統合と分割
「元気……じャアなさそうだな、シュガー・ハイ」
ふと、響いた声に部屋の隅で膝を抱えていたカストルは顔を上げる。カストルには、その声のあるじが誰か分かっている。鉄格子から覗くその姿を見る必要さえない。工場のようなせわしない金属音とでも言うべき人間離れした足音を持つものはクレナイ・セキボ、クレバスをおいて他にないからだ。
「面会人は初めてかよ?」
クレバスは楽しげに笑った。
「……よく勘違いされるけどな、ここは独房でもなんでもねえよ」
病身のカストルは、クレバスが初めての客人であることは否定しなかった。ママは選挙活動で忙しくしていて、他に見舞いに来てくれるような知り合いもいない。カストル・ポルックスが初めての探索に向かい、イバラに出会ってから三日が経っていた。そして、今日はギルドマスター選挙の直前の討論会の日であり、ただでさえあってないようなものの房の警備は、完全に消え失せている。
カストルはギルド・ベースの一角にある独房に押し込められていた。とはいえ、彼が罪人として断ぜられたわけではない。その段階はとうに過ぎ去っている。
そもそもカストルが犯罪を行ったわけではないというのは、周囲の状況やクレバスの証言からも明らかだった。ただ、副ギルマス派のものたちは適当な理由をこしらえた上で、絶対君主たるママの足元を揺るがすために、カストルから探索者としての地位と権利を剥奪していった。
牢獄のカギも開け放たれてこそいるものの、もはやカストルにはそこから脱するだけの体力すら残されていない。あとは病に冒されるままに、ゆるゆると死んでいくのみ。
ラキの上半身もカストルの疲弊に伴い眠りに就いた。下半身も分かたれたまま、ママの管理の下に封印してあると聞いている。
だが、病魔に冒され、死を待つだけだったはずのカストルはまだ生きている。それも五体満足の状態で、だ。これを奇跡と呼ばずに何と表現しようか。
それもおそらくはイバラが作り出した青い実の力によるもの。まさしく、神の御業だ。
「クレイジーサイコゴッドから土産を預かってきたンだ」
そして、クレバスのその手には鉄製のバスケット。籠には例の青い果実が溢れるくらいに盛られている。その実に命を救われたとはいえ、さすがのカストルにとっても斜め下の展開だった。
「……食いたくねえなぁ」
青い実の殺人的なまずさが脳裏と舌先にフラッシュバックして、カストルは力なく笑った。体を揺するたび、寿命がごりごりと削れていく感触を覚えた。
「まァ、そう言うな。イバラは農地開発に着手してる。その合間合間にこの味覚と触覚と嗅覚を遮断すればかろうじて食えなくもない汚物を生産してるらしい。お前に食わせるために、本来なら自分で届けたいところをオレみたいな傀儡に頭を下げてでも、ナ」
クレバスはバスケットから果実の一つをつかみ取って、カストルへと放る。カストルは震える手でそれを受け取る。脳裏に浮かぶのは、以前スープを吐き出したときのビジョン。だが、意を決し、かじりついた。即座に、嗅覚細胞を皆殺しにせんほどの刺激臭にめまいを覚え、手を離した。感覚も衰弱したというのに、相変わらずの劇物具合に、限界を迎えていたと思われていた表情筋も、思わず歪んだ。だが、カストルはその果実を吐き出すことはついになかった。
そんなカストルの様子を、クレバスは驚いたように見ていた。
「食うんだな。お優しいこッて」
今や、ラキはカストルの手元から失われてしまった。むろん、カストルもひなび切った己の肉体には、今更思い残すこともないだろう。その手からは生きようともがくあらゆる理由が逃げ去った後であり、イバラが作り出した果実を口にする理由は、どこにもないはずだった。
「やらなきゃいけないことができたからな」
カストルは頷くようにして、無理矢理果実を飲み下す。青い果実の味は、イバラからの「痛くても、苦しくても、生きろ」というメッセージとして、カストルの体に染み渡っていく。少なくともカストルはそう受け取った。
「リベンジマッチでもするンかい?」
「ああ、そんなようなものだ」
「期待したとおりの男だよ、てめェは」
クレバスの人工皮膚の頬も、自然と緩む。だが、その頭脳は凍てついたままだ。
「シュガー・ハイよォ、お前の力は強すぎる。イバラも、ママさんも、まァ強かろうが、マジのお前にゃ敵わねェよ。……あン時は殺しッちまうから、手加減したんだろ?」
クレバスは、カストルの力が、誰を殺すかを明言しない。誰が最初に死ぬのかは、目の前の痩せこけた少年だけが知っていればいいことだ。
「いや、あれは俺の負けなんだ」
「ご謙遜を……ッてツラでもねェな」
カストルは明らかに憔悴し、生気を失っている。しかし、その瞳はまだ苦痛に盲いていない。
「あの時……がどの瞬間かはまだハッキリしない。けど間違いなく、俺の《糖酔/シュガー・ハイ》はイバラに掌握されてた。あいつの意志で『無効化』されたんだ」
己の腹部を抑えながら、カストルは言った。痛みはない。しかしそこには、しこりのような違和感だけが残り火のように熱を持っていた。
「ならば、やはり、イバラの能力は……能力封じ」
「お前もそう思うか。クレバス」
クレバスはうっすらと蒸気を噴出しながら、頷く。
「おかしいと思ッたんだ、てめェのどてッ腹から草が芽生えた瞬間、お前が放出してたはずの熱や光、音が激減したんだ。ありャ、虚を突かれたッてレベルじゃねェ。能力を制御する神経なんかを刺激したとしてもこうはならねェよな」
D級遺物、《禁じられた遊び》によって弄ばれた遺伝子から発現する、「能力」。
それを封じる能力や遺物は未だ存在しない。それどころか、現在の人類は最低限の遺伝子操作技術さえ失伝している。
だが、もし仮に未だ人類が遺伝子操作技術を掌握していたとしても、イバラのように超高速でそれを行うのは、「神業」と形容せざるを得ない。
「能力無効化」は「遺物」や「能力」、そんな奇跡のありふれた世界にて、他者をまがい物と断罪する。己こそ真なる神意の振るい手だと言わんばかりに。
まさしく、ウナバラ・イバラは神としか形容できないだけの力を有していた。
「あいつはS級でもねえしD級なんかもっての他だ……。ある意味それを超えてる。アンチDだ」
「アンチ……D?」
「人間が雪を征服するか、完全に排除した後に、D級遺物を処分するために作られた存在ってこッた。この仮定が正しいなら、イバラは、その中でも対《禁じられた遊び》に特化した存在ッてことになる」
D級を破壊? カストルの記憶が確かなら、D級遺物とはすべての遺物の頂点に立つ遺物で、人類を救うための切り札と説明された。なら、D級遺物を壊すことは、世界を壊すことに繋がるのではないか?
