神の名はイバラ
「お前……昨日の」
棺から目覚めたのは、家の近くの林で出会った謎の少女だった。
『探索に行くな』
彼女の放った理不尽かつ意味不明なその言葉は、カストルのうちにしこりとして未だに残っている。
装いこそ、昨夜の黒マントから一転して、白いローブとなっている以外は、憂いを秘めた表情もそのままだ。
「お前、昨日、俺と会ったか……?」
少女は、何も答えない。カストルと少女、二人の間に沈黙が横たえた。
「おい、シュガー・ハイ。そろそろ時間だ。オレの電源がヤバい」
それを切り裂いたのは、サイボーグのクレバスだった。
そもそも、カストルとクレバスの探索の目的は後続隊のための下地作りだ。しかし、彼らはいまだこのダンジョンの電源を発見できておらず、クレバスの持ち込んだ予備電源を頼りに探索を続けている。そのエネルギーも残り少ない。
そして、それはカストルの能力《糖酔/シュガー・ハイ》の時間切れが近いことも示唆している。カストルはしぼみつつある筋肉を隠すように、黒いコートを整え、咳払いをした。
「俺たちは、資源の発見のためにここにいる。エネルギーでも、技術でも、文化でも、何でもいい。そこで質問なんだが、この場所は、いったい何なんだ?」
「さあ? わからないわ」
少女を取り囲む枯れたはずの蔦たちが、寄り合い、縒り合わせられ、生気あふれる瑞々しい緑色を取り戻していく。やがて、葉のひとつが図鑑でも見たことのない青い実を結ぶ。
――「交配」どころか……植物同士を直接「混ぜ合わせた」。
少女は無造作にそれを口に運び、かじる。生鮮果実は、ごく一部の富裕層しか口にすることができない貴重品。カストルはつばを鳴らした。
「なるほど、食料には困らないってわけね」
植物の成長と枯死、さらには融合によって強制的に新種を作る。遺物ランクでいうならS級……超S級どころか、雪の世界での食糧問題さえ解決しかねないその力は、クレバスが言うところのD級にさえ匹敵するかもしれない。カストルにはそういうふうに見えた。
「あなたもひとついかが?」
「いや、遠慮しておく」カストルがそう言おうとした瞬間には、その腕に、脚に、緑色の蔦が絡み付いていた。音も気配もないままに。さきほど、カストルは彼女の封印されていた棺桶に近づいても、何も感じなかった。だがそれは誤りだったと気づく。
あの部屋そのものが、この少女だった。例えるなら、カストルとクレバスは既に内臓に取り込まれていたのだ。
「私の正体も、あなたの知りたいことも、何もかもどうでもいい。ただ、あなたはこれを食べる必要がある」
少女の声がそよぐ風のように枝葉を揺らす。
四肢を縛る蔦に抗うだけの力は、もはやカストルにはなかった。いや、ここは少女の縛り方が実に巧みだったというべきか。「敵意はない」そう言わんばかりに、カストルの体を無理なく、しかし微動だにさせぬよう縛り上げていた。まるで、手術前の麻酔のよう。
カストルはその体に遺物《痛みを届けるもの/アロー・オブ・ペイン》を仕込んでいる。しかし、痛みをトリガーとしてカストルの体内にブドウ糖を供給する防衛用遺物も、真綿で縛られるように優しく行動の自由を奪われては形無しだった。
カストルに残された選択肢は、少女に差し出されるままに、かじりかけの果実を咀嚼するのみ。カストルはおそるおそる、奇怪な色の実を咀嚼した。
次の瞬間、カストルの表情が一変した。
「ま、不味ぅ」
うめくカストルを少女は優しげに見守る。そんな少女の表情とは対照的な、頭の芯からしびれるような暴力的な味がカストルの脳髄を犯し、視界をスパークさせる。渋みと辛みと苦味の元を煮詰めた上澄みに生臭さを添加したような青い果汁が、カストルの口元から零れた。
「シュガー・ハイ!」
クレバスも動こうとするが、しかし、時すでに遅し。
――トリモチか。
その機械の体の関節には粘質の液が滴る植物の葉がねじりこまれていた。無理やりにでも動かそうとすると、関節がぎしぎしと不穏に軋み、にっちにもさっちにもいかない。
「動くな、生なき傀儡。私は彼に害をなす気はない」
少女は、クレバスに一瞥さえもしない。蔦のひとつに手をかざすと、葉や蔦、つぼみらが集まり、混ざり合い、ブラックホールのように内へ内へと潜り込み、凝集する。そして、新たに青い果実をひとつ作り出す。
「私は彼を治したいだけ」
少女は新たな果実をつまむと、一切の躊躇なくそれに歯を立てる。薄桃色の唇を、青い果汁が濡らす。ツンと鼻腔に突き刺さる刺激臭が、距離があるはずのクレバスの思考回路をもいたぶった。
カストルは悶えた。果実の味にではない。なぜなら彼の味覚も嗅覚も、乾ききってしまったかのように麻痺していたから。
彼の精神を強く揺り動かした感情は、あまりにも青臭く、そして甘酸っぱいもの。少女は、わずかな隙をついて、あまりにもカストルに近づき、その首に手を回していた。
「さあ、もっと食べなさい」
少女の細い指が優しくカストルの顎をつかみ、口を開かせる。唇がうっすら青く、艶かしくてらてらと光り、カストルに迫った。少女の吐息がカストルの唇を潤わせると、すっかり死んでいたはずの彼の嗅覚は鋭敏に少女特有の甘い香りを嗅ぎ取る。カストルが小刻みに震えるのは、防衛本能か、それとも男としての奔流だろうか。
