糖酔・黒
ママの親衛隊のひとり、アラナミ・ビトウは葉や茎のクズを押し固めた携帯食糧をかじりながら、剃り揃えられた顎髭を撫でる。不機嫌なときのクセだ。
「休暇のひとつでも欲しいところだ。だいいち俺のメインの職能は工兵だぞ。何が楽しくて昨日の今日で黒い悪魔なぞ探さにゃならん」
そんなに人手が足りないか、と口を尖らせるビトウは不満を隠そうともしない。彼は先日の決闘でクレバスに賭けて、小遣いを一通り失ったところだった。
「まあそういうな、相棒」
同じ制服を着た男がビトウを宥める。
早朝の空気は、露出した体毛を凍り付かせるには十分な冷気を帯びていて、屋内においても全くゆるむことはない。家の外壁が、昨日のモンスターによって突き破られているためだ。
今、ビトウはポルックス家の中に進入している。もちろん野盗などではない。ママからのミッションを受けて、だ。
早晩、彼含め親衛隊はママの命を受けてポルックス家に向かい、黒い悪魔と遭遇し、ギルドの貴重な移動手段であるジェットスキーを木っ端微塵にして、その上で一晩かけてギルド・ベースまで逃げ帰った。低級とはいえ、貴重な遺物を修理不可能な状態まで損壊させたのだ。どんな大目玉を食うか、まったく想像できなかった。
しかし、彼のボスであるママは涙混じりの笑顔で彼を出迎えた。「よく帰ってきた」とまで言った。その言葉で、遅まきながら、己の抜けた修羅場を思い返し、震え上がった。
黒く巨大な暴力の化身。その腕の一振りは林を打ち倒し、その脚の一歩は雪原を波立たせる。誰一人その怪物についての知識を持たず、対抗策も知らない。改めて、誰一人犠牲が出ていないことが、冗談のようだった。
そして、黒い悪魔は冗談のように消えた。その痕跡だけを残して。
数メートルもある巨躯を持ち、周囲一帯を巻き添えに精鋭軍を打ち倒した。十二時間近くが経つ今も、その行方も、正体も、杳として知れない。
「ギルドとして、これを野放しにしておくわけにはいかない」
ママはギルドマスターを選出する選挙を控えた議会の場で、重苦しく、しかし強い語調で言った。ママの、普段後ろに丁寧にまとめてあるはずの髪が、少しだけ乱れていた。
「関係者と思われるカストル・ポルックスの処罰も視野に入れています」
異議を唱える者は、当然、一人としてなく、むしろ副ギルドマスターの隠しもしない嫌らしい笑みが、傍聴していたビトウの脳裏にはこびりついている。彼らは近く、新たなギルド指導者の座を巡って選挙戦を争う予定だった。
ビトウは乱暴にポルックス家の壁を蹴って、ブーツについた雪を払う。机におかれていた空のアンプルの一つが、床に落ちて割れた。
不良探索者、しかし最強としてその名を轟かせる《糖酔/シュガー・ハイ》の住居は驚くほど生活感に乏しかった。転がっているのはアンプルと、さまざまな種類の注射器、そして幾ばくかの代金トークン。低級の医療用の遺物も散見されるが、食糧含め嗜好品はほとんど皆無で、ベッドすらない有様だ。
「シュガー・ハイは……質素な暮らしをしてんだな」
思わず、そんな言葉がビトウの口をついて出た。
「どこか別に財産として貯めてあるんだろ」
先に進む相棒は、すげなく言った。背中から、「早く家に帰りたい」という怨嗟の声が漏れていた。
が、それはすぐ隣の部屋に入るなり、驚愕に変わる。相棒の感嘆の声がポルックス家にこだまするなり、ビトウは臨戦態勢に入る。
「どうした!?」
腕の中の遺物銃の重みを確かめるように抱き抱えながら、相棒に声をかける。相棒は、微動だにせず、しかし、一歩も部屋に入ることなく、のぞき込んでいる。
「こいつはすげえや……いや、何だ、何だこれ!」
ビトウは、襲撃に、そして万一の相棒の死に備えねばならなかったが、ここは探索者としての好奇心が勝った。銃の安全装置を外すと、相棒を押し退けるように、視線と銃口を部屋の中へと向けると、ビトウもまた、相棒と同じように息を呑んだ。
銀色に輝く一抱えはある球体が、無音のまま部屋の中央に浮遊し、旋回していた。
しかし、驚いたのも一瞬で、親衛隊の中でも遺物知識に優れるビトウはすぐさま、その物体の正体を割り出す。
「触るなよ、遺物だ」
A級遺物、《影/ケージ》。拷問拘束具だ。対モンスター用の使用を前提としていて、対人ではセーフティが働くはずだが、油断はできない。改造されている可能性もあるからだ。
「それもそうだが、見ろよ、壁と天井をよ。床もだ!」
相棒の声に誘導され、ビトウの視線が壁面に向かった。
「なんだ、これは」
その部屋は、異界だった。
親衛隊の地位に上り詰めるまで、それなりの修羅場をくぐったはずのビトウでさえ、わずかな間、呼吸が止まる。想像を絶する光景だった。
「機械、なのか」
部屋の壁面が機械で埋め尽くされている。
それだけなら、ダンジョンと化した研究所によくある光景だ。だが、そこはびっしりと小さな部品たちに覆われていた。それらは絶えず連なって蠢動し、小刻みに音を立てる。部屋には、本や寝具、散らかった服のように見えたものもあった。
