地獄変
薄暗い部屋。金属製のフロアと手すりに囲まれたドーナツ型の足場、その中心に、黒々と闇がそびえ立ち、絶えず重低音を吐き出していて、時折、それに混じってぺたり、ぺたりという裸足で歩くような音が聞こえた。
「ねえイバラ君。ここは何の施設か知っているかい」
鋼鉄のジャングルの中に、緑色の瞳が、蛍の光にも似た軌跡を描く。それに相対するのもまた、かんらん石のような輝きを放っている。イバラだ。
「知らないわ。でも、私が作物を育てるには都合がいいならば、ほかの情報は必要ないでしょう?」
イバラの瞳が、蛍の瞳と全く同じ声で言う。蛍の瞳は細目で笑った。
「真面目だね。そしてとことん仕事人間だ」
揶揄するような笑いに、かんらん石の瞳も目を細め、にらみつける。
「何が言いたいの?」
「それで本当にいいのかい、ってことさ」
蛍色の瞳がころころと嘲るように揺れ、金属製のてすりにもたれかかる。鉄は僅かにひしゃげた。
「お前は神になってこの街を治めんだろ? それならこの街がどういうふうに成り立ってるか知るってことも重要なんじゃないの?」
かんらん石の瞳のイバラが押し黙る。ぺたり、ぺたりという異音がいっそう大きく聞こえた。
「ボクがこうして、この街の事情を教えてやるんだぜ? お前はありがたく教授してりゃいいんだよ」
蛍色の瞳の人物が鼻を鳴らすと、イバラは言葉を詰まらせた。
「この街には、三大遺物と呼ばれる遺物があるんだ。それを踏まえて、改めて問おうじゃないか。ここは一体何の施設かな?」
イバラは、小さくため息をついた。付き合いきれないとばかりに。
「発電所、でしょう。この街に供給される電気をすべてまかなっていると聞いたわ」
「当たらずとも遠からず。じゃあ、ここ、リヴァーシの発電機のタービンを回す燃料、それは何だか知っているかな」
「……何が言いたいの? 私の作物を燃やしてるとでも?」
イバラに相対する人物は満足げに頷き、蛍色の瞳はふわふわと軌道を描く。
「発想は悪くない。またしても、当たらずとも遠からず、だ」
「なぞなぞごっこをしている暇があったら、持ち場に戻りたいんだけど。それならそれで、私の作物を待っている民がいるの」
「急くね。仕方ない。それじゃあ、答え合わせといこうか」
蛍色の瞳は下卑た笑いを浮かべ、パチンと指を鳴らすと、暗闇は一転、白い光に包まれる。
――真保呂朱炎
――ウナバラ・イバラ
二人は視界を取り戻し、そして、鏡写しのような互いの姿を視認する。
「これが、答え」
朱炎は、地響きのような重低音の中心を、白い砂山の上に突き出した鋼の尖塔を指さす。その中心で、イバラと、朱炎と近い顔――イバラはおろか、朱炎よりも無気力でだらしない顔をした――しかし、イバラや朱炎よりも遥かに幼い子供たちが列をなし、おぼつかない足取りで、不恰好な足音を立てながら順番に鋼の尖塔の横腹に開かれた黒い穴に飛び込んで行くところだった。
「正解は、イバラ。お前だ。リヴァーシの三大遺物のひとつ、禁断の超S級遺物、《可燃性のすべて/アンダースタンド》。それは、有機体に圧力と温度をかけることで、即座に、液体燃料へと変える。イバラだけじゃない。リヴァーシで肉を残して死んだ人間の大半がここに放り込まれ、燃料に変えられるんだ」
今この瞬間も、ベルトコンベアに乗せられた工業品のように、ウナバラ・イバラのクローン体たちは《可燃性のすべて》へと飛び込んでいき、それと入れ替わるかのように、《可燃性のすべて》の下部からは、無造作に骨が吐き出され、山の一部として積みあがっていく。
「……ッ」
イバラは息をのみ、目を凝らす。そして気づいた。《可燃性のすべて》が建てられていたのは、白い砂山の上などではない、と。その建設地は文字通り、少女たちの死屍累々の上、不要と捨てられた骨の上だったのだ。
骨の山はどこまでも白く、白く、そこに命が残る可能性はゼロ。だというのに、少女たちからは怨嗟や命乞いどころか、叫び声すら上がらない。ぺたり、ぺたりと足音だけが聞こえ続ける。そこからはあらゆる感情が欠落していた。狂気さえも。
「あんまり身を乗り出すなよ、イバラ。《禁忌の孵化器/ベイビードントクライ》に飲み込まれたら一たまりもない」
朱炎は不愉快な笑みを浮かべ、吐き出された骨たちのうちの一箇所を指差す。
――渦だわ。
骨と骨が擦れ合い、潮のように渦を巻いている。それはつまり、骨が下層へと落ちていっていることを意味する。《禁忌の孵化器》という名の遺物の懐へと。
「これまた三大遺物のひとつである《禁忌の孵化器》は、用意された骨に肉付けしていくことで、『イバラ』を低コストで作りだす、これまた超S級遺物だ。作り出された肉人形はここで働き、朽ち、燃料になり、たまに食肉として加工される」
人類の悪を詰め込んだような光景が、神の眼前に無修正のままに晒し出されている。目の前のイバラの分身たちの末路は、彼女自身が思いつく限り最悪のもので、それはまさしく、冒涜だった。
「悪く思うなよ? こうでもしなけりゃ、リヴァーシの人間はいままで生きて来れなかったんだから。必要悪ってやつだよ」
「いッ……いつからこんなことを――」
恐ろしい光景を目にし、浮かび上がる疑問。だがそれも、すぐさま己のうちで深化し、理解してしまう。
――ひょっとして、暗い間から、ずっと彼女たちは狂気の投身自殺の列をなし、そこから飛び降り続けてきたのだろうか?