「はむっ」
少女が、カストルの唇を捕食する。唾液が混ざり合い糸を引き、お互いの舌がその柔らかな感触を確かめ合う。その過程で、少女はカストルの口へと邪悪な味の果肉を押し込む。
カストルの思考がほぐれ、下腹部に快感の血流がなだれ込んでくる。
二人の唇が離れる頃には、カストルの拍動は平時よりもはるかに大きく速く乱打していた。
少女はカストルのパーソナルゾーンの最前線は侵害したまま、その顔を見る。
「……あなた、顔が赤いわね。処方を間違ったかしら」
少女がカストルと額を触れ合わせると、カストルはそのまま失神した。蔦の戒めを解かれたカストルは、茹蛸のような顔色のまま、蔦と葉のベッドに包まれるように倒れこんだ。
「いや、そういう問題じゃねェだろ……」
クレバスは顔を引きつらせて笑うと、少女は、初めてクレバスを見た。
「……ッ」
クレバスは、もはや自身から唾液腺が失われていることも忘れて、唾を呑むしぐさをなぞった。少女の目は憎悪に満ち溢れ、雄弁にクレバスに語りかける。「壊す」と。
「さて、傀儡。あなたは何者?」
「オレ達、知り合いだったッけ?」
二人は間違いなく初対面で、恨まれる筋合いが全くないわけだが、何がそう彼女をいきり立たせるのか、クレバスにはわからなかった。
「ヒトの姿をして、人のように動く人形なんて、許せる理由がどこにもないわよ」
少女の袖口から、数本の蔦が這い出る。それは絡み合って槍となり、クレバスののど元に突きつけられる。切羽詰った状況とは無関係に、彼女の説明がまったく理解できない。
「本当にそれだけかよ。頭がおかしィんじゃねェのか」
だが、彼女の顔面には生き生きとした憎しみが脈打っている。
「今すぐ解体してもいいのよ、傀儡。私が尊重するのは、命ある者の言葉だけ」
この女はイカレている。クレバスはそう結論付けた。
彼女は自分の正義だけに従って生きている。生命至上主義とでも表現しようか。生けとし生けるものを救うためには、手段を選ばず、その意思を汲む事さえないが、文字通り包み込むような優しさで接した。カストルに対して、そうしたように。
一方で、機械の体を持つクレバスは、粘着質の物体で完全に動きを固定した。力づくで開放されないように。そして、後遺症を一切考慮せずに。
おそらく「破壊」という結論ありきで、クレバスの回答すら必要としていない。なぜなら、彼女にとってクレバスは生命ではないから。その言葉を聞く価値もない相手なのだ。形だけでも問答しているだけ機嫌がいいとさえ言えるかもしれない。
だから、クレバスの頭脳が保身のために弾き出せる答えはひとつだけだった。
「オレは、そこに倒れてるやつの持ち物だ」
命あるもの――カストルに、自分の所有権を預ける。たとえ不服だとしても、それ以外に方策はない。
少女が命を尊重するのなら、その意見もきっと尊重するはずだとクレバスは信じた。カストルのモノだとするなら、彼の許可なくクレバスを壊すことはない、と。
「……知恵が回る傀儡だこと」
「オレを試したのか?」
「お前が彼の何にせよ、勝手に壊しては信頼を損ねるものね。先延ばしにしてあげるわ」
クレバスの喉元に突きつけられた蔦の切っ先は解け、その袖に収納されていく。
続いて、少女はクレバスに手をかざす。すると、その鉄の体に蔦が巻き付き、赤いひし形の実を結実する。それらはクレバスの体にまとわりつく粘液に触れると途端に破裂し、どろどろの果汁でクレバスを濡らした。
「ありがたく思いなさい、まがい物の命よ。ここでスクラップにしてやってもよかったんだから」
「オレとしちゃアどっちかってとこの体がサビないかどうかの方が心配だァね」
全身の関節からウォッシャー液を噴き出し、増設した腕で丹念に体を磨きながら、クレバスは嘯く。
「さて、オレたちは地上に戻らなきゃなんねェ」
クレバスが倒れたまま気絶したカストルを抱き起こした。その顔や体は見違えるほどに、枯れ木のごとく痩せ細っている。ただ気絶して《糖酔/シュガーハイ》が解除されたのではない、おそらく体内に存在していた過剰な糖分がまとめて分解されてしまったのだろう。少女の差し出した青い実の仕業と見て間違いない。
「オレらとしては、この施設で見つけたものを報告しなきゃならねェ。手ぶらでスゴスゴ帰れねェってわけよ」
クレバスは空いた腕で側の果物のひとつをもぎ取るが、茎からちぎったそばから、それらは茶色く枯れ果ててしまう。これにはさすがのクレバスも顔をしかめた。
「なにかしら成果物が必要、ってわけね。青果物だけに」
エメラルド色の瞳は、鉄人の蛮行を咎めも、肯定もしない。ただ、その瞳の侮蔑の色は濃かった。
「私にはここを動く理由がないわ。それがヒトのまがい物の要請だというならなおさら」
少女の背後の森が、獣を孕むかのように蠢いた。少女の拒絶を代弁するかのように。そして、それはクレバスの腕から丁寧にカストルを引き剥がし、包み込んでいく。
「引き続き、私は彼の治療をする必要があるの。一刻を争うのよ。彼が良くなったら、返してあげる」
その瞬間、電子音声がカストルの懐から放たれる。『《糖酔・黒/シュガー・ハイ:モーニング・アフター》』