しかし、それらさえ、「そういう形をした」剥き出しの機械で、日常の風景が機械にすり替わってしまったよう。それらが立てる駆動音は、合唱団の聖歌ようにブレがない。まるで、部屋全体で、縄張りを主張する一匹の獣になり果てたようだった。
いま、覗き込んでいるのは、ビトウと相棒の二人だけではない。「部屋」もまた、虎視眈々と二人のことを覗き込み、狙っている。彼らの勘は、静かな敵意を前に、緊張感を取り戻す。規則的なカチカチという小刻みな音は、さながら舌なめずりか。
ビトウは銃を遺物に持ち替え、起動する。この行為が正体不明の「部屋」の機嫌を損なわないよう、祈りながら。
「穿て、《問わず鏡/ミラー、ミラー》」
ビトウの声紋によって、遺物銃のトリガーが引かれると、杭が射出され、部屋の機械に侵食されていない壁につき刺さる。同時に、ビトウの右腕に取り付けられた平面状のデバイスが起動する。A級に匹敵する力を持つその遺物は、ビトウの掘り当てた、自慢の品だ。
ビトウの遺物銃から発射されたのは《アリアドネの糸》。それは頑丈なセンサーであり、杭であり、そして、《問わず鏡》があるならばソナーにも、金属探知機にも、熱探知機にもなる。物体の解析を行わせたら右に出るものはなく、さらに解析結果を板状のモニターで分かりやすく、かつ素早く表示し、さらには、その高機能にも関わらず手鏡サイズのコンパクトさを持つ。
「どうだ?」
相棒が、《問わず鏡》の解析結果をせかす。性急な相棒にも、《問わず鏡》は難なく答えた。
「この部屋だけ、壁も天井も……不自然なくらい薄い」
相棒の男は、ツバを呑んだ。それはこの部屋に十分な耐風雪能力がないことを意味し、不用意な刺激は死に直結する、ということ。相棒の男は、瞬発的に部屋から距離を取った。
「工兵のビトウさんよ、お前はこの部屋、どう見る」
ビトウは《問わず鏡》の電源を落とし、静かに部屋から一歩距離を取った。
「機械の仕事は、おおまかに分けて三つ」
一つ、物体の構築。
一つ、人間には出せない力を発揮すること。
一つ、物体を維持すること。
「物体の構築ではなさそうだから、二つ目と三つ目がそうなんだろうな」
「改めていくつか聞こう。一つ目、この機械はなにをやっている?」
相棒の男は、寝物語をせがむ子供のような顔でB級遺物《王様の耳/キングオブソリチュード》を起動する。聞き取った言語を自動的に文書化し記録する優れものだ。
「単刀直入に言えば、この部屋の維持だろう」
《王様の耳》にさらさらとビトウの言葉が文字として入力されていく。
「維持。具体的に何をやってるんだ」
ビトウは、改めて部屋を見回す。
「この部屋の機械は極めて微細な歯車やバネで構成されている。おそらく、それらが淀みなく動き続けることで、この部屋が風雪から受けるダメージを各パーツへと分散し、ゆがみを最小限に抑えることで、この部屋を維持してるんだろう」
この部屋を構成する機械のパーツひとつひとつは、細胞であると同時に、重要な臓器でもあると、彼の勘が告げる。つまり、この部屋は緻密なパズルであると同時に、わずかな衝撃も許さない、繊細なドミノ倒しでもあるのだ。下手に手を出せば、待つのは崩壊と死。
相棒の男は、中空に浮かぶ、巨大で不気味な銀球に目をやる。
「質問二つ目。この部屋の機械を維持しているのは、あの遺物か?」
「結論から言うなら、違うな。《影》はその内部にモンスターを取り込み、その抵抗や体温を糧として動く。そのエネルギーは微力で、《影》自身を維持するので精一杯のはずだ」
「じゃあ最後の質問だ。《影》って言ったか。あの遺物の動力になっているものは何だ。《問わず鏡》で解析できるか?」
「やってみよう」
ビトウは、再び《問わず鏡》を起動する。目標は、《影》。単一の対象を目的とし、高速かつ精密な解析を行う。
撃ち出された《アリアドネの糸》から放たれる赤いビームが銀球の表面を照らし、その内部をモニターに映し出していく。
「こりゃ驚いた」
生々しい死の香りが、知的好奇心に浮ついたビトウの正気に激烈な衝撃を与え、現実の修羅場に引き戻す。遺物の中は、赤く粘性の高い液体で満たされていた。ビトウの優秀な遺物は、彼が察するまでもなくその正体を即割り出す。血液だ。
さらに、血液を透過したさらに奥を映し出すモニターに現れたのは、ビトウの持つ《影》についての知識を真っ向から否定する代物だった。
ビトウの舌先は、導かれるように言葉を編む。
――人間の、少女だ。
あられもない姿の少女――生まれたばかりの姿どころではない。衣服だけでなく、生皮さえも、それどころか、胴から頭部にかけてをごっそり失った少女が、《影》を満たす血の海の中に、丸くなって収まっていた。《影》が動いているあたり、少なくとも彼女は死んでいないのだろう。
「シュガー・ハイのサイコ野郎め」
解析結果を覗き込み、相棒は毒づく。ビトウもほぼ同意見だった。
しかし、同時にこの少女がただ者ではないと、ビトウは思った。《影》は金属製であり、その内側は血液で満たされている。それでもなお、《影》は活動している。
つまり、呼吸せずとも、心臓や脳さえなくとも、中の少女は生存しているということだ。