何より、目の前にいるクレバスは自らをD級と名乗った。それが本当なら、イバラはクレバスにとって、真の意味で天敵となるかもしれないのだ。
だが、カストルの心配をよそに、クレバス――D級遺物、《かつては男と女》は極めて冷淡だった。
「世界を改変するアイテムなんて、平和な世界においては毒にしかならねェからな」
クレバスのむき出しの筋繊維は、意味ありげにうねる。何か、感情を押し込め、封じるかのようなもどかしさが、鉛色ににぶく光った。
「それだ」カストルは言った。
「そもそも、お前に本当に世界を変えうるだけの力があるのか。クレバス」
クレバス――《かつては男と女》は、己を3Dプリンターの最終形といった。実際、クレバスは物体を機械化し、自在に組み換え、組み上げる。それらの性能も、現行の職人の手によるものにひけを取らないだろう。だが、それまでだ。部屋ひとつを機械に改変するだけでエネルギー切れになりかけるし、戦闘力も極めて高いが、特化したような存在には劣る。
超S級ではあるかもしれないが、その程度の遺物で雪から世界を救えるとは思えないし、D級未満であるならば、アンチDであるイバラと対立する理由もなくなるのではないか? カストルはそう思った。
しかし、クレバスは真正面からカストルの淡い希望を打ち砕く。
「いや、《かつては男と女》は間違いなくD級だヨ。本質はソフトウェアだ」
クレバスは己の額を指先で叩いて、口元だけで笑った。
「……ソフトウェア?」
「肉体をコントロールするプログラム……乱暴に言うなら意思や人格、魂」
「魂」
重い落胆に飲み込まれかけていたカストルの喉から、嗚咽のような笑い声がこみ上げた。
「限りなく機械に近いお前に、死を失ったお前に、というか遺物のお前に、魂があるのか」
クレバスに魂があるということを、機械とヒトの違いを意識していなかったカストルでさえ、違和感を覚える。イバラがクレバスを嫌い、壊そうとすることさえ、どこか合点がいってしまった。
「そんなに言うなら、D級遺物――《かつては男と女》の神髄、見せてやろうじゃねェか」
クレバスは目をつむって胸の前で己の掌を重ね合わせた。
その次の瞬間である。クレバスの変形にカストルは息を呑んだ。
「兄さん」
間違えるはずもない。《かつては男と女》のその声は、顔は。
「ラキ」
カストルの妹、ラキ・ポルックスそのものだった。しかし、ラキのものとは似ても似つかない鋼の体を見るカストルの目は冷徹そのもの。
「で、何だそのイタコ芸。俺をからかってんのか」
少なくとも、「それ」の外見は完全にラキだ。だが、変幻自在の《かつては男と女》ならば、外見と声のトレース程度なら余裕でこなすだろう。なにより、ラキの本体は、いまカストルが身にまとうコートそのもののはずだ。
ラキの顔をした「それ」は、カストルの疑念を察してか、眉をひそめ、そして静かに口を開いた。
「兄さんが能力に目覚めたのは十二歳のとき。食事中に食器を粉々に砕いたのが最初だったよね。あの頃はまだパパもいた」
さすがのカストルも、これにはぎょっとしたように目を見開いた。ラキのと名乗る機械が口にしたことは、明らかにカストルと出会って数日しか経っていないクレバスには知りえない情報だった。
「本当に……ラキなのか?」
カストルは、心ここにあらずといった様子で、必死に檻の外へと腕を伸ばし、倒れこみながらも、その脚にすがった。
「ああ、まごうことなきてめェの妹ちゃんだぜ。もう主導権はオレが取り戻したがな」
その声に、カストルの病身は完全に力を失った。カストルの目線に合わせて、機械の体がかがみこむ。その顔と声は既に普段のクレナイ・セキボのものに戻っていた。
「待て。わかるように説明しろ」
カストルはうめき、前に進もうとあらん限りの力で這う。だが、彼は檻の中にいる。当然、鉄柵が彼の全身を阻んだ。《かつては男と女》の中にラキの魂があるとするなら、カストルが身にまとうコートに宿っている意思は、一体何だと言うのだろうか? カストルは少女のもののように白く細い指で、黒いコートの裾を握った。
「妹ちゃんはオレの中にいるッてことさ。そのコートはあくまで受信機で、文字通り『抜け殻』なんだよ」
「クレバス、てめえぇ!」
悲痛な叫びが、独房にこだまする。
――オレの側から離れるな。『その子』を守りたいならな。
カストルの脳裏に、いまさらクレバスの言葉がリフレインする。
コートになったラキが力を失ったのは、単にエネルギーが切れたからではなく、司令塔たるクレバスが遠ざかったからだとでも言うのか? それでは本当に、生命のあるべき姿からかけ離れている。カストルの想像する「魂」の姿を冒涜している。だが、そんな姿に変わることを許容したのは、ラキ本人ではなく……カストル・ポルックス。
この選択は間違いだった? そんな疑問が、墨汁のあぶくのように心を汚していく。
「言ったろ? 能力の暴走を止めるには、まず死なせるしかねェってよ」
クレバスは静かに言った。怒りで壊れかけたカストルの心を、叱咤するかのように。
「別に文句垂れンな、たァ言わねェよ。あやふやな同意の下にお前らに苦痛や犠牲を強いたかもしんねェよ。けどよ、信じてくれよ。オレとお前は運命共同体なんだ」
「どうして信じられるって言うんだよ……。ラキの体をバラバラにして、心までデータにして吸い上げてよ」
体力さえあれば、カストルは叫びたかった。詰り倒し殴り潰したかった。クレバスを、ではない。カストル・ポルックス自身を。