『そ・ん・な・の・が! 許されると思ってるの!?』
カストルの身を包む黒いコートが渦を巻き、その開閉部から怒号とともに赤ら顔の生首が飛び出した。同時に髪と骨で編まれた触手がカストルを奪おうとする蔦を引き裂き、同時に、「それ」から伸びる黒いチューブがカストルの枯れ枝のような体へめちゃくちゃに突き刺さり、ブドウ糖を注入していく。
『兄さんを骨抜きにしてくれちゃって、いったいどうしてくれるのよ。あなたが勝手に兄さんにキスしたことも許しがたいけれど、それ以上に兄さんの体がこのままじゃもたないのよ』
「あなたは一体……何?」
その異形に、少女を包む森厳がざわめき、少女がたじろいだ。
『あんたがキスした人の妹で、今は生命維持装置!』
ラキは怒りのままに犬歯をむき出しにすると、少女はエメラルドの瞳をぱちくりとはためかせる。少女にとっても、ラキは生命か、機械か、判断がつかないようだった。
「彼がもたない……ってどういうことよ。壊れかけてた彼の身体機能に対して、私は正しい処置をしたはずだし、適切な処方を続ければきっと……」
『ええ、的確で、正しかったわ。あんたは兄さんの体から過剰な糖分を取り除いて、体力増強用の食べ物をくれたつもりなんだろうけど、兄さんの体は過剰な糖分を前提として生きてるの』
そして、少し間を置いて、こう言った。『兄さんはもう死んでるはずの体なのよ』と。一語一句を、噛み潰すように。
少女の植物が、カストルの体に触れる。内から、外から。おそらく、触診しているのだろう。それが一通り済むと、少女の顔は青ざめ、一言だけ、ラキに返した。
「……一理あるわ」
少女は唇を噛んだ。血がにじむほどに。
クレバスが包囲するジャングルからカストルを引きずり出すと、擦り切れたカストルはうめくような声とともに深く息を吐き、うっすらと目を開いた。ラキが打ち込んだ砂糖が効いたのだろう。
『兄さん!』
「ありがとう、ラキ」
カストルは無理やり食べさせられた実のように青い顔で二度むせるように咳き込んだ。意識は戻ったが、カストルの思考にはもやがかかっていて、脚も満足に動かない。完全にガス欠状態だ。
「初キスがゲロみたいな味で、しかも死に掛けるとは夢にも思ってなかった」
『兄さんごめんね、私のせいで仲のいい女の子の一人も作れなくて』
「いいんだ、ラキ。恋人なんていくらでも作れるけど、妹はお前一人しかいないんだ」
『兄さん!』
「ラキ!」
兄は妹の生首を、妹は髪の毛を使って、ひっしと抱き合った。
「……気が重いわ」
カストルとラキを見る少女は、疲れた声で言った。壊されかけたとはいえ、クレバスも、今回ばかりは同情したい気分だった。
『いいえ責任だけはとってもらうわ。今聞いたでしょう? 兄さんは童貞なのよ。それに私はしょせん予備電源。誰かの助けが必要よ……私だってもう限界だし』
カストルの体を覆うラキの肉体パーツが、再び一張羅の黒コートへと収束していく。それを見守ってから、カストルはコートをひと撫でした。
カストルは傾くようにして、汚物のごとき果実を盛った少女を見上げる。
「それに、俺たちは先遣隊だ。主だった障害をクリアしたと報告すれば、後に続くものがやってくると思う。それが俺たちなのか他のやつかはわからないけど」
「私がここに残っていようといまいと、いずれ連れ出されるということね」
「そうなる」
カストルは胸の奥底から荒い息を吐き出しながら言った。
「わかった。私もあなたたちに同行しましょう」
イバラの纏うローブの裾から、無数の蔦が顔を出す。
「けれど勘違いしないで。私は渋々ここから出るのではないわ。あなたを窮地に陥れたことを恥じ、あなたを完全に回復させるために一緒にいくのよ」
少女は震える声で、言った。
「私が、かならずあなたを治してみせる」
それは誓いだった。衰弱しつくしたカストルでさえ感じられるほどの、なみなみならぬ気迫があたりを包む。
それとは対照的に、蔦のカゴがカストルの体を覆うように優しく編み上げられ、ゆりかごを形作っていく。カストルの薄れた聴覚に、草花の擦れる音が届く。彼は、母の中で聞いた鼓動を思い出した。
「……何者かもわからん奴に助けられるのは、癪だ」
草のカゴの中に身を横たえて、喉を鳴らしながら、カストルは言った。
「だから俺は、カストル・ポルックス。探索者だ」
「カストル君、ね。私は、ウナバラ・イバラ。神よ」
緑の天使に似た少女は、カストルにキスしたときと同じように、真顔のまま、神と名乗った。
――神か。
クレバスは、カストルとイバラの握手を見守りつつも、表情に出さずに冷笑する。こういうとき、機械の体でよかったと思う。
この世界に神などいない。太陽は雲に遮られ、降り続ける雪は百年の時を跨ごうとしている。そこには神の救いも慈悲もない。
だが、神を信じ続けるものたちの心を真に折ったのは雪ではない。それは《禁じられた遊び》をはじめとした。人為的に生み出された奇跡――遺物の存在だった。神意にも似た力を振るい、しかして何の咎めも受けることのない者たちの出現で、いよいよ人々は神の不在を確信せざるを得なくなった。