その予想を裏付けるかのように、《影》の中で一枚のプレートが血の渦潮の中で踊っているのを、《問わず鏡》は見逃さなかった。
そこには、こう書かれていた。
『この子こそが、お前らの目当ての黒い悪魔だ。だが、手出ししたらこの部屋ごと潰れるから、大人しく俺が帰るのを待ってろ。そうしたら、洗いざらい話してやる。シュガー・ハイより』
ビトウは、即座に通話をママに繋ぐ。挨拶もそこそこに直接文面を読み上げる。すると、ママはこう言った。
「私が直接教育しに行くわ」
交わした会話はそれだけだった。だが、ママはビトウが、今までに聞いたこともないような、怒りに満ちた声をしていた。
――《糖酔》に関わるとろくなことがない。
ビトウはそう忠告してくれた新しい友人、イバラの蛍色の瞳を思い出していた。
「時代は副ギルマスかね……」
ビトウはつぶやいたのち、誰にも聞かれていないか、周囲を確認した。
~
カストルの岩のような拳が、口裂け狼の頭蓋骨の砕ける感触を脳髄に伝える。カストルは、叩き殺したモンスターが廊下に叩きつけられるのを待たずに、黒いコートをはためかせて二体目の口裂け狼へと駆け寄り、その勢いで背骨を蹴り潰し、真っ二つにする。狼の身体は鋼のドアに叩きつけられ、白い壁を赤く汚すシミとなる。
「上だァ、シュガー・ハイ」
クレバスが言うまでもなく、カストルの伸張した時間間隔は、視覚、聴覚、嗅覚、触覚でその姿を捉えていた。口裂け狼は、胸まで裂け、肋骨までをも牙と化した大口からえげつない臭気を撒き散らし、カストルに喰らい付こうとしていた。口裂け狼はあらゆるものを捕食し、消化するために、消化器官と口腔がほぼ一体化させたモンスターだ。口裂け狼の噛み付きは、強酸性の体液と、雑菌の巣窟である唾液を打ち込んでくる。まさに必殺の一撃であり、食らえば最低でもその部位の切断は免れない。
ただし、相手がリヴァーシ最強の探索者、《糖酔/シュガー・ハイ》カストル・ポルックスでさえなければ、だが。
「口裂け狼にもキスの文化はあるかい?」
カストルは漆黒のコートを翻す。足刀で分断した口裂け狼の上半身を、襲い掛かってくる生きたモノに向けて蹴りつける。
跳びかかる狼は、仲間の強酸性の体液に焼かれ、肉塊に衝突し、リノリウムの床に墜落する。すかさずカストルは首の骨を踏み折る。カストルは黒いコートにひとかけらの埃もつけることなく、三匹の獣を屠る。血臭のなか、かすかに甘みが香った。
カストルは軽く手を払い、銀紙に包まれた針葉樹の葉を練り固めた携帯糧食を開封した。銀紙で手の汚れをふき取って捨てると、青臭い味とざらついた食感の糧食を口の中に放り込み、それを唾液と舌でほぐし、吐き出さないよう、慎重に飲み込む。シュガー・ハイのふたりは今、潜り込んだダンジョンの中にいた。
遺物倉庫が鍾乳洞のような場所だったのに反し、ダンジョンはコンクリート造りであり、彼らがいる場所は様々な部屋にアクセスできる廊下のようだった。
カストルはマスクを外していて、モンスターが生存している。これは、ダンジョン内の空気は地上のそれとほとんど変わらないことを意味していた。
「口裂け狼がいるッてこたぁ、そこそこ生態系が発達してるな」
クレバスは、壁面の明かりのあった場所に集中したまま、カストルには目もくれず言った。もはやクレバスは、まったくカストルの戦いぶりに興味を示さなかった。
「どうかな、首にタグがついている。確かに種類は多いかもだが、管理されているんじゃないか」
カストルは、部屋の一つについた窓をのぞき込むと、顔をしかめた。暗く、その中身はわからないが、異様な獣臭だけが鼻孔にこびりついた。
その間にも、クレバスのダンジョン復旧作業は続く。カストルの戦闘力は、クレバスが想像していたよりも遥かに高かったらしく、戦闘のカストル、修理のクレバスと完全に分業が成り立っていた。そのおかげで照明の復旧作業はクレバスが想像するよりも、スムーズに進んでいた。
けれど、本体の電源にはたどり着いていない。今はクレバスの持ち込んだ予備電源でかろうじて明かりをつけている状態だ。
「予備電源の制限時間もあッから、とりあえずお前の能力が解除されるまでは進む。その後は大人しく戻る、いいな?」
カストルは「了解」と繰り返した。
縦穴からダイヴした先のダンジョンは、ママの言うとおり、医療系施設の成れの果てのようだった。慣れないリノリウムの床が、カストルにはむずがゆい。
「予備電源も、おそらくこの施設の中においてあるな?」
カストルは言う。クレバスは面食らったように間を開けてから、頷いた。
「あ、ああ。だがどうしてそれを?」
「よくサスペンスドラマとかでやってるじゃんよ。病院を襲う急な停電」
「リヴァーシは過去の動画は禁書指定じゃねェのか?」
「まさか!」
カストルは吹き出した。
「決闘と選挙程度しか娯楽のない街だぜ? 過去の創作物まで禁止されたら何も楽しみがなくなる」
「そうか……そうだよなァ」
納得したように、クレバスは頷いた。だが、同時に疑問が発生する。この街では、《禁じられた遊び》の動画が禁書指定されていた。
――能力の出現した理由が知られることが不都合なのか?