――私たちがここに来る遥か前、そう、何十年も、何百年も前から?
変わらず蠢き、地鳴りのような声を吐き出し続ける《可燃性のすべて》。その薄汚れた鉄肌は、人間の寿命からは計り知れない時間を経た、「社会」という生き物の息づかいや脈動を、イバラにまざまざと見せ付けているように思えた。
「わかるよ。お前はこの暴挙に怒り、あきれ果ててるんだろ」
朱炎は見下すような視線、軽蔑するような笑いを浮かべる。
「それでもお前は許すんだろ? 生きるために必要だったからって言ってさ。だが、こんなのは人間の悪意の序の口だし、それに、解ったろ? お前自身の出自がさ。神よ」
イバラの視線が朱炎へと向けられる。自分とまったく同じ顔をした、いけ好かない相手に。
「許さないわけないよなぁ。お前はそういうふうに、人間に都合よくプログラミングされてるんだから」
嘲るように笑う朱炎は、イバラと同じく、ふつうの人間からはかけ離れた緑色の瞳と、緑色の髪をしていた。
「さて、三大遺物もあとひとつ。それが何かわかるかな?」
イバラの中の憎悪が膨れ上がり、その白い拳ははちきれんばかりに震える。その様子を見て、朱炎はさも嬉しそうに笑い、イバラの答えを待たずに言った。
「それはお前だ。ウナバラ・イバラ――いや、アンチD遺物、《ウナバラ・イバラ》。病を見抜き、それに適した作物を処方する、従順な人工能力者。《可燃性のすべて》も、《禁忌の孵化器》も、《ウナバラ・イバラ》、お前を創造する副産物にすぎない」
イバラは、再び、恐る恐る下を――骨の山を見る。頭蓋骨の一つと目が合う。それは、こう言っている気がした。「お前も我々のうちの一人にすぎない」と。
末路。きっといつか、自分も恐ろしい《可燃性のすべて》の中に突き落とされ、新たな骸骨の一つに、そして新たな名もなき子供の一人の材料になるのだろう。
――だとするなら、私はどこへ行けるの。
イバラの真実は、神でもなければ人でもなく、信仰のために作られ、ゆりかごから墓場までを酔いされた都合のいい消耗品。今もまた、よどみない歩みとともに、イバラと同じ顔をした少女たちが身を投げている。
イバラは、クレバスを『命なき傀儡』と軽蔑し、あまつさえ破壊しようとした。だが、イバラはいったいなんだというのだろう。命があるというだけで、生まれた意味も、理由も与えられたものでしかないイバラこそが、本当の傀儡なのではないか?
「なあ……ウナバラ・イバラ」
朱炎はその名を呼んだ。人であり、神であるその名を。
「いっそ、さ。こんな街、ぶっ壊してしまえばいんだよ」
朱炎が手すりを握り締めると、それはのたうつように歪み、中から毒々しい色の蔦が飛び出した。その目は痛みに満ちている。苦痛と、悲しみと、恨みと……様々な暗黒の感情が渾然と一体になって渦巻いている。真保呂朱炎は、確かにリヴァーシを憎んでいた。
だが。
「私はあなたに同調できる。けど、協力はできない」
朱炎はつまらなさそうに舌打ちをして、イバラを睨む。
「屈辱や苦痛なら、私にもあるから。だけど、壊したいものは違う」
カストル・ポルックス。イバラは、その身を蝕む病を見抜いたし、最適な果実の処方を行った。それでも、カストルは病巣を克服できていない。それはれっきとした敗北であり、屈辱であり、イバラの心に爪痕を残した。この痛みは、間違いなくイバラだけのものだ。
自分が癒すべき他人の傷にすがりついて、自己を保っている。神を名乗っていながら。
お笑いだ。イバラはそう思った。
「私は神として、治療しなきゃいけない人がいる」
イバラもまた、蔦むした手すりに触れる。みずみずしい緑色の植物が、金属に根付き、ゆっくりと芽を出した。
「けっきょくお前もプログラムの呪縛からは逃れられないか!」
朱炎は、あざけるように笑う。
「やっぱお前じゃあ無理だわ、神になるのなんてさ! 目的意識! 方法論! 何もかも欠けてるよ!」
びりびりと、肌が痺れるような敵意が、イバラにぶつけられる。
「そりゃそうだよなぁ! お前は神だという自意識を他人に植え付けられた。だけど、ボクは違う! ボクはボクの意思で神になりたいと望んでいる!」
その直後だった。
「だから、貰うぞ。お前の力をさぁ! 《縛錠の根/バインディング・ルート》!」
鉄の床板を突き破り、イバラめがけて突き立てられたのは、彼女の脚よりも太い根。
だが、たとえ座り込んでいるとはいえ、植物での攻撃を見切れないイバラではない。袖から出現させたわずかな蔦で根をいなし、巻き取る。
「あなたが手すりから足場へ根を忍ばせてることはわかってたわよ!」
「だろうね。ボクもお前がボクの攻撃を余裕でやりすごすことは想像してたよ」
朱炎は、ひどくゆったりと、そう言った。
まるで、勝利宣言をするかのように。
その次の瞬間だった。イバラの体の芯に、痛みにも似た痺れが走ったのは。
声すら詰まる苦痛。当然根をとらえておく体力などなく、捕縛していた根はイバラの体を這い回り、縛り上げる。イバラの体にはなおさら強い痛みが走り、その全身から汗が噴き出した。
「毒……ね?」
毒の混入経路は想像するだけ思考力の無駄と判断する。食事、飲料水、閉鎖空間だから、空気を介して、ということもあるかもしれない。要は、イバラが隙だらけだったということだ。
認めざるを得なかった。己の信条の敗北を。
「こんなことをして……何するつもりなの」
「そりゃ、決まってる。無能なお前に代わって、未来永劫このリヴァーシに名を残すのさ。ボクが神になってな!」