もしクレバスの言うとおり、ラキが元の体に戻れたとしても、それは本当にラキなのだろうか? 一度電子データに変換されてしまったラキは、本当にこれまでのラキと同一といえるのだろうか? 何か大切なものが抜け落ちてはいないか? そういう疑問が、常について回ることになる。確実なのは、カストルがラキの肉体を殺し、彼女の魂を貶め、神性と唯一性を穢したのだ。
己の罪深さが、怒りが、憎悪が、カストルの肉体だけではなく精神さえも汚し、蝕んだ。
「死にたい」
カストルは生まれてはじめて、そう願った。精気を失っていくと同時に、カストルのほとんど死体だった肉体は青く弱まり、確実な死に向かって急降下していく。
『兄さんは悪くないよ』
だが、カストルは、心残りを作らないことを願い損ねた。
「……ラキ!」
その声は、目の前の《かつては男と女》からではない。カストルが纏う、黒コートから、語りかけていた。カストルはコートとクレバスを、かわるがわる見た。
『私は、確かに死んで、死体も弄ばれたのかもしれない。けれど、それを後悔したことは一度もないわ』
コートを通して、カストルの体の芯へと、ラキの声が熱いものとともにしみこんでいく。
『私は、兄さんと一緒に戦えたし、《かつては男と女》の中のデータに触れることで、多くを学ぶことができた。なにより、こうして、ずっと兄さんの側にいられた。嬉しいことずくめだったわ』
温かな血流が流れ込んでくるかのように、カストルの体は赤みを取り戻していく。だが、それは血が通うものだからこそ得られる充足感だ。ラキは、もう二度とこの感覚を味わえない可能性すらある。そう思うと、再びカストルの心は冷え込んでいく。
「でも……俺のせいで、俺があさはかに決断したせいでお前は同一性さえ失ってしまった……。元に戻れる保障もない」
「あるッて最初に言っただろ」
『セキボさんはちょっと黙ってて。……兄さんはどんどん変わっていくね』
「……どんどん弱っていくよ」
カストルはもはや、自分の体を省みることすらしない。そこにあるのは、どうせ残酷な現実だけだから、と。
しかし、ラキはそれを否定する。「違うわ」と、力強く。カストルは全身の骨を軋ませ、妹の声を聞き取る。
『兄さんは、私のためにどんどん強く、カッコ良く、研ぎ澄まされていってる。そうやって進化していってる。そういう意味では過去の兄さんと今の兄さんだって同一ではないわ』
私も変わりたい、もう恐怖で暴走なんてしたくない、とラキは続ける。
『兄さんが守るに値する家族でいられるように、私も変わっていきたい。そのために、今の私が私でなくなるくらい、怖くない』
「死すら食い物にするのか、ラキ」
『兄さんもそうでしょ?』
ラキはいたずらっぽく笑う。カストルも、その口から自然と笑みがこぼれた。死線を超えた先で、兄妹は再び出会えたように思えた。
クレバスが軽やかに手を打ち鳴らす。
「運命共同体たる関係だと再確認したところで……《かつては男と女》の解説に戻るぜ」
「……そんなことしていいのかよ」
心配するカストルをよそに、クレバスは不敵だ。
「オレなりの親愛の証だと思ってくれよ。それに、敵になりうるアンチDはオレの能力なんて当然把握してるだろうしな。さらに、敵対して一番困るであろうてめェはもうオレの味方だ。そうだろ?」
カストルは返事をしない。代わりに、小さく笑った。クレバスも、少女の顔でにっこりと力強く、笑い返した。
「《かつては男と女》は3Dプリンターだって言ったな? 3Dプリンターのキモは主に三つ。原材料と、その加工と、そして元になるデータだ」
クレバスは格子のひとつを機械の腕で掴むと、それはみるみるうちに赤熱し、ひしゃげ、壊され、その掌に吸い込まれていく。
「ひとつ。一般的な三Dプリンターは樹脂を使ってプリントする。だが《かつては男と女》はあらゆるものをプリントアウトの素材に出来る」
続き、クレバスの背中が機械音・金属音とともに盛り上がっていく。
「ふたつ。取り込んだ物質を粉末状にしたり紫外線当てたり冷却したり……素材によってやり方はまちまちだが、自在に再構築できる」
《かつては男と女》、その名前は一つの時代の終わりを告げるものなのだと、カストルは理解した。
かつて、製造業は人のものだった。だが、今や遺物が万能の創造主。D級遺物、《かつては男と女》の名は、まさしく体を現すものなのだ。
『つまり……自己進化するってこと』
コートのラキは言った。
「ご名答」
周囲の物体を飲み込み、際限なく成長する。それは殺人重機がやってみせた芸当だ。カストルはクレバスの愛機や、初めて対峙したときの巨漢の姿を思い出す。《かつては男と女》は、文字通り無限の可能性を秘めていることになる。
そして、再構築された物質によって盛り上がった背中が、再びクレバスの体内へと飲み込まれると続いてその腹部がばっくりと割れた。そこに現れたのは、鉄製のミニチュアの街だった。
「最後に、データ。《かつては男と女》は『オレたち』は法律や歴史、科学技術や個人の人格や記憶、遺伝子コードさえもデータとして保存してるんだよ。そして、オレ自身……クレナイ・セキボも《かつては男と女》に記録されてる一人格に過ぎねェ」
「ラキみたいに、か」
カストルが言う。クレバスが頷いた。
「お前の中には、何人くらい『いる』んだ?」
「さァ? ざッと三億くらいじゃね?」
三億。そう聞いたとたん、カストルにはクレバスの影がとてつもなく大きなものに見えた。
その威容は司法であり、政治であり、教育であり、もはや国家と呼ぶほかなかった。《かつては男と女》は、単に生産の中心の革命だけを表現するものではなかった。目の前のD級遺物は、その名の通り、かつては男と女――人間の営みそのものだったのだ。