「ひょッとして、ママさんって、能力者か?」
クレバスが聞くと、カストルは「知らねぇ」とすげなく返す。少ししてから、カストルも投げやりすぎる返答だと反省したのか、ママについて知っていることを語りだした。
「リヴァーシの長老さ。少なくとも俺が物心ついた頃からママはここのボスだったし、いい人だってことしかわからない」
「ママさんには副官とか懐刀みてェな人はいるのか?」
「いや、聞いたことないな。でも俺みたいな孤立無援ってわけじゃなくて、年の功で色んな個性や考え方をうまく包み込んでるって感じ」
そう言うカストルの脳裏をよぎったママの姿は、市政を取り仕切るものではなく、客足の芳しくないバーの一角で、編み物に精を出す老女としてのそれだった。カストルは、ママが本当に孤立無援でないか、少し自信がなくなった。
「仕事で忙しい限り、孤独は忘れていられるさ」
ギルドのある街から街をひとり転々とするクレバスらしい言葉だった。クレバスは新しい電球を見つけると、背嚢が盛り上がり、そこからいくつかの工具とカメラが出現する。新しく組み立てたマニュピレーターによって、床に立ちながら天井を弄るのがクレバスのスタイルだ。
その間カストルは周囲の哨戒につとめる。強化されたカストルの視力は夜目が効く。わずかな明かりのみを頼りに、遮蔽物のない廊下は、すべて見通せた。
「……?」
そんなカストルの目に映ったのは、戦車だった。
「……は?」
一瞬、思考がフリーズする。なぜこんなところに戦車が? 見間違え? 疲れ?
そんな思考のノイズさえ後悔するほどに、そして、もはやそんな余裕はないほどに、刹那で状況は逼迫した。キャタピラにぶち破られる壁とともに、現実がその表情を変えた。
「……ッ!」
目を覚ましたのは、巨大な鋼だった。
サイボーグのクレバスですら状況を把握できていないなか、カストルの目だけが鮮明にその姿を捉えていた。
「敵」。それは、ユンボと戦車を足して、そのまま敵意を上塗りしたような、巨大な機械。
廊下を埋め尽くすどころの話ではない。身じろぎするだけで、三本のショベルアームは天井を削り取り、スパイクだらけのキャタピラはリノリウムの床を踏み砕き、ダンジョンを破壊していく。明らかに、この場所には過剰で、不釣合い。まさしく、殺人重機と呼ぶべき代物だ。まともな探索者なら、まず勝ち目はない。
「逃げる?」
――今までカストルとクレバスが通ってきた道には、いつの間にやら鉄格子が降りている。
「戦うか」
――この手は、あまり使いたくない。しかし、他に手はない。
クレバスが吠える。
「覚悟を決めろ、シュガー・ハイ!」
カストルは、モンスターマシンが主砲の標準を彼に合わせる間にも、ラキを想っていた。
戦う覚悟なら、気が遠くなるような昔に極めた。
ラキを守るためなら、どれだけ傷つこうが、命を削ろうが、構わないと。ラキがどれだけ変わろうが、カストル自身がどれだけ衰弱しようが、その誓いだけは、少年の胸のうちで紅く燃え続ける。今もそれは変わらない。
――だが、ラキは戦ってまでも生きることを望むか?
わからない。けれど、選択している時間もない。カストルは、黒いコートの前を開く。強く、激しく。罪悪感ごと、拭い去るかのように。それでも心からあふれ出す自責の念が、懺悔として口からあふれ出した。そしてほんの少しだけ、己の正しさを祈った。
「すまない、助けてくれ」
コートの内側から現れたのは、肋骨にも似たプロテクターを纏うカストルの上半身。そして、カストルの背後から右肩へせり上がるようにして生首が現れ、カストルの本来の首へと寄り添った。
黒いコートがマントのようにたなびくと、生首はカストルに微笑む。マントが、生首へと収束していく。黒くたゆたう、鴉の濡れ羽色の髪として。
「ラキ」
カストルが祈るように、生首の――最愛の妹の名を呼ぶ。
そして今や彼女は、カストルの一番近くに。彼の隣にいた。
『助けるよ。私は兄さんを助ける。いつでも、何度でも』
それは、カストルが待ち望んだ声。彼に残された唯一の肉親との、久しい会話の第一声だった。
感慨に浸っている暇はない。カストルの右腕に、黒髪が絡みつき、腕の中へ潜り込む。血管に、筋肉に、骨に、比喩でなく、ラキの一部が侵入し、カストルの肉体を改造していく。カストルの肉体は、とろけるように甘い血液のシロップをマグマのように吐き出した。
しかし、殺人重機は待たない。カストルの鼓膜を爆発させる轟音とともに、周囲のひび割れた壁をわななかせ、ヒトに向けて撃つには殺りすぎの砲弾を放った。
死を目の前にして、カストルの時の流れが極端に遅くなる。《糖酔》によるものではない、純然たる走馬燈だ。幻想的な光景と、ラキに肉体を引き裂かれる感触の中で、カストルはぼんやりと「目に入れても痛くないほどかわいい」という言葉を思い出していた。
痛いわけがない。ラキのすべてを受け入れると決めていたから。代わりに、恐怖がカストルの神経を蝕む。その目には床で死んでいる小蝿の毛の一本一本さえも見え、その耳はどこかの誰かの怒鳴り声も聞こえ、その肌は空気のそよぎさえも誰かに触られるように感じる。感覚が異常をきたしているのだ。極度に鋭敏化するという形で。理解できない現象に戦くと、カストルの感覚は目や耳は、いっそうわけのわからない情報を脳へと送り込む。