イバラの肌からは血の気が引いていき、意識もおぼろげに揺らめいて、弱まっていく。
「さあ、祭の始まりだ!」
イバラの意識の外で、朱炎は高らかに言った。
ギルド・ベースの外では、いよいよ討論会が始まろうとしていた。
~
『では皆さん、今回の選挙の出馬者たちです!』
休憩スペースに設けられたスピーカーから、音楽交じりに声が漏れ聞こえた。この場所で音声を聞いているのはカストルとクレバスの二人だけ。彼ら二人の纏う薄ら暗い雰囲気の前では、音楽の華やかさも上滑りしていく。
ギルド・ベース第二階層、食物庫前レスト・ルーム。カストルは食物庫に設置されている自販機にトークンを突っ込み、抱え込むほどの甘味を買ったが、カストルは既にその半分を平らげ、もう半分のパッケージを片っ端から破いていた。
「状況は最ッ低だ」
ベンチに腰掛けたクレバスが言い、その手のひとつをモニターに変形させる。そこに映っているのは、地下への出入り口で、そう大きくもない扉の前には番が三人もいた。
「爆発のせいでギルド・ベース全体が警戒態勢に入ってる。発電所には入れねェ。押し入るッてんなら話は別だがよ」
「なら討論会の賑わいに混じって時間でも潰すか?」
幸いにも、リヴァーシの人々は荒事に慣れている。そもそもが探索者たちの寄り合い所だから、遺物や能力の暴発などは日常茶飯事。討論会の警備は厳重になりこそすれ、中止まで追い込まれることはないだろう。
「それも悪くねェが、とりあえずお前らが戦った敵について聞かせてくれよ」
クレバスは言った。ジャミングのせいで先ほどの戦いをモニターできていないのだ。ついでに、本人の談だが、「オレもチンピラどもをけしかけられてて、嫌ァな予感はしたンだけども、駆けつけられなかったんだよ」とのこと。
カストルは口を開く。
「イバラのそっくりさんで、能力も同じ。真保呂朱炎と名乗っていた」
「能力が同じ……ッてことは、能力封じをしてくるのか?」
カストルは首を振る。
「してこない。植物操作だけだ。戦闘スタイルは肉弾戦型だった。……もっとも一撃で倒しちまったから手の内は正確には読みとれなかったけど」
クレバスはその思い切りの良さに、少し笑う。スピーカーからはママの挨拶が中継されていた。それを聞きながら、カストルはクレバスに戦いの顛末を語った。
「まず一つ言えそうなのは、奴の意識はデータの形で保存されているッつーことだ。どこにあるかは、まだわからんがな」
カストルは相槌を打つ。
『だから、死を恐れないで自爆できたのね』
コートの中のラキ・ポルックス改め《虎中の天/タイガー・イン・マイ・ラブ》は言った。クレバスも頷く。
「イバラの肉体は、きっとイバラを作るための過程で発生したものを使ってンだろう。ヤツ自身、ダンジョンで見つかったわけだから、クローンがあってもそこまで不自然でもない。自爆を恐れないことをみると、まだスペアのボディが大量に残ってッか、でなけりゃア、新しく製造できると考えた方がよさそうだな」
「イバラと同じ能力が使えるのはどういうわけだ?」
『能力は遺伝子に宿る。そしてクローンは遺伝的に同一の個体。同一素体のクローン同士で能力が違ったり、使えないってことになった方が不自然よ』
死して機械に改造されることで能力を封じている《虎中の天》は言った。
「じゃあ、何故朱炎は能力封じの力を使わなかったんだ?」
カストルは朱炎との交戦中、常に能力の喪失を意識し、恐れていた。能力を失ってはカストルはでくの坊程度の役に立たない。ゆえに短期決戦を意識せざるを得ず、だからこそまともに情報を引き出せなかった。
「単に知らなかったか、もしくはイバラは他のクローンと違うか、だナ。おそらくは後者だ。アンチDを不用意にバラまきたくはねェだろうし」
『けど……この状況、マズいんじゃない?』
《虎中の天》の言葉に、クレバスは頷いた。
「マズい……ってのはどういうことだ?」
「クローン生成技術と、クローンしちゃなんねェ遺伝子が、同じところに抑えられてるかも、ッてこった」
そう、クレバスが言ったところで、カストルが待ったをかける。
「え? 待てよ。まだイバラが朱炎に抑えられてるとは限らないだろ」
『ビトウさんの中のイバラ像は、あの青い実を作る以前と、作り始めた今とがあるんでしょ? 二人のイバラがスイッチしてるかもって想像できない?』
クレバスは頷く。
「オレにけしかけられたチンピラどもも、ちょっとシメたらすぐゲロッたよ。緑髪の女にやれって言われたってな」
クレバスの表情は人間離れしたように蠢き、悪魔のように笑う。その背には見せびらかすようにふたつの丸鋸が回転していた。
「じゃあ、その想定が正しいものとして、俺らはどうするんだ?」
菓子クズのついた指を払いながら、カストルは聞く。
「さァ?」
クレバスは、無責任に手のひらを宙に泳がせながら答える。カストルはクレバスに詰め寄った。「さあ、って」
「朱炎とやらの目的がわからん以上、警戒のほかにできるこたねェ」
「目的ならわかってる。神になること、らしい」
「最近のトレンドかよ? それって」と、クレバスは皮肉った。
「話を戻すが、むしろ、もしオレの予想通り朱炎がイバラを手中に収めて、能力無効化を会得したとすンなら、協力関係を築きゃアいいんじゃねェのと思うわけだが」
機械の頭脳は冷徹で、合理的だ。あくまでも目的は、能力無効化によるラキの解放。そこがぶれては話にならない。そう、クレバスは念を押した。
『じゃあ、優先順位を変更して、まずはママのところに私の体を――』