確かに、イバラの能力は素晴らしいものだ。だが、その程度の奇跡が、「神」を名乗るに足るだろうか? 彼女は驚くべき力を携えているのだろうか? 少なくとも、偏り果てた情念は超越者らしくはあるが。
――お手並み拝見、と言ったところか。
イバラの眠る棺を見たときに感じた疼き。クレバスは、己のカンが狂っていない方に賭ける事にした。
蔦で編み上げられた手が、カストルの垂れた手を優しく握り、握手を済ませるとカストルを受け入れるゆりかごへと変わった。
イバラが出口へと歩き出すと、カストルを抱えた蔦のゆりかごもそれに続く。カストルを包む蔦は、雷のようなスピードで枯死と出芽を繰り返している。繰り返される生と死のサイクルが、ゆりかごを運んでいるようだった。
その過程、カストルの口近くの蔦にて、「食べろ」と言わんばかりに黄色い果実が熟す。甘い香りのただようそれに口をつけると、歯どころか吐息の温度でとろけ、濃厚な果汁と果肉のスープがカストルの舌を多幸感で浸した。
――こんなにうまいものを食べたのは、はじめてだ。
味気ない成形食と砂糖だけで誤魔化されてきた舌に、果実の甘みを凝縮したそれは、とてつもなく強く響いた。苦痛で乾いたカストルから唾液が溢れ、未だカストルの口に残る青い実の後味をきれいさっぱり押し流してくれた。さらにはその目から涙があふれ、潤した。
こんなものが大量に収穫できるようになれば、世界が変わる。
理性ではなく、カストルの動物としての本能がそう確信していた。
「イバラ、つッたな。おまえはあそこで眠っていたのか」
イバラ、ゆりかごのカストルに続くクレバスが尋ねた。
「そうね」
「その前は、何してたンだ」
「覚えてないわ」
ぶっきらぼうに言い捨てる。記憶喪失らしい。あるいは、それ以前の記憶がないのか。
「……の、割には能力使いこなしてるな。しかもシュガー・ハイの病状まで見抜きやがる」
「そうなの?」
イバラは不思議そうに言った。
「彼の具合が悪そうだなんてこと、誰の目にもあきらかでしょう」
植栽プラントの自動ドアが開く。コンクリートにヒビを入れながら、イバラの後ろを緑色のカーペットが追従する。
イバラの言うとおり、カストルの具合が悪そうなことなど、誰の目にも明らかだ。だが、具体的な処方の仕方まで、どうやって割り出したのだろうか?
「……いや、待て」
クレバスがちょうどプラントから出たところで、足を止めた。
「今度は何?」
イバラはいかにもうんざりと言った目でクレバスを見る。
「いや、悪いがお前じゃねェ。シュガー・ハイだ」
「何だよ」
草のゆりかごから、いかにも疎ましそうなくぐもった返事が聞こえる。カストルは甘い甘い果実をむさぼるのに夢中だった。
「動く《アリアドネの糸》があるんだ。下層に」
《アリアドネの糸》は壁や天井に刺すことによって、探索者が通ったルートを入り口まで辿り直す際に道標となる、杭型の遺物だ。
「オレは発信機からの電波を拾えるからな。ちょっとチューニングすればちょちょいのちょいヨ」
「お前そんな機能もあるのか。便利だな」
カストルが気のない返事をすると、珍しくクレバスがため息をついた。
「それがこっちに来るんだ。お前何か心当たりねェか」
「…………ある」
ぼんやりした頭から浮かび上がるようにに思い出されたのは、《糖酔・黒/シュガー・ハイ:アフター・ダーク》で怪物戦車を捕まえる時、そのアームを捕まえたまま固定するために《アリアドネの糸》を使っていたこと。
「まァね、オレらが会ってて、下から来るものの心当たりなんか一つしかねェけどよ!」
クレバスのせりふの後半はほとんど悲鳴に変わっていた。植栽プラントの床は地鳴りすらないままぶち抜かれ、砲火が植物たちを吹き飛ばし消し炭にする。
熱風が部屋を満たし、三人は我に帰った。
「しぶとすぎだろ!」
やはり、と言うべきか。
「まァたてめェか! 殺人マシン!」
アームで乱暴にプラントの床を破壊し、ウインチを天井に打ち込むと、部屋そのものをキャタピラで台無しにしながら、這い上がってくる。どこもかしこもぼろぼろに傷ついた手負いだが、むしろ見た目のまがまがしさは先ほどまでの比ではない。クレバスのセンサーは、その殺人機械が先ほど《アリアドネの糸》を打ち込まれた個体に間違いないはずだが、その姿は傷と乱暴な修復ですっかり変わり果てていた。
手負いというならカストルたちもそうだ。クレバスはエネルギーに限度があると言い、カストルは完全にダウンしているし、イバラの能力は未知数。
状況的に敵がイバラの奪還に来ていることは想像に難くない。そもそも殺人機械はこの場所の、ひいてはイバラを護衛するためのロボットだったのだろう。
ならばイバラを差し出す? そんなのが世迷い言であることくらい、クレバスは勿論、朦朧としたカストルでもわかる。たとえイバラを置いていっても、殺人重機がカストルとクレバスを見逃す理由はない。宝物を返したからと、墓暴きが無罪放免で帰された例を、カストルは未だかつて見たことがないし、それに敵の機械はすっかり狂っている。
殺人重機は勝ち誇るように、全身で三重奏を奏でた。
『……食ウ!』
「喋れたのかよ、お前」
草のゆりかごの中で、カストルは毒づいた。