その恐怖は、カストル本人のモノではないと、直感的に理解する。兄妹の絆が教えてくれる。カストルが「砂糖」を用いて能力を発動するように、ラキは「恐怖」を触媒として、力を発動していた――もとい、させられていた、と。恐怖は、感覚を鋭敏にさせる。本来見えないはずのものが見え、聞こえないはずの音が聞こえる。それらはラキの恐怖を助長させ、ラキ自身を苛む。やがてラキの筋肉は膨張し、骨は硬度を増し、髪は全身を覆う鎧となる。そして、優しいラキは恐れるのだ。己が、他人を傷つけてしまうことを――。
「辛かったな、ラキ」
哀れに思う。恐怖だなんて、誰にでもあるありきたりな感情のために、他者に恐怖を振りまく怪物と化していた妹のことを。
「苦しかったよな、悲しかったよな」
だが、それも、今日このときまで、だ。これからのカストルとラキは、恐怖さえ分かち合う。
「緑の天使よ。ラキを、彼女の苦痛を、我が肉に受け入れる機会を与えてくださったことに、感謝を捧げます」
カストルは、ギルドの天井にて冒険者たちにほほえみかけるステンドグラスを想い、左手で祈りを捧げる。
漆黒の右手で超々音速で飛来する砲弾の手応えを感じ、握り潰しながら。
「《糖酔・黒/シュガー・ハイ:アフター・ダーク》」
爆炎を波動が廊下の壁を吹き飛ばし、砂埃の嵐が過ぎ去った後、カストルの新たなる姿は、とろけるように甘い香りを纏って現れた。
《糖酔》の影響で、ただでさえ太く強化された右腕は、髪の毛と血を塗り固めて作られた黒い甲冑を纏っている。
左腕には心臓、胃、腸、肺など、消化器・循環器問わずラキの臓腑が絡みつき、てらてらと赤い光を放つ。
盛り上がったカストルの筋肉を縁取るように、白い骨がその上半身を覆う。
カストルの《糖酔》による肉体再生と、ラキの「病気」による肉体強化の合わせ技だが、半壊した廊下に降臨したカストルとラキの姿は、ラキが単体で髪の毛を纏ったよりも遙かにおぞましく、カストルが全力を出したときよりも遥かに禍々しく、吐き気を催すものだった。
しかし二人の顔には一転の曇りも淀みもない。爽やかな喜びに満ち溢れている。異形の兄妹は、英雄のように笑った。
カストルがラキの恐怖を知ったように、甘い甘いカストルの血液を介して、ラキの脳に情報が流れ込み、染み込んでゆく。
覚醒したラキは、すべてがあるべきところへ戻った気がした。これまでカストルが行ってきたのは、ラキのための戦いだ。しかし、今やラキは自ずから鉄火場に立ち、そしてカストルは、彼自身が生存するために戦っている。いま、彼らは互いを見ることができない。けれど、同じ景色からものを見ている。そのことが、ラキにとっては、果てしなく幸せで、その喜びは余すことなくカストルにも伝わっていた。カストルは、滂沱の涙を流した。
鋼の悪魔のエンジンが唸る。天井を引き裂きながら、殺人重機のショベルが殺意をむき出しにしてカストルへと襲いかかる。
『兄さん!』
「わかってる!」
カストルが脚に力を込めると、ラキの髪が伸びて右足にもまとわりつき、瞬時に黒い装甲を作り上げる。カストルは、その力強さを確かめるように、床を踏みしめて後方に跳び、コンクリートを易々と砕く鉄牙を回避する。
《糖酔》なら、こうはならない。
ふだんのカストルなら、後ろに跳びすさるよりまっすぐ突貫し、一呼吸に、一撃で、敵殺人重機を鉄くずに変えていたはずだ。
だが、《糖酔・黒》には超高速移動ができない。なぜなら、いま、カストルの体内の血液は、ラキの中にも循環しているから。そのぶん血中の糖分は薄まり、能力が弱まっているからだ。さらには、他者との融合は、拒否反応というかたちで肉体に負担をかける。再生力も劣化した。《糖酔・黒》はカストルとラキでお互いの能力を分け合い、監視しあう状態なのだ。
しかし、カストルはこの姿を劣っているとは思わない。弱いとも思わない。足手まといがいる? もってのほかだ。「ラキとともにありたい」その願いを、いびつながらも実現したこの姿、愛せない理由を、カストルは持ち合わせていなかった。
「ラキ、お前の内臓、借りるぞ!」
『うん!』
カストルは、左手でラキの心臓を握る。ラキの血をカストルへ、カストルの血をラキへと循環させている。互いに力を分け合い、高め合う。
『行っけえええっ! 私の腸っ!』
カストルが左腕を振り抜く動きが、ラキの咆哮にシンクロする。《糖酔》の腕力によって勢いよく放られたラキの腸管が空気を切り裂き、血の飛沫をばらまきながら宙を駆ける。目標は、振りおろされた殺人ショベル。カストルが左腕を引くと、ラキの腸がロープのようにショベルへ絡みつき、フックの代わりに取り付けた杭状の遺物《アリアドネの糸》がその鉄の腕に突き刺さった。
『踏ん張って、兄さん!』
カストルの右半身を覆う、黒い髪の毛の鎧が、ラキの鎖骨を支柱として牙を形作り、コンクリートの床を穿つ。即席のアンカーだ。
「あいよ!」
カストルは左腕をわずかに引く。確かな手応え。ラキの腸は確かにショベルを捕らえている。再び心臓を握る。ラキの腸に己の血液を送り込む。敵に勝つため、カストルと、ラキのフルパワーを融合させるために。カストルは双頭の肉体で円舞を踏む。
「せぇ……のッ!」
「『《転血返し》ッ!』」
戦車と重機の融合体、軽く見積もって百トンは堅いであろう巨体が、引きずられ、浮き上がる。シャベルで天井を貫き、その場に自身を固定しようとするが、それを見抜いたカストルが腸にねじりを加えると、きりもみ回転しながら床に叩きつけられる。
「ちょっ!? てめェらッ!!」
回転、殺人重機自身の超重量。そして、カストルとラキの超パワー。それらが一体となって床に叩きつけられ、鉄の塊はひしゃげ、巨大な振動を起こす。あまりの衝撃に、クレバスが恥も外聞も人の姿もなく変形し、地面に転がることをどうにか回避する。