――取りに行こう。カストルが、そう言いかけた瞬間だった。
『では出馬者、現・副ギルドマスターのクレス・サン氏の推薦人、ウナバラ・イバラさん! ご挨拶をお願いします!』
「は?」
スピーカーから届いた音に、カストルは素っ頓狂な声を上げた。そんなカストルを、クレバスが手で制した。
「狼狽ンな。十中八九、朱炎の罠だ」
クレバスは至って冷静。足を組んで座ったままだ。しかし、即興で耳をいくつも作りだし、スピーカーへと伸ばしている。
スピーカーの中の「イバラ」は、二言目を発する。
『みなさん、討論会は楽しんでいますか?』
「イバラ」が問いかけると、スピーカーから雪崩のような歓声が轟いた。
『ありがとう。実は、今回の縁日の屋台では、私が作った果実が振る舞われています』
スピーカー越しに、群衆がどよめく。その中から「ありがとう!」や「うまかったよ!」という感謝の言葉も漏れ聞こえた。
『楽しんでもらえて何よりです。クレス氏は、私の造園能力を取り入れ、いっそうの農地改革に挑んでいくことを公約としています。彼が当選すれば、現在、一部の上流階級でしか食することのできない果実や新鮮な野菜が、安価で人々の間に流通することになるでしょう』
嵐のような拍手が、ギルド・ベースを揺らす。スピーカー越しでなく、外からカストルやクレバスの耳に直接届くほどに。人々の心に合わせて、ギルド・ベースはどよめいていた。
「奴の正体は解らないけど、ガッツリ心を掴んでるな」
カストルの言葉にクレバスは頷いた。「イバラ」は今のところ、あらゆる意味でうまくやっている。人々の心を掴むことも、カストルとクレバスに正体を気取られもしない。
『ですが、本来ならここにいるはずの人が、今日はいません』
だが、突然、イバラの口調が淀んだ。何か含みがあるように、言葉を区切る。会場は、うってかわって不穏な声で満たされていく。
『選挙。それは人々の手でトップに立つものを生み出す行為。それはそれで尊いのでしょう。ですが、この街には、あえて新しく生み出さずとも、絶対不動のトップがいるように私は思います』
クレバスの表情がひといきに曇った。「これはマズいぞ」と、《虎中の天》と顔を見合わせる。
「イバラ」は高らかに続けた。
『カストル・ポルックス。彼こそリヴァーシを支配すべきであると私は考えます』
「は!?」
カストルの声が、廊下に響き渡る。彼以外の聴衆は、その言葉におののき、困惑し、だが静かに「イバラ」を見守っていた。
『ですが、今日、カストル・ポルックスは、ギルドによって二つ名を奪われただけでなく、探索者の資格さえ失いました。それは民主主義の出した結論としては正しいのかもしれません』
でも、あなたたちは間違っている――「イバラ」はそう続けた。
『ですから、我々は我々が正しいと思う方法で、あなたがたを統べます』
次の瞬間だった。
スピーカーから耳をつんざくような悲鳴が聞こえたのは。
何かがへし折れる音が聞こえたのは。
誰かの怒号が聞こえたのは。
狂ったようにけたたましく踏みならされる雪の音が聞こえたのは。
鞭のようにしなる何かの音が聞こえたのは。
『たやすい!』
「イバラ」は笑った。心底楽しそうに。
「ヤベーぞ!」
カストルは叫ぶ。「何もかもヤバすぎてもう何がヤバいかもわかんねえ!」
クレバスも、今回ばかりは「狼狽えるな」と諫めることはできなかった。クレバス自身、どう振る舞えばいいかわからなかったから。
『隙だらけだぞ! お前らが望んだ指導者は死んだ! これが、お前らの選んだ安寧……ッ』
カストルとクレバスを裏腹に、高らかに演説していた「イバラ」の舌の根から出された声は、とつぜん、風のような呼吸音に変わった。
『要は――お前と、カストル・ポルックスを止めればいいんだろう?』
ギュンドドドド、ギュンドドドド、という異音をマイクが拾った。
『き、貴様は……!?』
喉で風切り音を出しながら、「イバラ」は言う。
『真保呂朱炎。だが、ボクだけに注目していていいのか? この街にはボク以上の探索者がゴマンといるからな。お前だけじゃねえ。必ずシュガー・ハイを探し出して殺す』
「イバラ」が何かを吐き散らかした。血だろう。その音からだけでも、「イバラ」が致命傷を負っているとわかる。一方で、太い雄叫びがとどろいて、マイクをハウリングさせた。
『ゴボッ……だが、カストル・ポルックスだけは……っ! 守るウゥゥゥゥ』
刹那。
ギルド・ベースが、張り裂けそうなほどの轟音を立てて、蠢いた。
揺れている――どころではない。回っている。曲がっている。巻いている。延びている。壊れている。繋がっている。まるで、生きモン穂のように。
他人事ではない。今まさに、カストルとクレバスがいる休憩所が上下でまっぷたつに割れ、傾き始めた。廊下は外界の空気と邂逅した。
「うっ」
崩壊する廊下から走って逃げる途中に見た、街の景色。先ほどまで祭りの賑わいを見せていたはずのそこは、いまや動くものは緑色の巨大な蔦のみ。毒々しい緑色の蔦が、白い雪肌の上を這い回っては赤い跡を作っている。その赤い絵の具の正体は……想像することさえおぞましい。カストルの生まれ育ったリヴァーシは、一瞬のうちに、地獄か、それ以下の場所になり果てた。
街だけはなく、ギルド・ベースにもツタは這い上って、悪夢のように組み替えられていく。曲がり角の先、ようやくまともな廊下にたどり着いたカストルとクレバスに、外から蛇のような大蔦が集い、鞭のようにしなって襲い掛かってくる。