「なら、クレバス。お前の言っていた『雪まみれの世界を救う』ってのは――」
「本気も本気さネ」
クレバスは至ってまじめに言った。
「つまるところ、《かつては男と女》は、世界が平和になった後の国家の再建を目的としたD級だ。けどな、オレはこの能力があれば、たいていのD級遺物は再現できると思ってる。それらの技術を組み合わせれば、きっと世界再生じたいにも関わることができるッて信じてるのよ」
クレバスは本気だった。少なくとも、カストル自身が、それを信じたくなるくらいには。
クレバスはの手が、コート――ラキに触れる。それぞれが機械の本性をあらわにして、結びつきあうと、クレバスの瞳が赤く光った。
「何してるんだ」
「妹ちゃんの人格データをコートにもコピーしてるンさ。アンチDがいるとわかった以上、オレだって死ンじまう可能性がある。その時にまとめて妹ちゃんも消えちゃいましたー、なんてマヌケな事態にはなりたくねえからな」
クレバスはコートから手を離す。クレバスの手はともかく、コートは元のごく普通の黒い衣服に戻っていた。
「なあクレバス。俺の目的を覚えてるか」
カストルの問いかけに、クレバスは小さく笑って応える。
「当然さ。《かつては男と女》のメモリーなめんな」
クレバスは口角を上げて、カストルの細い手を力強く、しかし優しく握った。
「妹ちゃんを元の生活に戻す……つまりは能力を封印すること、だろ?」
カストルは頷き、立ち上がる。蝕むような苦痛はまだ萎えてはいない。その心臓は強く、確かに、脈打っている。気のせいではなく、体力が戻りつつある。カストルは己が刻むリズムの中に、イバラのおもかげを見、ラキのぬくもりを感じていた。
「イバラに会いに行こう。会って、あの能力封じについて聞く。そしたら、ママのところに言ってラキの下半身を返してもらおう」
カストルは意気込むと、その身に纏うコートからひとりでに埃が払われ、星のない宵闇のような漆黒が取り戻される。
しかし、クレバスの反応は芳しくなかった。
「アー、意気込んでるところ悪ィが、イバラには会えるかわからん」
「なんでだよ」
「副ギルドマスターが、イバラを囲い込んでンだ。情報収集した限りだと、どうやら副ギルドマスターに助言した奴がいるそうだ。『イバラを確保しろ』って伝えた奴がな」
副ギルドマスター、通称副ギルマスは、ギルドマスター選挙戦におけるままのライバルだ。これまでは常にママの後塵を拝してきたものの、人々の食生活に彩りを与えるであろうイバラを味方につけたのなら、その立場が入れ替わってしまう可能性は十分にある。
おそらく、イバラはあっという間に、副ギルマスの選挙戦における切り札の立ち位置に収まったのだろう。だから、特にママに近しい者のひとりだったカストルでは、たとえ既に探索者として引退を余儀なくされていても、もしくは、もはや探索者でない自由な身だからこそ、容易にはイバラには会えないことが想像できた。
だが、ギルド地下のダンジョン探索は、混乱を呼ぶからと極秘事項扱いであったはずだ。なぜカストルらがイバラを発見できるとわかっていたのか?
「確かなのは、あのイバラがクレバスに頼ってでも、俺に実を渡そうとした――つまりは俺たちと連絡を取ろうとしたってことだ」
もうひとつ確かなのは、俺に謎を前にしり込みしていられるだけの時間が残されていないであろうということ――と言いかけて、口をつぐんだ。
『ねえ、クレバスさん』
ラキの首がカストルの肩に盛り上がり、クレバスを見る。
『これが終わったら、兄さんもあなたの旅に連れてってくれない?』
ラキが言った。
「ラキ、お前何を言って……」
「オレとしては、シュガー・ハイみてェなすげェヤツが一緒に旅してくれるッてんなら、心強い」
「俺を取り立ててくれるんだな」
己の力が、必要とされている。クレバスは並び立つ場所から、求めてくれている。だが、カストルはどうせすぐに死ぬという自覚はあった。だから、素直には頷けなかった。
~
ギルドの地上三階にあるカフェテラスにてくつろいでいたアラナミ・ビトウは、自分を呼び出した相手の顔を見るなり、顎髭を触る。どうやら、相手は一人で来たようだった。
「痩せたか、シュガー・ハイ」
やってきたのは、病的なまでに骨が張り出し、青い肌をしたカストル・ポルックス。ビトウは街の人々の中心で喝采を浴び、敵をなぎ倒すカストルしか知らなかったから、カストルが自分より小さく、しかも死神の気配さえ漂わせていることに驚愕を禁じ得なかった。
「……その、お前とイバラに、一言礼が言いたくてな」
よろめきをごまかすように椅子へと腰掛けながらカストルが言うと、とがらせたビトウの口から驚きの声が漏れる。そういう殊勝な心がけや、言い繕うような工夫ができる男だとは思っていなかったから。
カストルはウエイトレスの一人を呼び止めると、一番安い草コーヒーを注文する。同時にビトウに追加注文を促すが、ビトウは首を振って断った。注文を受け、立ち去ろうとした店員を、カストルは呼び止める。
「なあ、姉さん。人払いを頼む。少なくとも新しい客と店員をこの机に寄せ付けるな」
そう言い、カストルはもっとも高い豆コーヒーが軽く一ダースは飲めるであろうだけのトークンを、チップとして手渡した。
とはいえ、客入りはまばらで、従業員さえほとんどいない。一方、ふと外に目をやると、中央広場には、討論会のために大きな台が設けられている。それを囲むようにして様々な色の屋台が立ち並び、賑わいを見せている。リヴァーシにはこれほど多くの人がいたのか、と少し驚きさえした。