一方で、機械の目は冷徹に戦況を見切っていた。
「まだだ、まだ終わってねェ!」
サイボーグの目は、まだ敵が沈黙していないことを見抜いていた。殺意はまだ、電気信号のかたちで鋼の中に漲っている。
カストルは瞬時に察して、殺人重機から距離を取る。
巨大な機械はうめきを上げ、闇雲に鉄の腕を振り回し、同時に腹に溜め込んだ機銃の弾丸、そのありったけを、廊下も天井も構わずぶちまけた。一発一発が必殺の威力を持つ雨霰は、金属の扉もコンクリートも区別なく穿ち、砕き、抉っていく。
しかし、悪あがきに遅れを取るカストルではない。回避し、防御し、弾き、的確に弾丸をさばいていく。
「どこを攻撃してやがる、完全にイカれっちまったか」
カストルの全身の筋肉が、一瞬、弛緩する。しかし、即座に神経系に絡みついたラキの髪の毛がそれを刺激した。
『兄さん、奴の狙いは攻撃じゃない!』
ラキの首が、周囲を見渡した。
『部屋の破壊だよ!』
カストルは、このダンジョンで自分が見てきたものを思い出す。
タグのつけられたモンスター。
獣の気配のする部屋。
答えは明白だ。
「狙いは、部屋の怪物どもの解放かッ!」
しかし、もう遅い。
鋼の扉は部屋ごとショベルに打ち壊され、弾丸で蜂の巣にされた。そこからモンスターたちが雪崩出て来るのに、一秒もいらなかった。
「クソッタレェ!」
クレバスは毒づく。しかし、その脳髄は凍ったように冷静だ。修理用に作り出した六本の腕は既に拳銃を握り、数秒後に致命的になるであろうモンスターに対して標準をつけていた。
それぞれの腕はトリガーを引き、六つの銃口は砲火を吐き散らす。即席の腕は胴に反動を与えず、すべての衝撃を受け流した。同時に後頭部に二つ、即席の目を作って、背後の哨戒まで務めている。
そして、シュガー・ハイことカストル・ポルックスとラキ・ポルックスに襲い掛かる獣、さらにその奥、既に万策尽きているはずの殺人重機をも見通す。
だが、クレバスの、否、その肉体《かつては男と女》が見ているのは、殺人重機ではない、それが打つさらなる一手だ。
――この体は便利すぎていけねェ。何でもやってくれッから、どうにも、「生きる意志」が薄弱になっちまゥ。
何もかもが雪の下に埋もれたこの時代にあって、豊かさと文明の叡智とが渾然と一体になったような肉体《かつては男と女》は、それ自体が精神を侵す病。だから、いつも、後手に回ることになる。勝つことがわかっているから。
クレバス、クレナイ・セキボは気の迷いを振り払うように、生き残るための機能を叫ぶ。
「コード:SSⅣ! 《ギブス》ッ!」
三対の銃撃腕を押しのけるように、まだ人間に近い形の腕が二本、きりもみ回転をしながら肩口から飛び出した。極端に太い前腕が、蘇ったダンジョンの明かりを受け、鈍く光る。
クレバスはすかさず地面に鋼の手のひらを叩きつける。同時にその場所を中心に、コンクリートが幾何学模様の赤白い光を放つ。光によって描かれた地上絵は、一直線にカストルの方向へと駆け抜けていく。
「跳べェ、シュガー・ハイ!」
クレバスが吼える。カストルは、一も二もなく、跳躍した。クレバスがそれを狙ったのかどうかはわからない。カストルに狙いを定めた獣たちが、飛び掛り着地した瞬間、白熱した光が、コンクリートの床を駆け抜けた。光は、奔る幾何学模様に触れた獣たちの肌にも、強く、白く、刻まれる。
「”解体”!」
クレバスが叫ぶと、模様を刻まれた何もかも――床も、獣も、一切の区別なく白い光を帯び、ばらばらに粉砕される。
赤く輝く破片たちは、世界が静止したかのように、赤い輝きを放ちながら静かに宙に留まり続けた。
殺人重機のキャタピラが、くぐもった金属音を上げる。
今度こそ最期の力と言わんばかりに、ホイールを急回転させる。しかし、それが前に進むことはない。なぜなら、今まさに下階に落下しつつあるからだ。天井に腕を突き立てぶら下がるカストルとラキは、そのもがきが無為に終わり、空洞へと落下していくのを見送った。
「殺人重機はモンスターにオレたちを襲わせるのが目的じゃアなかったのさ。ヤツの最終目的は、マシンガンぶっぱなして壊れた床をブチ崩して、完全にこのダンジョンを封印することだったッてわけよ」
クレバスは揚々と演説する。しかし状況は何一つ変わっていない。壊れて抜けた床はそのままだ。
むろんカストルとラキの《糖酔・黒》とサイボーグのクレバスなら、何の問題もなく先に進めるだろう。しかし、彼らは継続的な調査のためにダンジョンを整備するいわば先遣隊だ。それがダンジョンを破壊してしまっては元も子も報酬もない。
「講釈はいいから、クレバス! 床を直してくれ!」
「おウ」
クレバスが床から手を離すと、同時に宙に浮いていた破片たちが、思い出したかのように渦を巻く。赤く輝く渦はカタカタと音を立てながら、ピースを埋め、新たな床を形作る。まるで、竜巻の蹂躙の逆再生映像のようだ。
やがて赤い竜巻が一筋のつむじ風になって失せると、そこには極小の粒たちによって構成された床だけが残されていた。そこに一個のガレキはおろか、戦いの跡も、モンスターの影すらない。
光に触れたものは、すべて新たなる床のパーツとして生まれ変わったのだ。それも、ただの床ではない。機械仕掛けの床だ。すべてのパーツは、機械仕掛けの材料となっていた。肉や骨やコンクリート製のネジ、バネ、ナット、etcetc……。常人なら、その禍々しさに呼吸さえも忘れることだろう。