――こんなの、ダンジョンと同じじゃないか。
男の腕と見まがうような太さの蔦が無数に集まってカストルを締め上げる。緑色の棺に取り込まれたカストルは、みしり、と痛々しい音を立てる。
「シュガー・ハイ!」
クレバスが叫ぶ。その次の瞬間、熱を伴う波動が、廊下を揺らし、蔦どもを灼き尽くした。
その根源は、カストル・ポルックス。《糖酔》の力となる糖分を十分に取り、そして今、彼は初めて激情とともに拳を振るった。絶好調をも遥かに超越する境地に彼はいた。
「絶対許さねえ……許さねえぞ真保呂朱炎」
カストルは、いつだって死ぬ覚悟をしている。それは他の探索者だって同じだ。だが、ここで犠牲になったのは、死線から遠く離れているはずの人々ばかり。――ラキのように。
今もなお積み上げられる屍々累々は、カストルの目にはラキの亡骸を積み上げているように見えた。
「真保呂朱炎は絶対に殺――」
――す。カストルがそう言い切り、殺意に足を突き動かされる前に、それを遮ったものがあった。
『兄さん。私の体、取りに行こう?』
ラキだった彼女、《虎中の天》は言った。
「リヴァーシが大変なことになってるんだぞ!? そんなこと言ってる場合じゃあ……」
『じゃあ、兄さんになにができるっていうの? 聞いたでしょ? 兄さんはこの街の敵になっちゃった。暴れればそこに際限なく腕利きの探索者がやってくるわ。そしておそらく、兄さんが《糖酔》の使いすぎで力尽きることを狙ってるんじゃないかしら』
「……」
《虎中の天》という生命維持装置に繋がれたカストルには、返す言葉もない。今も、彼女によって過剰な糖分が吸収され、それによってカストルの肉体はかろうじて健康を保っているのだから。
『なら、まだギルド・ベースが原型を保ってるうちに、私の体を回収しよ?』
クレバスは頷く。
「ラキかイバラ、どちらかの場所で朱炎が待ち伏せしてる可能性も高ェ」
「なぜそう思う」
「簡単さネ。てめェは神話の竜に仕立てあげられたんだ。ヤマタノオロチだとか、ヒドラよろしく英雄がブッ倒すべき悪にヨ」
スサノオやヘラクレス、そういう神話の登場人物になることこそ、奴にとっての「神化」なのだろうと、クレバスはうそぶいた。
「だからこそ、朱炎はあえて自分の名前を出したんだ。『殺しに来い』ッて挑発するためにナ」
生存競争のための権謀術数が、平和な街に上書きされ、侵食している。いま、この瞬間にも。だからこそ、速度こそが善なのだ。
「わかった、まずはラキの体を取り戻そう。だが、その途中で助けられる人は助けていく」
クレバスは無言で、しかし力強く頷く。カストルの心に、クレバスの存在が安堵とともに染み込んでいく。クレバスが不在だったとして、自分がどれだけやれただろう? きっと、この場所にすらたどり着けずにのたれ死んでいたはずだ。そう思うと、どのような感謝の言葉でも、足りる気はしない。
「なあクレバス。俺はお前にめっちゃ迷惑をかけた。今更、どんなトラブルに巻き込んでも、今回以上にはならないだろう」
「そうだナ」
クレバスの目がせわしなく動き、何かを解析しながら、返事をする。
「だから、朱炎をぶち殺して全部収束したら、お前の旅に、俺も連れてってくれよ」
今を逃したら、いつ言えるかわからない。もしかしたら、伝えることすらできないかもしれない。
「てめェなら、そう言ってくれるって信じてたぜ」
クレバスは、カストルにはにかんで見せた。
その時である。
「見つけたぞ、カストル・ポルックス!」
突如、すっかり露天となった廊下を大声が貫く。カストルとクレバスは、反射的に声の方向を見た。
「アラナミ・ビトウ……」
当然か、とカストルはため息をついた。先ほどまで会っていたのだから、近くにいることも、すぐに発見されることも予想できたことだ。
ビトウは、距離を保ったまま、口を開いた。
「攻撃から入らないで、話しかけてる時点で察してほしいところだが、俺にお前と戦う気はねえ」
そして、腕に装着したタブレットを、背からライフルを取り出した。
「警戒を解くために教える。俺の持ってる遺物は《問わず鏡/ミラー、ミラー》。《アリアドネの糸》に対応し、その周囲にある物質を解析する遺物だ。……さらに言うなら、俺は街の探索者のもつ《アリアドネの糸》の周波数を把握してる。つまり、お前らが《アリアドネの糸》を使っている限り、俺にはその居場所がわかった、ということだ。こっちの銃は、《アリアドネの糸》を武器として打ち出すための銃だ」
そうビトウは早口に言い、それぞれの遺物を床に置いた。
「まず俺は、ママの下で働いている間に、お前らの《アリアドネの糸》の周波数を調べて、居場所を把握してたんだ」
「だから、お前が繋がってる副ギルマスの対応が早かッたわけだな」
合点がいったように、クレバスが言うと、ビトウは頷いた。
「単刀直入に言おう。俺はな、シュガー・ハイ。お前があんなことをイバラに強いるとは思えねえし、俺にイバラに会わせろと持ちかけてるってことは、まともにイバラとコミュニケーション取れてねえんだろ? 少なくとも、お前自身にはこんなことをする意思はなかったはずだ」
「そのことなんだが……実はイバラは少なくとも二人以上いる。今回ギルドを襲ったのは『朱炎』で、イバラは捕まっているか、もしくは……」
カストルは言いよどむ。ビトウも、そこから先を聞こうとはしなかった。
「……とっぴな話だが、確かに心当たりがなくもない」
ビトウはカストルがイバラに出会う前から彼女を知っていた。つまり彼は朱炎とイバラ、二人に面識がある。心当たりがあるのも自然だろう。