殺人重機の三本目の腕は、周囲の瓦礫や鉄骨を器用につまみ、己の内へと取り込み始めている。植栽プラントで、かろうじて原型を保っていた植物たちも同様に隔てなく貪っていく。いつの間にか、アームの先に取り付けられた腕は、モノをつまむのに適当な――人の手に似たかたちに変わっていた。
まるで、そこにある作物を摂取するのが、道理にかなったことだとでも言うように。
殺人機械は、砲のあったはずの中枢をばっくりと、まさに口のように開くと、そこには炉が赤々と燃え、周囲の景色を熱気で捻じ曲げていた。
そのすぐ脇から、新たに二本のアームが姿を現した。己の鋼板を突き破って。鋳鉄造りの怪物は、自らの砲も、履帯さえもアームで千切り取って、食らっていく。
クレバスとカストルは言葉を失い、唾を呑んだ。もっと言うなら、引いていた。目の前の鉄鬼は、共食いどころか、己を消化している。畜生にすら劣る異形。羅刹にすら劣る蛮行。そして、その姿は無秩序に生まれ変わる。まるで、己の尾を食らうウロボロスの蛇。もしくは、際限なく改増築を繰り返すギルド・ベースのように。
しかし、場違いにも、この状況に怒り狂っているものが、ひとりだけいた。
「食う! 食う、ですって?」
イバラが、言った。
カストルは、寒さを思い出したかのように震えた。
イバラの声は、確かに燃えていた。青く、静かに。殺人機械の核が憎悪と衝動で赤く燃えるなら、イバラの中には嫌悪と侮蔑が灯っている、少なくともカストルは、そう感じた。
「食事とは、生けとし生けるものが、命を繋ぐバトン。もっとも純粋な欲であり咎であり生命のかたち。あなたは、生き物なの? 違うでしょう? それが、『食う』? 原罪を語る?」
神と名乗った少女は、もはや原型をとどめていない鉄塊に問う。
『《 》……食ゥ』
その怪物は、己の発話機構どころか、思考回路まで食らってしまったのだろうか。判然としないノイズ交じりの言葉を吐き出すと、嵐のような機械音を吐き、その黒い巨体を身悶えさせながら、己が姿を新たな姿へへと作り変えていく。部屋いっぱいに張り巡らされた鎖で編み上げた蜘蛛の巣、その中心からカストルらに向かって伸びるのは、黒い巨塔。
――砲だ。
誰もが確信を得たその次の瞬間、それは轟音とともにイバラへと不細工な鎖を撃ち放つ。熱と煙と風が建造物も植物の残骸も諸共に吹き飛ばす。
だが、イバラは一歩も引かなかった。敵意の嵐が吹きすさぶなかで、身じろぎもしなければ、まばたきのひとつすらなく、鉄塊の前に立ち続ける。己の正しさを証明せんとでも言わんばかりに。
「命の尊さを知れ、鉄屑!」
その時、クレバスは見た。いや、クレバスの超高性能な目だからこそ、砂塵渦巻くなか、見ることができた、と言うべきか。
結論から言うなら、イバラの胸元で鎖は解けるように砕け散り、質量も運動エネルギーさえも失って、元のコンクリートと鉄のまだらへと還る。
それは、まるで夢を見ているようだった。砂煙と暴風吹き荒れるなか、緑色の葉が散い散っている。
「鎖に草が埋まってる……?」
カストルは蔦の檻の中から、砂埃をかぶった目をぱちくりとはためかせて、その異様を見た。鎖に植物が混ざるだけなら、何もおかしくない。殺人重機は、植栽プラントもまとめて飲み下したのだから。だが、コンクリートと鉄は細かく粉砕された上で鎖として鋳造されていたにも関わらず、植物の姿だけは、完全無欠のまま。根と茎と葉を持ち、ひとつなぎの植物としてそこにあった。まるで、鎖が植物に生まれ変わったかのように。
「この草は、鎖として打ち出された瞬間、鎖を砕くようにして出芽したんだ。あいつが飲み込んだ植物の残骸からな」
すべてをカメラアイで見届けていたクレバスは言った。複数の生物の残骸が連なって、新たな一つの生命のつむぐ様は、神秘というよりも怪奇と表現したほうが適当なようにさえ思えた。
「だが、草がコンクリートと鉄を砕いたっていうのか?」
クレバスは無言で頷く。その脳裏にあったのは、アスファルトを裂き、天に向かってピンの背筋を伸ばす小さな草。
「神の名の下に、貴様を裁く!」
イバラは崩れ落ちた鎖を掴むと、目覚めるような速度で緑が駆け抜け、それを覆っていく。あたかも、侵食し返すかのように。
鉄塊も危機感を感じたのだろう。少しもがいて、根本から鎖を切断する。だが、もう遅い。そのときには鎖の主導権はもはやイバラのものであり、断ち切られた根本が蛇のように鉄塊へと食らいついた。
「帰化せよ、異邦のモノ!」
イバラは、鎖に混ぜ込まれたわずかな草の残骸から、鎖を腐らせてみせた。
では、鎖とは比べものにならない量を取り込んだ本体ならば、どうなるか? 自明の理だ。
鉄塊のシルエットは、ほんのわずかに膨らんだ。クレバスの目ならば、そのパーツ同士の隙間がわずかに緩んだと見抜いただろう。生じたスキに容赦なく潜り込む、それの姿さえも。
「《下生えの断罪/ウラ・ムンコトゥカ》!」
それは根だ。そして茎であり、葉だ。ひいては、命だ。捕食されたはずの生が、機械の悪魔を内側から食らい返し、這い出す。そうして、黒鉄の怪物を巨大な花の集合体へと生まれ変わらせていた。
「わァオ、マリモみてェ」
