バベルの底
ギルド・ベース。
リヴァーシの中央に位置し、ギルドの探索者を管理するとともに、街の行政を取り仕切る、いわばこの街の頭脳だ。そのサイズは当然のようにリヴァーシを覆う雪の外壁をも上回り、街の内部からはその頂上も見上げることはできない。
そんなギルド・ベースの尖塔を見上げ、クレバスは瞳を輝かせる。リヴァーシの街は近日に控えたギルドマスター選挙を前に、今は無き国々の旗で飾り付けられ、色めきたっていた。きっと、選挙もこの街にとってはかけがえのない祭事なのだろう。
リヴァーシのギルド・ベースは無秩序に広げられた落書きのような形相をしている。それは無計画の権化であり、形を得た混沌だった。尖塔は現在進行形で自由気ままに枝葉を広げ、意味不明な方向へと育ち続けている。駆り立てられたかのようにねじくれながら上へと伸びる姿は、神話におけるバベルの塔を思わせる。あるいは、天を支えるアトラースか。ただ色だけは緑を中心に構成され、気持ちばかりの統一感を残していた。
「しっかしまァ、初めて見たときも思ったが、イビツだねェ」
クレバスが異形の建築物に感銘を受けるその隣で、カストルは白い息を切らせていた。今日この日も気温は氷点下を切り、カストルの唇の色はいつも以上に鈍い。
「歪つに見えるのか?」
やっとと言った様子で、凍り付いたまつげを上げ、カストルは言う。彼は、探索用の重厚なコートより、さらに一回り分厚く、そしてつややかなロングコートで細い手足を隠している。脆弱な肉体には、衣類すら相当の重みであるようだった。熱のためか、クレバスの体には露が浮いているのが対照的だ。
「極北のギルドだからってのが大きいんだろうな。雪に埋まらないように絶えず建て増してるうえに、遺物の暴発だとか、壊れる理由には事欠かない。その結果が、違法建築みたいな異形なんだろう」
カストルは答える。ギルド・ベースから四方八方に飛び出す鉄骨と、そこを飛び回る作業員は、カストルにとっては十年来の見慣れた光景だ。しかし、弁解する側としても、確かにシンボルとしても少しやりすぎな感が漂っていることは否めない。
「こんな無茶な建築続けてると、近いうちにこの建物がダンジョンになッちまうぜ?」
クレバスが冗談めかして言った。だが、これから探索する場所を知っているカストルは笑わなかった。
「俺らは今日を生きることで必死なんだ、だから大目に見てくれよ」
「生き急いでいるシュガー・ハイが言うと、説得力が違ェな」
今度は、カストルも笑った。笑っていられるうちに笑っておこうと思ったから。
「だが、いやァに優秀な建築だぜ。D級遺物の手がかりもありそうだ」
「D級?」
遺物のクラスだろうかとカストルは目星をつける。しかし、彼の知識では、一般的に遺物はS級がハイエンドとされ、最低でもC級までしか存在せず、Dなどという等級は存在しない。
それとも、人と情報の出入りが極端に少ないリヴァーシには、知らない間にD級という枠が出来たのだろうか?
「そういえばクレバス、お前の目的を聞いてなかったな」
極北の、世界が滅びてなおド田舎のリヴァーシに、荒ぶる自然との戦いを越えてまで、何のために訪れたのか。カストルが馴染んでいるこの場所には、なにがあるというのだろうか。カストルは、まだそれを知らない。ただ息を切らせて、クレバスの後ろをついていくだけだ。
「言ってなかったか? オレはギルドのある街をめぐって冒険してるのさ」
クレバスは、導かれるようにきらびやかな街並みを進み、ギルド・ベースへと歩いていく。
「その理由がわからない。S級遺物並の力があるなら、どこのギルドでも引っ張りだこだろう」
事実、S級の力を持つカストルも幾度も探索隊にスカウトされた。そのたび、申し出を断ってきた。だからこそ、いまの孤立がある。並び立つもののない孤高が。
しかし、クレバスは抑揚に欠けた声で言う。
「オレたちは、探索者だ。夢とロマンを追い続けることこそ、本望だろう?」
「機械の体の奴が、よく言うぜ」
カストルが疲れた顔で皮肉ると、クレバスは笑みの表情を作った。皮肉で塗り固められた笑みだった。
「まァ、嘘だからな」
クレバスは、息も絶え絶えのカストルへ手を差し出すと、カストルは即座にそれを取った。動力によるものか何かか、その正体はわからないが、機械の腕はほのかに熱を帯びていた。
「オレの真の目的は、この雪まみれの世界を救うことだ」
冗談めかして言うその目には、あらゆる温度も宿らない。
「手始めにてめェを、その黒くて重そうなコートから救ってやろうか?」
クレバスは手を差し出すが、カストルは即座にそれをつっぱねる。
「『これ』を作ってくれたことは感謝する。でも、触るな」
「それでいい」
クレバスは安心してみせるかのように、笑った。
「絶対に手放すなよ。そして可能なら、オレの側から離れるな。『その子』を守りたいならな」
カストルは一も二もなく、頷いた。
~