「信じてくれるか」
ビトウは、険しい表情で言った。
「信じるもなにも、俺はもうカストル・ポルックスにつくと決めたからな」
それは、帰る場所も、義理立てする相手も、もはや失われたということを意味する。つまるところ、副ギルマスも、ママも、一切の否定の余地なく死んだのだ。
「俺はママの教えに、何が何でも生き残るって信条に従う」
ビトウの目には悲しみで濡れていた。隠そうとしても、赤く透けて見えていた。だが、それに浸される時間はない。喉下に押し込めて、腹の底へ飲み下し、怒りの炎の燃料とするしかないのだ。
「わかった。とりあえず、俺たちの目的を説明する。《虎中の天》、姿を見せてくれ」
カストルが言うと、黒コートの懐から生首が伸び出した。
「うわっ!」
驚くビトウに構わず、カストルは話を進める。
「俺の妹の、ラキ・ポルックス。今は《虎中の天》だ」
『《虎中の天》です! 私のことは気軽にタイ米と呼んで下さい!』
「こいつの体を探しに、ママの部屋へ向かうところだ。その間に、『イバラ』――朱炎を殺す」
「ひょっとして、タイ米さんの体って、シュガー・ハイの家にあったやつじゃ……」
「その通りだ。そしてこいつが『黒い悪魔』の正体。だがそんなことは今はいいだろ?」
ビトウはおずおずと頷いた。
「アー、そのことで提案があるンだが」
クレバス。目を向けると、クレバスは四本の手を上げていた。
「ビトウ……ッつったか。てめェが協力もといシュガー・ハイの介護してくれンなら、オレは一足先にイバラん救出に行ってくるわ」
ビトウは一も二もなく頷いた。
カストルが返事をすると、クレバスはニッと笑ってみせ、轟音とともに廊下を破壊する。壊れてゆく。床も、壁も、天井も、何もかも。
それがカストルとビトウのスタート。崩れ行く床に巻き込まれないために、二人は一目散に駆け出した。
~
ギルド・ベースはひどいありさまだった。ただでさえ入り組んだ道は崩壊し、組み替えられ、なおさらわけのわからないものと化した。ママのオフィスへ向かう道中には殺戮植物が生い茂り、カストルとビトウの行く手を阻むさまは、もはや魑魅魍魎の巣窟。脅威はそれだけに留まらず、時折現れるカストル殺し目当ての探索者も捌いていかなければならない。
「ビトウが来てくれて助かった」
カストルは言った。心の底からの、本音だった。事実、ビトウの持つ《問わず鏡》によるルート検索がなければ、より多くの敵や迷路に出会い、消耗しきっていただろう。
「だからこそ知りたい。ビトウ、お前は何が目的で俺に付いたんだ」
だが、その有能さはいっそ不気味なくらいで、二人きりの行軍は、いつ後ろから刺されるかという恐怖との戦いでもあった。
「この街の探索者じゃ、束になってもお前に敵わねえと思ったし、それにママは、俺らにこう教えたんだ。『何をおいても生き残れ』ってな」
流石ママを裏切って副ギルマスについた男は違う。生き残るための選択に、全くためらいがない。カストルは先を行くビトウの背を追いながら、そう思った。
「さあ、この曲がり角の先に、ママのオフィスが――」
ビトウが、ママのオフィスがあるはずの場所を一目見るなり沈黙し、足を止める。
「どうした、ビト――」
「飼い犬に手を噛まれるとは、こういうことを言うんだねェ」
ビトウも、カストルも、息を呑んだ。それは、よく知っていて、もう二度と聞けないはずで、そして、今もっとも聞きたくない声だった。
「ママ――」
カストルもビトウに続き、その姿を見た。廊下の先の、開け放たれたママのオフィスから見える、その姿。車輪の代わりに巨大なキャタピラが取り付けられた無限軌道装甲車椅子。後ろにまとめてある白髪交じりの長髪。それは、間違いなくカストルがよく知るママの姿だった。ただ、いまは思慮深い色の瞳が、怒りで満ち満ちていた。
「死んだはずじゃ……」
ビトウが問う。ママの回答はこうだった。
「シュガー・ハイ。あんたにはどれだけヤキを入れても足りないねェ」
車椅子の装甲が開き、そこに仕込まれていた無数の銃口がいっせいに牙を剥き、吠え立てた。弾丸の嵐が通り過ぎた後の廊下には、もはやチリ一つ残されていない。むろん、カストルとビトウの姿さえもない。そこには甘い香りだけが忘れ去られたかのように残っている。
「ここだ」
ママの後方頭上。それだけではない。ママの首筋には長い綱――ラキの臓物がこの時点で巻きつけられている。《糖酔・黒/シュガー・ハイ:アフター・ダーク》。爆発すら倒すこの姿は、たとえ片腕にビトウという足手まといを抱えていようとも、鉛玉など寄せ付けもしない。
ビトウもその腕で天井に《アリアドネの糸》を突き立て、カストルの体を空中にて維持するのに一役買っている。
「そっちがその気なら、このまま終わらせてやる!」
不可視の攻撃能力があるにも関わらず、銃撃で攻撃してきたことは疑問だが、そんなことは後で考えればいい。
カストルは、内臓を纏う左腕を引き、ママの首を容赦なく締め上げた。
だが。
『兄さん! 様子がおかしい!』
《虎中の天》が叫ぶ。が、そのときには、彼女が感じた「異常」は、現実のものとなっていた。
ママの首を縛り上げていたはずの左腕が、ふいに手ごたえを失った。
「シュ、シュガー・ハイ! 首が、首が!」
ビトウが叫び、カストルが目を疑った。ママの動体から、まるでばね細工のように首が勢いよく飛び出し、くるくると回りながら、放物線を描く。
「そんな! 俺そんな強く縛ってねえよ!」