カストルが着地すると、機械の床は僅かにたわむ。しかし機械仕掛けが刻むリズムは淀みない。
「便利ですさまじい能力だな」
あいかわらず、とカストルが言った。そのシルエットからはラキの頭部が失われ、代わりに彼女の髪の毛で編み上げられた黒コートの装いに戻っていた。
「まあ相応に消費するがな。昨日の晩、てめェの部屋と、妹に使ったぶんでほとんどガス欠だよ、オレぁ」
「感謝してるよ、マジで」
カストルは物思いにふけるように、黒のコート=ラキを撫でる。しかし、ラキは黙したまま応えない。当然だ、ラキ・ポルックスはもう死んでいるのだから。
~
昨晩、リヴァーシのはずれの宿屋にて。
探索に行こうというクレバスに対し、カストルは条件を提示した。
「俺はこの子……ラキを守りたい。そして同時に、ラキから周囲の人間を守りたい。そのためにはこの子の病気を治すか、俺がいいと言うまで眠っててもらうかする必要がある」
それは、突然気が狂ったかのように暴走し、身も心も怪物と化す病に冒されたラキの”封印”。カストルは、ラキのために賭け試合で得た金の多くを費やし、治療を施し、はたまた封印のための遺物さえも購入した。そして、全てが無駄に終わった。ママにラキの状態を知られた今、それ以下の土壇場に立たされているのかもしれないとさえ思った。
そんな風に追い詰められたカストルに対して、クレバスはあっけかんと言った。
「オーライ、その子を無力化すればいいッてこったな?」
と。いびつに巨大な前腕を現在進行形で組み立てながら。
そもそも、とクレバスは言った。
「病気を治さねェで、その症状を止めるにはどうすればいいと思う?」
「それがわからねえから方々手を尽くしている」
怒鳴るカストルはいらだちを隠そうともしない。
「じゃア、正解を教えてやる。それはな、死ぬことだ」
一も二もない。次の瞬間には、カストルはクレバスに掴みかかっていた。むしろ、カストルの怒りがその程度で済んだことが奇跡的なくらいだ。
「落ち着けよ。オレは、その子を生かしたまま殺せるッて話をしてる」
そう言うクレバスの目は、正気だった。……いや、クレバスはサイボーグ。野性を持たない理性の怪物だ。正気でないはずがない。
だが、カストルはクレバスのカメラアイに、血すら通わぬ極めて純粋な誠実さを見た。
「オレは、あらゆるものを機械化できる。生物、非生物問わずな。その機能を利用して、てめェの妹を生きたまま命を失わせることができる。記憶や意識もデータ化して保存できる」
「屁理屈はもう沢山だよ! ラキがいねえなら俺だって戦う意味も、生きる意味さえねえ!」
「だから、さらにそこから元に戻せるって言おうとしてンだから最後まで人の話を聞け腐れボケチン!」
次はクレバスがカストルを掴み、そして床に放った。
「本当に、戻せるのかよ」
カストルは唇から滲んだ血を拭う。
致命傷を受けた仲間をこの二つの力でダンジョンから生還させたこともある、というクレバスの目にはやはり、嘘や欺瞞はひとかけらも見えない。信用に値すると、カストルは思った。
「実演してやりてェとこだが、さすがによそ様のホテルでやるのも気が引ける。どこか、ツブしてもいい小屋か、倉庫みたいなのは知らねェか?」
「知ってる」
心当たりも、カストルが所有してる建物も、ひとつしかない。
「俺の家を使おう」
カストルとラキと、今は亡き親とで暮らした思い出が詰まった家。
今はそこも壊れ果て、本当に思い出以外の価値を失ってしまった。資材の運び入れさえも十分に行えない林の中にあるため、修理も望めない。廃棄するしかないだろう。
そんな家に新たな用途が望めるというなら、カストルにとっては願ってもないことだった。
「なら、道案内は頼むぜ」
クレバスの腕から、モニターが現れる。
「コード:SSⅦ《バイセクテッド・ヒットラー》」
宿屋が小さく身震いし、カストルはたじろいだ。
「行くぞ。表に出ろ。妹も連れてこい」
クレバスは寝間着のかっこうのまま、カストルに一瞥もくれず暴風が吹き雪がなびく外へ出ていく。数瞬後、我に返ったかのように、ラキを抱えてクレバスに続いた。
宿屋の外には、わかりやすい変化が現れていた。
なにもなかったはずの白い雪の地面に、平行に並んだふたつの流線型の機械が現れていた。
闇夜の中でなお悪趣味な濃紅色で、荒れ狂う自然の中でなお強靱く、存在感を主張するそれ。
「《バイセクテッド・ヒットラー》。オレの潜雪艦だ。フォロミー」
名前を聞く限り、雪の中を潜り、進む機械なのだろう。クレバスが指をはじくとその入り口が開き、その潜雪艦へと飛び降りる。
「ままよ」
カストルはラキを抱えたまま、入り口の欄干を乗り越えて、潜雪艦の入り口めがけて、飛び出した。
覚悟を決めて着地した潜雪艦の中は思いの外、柔らかく、暖かくカストルとラキを出迎えた。
カストルは腕の中のラキを見る。くったりと丸くなってはいるが、その表情に苦痛はない。閉じられたまぶたは柔らかく弛緩している。荒々しい夜には似合わない、どこまでも穏やかな寝顔だと思った。ずっと、この顔を見ていたいとも思った。
「シュガー・ハイ! 道案内しろッつってんのが聞こえねェのか!」
《バイセクテッド・ヒットラー》に、クレバスの怒号がこだまして、カストルは即座に姿勢を伸ばした。どうやら、クレバスからカストルへの呼びかけは、これで数度目だったらしい。
カストルは狭い潜雪艦の中を這うようにして、助手席へと潜り込んだ。
「契約とは別にちょっとお願いがあるんだけど、できれば、いつでも妹の顔が見ていられるようにしてくれないか」