クレバスが小さく感嘆する。しかし、その声を掻き消すかのように機械の怪物は、一度ハウリングした。まるでうめき声を上げるかのように。
『シメイ……D級……食ゥウ…』
緑色の巨躯は、壊れた床に沈み込むようにして、傾いた。それと同時に生まれた隙間から、でたらめに瓦礫を乱射する。そのうちのいくつかはイバラめがけて、そして無力なカストルの急所を貫こうとしていた。
「なんでェ、目的はオレかよ」
電光石火。クレバスは、瓦礫の弾丸に対し立ちふさがるようにして、イバラの前へと躍り出す。その時すでに、クレバスは六本の腕を展開していて、それぞれが拳銃を握りしめていた。
イバラの作り出した花に変わって、火花が咲き乱れる。
それは砲火であり、弾丸同士のぶつかり合いであり、死に物狂いで襲い掛かってきた殺人重機の最後の灯火だった。だが、クレバスの放った弾丸は、飛び来る弾丸ひとつひとつを正確に撃ち抜き、砕いた。
そして、敵砲手――植え付けられた「生」という病魔に犯された鉄塊は、生き物のごとく「死」を迎える。その体を彩った緑は、役目を果たしたとばかりに土色に朽ち果てる。
『ウゴ……ゴゴ』
高所から叩き落され、内側から食い荒らされ、それでも鉄の塊は止まらない。機構を蝕んだ「生」すらも糧として、どうにか自身の再生を試みていた。
「そのタフネス、驚嘆に値すンぜ、敵ながらな!」
クレバスは、二本腕に二本足の、ヒトに近い姿に戻る。骨や関節構造すらも、人間のものが再現されていく。
「いや、さすがはオレの――D級遺物のレプリカと言うべきか?」
そんなクレバスの骨ばった鋼の腕に、みるみるうちに肌色が積層され、コーティングされていく。よりヒトに違い姿へと変化していく。
「今のオレの変形改造はこれが限度だが……介錯には十分だ」
そう言い、ゆっくりと、堂々と、鉄塊へと歩み寄っていく。開かれた右手を小指から順に一本ずつ握りながら。
やがて、クレバスは鉄塊と対面する。ゆっくりと右肘を引き、そこから正拳を繰り出す。もちろん、鉄塊はクレバスの拳如きには微動だにしない。だが、その拳は異質だった。それは、衝撃どころか、叩いたことに伴う金属音すらなかったのだ。そのことに気づいていたのはカストルとラキで、その本質を理解しているのはラキだけだった。音が出ない――「音」という形で、拳が持つエネルギーが無駄に消費されなかったことの意味。
「お前はもう死んでいる、なんつッて」
そう、クレバスが不敵に笑った瞬間である。鉄塊の巨体が、爆ぜた。クレバスは飛び上がって後退しながら残心し、壊れゆく様子を見守る。内側からめくりあがるようにして、一層、また一層と破壊され、内部構造を晒す。その極点には小さな緑色がひとつ。クレバスはそれが何か、知っている。殺人重機の中枢を担うパーツ――コア・メモリーだ。それもまた、姿を見せた次の瞬間には粉々に砕け散った。
鉄塊は断末魔もなく、瓦解する。今度こそ、殺人重機は完膚なきまでにその姿と機能を完全に停止した。
「今のは、一体」
戻ってきたクレバスに、カストルは尋ねた。
「浸透勁。平たく言うなら威力を内部に浸透させる技だ。こいつは核を潰さないとさっきみたいに復活してくるからな」
クレバスの手足を覆っていた肌色は滴り落ちて、もとの無骨な骨格があらわになっていく。
クレバスの技は、本来は使用者の筋肉の弛緩や体重の移動を利用して、鎧や筋肉の層を無視して内側にダメージを与える拳法だ。音すら出ない、といのは、完全に威力を内部に浸透させたという意味でもある。
そんな「人間の技術」を機械の体を持つクレバスが使っているという時点でいくらかぶっ飛んでいるが、それ以上に気になる点があった。
「なぜそんな芸当ができるかも気になるが……なぜお前がこいつの弱点を知ってる?」
「簡単さ。こいつが、オレの模造品だからだヨ」
クレバスは言った。
「周囲の物体を分解・再構築する能力。取り込んだ物体によって自身を改造する能力。すべてオレの――D級遺物《かつては男と女》のものだ」
「D級遺物……」
世界のルールを変え、雪の世界に勝つための存在。遺物の中の遺物。
カストルとラキの運命を弄ぶ存在の、同輩。
「お前が……?」
「そうだ。オレに与えられた能力は『世界最高峰であり最後の3Dプリンター』。もっとも、『最後の』ッつー謳い文句はコイツのせいで嘘になっちまいそうだが」
クレバスが殺人機械の残骸を蹴ると、その体の各所からモーター音が聞こえた。
「D級ッつっても勝てない相手には勝てないし、働きすぎればエネルギーだって切れる。ふつうのサイボーグさ。かしこまる必要はどこにもねェよ」
クレバスは、用も済んだとばかりに、もとの入り口を目指してすたすたと歩き始めた。
~
一行がダンジョンの出入り口――元の縦穴に到着するころ、カストルもすっかり力を取り戻し、己の脚で立っていた。
「かなり、調子が戻ったようね」
イバラがカストルの顔をジッと見た。
「健全には程遠いけどな」
カストルは明朗に答える。クレバスもイバラも、それが空元気だと知っている。健やかさを切り売りして戦っているカストルに、大丈夫という言葉ほど縁のないものもない。
カストルの体はもはや能力なしには成り立たない程度には朽ち果てている。痛ましい姿に、またイバラは歯噛みした。