「討論会は、選挙に参加できない子供たちでも盛り上がれるよう、前夜祭みたいなものにしてあるんだよ」
ビトウは言った。彼の言うとおり、雪の中ではしゃぐ子供の姿が、たくさん見受けられる。あの子らくらいの歳のころ、カストルは何をしていたか……思い出す必要もない。今と何も変わらないから。
ビトウは、カストルを傲慢なサイコ野郎だと思っていた。少女を解体して血の檻に浮かべるような人間だと。しかし、今のカストルは警戒を一部弱めようと思うほどには弱っていて、しかも、街の営みを眺める姿は、楽しげだった。本来の年齢より幼く見えてしまうくらいに。
考えを改めた方がいいかもしれない。そう思って、ビトウから話を切り出した。
「ウナバラは、少し前から狂ったようにあのひどい臭いの実を作ってるよ。お前に渡す、って言ってな」
「そいつは……悪かったよ」
きっと、イバラが缶詰になっているプラントには邪悪な臭いが漂っていることだろう。先ほどあの悪魔の果実を食したカストルの口からは言葉どころか吐息が漏れるだけでも鼻孔を不快な臭いが通り抜けていくし、それは目の前のビトウや周囲の客の表情からも外に漏れ出ているように察せられた。
「単刀直入に言おう。俺はイバラに会いたい。一般人としてプラントを見学に行くのはダメか?」
「こちらのプラントはまだ調整中であり一般のお客様への公開はしておりません。お前は何故だか知ってるみたいだが、ウナバラは副ギルマスの目玉だからな」
「じゃあ、武装したテロリストが殴りこんでくる、ってのはどうだ」
「脅迫か? 安眠できる夜と引き換えでいいなら、やってみろよ。というかそもそもお前、プラントの場所、知ってるのか?」
ふたつの冷たい視線が交錯する。お互いの意図を読み合おうとするかのように。対峙する二人、先に目をそらしたのは、カストル。暴力に徹するカストルは当然のごとくハラの探りあいは苦手だった。
ビトウの言うとおりだ。確かにカストルはイバラの居場所すら知らない。だが、それはクレバスが探り当てるだろう。下手なかまかけは相方の足を引っ張るだけだとカストルは結論付け、話題を変える。
「副ギルマスが何を懸念してるか知らんが、俺はもう完全にフリーだよ。ママは面会にも来てくれねえからな」
寂しい事実に、自嘲が抑えきれないカストルがいた。だが、小さく苦笑しているのはビトウも同じ。彼はママを裏切って副ギルマスについた男。十分な実力はあるはずだが、どちらからも信用されていないから、討論会の仕事を割り当てられておらず、ここで寂しくカストルと会話しているのだろう。
「誰にも大事にされてないなんてのは悪魔の証明だ。副ギルマスや俺はもちろん誰も取り合っちゃくれねえさ」
「そうかな?」
ウエイトレスがカストルに、淹れたてのコーヒーを持ってくる。カストルは小さく会釈する。理由が何にせよ、副ギルマスはカストルとイバラを会わせない方針らしい。だが、付け入るスキがないわけではない。
カストルは話題を変える。
「なあ、アラナミ・ビトウ。ママの親衛隊だったお前が、なぜ副ギルマスについてる?」
カストルは、クレバスの齎した情報を口にする。ビトウは、少し考え、そしてゆっくりと口を開いた。
「副ギルマスは食料政策に力を入れているし、俺の実家はダンジョンを改造した植栽プラントのひとつを管理して生計を立てている。もしママがウナバラを掌握したとすれば、食料物資政策において、イバラ対一般農家のかたちでママと副ギルマスの代理戦争が起こる。それは農家はもちろんリヴァーシ市民にとってもプラスにならない」
「かもな。イバラの力は大変なものだ」
カストルのコーヒーから立ち上る白い湯気も薄まりつつある。それでもカストルはまだ一回も口をつけていなかった。
「けど、お前も探索者なら知ってるだろ。『先遣隊の優先権』をさ」
「……?」
カストルの言葉に、ビトウは首をかしげた。さも、不思議そうに。それが演技なのかどうか計りかねたカストルは、困ったようにコートを見た。
『……』
沈黙。カストルより遥かに賢いはずのラキでも見極めかねているようだった。だが、あまり話を停滞させるのも不自然だ。カストルは話題を継続した。
「……先遣隊としてダンジョンに入ったものが、そのダンジョンから出土したものを自由にできるんだろ?」
そう、頼りなげに、訪ねるようにしてカストルが言うと、ビトウは一息に吹き出した。
「いや、そんくらい知ってる。だがちょっと待て。何で今それが話題に出てくるんだ」
「そりゃもちろん……」
イバラがダンジョンの中で眠っていたから――そう言おうとして、カストルは口をつぐんだ。
『ひょっとして、ビトウさんはイバラさんがダンジョンで眠っていたことを知らない?』
ラキが耳元でささやく。その可能性はあるかもしれない。カストル自身が探索に出る前に、「イバラのような人物」を目撃しているのだから。
『さっき兄さんがしたみたいに、優先権を盾に交渉されたら敵いっこないって踏んだんだと思う。だから、そもそもダンジョンから見つかったという事実そのものを握りつぶすことにしたんじゃないかしら』
確かに、カストルによるギルド地下探索は影ながら行われた。ママの秘密主義を逆手に取り、影の中に押し留めておくつもりなのだろう。そうであるなら、ママがイバラを手中に収める大義名分もなくなる。
ならば、攻め手を変えてみるだけだ。
「じゃあ、俺がお前らの知らないイバラの真実――しかも不都合なものを知っているとしても、お前らは俺からイバラを秘匿し続けるのか?」
「何だと?」
カストルをイバラに会わせないことに、デメリットがあるとするなら、はたしてどう反応するだろう?