カストルが悲鳴まじりの声を上げるが、《虎中の天》の怒声が、それを上書きした。
『違う! 頭じゃない! 胴体を見――』
そのイバラの咆哮さえ、ママの首から放たれた火柱によって打ち消された。
銃声。ママの首の下には銃口が隠されていた。それを理解したときには、カストルはビトウを放り投げ、そして、黒のコート――生命維持装置でもある《虎中の天》をも脱ぎ捨てていた。
弾丸の雨が、今度こそカストルの体躯を捉える。無慈悲な弾丸は肉を裂き、骨を砕き、血を焦がし、カストルを蜂の巣に変える。
「シュガー・ハイ!」
暴力の奔流は、ほんの一瞬でカストル・ポルックスをボロくずと化した。だが、その程度のことで動揺するほど、ビトウも素人ではない。
「ウオオオオオッ!」
ビトウは着地と同時に体勢を整え、かつての雇い主に、師匠に銃口を向け、乱射する。あきらかに人間でない相手、躊躇も何もいらない。事実、ママの体は人間とは思えない破砕音を出しながら、机や絵画といった部屋の調度ともども、こなごなに壊れていく。
「ママ! 俺たちは戦いに来たんじゃない! 話し合いだ!」
ビトウの手にした銃が、あらかた弾丸を吐き終えると、ビトウは叫んだ。
『あたしのボディと街をぶち壊す相手に、何を話せばいいのかしら』
くるり、とママの生首がビトウに向き直る。そこには、百戦錬磨の探索者でさえ震え上がりそうなほどの激しい怒りが彫り込まれていた。
『兄さんはハメられたの!』
上半身だけの《虎中の天》も声を張り上げる。
『兄さんはずっと、私をもとの体に戻そうと思ってただけ!』
『言い訳はあの世で聞いてやる!』
ママの生首は、唐突に宙へ浮き上がる。
『《死滅都市の戴冠者/ディス・サイレンス・イズ・マイン》!』
刹那、ビトウが壁へと叩きつけられる。「脚」を象ったママの念動力だ。
だが、ママの攻撃は終わらない。壁に打ちつけられたビトウの体を、「蹴る」、「蹴る」、「蹴る」。徹底的に「蹴りまくる」。空中に跳ね上げられた家具たちが、倍速で磨り減っていくように壊れる。
念動力によるママの蹴りがマシンガンのごとく繰り出され、一発たりとも余すことなくビトウの体へ突き刺さる。
『これで終いよ!』
ママの勝ち鬨とともに、ビトウの胸にママの「足形」が刻印される。
「なんのォ……これしき!」
だが、ビトウも食い下がる。
「俺の体はァ……ママ、あんたの鍛えた肉体だ……!」
この程度でくたばるわけがない。ビトウはひたすらそう信じたし、祈った。土壇場で、今まで何度も繰り返してきたように。
『そうだね、あたしは半端な鍛え方はしてなかった』
ママの瞳は、少し寂しげな色を映した。
『けど、壁の方はどうかしら』
刹那。
ビトウは背の感覚を失った。確かにそこにあって、ビトウがもたれかかっていたものが、崩れていく。
壁が破壊されたことに実感を持ったのは、ビトウの体の半分以上が、地上三階から投げ出されたときだった。
敗北と、死。ビトウの中で、絶望があぶくのごとく、これでもかと言わんばかりに膨れ上がっていく。
――これで、終わりなのか?
横目で落ちゆくガレキを見ながら思った。自分もああなるのか、と。あっけなさすぎると。どこにでもある塵のひとつとして墜落するのか、と。彼が落ちゆく壁の穴は、既にママの能力によって再び塞がれつつあった。まるで、ビトウを拒絶するかのように。
「親父とおふくろに、もっと旨いもん食わせたかった」
孤独に、空へとこぼれ落ちていく。ビトウの思いと、涙が。もがく手は無力に宙を掻いた。最期に思い出されるのは、甘い香り。両親が作ってくれた、十の祝いの焼き菓子。今でも、目を瞑れば脳裏にありありとその匂いが……。
「食わせりゃいいじゃん。お前は生き残れる」
違う。これは記憶の中の匂いなどではない。確かに、いま、目の前にあるものだ。思い出よりも確かな声が、波動と熱をともなって、大気を震わせた。一度は閉じかけた、壁の穴が再び開いた。
ビトウの落下は、さかさ宙づりの状態で止まっていた。
だがそれも束の間。ビトウはママのオフィスへと投げ戻される。彼は、その瞬間に理解する。何が起こったのか、を。
――こんな規格外のことをやれるのは、奴しかいねえ。
――《糖酔》。
「《糖酔・過/シュガー・ハイ:オーバードース》」
制止した時の中でさえ動いてみせる、究極の《糖酔》。極北の街リヴァーシ最強の男が、威風堂々と燃え上がっている。その腕からは、とろけた鉛玉が滴り落ちて、床に無数の穴を開けていた。彼が味方であるという事実に、ビトウは泣いた。自分の判断の正しさに、失われたはずの神に、心から感謝した。
カストルはママの頭部を捕まえ、果実のように握りつぶした。中からは機械部品と、小さな袋が入っていた。みたところ、生身はない。
澄み切ったカストルの脳裏には、疑問があった。
なぜ、ママは先制攻撃で《死滅都市の戴冠者》を使用しなかったのか? 不可視の攻撃ならさすがのカストルといえど避けきれなかったろうに。
射程距離の問題ではないだろう。遠距離というなら、地下ダンジョンでの攻防のときの方が距離が離れていたように思える。もっとも、あのときはママが下方のカストルらに攻撃する形だったが。
カストルらが弾丸の嵐を回避した後、即攻撃に移らず、崩壊した部屋の修復をしていたことも気になる。
『ひょっとして、攻撃の向きの違い?』
「試してみる価値はあるかもしれない。ビトウ、伏せてろ」
ビトウの探索者の勘は暴威の気配を嗅ぎ取り、息を止める。《虎中の天》は、ビトウの口元を塞いだ。
一転。