イバラは、直上の出口を見上げる。岩肌の遺物庫、その天井がイバラを見下ろした。
「この上には、たくさん人間がいるのよね?」
「ああ」
「世界は、平和なのかしら?」
イバラのエメラルドの目が、クレバスをジッと見た。
「お前さんがいつ眠ったのかは知らんが、まだ雪は降り続いているし、低いレベルで安定してはいるが、人類社会は最盛期の姿からはほど遠いよ。ゆっくりとではあるが着実に滅びている」
「救い、導くべき民がいるということね」
神と名乗る少女の瞳には緑色の闘志が燃えている。
「イバラの能力があれば、造作もないだろうな」
雪と雲に包まれたいまの世界では、食料としての植物は非常に高級である。それを象徴するのが、探索者御用達の携帯食糧だ。種々様々なマズさがあると評判のそれは、希少な食用植物を一切の無駄なく可食加工した代物……と言えば聞こえはいいが、実態は傷みなどの理由で使い道のない植物を無理矢理練り固め、パッケージングすることで商品のテイだけ整えた物体だ。
一番身近な植物食品がそれなのだから、イバラの能力で作られる旨い植物は、味覚に革命を起こすことは間違いない。
「まあ導きの方はいらんだろうけども」
カストルがそう言うと、イバラの表情は一変、こわばった。
「……どういうこと? 私の導きがいらないというのは」
「ん? そりゃあ、俺たちにはすでにママがいるからだ」
「なるほど……さっきあなたは先遣隊と名乗ってたものね」
イバラは人員を編成する「リーダー」、現在の人類にもヒエラルキーがあり、そのトップを担う人間がいると理解した。その人物こそ、「ママ」という人物なのだろう。
「じゃあ、その王を従わせればいいのね?」
「そうよ」
カストルでも、クレバスでも、イバラでもない声が、ダンジョン直上、冷たい遺物庫からダンジョン内のカストルたちに降り注いだ。
「この声は……」
カストルが聞き間違うはずもない。長年慣れ親しんできたその声。その目線。
「ママ」
だが、今やそこには少なからず険が含まれていた。
「シュガー・ハイと流浪人と……あとはもう一人イレギュラーかい?」
――なんでもいいねェ。
冷酷な声が降り注ぐ。次の瞬間、カストルの頬にざらざらとした「何か」が触れた。
それが何であるか、リヴァーシ最強の二つ名持ちには、すぐには察せられなかった。なぜなら、それは始めての場所だったから。
「何……だ、これ……ッ!」
それは、床だ。カストルが一度も伏したことのない、敗北の場所だからだ。
ここは、発声すらままならない。それはイバラとクレバスも同じようで、うめき声さえ聞こえない。首も動かないため仲間の安否確認すらできていない。
どういうことだ?
なぜカストルの庇護者であるママがカストルと敵対する? なぜ能力を隠していた? 一体何の能力なのか? 感情から、理性から、疑問が無秩序に・無制限に沸き立つ。だが、いま、この場でわかることなど、何一つない。この瞬間、カストルの思考を支配していたのは混乱だった。
「全く、選挙も近いのに、余計な仕事増やし腐って。時間がもったいない」
カストルは切れた。敵意の前に無様に這い蹲り続け、屈服のポーズを取り続ける腹立たしさに。己の不甲斐なさに。
怒りでもって、速やかに混沌とした思考に終止符を打つ。
カストルは、唇へ歯を突き立てる。土壇場にあっても戦士そのものだった。
「《痛みを届けるもの/アロー・オブ・ペイン》だね? シュガー・ハイ」
――読まれてる。
痛みを介し糖を肉体に開放するナノマシン。カストルの全身を満ちたエネルギーがあふれ出し、熱や光となって噴き出す。炎はカストル自身の肉体をも焼き払うが、それを押さえ込むほどの速度で体中の傷も癒えていく。力づくで地面に抑え込まれていたカストルの肉体が、重圧の中で徐々に立ち上がる。《糖酔/シュガー・ハイ》の本領発揮だ。だが、それと同時に冷や汗も滴り落ちては蒸発し、湯気を作っていく。カストルは、手の内が筒抜けであることの恐怖を知った。これまで、こんなことはなかった。
「ママーッ!」
カストルは力任せにママの能力による呪縛を振り払い、怒りを脚に込めてコンクリートの壁を駆け上る。
ママを倒し、ここにいる意味を、自分たちを攻撃した理由を問うために。
カストルの脚の筋肉が炸裂し、コンクリートを砕きながら飛び上がる。腕が風を切ってママへと伸びる。圧縮された体感時間の中で、ママとカストル間の距離は凄まじい速さで縮まっていく。
そして、カストルの手がママの襟首を捕らえた。
そう確信した瞬間だった。カストルの手が、何もない空を掻いたのは。
結論から言うなら、カストルの手はママに届かなかった。
「……?」
なぜ宙へと猛スピードで飛び上がったカストルがママを捕らえられなかったのか。
答えは単純明快。その動きに合わせて装甲車椅子ごと飛び上がっていたからだ。あたかも、ダンスを踊るかのように。車椅子の下部から炎を吹き出し、飛び上がっていたからだ。
「ちェェいやッ!」
ママが勢いのままに頭突きを食らわせると、カストルはそのままのスピードで天井へと叩きつけられ、めり込んだ。
「勢い余って激突……?」
イバラが心配そうに呟いた。クレバスとイバラを縛り付けていたママの束縛は解除されていた。