『そんなのあったっけ?』
ラキもうろたえるが、無論、ハッタリの揺さぶりにすぎない。だが、カストルにはクレバスがいる。捏造写真のひとつやふたつ、簡単にでっち上げるだろう。突然のカストルの強気な態度に、ビトウの眉根にしわが走った。そもそもビトウからすれば、カストルとイバラに接点があること自体がブラックボックスのように得体が知れていないのだ。
「脅迫か?」
「最初に言ったろ、俺はお前とイバラに礼がしたいだけだって」
カストルは、生まれてはじめて笑顔を作った。その努力に胸を打たれたのかはわからないが、ビトウはついに折れた。
「……わかった。副ギルマスには内密に、会えるよう取り計らう」
「ありがとう、アラナミ・ビトウ」
それに呼応して、カストルもその日一番の笑顔を見せ、たっぷりの代金トークンを手渡すと、そそくさと店を後にした。
廊下で周囲を見渡し、誰もいないことを確認する。どうやら、街の人の多くはギルドマスター選挙の討論会の方に足を運んでいるらしく、人の気配がまったくしない。
カストルが黒コートの袖口を三回タップした。すると、首元からイヤホンマイクが伸びる。
「終わったぞ」
カストルは、囁くように通話する。
『アラナミ・ビトウのギルドカードの情報、抽出完了だ』
イヤホンを伝って、悪い笑い声がカストルの鼓膜を揺らした。通話先の相手は、もちろんクレバスだ。さらに言うならギルドカードの偽造も勿論悪事である。
「こんなことなら、普通に押し入っても変わらなかったんじゃ?」
『最速かつ穏便な最良の手段を選択してるッて言ってもらいたいくらいだが?』
カストルが暴れればイバラへの道は開けるだろう。だが、カストルは弱り果てていて、《糖酔》の使用回数も最小限に留めるのが賢い。そういう意味では、クレバスの言うことも正しいだろう。カストルは少し不満げに鼻息を鳴らした。
「じゃあ、今すぐにでもイバラのところへ行ける、そういうことか?」
『いや……それがな、場所に少ォし問題があってな』
「どこだ?」
『地下の……発電施設だ』
「そいつは……」
カストルは、そこから続けるべき言葉を失っていた。ギルド・ベースがリヴァーシの頭脳だとするなら、発電施設は心臓だ。ここから供給される電気と熱によって人々は雪の中で生活し得ているのだから、ここへの攻撃や侵入はリヴァーシへの宣戦布告以外の何物でもない。
「そんなに俺を暴れさせたくないのか、副ギルマスは」
『オレはむしろてめェの暴れたがりにビックリだよ。発電所ってチョイスは単に立地がいいからだろう。あったけェし、植物の生育に必要な明かりの供給はまず止まンねェ。ギルドがイバラの作物を独占できるッてのも大きい。場所が場所だから極秘で動きやすい点もポイントだろうな』
「……だとするなら、ビトウのギルドカードのデータなんて使い物にならないんじゃないか? あそこはそうでなくても他のセキュリティが山盛りのはずだ」
『誰も、イバラに会うためにプラントに行け、なんて言ッちゃいねェぜ? ごく近くにイバラが休むための私室があるはずだ。そこに行けばいい』
受話口に、再び悪い笑いがこだました。
「……卑怯な物言いをするな、お前はよ」
『お前がプラントに行きたがッてるとビトウに印象付けてくれたからこそ使える手だぜ? 共犯者よ』
「……あくどい相棒を持つと苦労するぜ」
『善良な単細胞が相棒だと楽でいい。……決行は今日だ。警備の目が討論会の会場に向いているうちにな』
「了――」
言い切る前に通話が切れた。カストルが、空中に散らばる光る粉に気が付いたのは、その直前。
「《撹乱の花粉/チャフ・ポリューション》」
クレバスは、途中で会話を切り上げるほど無粋ではないし、何より突如廊下に響き渡った声に、ばら撒かれた光の粒子から香る濃厚な害意に気づかないほど「最強」は鈍感ではない。
だが、この場には、カストルよりも鋭敏に敵を感じ取るものがあった。
ラキ・ポルックス。「恐怖」によってあらゆる感覚が肥大化し、暴走する能力者。彼女は感じていた。その衣擦れを、息遣いを、体温を、足音を、汗のにおいを、敵意を帯びた何もかもを。そして、自分たちに向けられたのと同じだけの大きさの恐怖で武装する。コートがほつれ、黒い絹糸の束と化し、カストルの体を覆っていき、静かにその姿を《糖酔・黒/シュガー・ハイ:アフター・ダーク》のものへと変質させていく。
『どういうつもりです……イバラさん』
緑色の髪。蛍のような瞳。女神と形容すべき美貌。祝福するかのように周囲に咲き乱れるは色とりどりの花。漆黒のスーツとパンツを纏ってはいるが、敵対する少女は一部の狂いもなく、ウナバラ・イバラその人だった。
「《樫の巨腕/オーク・アームズ》!」
振り上げた少女の細腕が、スーツ生地ごと褐色の木肌に覆われていく。話すことなど何もない。そうとでも言わんばかりに拳を突き出すと、カストル目掛けて巨大な木の腕が叩きつけられる。圧壊音と褐色の木屑が廊下へとぶちまけられ、粒子交じりの空気を攪拌していく。
「それだけかい、まがいもん」
やおら飛び散る木片が光と、そして熱を帯びた。
「《萌え上がる赤花/レッド・ライク・ローズ》」
樹塊の巨腕が、崩れ去った。そのさきに襲撃者が見たのは、無傷のカストルとラキ、そして廊下に張り巡らされた綱――もとい、ラキの腸。炎を纏い、空気を燃やすそれに触れた木の幹が、どのような破滅を迎えたかは想像に難くない。むしろ襲撃者は自身に炎が燃え移らなかった幸運に感謝した。
