラ・イバラ》はあなたなんかじゃなく、私であることが必要なのよ。きっと、私を誰の手にも届かないところに封印するために、私を地下までおびき寄せたんじゃないかしら」
イバラが朱炎に指先をつきつけると、朱炎は顔を真っ赤に火照らせた。
「仮にお前のその仮説が正しいとしても! それはお前の存在をさらに縛りあげるだけだぜ? 何の解決にもなっちゃいねえよ! お前は変わらず、お前を作った奴らの奴隷のままだ!」
朱炎が憎しみたっぷりに吠える。だが、イバラはもはや、揺るがない。その瞳のど真ん中に、朱炎の姿を捉えている。
「私は、あなたとは違う」
「そォだ! そのとおり! てめぇなんかと一緒だなんて、こっちから願い下げだ! オレ様はオレ様自身の欲望に! 憎悪に! 怒りに従う! 何から何まで親の言うとおりのてめぇと違ってな!!」
「そうね……私にはその野心がない。敬意を払うべきものだわ。けれど、私は独善的で我侭で他者を省みることのないあなたとは違う。私は、他の誰かに、神であってほしいと祈られて生まれた!」
確かに、イバラがいま手にしているものは、何から何まで貰い物なのかもしれない。だが、創造主に他人の病を見抜く目を与えられ、そして、それを癒すことを喜びとするような、優しさを貰った。
ステンドグラスには、イバラに人々を救い、導いてほしいという願いが込められている。それこそ独善かもしれないが、イバラはあのすばらしい芸術品の存在を、そう解釈した。自分の命は祝福され、期待されてている。そう気づいた今、イバラの目にかかった霞は失せ、朱炎の癒すべき患部、取り除くべき病巣すら見えている。
「《茨の海》」
イバラの体から無数の緑があふれ出す。トゲのついた禍々しい茨だ。だが、それの矛先は敵である真保呂朱炎ではない。ほかでもない、イバラ自身だった。
「うっ、ぐうッ!」
茨が白い肌を突き刺し、抉りながら、イバラの全身を這い回り、締め上げ、地下墓地を埋め尽くす速度で、緑の巨大な領土を築いていく。
「く、や、やめっ」
その過程で、当然のごとく朱炎の肉体も緑の繭飲み込まれていく。右腕も、その肉体も、等しくずたずたに引き裂かれながら、濃厚な自然の匂いを嗅ぐ。その瞬間だった。朱炎が、繭の奥に、光るものを見つけたのは。
「……?」
朱炎は、その緑色の繭の中、導かれるままに進んでいく。進めば進むほど光は強まり、やがて、目も開けていられないくらいに、まばゆく、暖かく。その先にあるものは。
「ボク?」
そこには、もう一人の朱炎が、ただし、嫉妬も憎悪もなく、少年のように、穏やかに笑う朱炎が、朱炎自身を見つめていた。彼は、優しく包みこむような光を纏っていた――
~
「……えげつねェ」
天井を突き破って覗いた、クレバスの顔が言った。クレバスはボロボロで、ところどころから機械の地肌が覗き、そうでない場所は油で黒く汚れていた。
「《茨の海》。植物の毒による幻覚と、私の血液を傷口から体内に取り込むこと、二つの合わせ技で、患者の精神を自身の闇と向き合わせる治療法よ」
イバラが、《茨の海》から這い出しながら言った。イバラも、肉も肌も服も切り裂かれ、緑の汁と己の血液で、送り出した頃から見てもなお、目も当てられない状況だ。
「なるほどネ」
「私の治療の解説はいいでしょ? そんなことより、この場所の説明をお願い」
クレバスはうなずく。
「この場所はデータ保管所なんかじゃねェ。おそらく大昔のここの職員や科学者が冷凍保存されてる」
ここに眠る人間は、生きるための栄養も、呼吸さえも、機械に依存している、と言った。イバラを封印しておくには御誂え向きだ。同時に、イバラはすべてを理解した。自分は、ここの番人として生まれてきたのだと。イバラを作ったものたちは、永い眠りから目覚めて初めて見るものは、イバラと、彼女の作り出した緑、つまるところ生きていく糧だったのだ。
「だが……電気が切れちまった今、ここに保管されてる人々の肉体は完全に死んじまッた。約一名を除いてな」
その一名は、聞かなくてもわかる。真保呂朱炎だ。
「問題はオレが思ってたより根が深ェかも、ッてことだ。それに、どうやら、シュガー・ハイが死んじまッたらしい」
「……」
イバラは何も言わないで、複雑な表情を作る。
それは、カストルがいつ死んでもおかしくない体調だったからで、そして、彼が死ぬとは露ほどにも思っていなかったから。相反する矛盾についた決着、それが今、彼女の表情を歪めている。
「じゃあ、助けに行かなきゃね。クレバス」
イバラは、天井のクレバスへと手を伸ばす。
「てめェもそう思うか、イバラ」
クレバスの機械の腕は、確かにその腕を掴んだ。
満身創痍の赤い機械、そして緑の女神は、同時に頷いた。彼女たちは確信している。カストル・ポルックスの復活を。