ふと、イバラが先ほどまで自分が金縛りにされていた床に視線を落とすと、そこには自分たちがめり込んでいた場所を覆うように左右一そろいの足形が刻まれていた。
「ママさんの能力は、失った脚を補うサイコキネシスか」
「ご名答、だね。《死滅都市の戴冠者/ディス・サイレンス・イズ・マイン》という」
天井から剥がれるように力なく落下したカストルを、ママはその膝で受け止めた。さながら、卵を捕らえるかのように。息を呑むほどに精密で、優しい技術がそこにあった。
「私も昔ムチャをして脚を無くしてね」
「シュガー・ハイみたいにリスクを背負うことで能力が増大したパターンッてわけね」
クレバスの機械の目は、空中を舞う微細な埃や空気の流れ、くの字に折れ曲がって空中に吊り下げられるカストルの姿を介して、ママの周囲に無色透明でしなやかな脚を視ていた。
「でもヤバくね? ママさん」
クレバスは言った。その口元に笑みを含んで。
「シュガー・ハイはまだ戦る気ッぽいぜ」
そうクレバスが言うや否や、力なくへし折れていたと思われたカストルの体が空中へと跳ね上がった。ひらり、とラキのコートを脱ぎ捨て、空中に舞わせながら。
ママは完全に不意を突かれたし、カストルの気配を察知していたクレバスにしても、カストルがそこまで動けるとは思わなかったから、二人は完全に面食らった形となった。
「そんな!」
「腹筋だけで飛び上がったのか!」
人間離れした機動。ママを見据える軌道。
「まアァアァアアァァァァまァァアアァァァァァァァァァ!!」
燃え上がり怒り狂うその姿はまさしく、鬼道。その名は、《糖酔・過/シュガー・ハイ:オーバードース》。
『兄さん! やめて!』
もはや解除されてしまった安全装置、ラキは悲痛に叫んだ。
己の体を燃え立たせながら、それでも尚溢れるエネルギーを全身に纏ったカストルは、今回は自分の意志と脚で天井に着地する。
カストルの脚に破壊と再生がみなぎると、天井は波紋を描くようにひび割れ、鍾乳石が槍となって降り注いだ。
――流星。
全長は一メートル半を越え、口径は五十センチ超、重量は七十キログラムを数えるであろう巨大な弾丸が、ママに狙いを定め燃え盛っていた。誰もがあっけにとられ、彼が描くであろう破滅的な軌道と、死と崩壊を予感していた。
約一名を除いて。
ウナバラ・イバラ。神と名乗った女。
「死にたいの? カストル・ポルックスッ!」
彼女はこの場でただ一人、燃え尽きようとしているカストルの身を案じ、動いていた。
「戒めろ! 《萌え盛る檻/チュシ・ムンコトゥカ》!」
突然の第三勢力だった。
イバラが声を上げると、少女の袖からうなりを上げながら蔦が伸びる。そしてカストルからも、その腹部を突き破るようにして新芽が顔を出した。
――イバラの果実か。
イバラがカストルの肉体を素材として、直接植物を生み出した可能性もある。だが、カストルが真っ先に思い至ったのは、イバラが作り出し、カストルが食した果実だった。
カストルの腹部から芽吹くもの、そしてイバラの袖から伸びるもの。二つは惹かれ合うように結びつき合い、瞬時に一本の巨大な綱が形作る。
カストルは違和感に目を見開く。己のどてっ腹を貫いて、種が芽を出したことにではない。もっと根源的で、決定的な異常事態に、震えた。
――俺の、チカラが……!
すかさずイバラが力一杯腕を引くと、カストルは引きずられるようにして墜落した。
「が……はッ」
それと同時に、暴風雨を閉じこめたかのようなエネルギーが燐光となりカストルの体から霧散した。光の粒に触れたイバラの植物たちは、いっそう大きく成長し、カストルの体をがんじがらめに縛り上げた。
『私も……姿が……!』
カストルに続き、髪の毛で編み上げられたラキのコートが、解け始める。
思えば、おかしかったのだ。食物の消化はそうすぐに起こるものではない。ではなぜ、イバラの作った青い果実はカストルの体に存在する過剰な糖分を封じえたのだろうか? なぜ炸裂せんと昂ぶる《糖酔》を即座に封印しえたのか?
その答えが、最早、カストルには見えていた。
地に落ちたカストルを尻目に、イバラは怒りに肩を震わせる。
「どうしてそう易々と命を捨てようとするの? 今の時代の人間はみんなこうなの?」
その眼はまっすぐに直上のママを見据えていた。
「いいえ。そんなことはないわ」
静かに、ママが言った。
「単に、この子がそれ以外に賭けるべきものを持たないからよ」
健康な体さえ捨て去ったカストルの心には、妹のラキ以外何人たりとも立ち入れない。たとえ、似たような孤独を背負っていても。それが、ママの出した結論だった。
「我々ギルドは、探索者カストル・ポルックスの二つ名を剥奪、そして怪物誘致の容疑で捕らえることを決定しました」
ママは、己の言葉を咀嚼するかのように言った。まるで、その言葉を、自分の政治的失敗を、自身に言い聞かせるように。
カストルは苦痛によって薄れゆくの中で、ママの言葉を聞く。だが、その表情は驚くほど穏やかだった。それも当然だろう。彼が心のそこから希求していたものが、見つかったのだから。
能力を封じる何か。それはイバラの手に握られている。