「何を安心してやがる」
その耳元に、囁きが届く。濃厚なシロップの香りが鼻腔をくすぐる。息を呑む暇すらなく。さらに、襲撃者はその機会さえも喪失した。
「パンチってのは、こうやるんだよ」
カストルの左拳が襲撃者の胸元にクレーターを作っていることに気づいたのは、彼女の足を踏むカストルのブーツへ、盛大に血をぶちまけてからだった。
「事後確認になるが……お前はイバラじゃないな?」
カストルは尋ねる。襲撃者は返事の代わりに再び血を吐いた。カストルは赤黒く汚れたブーツを見、少し困った顔を作る。カストルはブーツの汚れをふき取るついでに、襲撃者が逃げないよう、脚の骨を蹴り折った。
「……狂ってるのか、お前。ボクはお前の知ってる少女と同じ姿と、能力してるんだぞ」
荒い息すら絶え絶えの、襲撃者は諦めたように言った。「攻撃しといてそれを言うかよ」とカストルは仏頂面で言った。
「あいつと同じことされたら、指一本動かす前に負けちまうかもしれないしな。本気でやるしかなかったんだよ」
許してくれと言わんばかりに、カストルは相手の肩を叩く。激痛が襲撃者の脳天から足先までを突き抜けるが、もはや脂汗すら出なかった。
「お前が死ぬ前に本題に入ろう。一体何しに来た」
「……カストル・ポルックス。お前が忠告を破るから悪いんだ」
「ああ、あれね……」
凶暴化ラキがママの親衛隊を襲い、カストルの家が壊れた夜。その日、確かに、イバラと、目の前の襲撃者と同じ顔の人物と出会い、忠告されたのだ。「探索には行くな」と。
「何の権利があって、お前は俺の行動を制限できると思ったんだよ」
リヴァーシ最強の探索者は、敵の胸にめり込んだ拳をぐりぐりとねじる。すると、敵はうめいた。
「なんだか知らんが、俺は俺のやりたいようにやる。えーと……雑魚?」
カストルは、敵の名前すら聞かずに殴り倒したことについては、わずかとはいえ、さすがに罪悪感を覚えた。
「雑魚じゃない……! ボクは、真保呂朱炎。いずれ神になる男だ……!」
「お前らって神、好きだね」
少女の姿で男? 今にも死にそうなのに、神になる? プライドを傷つけたからかどうか知らないが、正体をさらし出した? カストルの中から、おかしみが溢れ出す。笑わないように、どうにかこらえた。
「その、何だ。頑張れよ」
「貴様こそ、後で吠え面かくなよ、カストル・ポルックス! ボクはすべてを見ているんだ!」
朱炎が奥歯を噛み鳴らす。普段なら見逃してしまうような、些細なアクション、しかし、その重大さに気づかないほど《糖酔・黒》は、鈍くはなかった。
自爆だ。
熱。光。音。衝撃。逃げるには近すぎ、避けるには巨大すぎるエネルギーが、スローモーションの中で膨れ上がっていく。導き出される結論は、致命的なダメージ。破滅的な結末。道連れ。
だが、それは回避不能な末路ではない。たとえ、《糖酔・黒》の力が劣るとしても、そこにラキがともにいる限り不可能などないし、諦めることは決して許されない。
「ついてこいよ、ラキ」
カストルは一言だけ伝える。
『言われずとも、兄さん』
ラキも一言だけで返した。
死の刹那、《糖酔》でなく、死の際の走馬灯によって鈍化した世界の中で、ふたつの心はひとつになる。
「《拍手喝采歌合/クラップストーム・カウンター》」
儀礼の祝詞のように、二人はその技を口にし、末期の一服のように、大きく息を吸い込んだ。
これから始まる異業のスタートラインには、二人の心が完全にひとつになって、ようやく立ちうる。無茶でも、机上の空論でも、それを為さないことには、十秒先の未来さえは望めはしないのだから。
威力のうねりは、今まさにカストルの目と鼻の先に迫りつつあり、その眼球を舐めつくそうと猛る。しかし、それをまばたきが弾いた。まず、カストルはゼロゼロコンマ五秒先にたどり着く。
安堵はない。感慨もない。目を開いた先の世界。依然、時間は極度に張り詰めた緊張感とともにゆっくりと流れていく。不気味なまでに静まり返った世界の中、呼吸すら止め、超高速で腕を振り上げ、床を蹴る。指を開き、ラキの臓物をのた打たせる。
カストルが空気を打つと、波動とともに爆発の勢いが拳から紙一重のところで削ぎとられていく。
拳だけではない。一挙手一投足、攻撃の予備動作どころか脈動を含めたあらゆる動きが迫り来るすべての威力を相殺し、爆風を穿ち、打ち消していく。爆風の副産物の塵すらも威力と熱によってカストルの肉体を引き裂く。だが、それに構うことさえない。カストルとラキは今や、爆発という現象そのものと戦う人間竜巻と化していた。
輻射熱や空気との摩擦でカストルの手足を覆うラキの毛髪も少しずつ燃え散り、ほつれていく。淡々と失われたリーチ分、タイミングとポジションに微調整が加えられる。その間も当然のごとく無呼吸で、あらゆるアクションがリアルタイムに襲い来る脅威に対する反射で行われる。感情はおろか思考が挟まる隙さえない。野生動物のごとき本能、機械のごとき精密さ。無制限に研ぎ澄まされた高純度の相反する概念、その二つが交わる地平にのみ生きる道があることを二人は知っていた。
だが、炎は無情だ。
生きる目は遥か遠く、今まさにカストルが押さえ込み切れなかった炎によって、飲み込まれようとしていた。火の粉が露出した肌を焼き、無慈悲にも粘膜を干からびさせていく。蜜のような甘い香りが、少しずつ焦げるような匂いに変わってゆく。