「シスコン極まれり、だな」
クレバスは横目で、笑った。
~
シュガー・ハイ一行は、飢えた獣らの管理施設から奥の層へと突入した。
そこは、天井にも壁にも、備え付けられた棚にさえ緑の植物が跋扈する領域。かろうじて歩くスペースが用意されていることから、畑だと分かる。狭いスペースではあるが、無駄なく、限りなく、植物が植え込まれていた。植栽プラントだ。
やわらかな光に包まれた部屋は、みたところ復旧作業の必要はなさそうで、カストルだけでなくクレバスも観光気分で周囲を見回していた。
「こりゃア、このダンジョンそのものが巨大な生き物だと思ったほうがいいな」
カストルはラキの上半身を背負い、どうにかクレバスの背中を視界に納めておくので精一杯といったペースだ。クレバスは言った。
「おそらく、人格や記憶をインストールされたコンピュータが管理してる、って意味だ。なんらかの目的をもってな」
カストルとクレバスを妨害するという意志があり、殺人重機はそのためになりふり構わぬ手段を講じた。その柔軟性は、あきらかに機械のそれではない。
「いきなりダンジョンそのものの破壊も厭わねェレベルの攻撃だったから、おそらくあれ以上はねェはずだ。同等程度ならありうるかもしれねェが――」
次の瞬間だった。
がさり、と音がした。カストルの右手側だ。
もしかしたら、カストルの気のせいだったのかもしれない。初めて《糖酔・黒》を使い、血中の糖分をかなり消費したため、いまのカストルのスペックは一般人を遥か下回っていたから。だが、同じ方向をクレバスが同時に見たことによって、それは確信に変わる。
――何かいる、という確信に。
カストルはラキをいつでも起こせる準備をし、茂みのひとつを睨みつける。クレバスも臨戦態勢を取った。
「誰かいるのか」
カストルは、緑色の闇を見つめていると、それはゆっくりと動きはじめた。
草葉を揺らした物音の正体が、ではない。植物の茂みそのものが、だ。
まず最初に気づいた変化は、そこから花が咲いたことだった。一つ、二つ、開く花は加速度的に増えていく。その中で、異常な速さで蕾が盛り上がっていく。しかも、それはカストルの目の前の茂みにのみ起こっている。
こうして見とれている間にも花はしぼみ、実をつけ、そして種を落とし枯れていく。緑色の風景が徐々に茶けを帯び、消滅していく。
最後に、カストルの視界に茶色く枯れた残骸だけが残ったとき、白いものが、残った蔦の残骸を断ち裂いた。
棺桶だ。
余計な飾りも色身もない、混沌とした緑で構成された自然な空間にはあまりにも場違いすぎる白い箱が、そこには鎮座している。濃厚な死の匂いが、カストルの鼻をついた。
「おいシュガー・ハイ、不用意に近づくな」
カストルが一歩踏み出した瞬間にクレバスが言った。クレバスもカストルと同じものを嗅ぎ取っているようだった。そして、その目はカストルと同じく棺桶に釘付けにされていて、同じだけ好奇心を揺さぶられているようだった。
「なぁクレバス。お前、これと同じくらい珍妙なものを、見たことがあるか」
「ある」
ギルドからギルドを旅するクレバスは即座に断言した。
「どいつもこいつも、オレの価値観をゆるがしたよ。そしてお前もそうだ、ラッキーボーイ」
人知を超えた遺物、サイボーグであるクレバスを震わせる遺物。時間を止めるがごとく超高速移動を行う能力者。それと同等のものが目の前にあると思うと、カストルの心胆は歓喜と恐怖で膨れ上がった。
クレバスのその背から、二本のアームが棺めがけて伸びる。
だが、カストルがそれを手で制止した。
「クレバス。俺にやらせてくれ。俺に開けさせてくれ」
これが、カストル初の探索で、そして最初の戦果になる。クレバスも、それを汲んだ。
一歩、また一歩と葉を踏みながら、棺桶の最至近距離まで近づく。しかし、何の反応も気配もない。まるで眠っているかのように。
「触れるぞ」
棺桶へと徐々に右手を伸ばす。それが震えていることに気づいて、カストルは左手で抑えた。
刹那。
棺桶に、輪切りの亀裂が走った。白い箱から漏れ出すエメラルドにも似た緑色の燐光。棺桶は音もなく空中に浮かび上がり、輪切りの破片たちは洞窟に響く鈴のような音色をまとって波打つように旋回し始める。
カストルは、はじめ、そうして棺桶が何らかのかたちを作り上げているのだと思っていた。
だが、違う。棺桶は緑の燐光の中に浮かび上がるシルエット、それが纏う服へと変貌しているのだ。
やがて、回転は静止へと収束し、緑の光は打ち払われるように葉の影へと飲み込まれていく。植栽プラントは静寂を取り戻し、カストルとクレバスは残された遺物の正体を目の当たりにする。
それは、カストルとそう歳も変わらないであろう少女だった。
棺桶の純白をそのまま取り込んだ白い服を纏い、森の中に溶け込んでしまいそうなほどの深い緑色の髪をたゆたわせている。
カストルは、彼女を知っている。何度も何度も、見てきたから。
少女は、その眼を見開き、カストルを見る。
その瞳を見るまでもない。カストルはその色を知っている。そこにあるのは、吸い込まれそうなほどに透き通った、エメラルドの輝きだ。
射すくめられたように止まるカストルは、混乱で思考も混乱に飲み込まれ、完全に停止していた。
否、僅かに心は先へ進む。ステンドグラスを見たときに感じたデジャヴ、それがもたらした形のない謎に決着がついた。
遺物の棺桶から現れた「彼女」の姿は、ギルドの天井に飾られた緑の天使そのものであり、昨晩、カストルに謎の忠告をした少女の姿そのものだった。