それまでの戦いすら凪だったと言わんばかりの殺戮の熱風が、部屋に吹き荒れた。壁や天井がでたらめに崩され、壊され、焼き払われていく。ビトウはカストルの姿を目視することさえできない。最強の最強たる神髄が、容赦なく振るわれていた。
『やめなさい、シュガー・ハイ!』
ママの悲鳴が、オフィスに響いた。
「正体を見せろ、ママ!」
暖められた空気が、塵や砂埃が一斉に天井へと集められる。空気を切り裂き、一転に集中させているのだ。だが、ビトウにはカストルのセンスに見とれる暇すらない。天井に、うっすらと人のかたちが浮かび上がった。
「あれが……ママ?」
肩で息をしながら、ビトウは言う。カストルが人影めがけて腕を振るうと、溶けた鉛は人影を素通りしていく。
「気体か……それなら物理攻撃は無効か」
攻撃が素通りするというなら、さすがのカストルにも手出しができない。そして《糖酔・過》は短期決戦型のモードだ。刻一刻と、状況は不利に傾きつつあることは、しぼむ筋肉からも明白だった。
「俺にいい考えがある」
ビトウはそう言うなり、遺物銃で人影に《アリアドネの糸》を打ち込んだ。
「銃撃も無効だろ?」カストルが呆れたように言うと、ビトウは「ただの銃撃なら、な」と返した。
次の瞬間、撃ち込まれた弾丸が、音を立てて周囲の空気を吸収したのだ。もちろん、宙に漂う人影さえもまとめて。《問わず鏡》に表示されるその成分は明らかに通常の空気の組成とは違っていた。
「ひょっとして、あんたの正体は『空気』か」
小さなアンプルの中に捕らえられた人影は答えない。
「攻撃が止んだのも、空気をかき混ぜたからだな?」
意を決したかのように、ママの影は頷いた。
『そうよ』
「ママ、あんたは何者だ」
『……あたしは、厳しい自然に対抗するために人工的に気体化した人間。ここリヴァーシで走っていた人類「保管」計画の結果のひとつ。もっとも、空気人間は広い場所に出れば拡散して希薄になるし、同一空間に二人以上存在できないから、あたしが最初で最後。プロジェクトは打ち切られたわ』
天井のシミのような、ママは言った。
『私は、人類保管計画最後のプロジェクトの、最後の生き残り。実験体、科学者全員含めての、ね』
それが、《死滅都市の戴冠者》の正体。リヴァーシという墓に縛り付けられた、孤独な墓守。
「ママ。あんたの姿や本質についてどうこうする気はねえ。俺はラキを蘇らせたい。それだけなんだ」
『こう言っては何だけど……ラキちゃんは怪物なのよね? あなたはそれを蘇らせて、何をしようというの』
ママからのカストルの信用は、地に落ちているようだった。
「ラキを怪物にさせないという希望があるから、俺はこうしてここにいる」
カストル・ポルックスの燃え立つたてがみが、雄々しくそよぐ。
水を打ったように、ビトウの表情が変わった。戦慄するものへと。
「待て……風?」
それは、密封されているはずの部屋に、空気が入る通り道が生まれたことを意味する。誰かが――部屋に入ってきたことを。
「真打ち登場」
みなが一斉に、部屋の入り口を見る。そこは開け放たれ、一人の少女が立っていた。
黒いスーツを纏う少女、その顔はイバラそのもの。だが、彼女は不敵に笑い、瞳は邪悪に光った。
「そして、これがエンディングだ」
「真保呂……朱炎ッ!!」
カストルの体を包む炎は、その怒りと、殺意に呼応するように赤く波打つ。息を飲み込むと、世界もまた、呼吸をひそめた。カストル以外の、すべてが鈍化していく。時間停止だ。
景色は止まり、匂いは失われ、音はゆがみ、世界は精彩を欠いていく。
そのときだった。音さえ姿を保てないはずの世界で、カストルは胸を打ちぬかれるような、脈動の音を聞いた。同時に、全身の細胞すべてが違う方向に引き裂かれるような痛みがカストルを襲った。
――え?
唐突にやってきた「それ」の名前を、カストルは知っていた。
死だ。
稲妻のように体中を苦痛が駆け巡り、絶望がカストルの脳裏をよぎった。
数日にわたる無飲無食。突然の糖分大量摂取。弾丸の雨霰。そして、《糖酔:過》の使用。死ぬ理由はいくらでも思いついた。
はらわたが煮えくり返るような激痛が、カストルの体の中で、燃え上がりながら加速していく。けれども、肌は凍りついたかのように冷たく死んでいく。
静止した世界で、カストルは静かに思った。それでも、朱炎に一太刀入れたい、と。何もかもが沈黙した世界を、確かめるように踏みしめて進む。カストルが歩む場所に、炎の残り香だけが焼き付いていく。次の一歩を踏み出せば、死ぬかもしれない。爆弾に生まれ変わったような気分を味わっていた。
カストルは、朱炎を殺すまで、保たなかった。究極的には、カストルは朱炎に負けたのだ。イバラと同じ目を持つ朱炎なら、イバラと同じく、カストルの病状を理解していてもおかしくない。カストルは、上手いこと誘導されたのだ。死というゴールまで。
それを自覚した瞬間、弦が切れたように、カストルの体は前のめりに倒れこむ。だが、床に伏すことさえできない。時の止まった世界では、落下すらも死にたくなるほど遅い。その中で、全身が焼け爛れ、毒虫が体の中を這い回るような痛みだけがリアルだった。
ただ、時間を止めたと錯覚するほどの超加速能力が、いま、死ぬまで永遠の孤独の中、苦痛に苛まれる、この瞬間のためにあったことだけは理解した。
もう一目だけ、ラキに、クレバスに、イバラに、ビトウに、ママに会いたい。そして話がしたい。
それが、カストル・ポルックスの最期に残った、思考と呼べるものだった。