そもそも、喧嘩を売った相手が無茶だったのだ。爆風の持つエネルギーはとめどなく莫大で、残念ながら、どうあがいてもカストルの手足は四つしかない。どのような回転率で爆風を打ち消し続けようとも、結局は、広がりゆく火勢、その速度と勢いに敵うはずがない。
――年貢の納め時、か。
冷静・情熱問わずあらゆる感情や思考がノイズにしかならないこの場でカストルはうそぶき、その右腕は動きを止めた。
それはすなわち、刀折れ矢尽き果てたということ。死にたくない、という思いが渦巻くが、それでこそ正しい死に様だとも思う。
炎の濁流は押しとどめられることなく、その望むままに白い壁を黒く焼き焦がし、コンクリートを舐め上げる。爆風が剥離した何もかもを吹き飛ばし、朱炎の怨念を体現するかのように、カストルを呑み込もうとしていて、その瞳は一足早く赤く白い絶望の色に染まっていた。
『それでも、私たちは勝てるよ。兄さん』
ラキの声が涼やかな声が響いた。カストルへと襲い来、今まさにその命を消し炭に変えようとした熱の嵐を、大気の果てへと吹き飛ばしながら。
『《拾二連式永久射突肋骨/エヴァーラスティング》』
カストルは驚いた顔で、ひとりでに動いた己の右腕を見る。その右腕に巻きつけられた、肉と骨と機械が織り成す、醜悪な機構を見、自分がもう既に死んで、夢の世界にいると勘ぐった。炎の失われた世界で、己以外の何もかもが焦げる匂いをかぎながら、己の生き残った夢のような数十秒後にたどり着いたことを自覚した。
「ラキ……お前なんだよな?」」
《拍手喝采歌合》を行っている間、カストルは勿論、ラキも極度の集中を強いられていた。それこそ、新しい武器を形作る余裕などない、人間性を切り捨てた境地だ。それとも、都合のいい奇跡が、降ってわいたとでも言うのだろうか。
『そいつァ、答えづれェ質問だ』
「クレバス! 繋がったか!」
ラキの代わりに、通話口から聞こえたのはクレバスの声だった。
『てめェからの通話が突然切れたと思ッたら、チンピラが押し寄せてきてなァ。何かしらの差し金を感じたわけよ』
クレバスの言葉を聞く限り、襲撃は計画的らしい、ということはわかった。だが問題はそこではない。ラキの想像を超えた行動、そこにはカストルがまだ知らない闇が潜んでいるように思えた。
『私から話すよ、兄さん』
ラキの声が聞こえる。カストルの体に直接語りかけるものではない。クレバスと会話しているスピーカーから、その声は聞こえてきた。
「おい、クレバスの中のラキのデータは、全部こっちに移し変えたんじゃなかったのか」
『あくまでオレがやったのはコピーだよ。《かつては男と女》は内なる人格データを消すことを禁じてる。だから、コピー&ペーストはできても、カット&ペーストはできねェ。……でまァ、オレの中のラキがお前が纏っているラキに干渉することで、お前の右腕のラキを変形させたンだ』
「つまり、お前の中にはまだラキがいるってことなのかよ?」
カストルは怒鳴った。人格の破壊という罪だけでなく、それを増殖して弄ぼうとでも言うのだろうか。
「それってつまり、今俺と一緒にいるラキと、お前の中のラキで、決定的に違う二人のラキが生まれちまったってことかよ」
『飲み込みが早ェな。その通りだ』
「どうしてそれを言わなかった!」
ラキの体はどうあがいても一つしかなく、かといって、ふたつの人格を受け入れれば、ラキは今度こそ、ラキ・ポルックスとして守るべき境界を容易く越えてしまう。
『オレだって考えナシに妹ちゃんをコピーしたんじゃねェ。聞け。妹ちゃんの能力は恐怖を媒体に勝手に拡大し、暴走する。だから、能力のもたらす無制限の恐怖を相手にする、言い方は悪ィが「受け皿」となる人格を用意し、関連付けることで、擬似的に能力そのものに人格を与え、対話可能な状態にしてコントロールしようとしてるンだよ。むろん妹ちゃんと検討して実行した手段だ』
本当はギリギリまで伝えたくなかったんだけどね、とコートのラキが言った。『たとえ二つの人格の間で同意が取れていても、ひとつの肉体に二つの意思が宿ったら、どうなるかはわからないから』
でも、とラキは続ける。
『始めちゃったことは止められない。だから、兄さんにも受け入れて』
受話口のラキの声と、コートのラキの声の二つがハモる。
「……わかったよ」
『つきましては兄さん』
コートのラキが、骨を介してカストルに話しかける。
『私に名前をつけてよ。ラキ・ポルックスの能力になる私に』
「……」
ラキ・ポルックスの能力は、言葉を選ばないのであれば、忌むべきものだった。カストルを心身ともに限界まで疲労させ、ラキ自身から人格を奪った。それは、ポルックス兄妹を蝕むビョウキだった。そう決め付け、目をそらしていた。
だから、これは、必要な儀式なのだ。《禁じられた遊び》の作り出した悪趣味な運命と戦い、打ち克ち、克服するため、その第一歩。それは、受け入れること。
ラキは今、己を苦しめた力に寄り添い、同化しようとしている。カストルは、妹が賢いだけでなく、深い深い愛をも持っていることを、不在の神に感謝した。
「……《虎中の天/タイガー・イン・マイ・ラブ》なんてどうだ」
『略して「タイ米」だね!』
ふたりのラキは楽しそうに笑った。