ギルド・ベース、エントランスホール。ここはギルド・ベースの中でも唯一秩序を保っている場所。あらゆる方向にだだっ広いが、ほとんど完全に外の冷たい空気がシャットアウトされている。暖房が効いているためだ。
そして、例によって緑を基調とした家具や美術品が飾られている。どのアイテムも手入れが行き届いており、新品同然につややかで、顔を近くして覗き込むクレバスの顔を映す。中でも絨毯の品ぞろえは見事で、等間隔に何十枚もの絨毯が敷かれていた。
エントランスホールを抜け、重い鉄扉を開き、下層へと向かう螺旋階段を降りていく。ギルド・ベースの上階は役場と電波塔になっている。探索者ギルドとしての機能を持つのは、むしろ地下だ。
階段から下は、暖房など焚かれていない。海の底のような漆黒と、無慈悲な冷気が支配している。文明が失われたこの時代、この世界本来の、ありのままの姿であり、ここを下るのは「探索者になるための最初の試練」とまで冗談めかして言われている。
カストルは、歯の根をガタガタと楽器のように打ち鳴らし、凍り付いて棒のようになった足を引きずりながらも、どうにかクリアする。
底冷えする闇を抜けた先にあるのは、分厚い鉄の扉。その頭についた赤ランプがカストルとクレバスを一瞥する。
「ギルドカードヲ掲示シテ下サイ」
言われたとおり、カストルはコートから身分証であるギルドカードをランプに向けて掲示してみせると、分厚い鉄の扉――もはやシャッターと呼んだ方がいい代物は、地鳴りにも似た轟音を立てて開いていく。床も轟音に引きずられて、心許なく揺れ動く。カストルは、うっかり転ぶくらいならと、コートに細心の注意払った上で、地面に座ることを選んだ。
「ただギルドを守るにしちゃア厳重すぎだろう」
クレバスは小さく笑う。カストルは、ひょっとしたらギルドの下にあるものからの防衛線として分厚いのかもしれない、と思った。
シャッターが開くと、そこには鍾乳洞の体だけ整えたような、ギルドが待ちかまえている。
広い。エントランスの広さも相当のものだったが、ここもそれに劣らない。暖房が焚かれていないはずだが、無謀な男たちと一部の淑女の活気がそれを肩代わりしている。洞窟は、ピッケルやスコップ、はたまた愛用の遺物を背負った探索者や雪鉱夫たちでごったがえしていた。
水滴で塗れた乳白色の岩肌にはランプが連なって吊され、鍾乳洞と人だかりを薄ら明るく照らし出している。しかし、なにより目を引くのは、その天井。クレバスは目を真円に広げた。カストルもまた、天井を見上げる。
「ビューティフル」
高く、遠く、ヒトの手が届くことのない遙か上方には、尖った石筍がぶら下がる代わりに、巨大なステンドグラスが輝いていた。 透き通るような白い衣を纏う女性は、冒険に向かうものたちに区別なく聖母のようにほほえみかけ、作りものの青空をたゆたう髪は今や自然界から失われてしまったエメラルド色をたたえている。その背後には、後光と見まがうような、濃淡さまざまな、緑色の翼を広げている。ふと周りを見回せば、天に向かって祈りを捧げる冒険者の姿もちらほら見つけることができた。
「この街に、緑色の飾りが多いって、気づいてたか?」
カストルは天井を見上げながら、言った。
「あのステンドグラスが、その理由。『緑の天使』って呼ばれてて、この街のシンボルなんだ」
カストルは「この世界はまだ神に見放されてないって、信じたがってるんだ」と、皮肉っぽく付け足すが、その心のどこかに、引っかかるものがあった。勿論、昨晩見た緑色の髪の少女のことだ。
「……何か考えごとかヨ?」
「ああ……詮無いことだ」
カストルは、ばつが悪そうに、小さく咳払いした。
さて、鍾乳洞にはいくつか分かれ道があり、その中心に冒険者たちを取り仕切る案内所がある。枝分かれしたそれらの洞窟の先には、五人規模のトロッコの線路が引いてあり、これで探索に向かうのだ。もっとも、人が多すぎる場合は上位の一握りしかトロッコには乗れないのだが。この日も例に漏れず、どのルートも人波でごったがえしていて、探索に向かうというよりはほとんど行軍と形容した方がまだ適当なように思えた。
「なかなか活気があるじゃねェか」
クレバスは感心したように言う。その瞳は、洞窟を照らす仄明かりを受けてチラチラと輝いている。
「じゃア早速、ここのボスからの肝入りの依頼に取り組むとしようぜ!」
クレバスが大声で言い、鍾乳洞の中にわんわん響くと、とたんに空気が白ける。視線がこの場に似つかわしくない二人へと集中する。決闘の時とは違う、嫌悪の視線が体中の至る所に突き刺さる。決闘をしていないカストルは、単なる痩せたつまはじきものにすぎない。
「お前、バカなんだな」
カストルは身震いして、コートに顔を埋めた。しかし、クレバスは意に介さず、あっけらかんとしたまま、言った。
「強者ッてのは環境を変えるものだぜ? さあ退いた退いた! 『二つ名持ち』が通るぜ!」
そして、機械の腕を振り回しながら、強引に有象無象の雲を切り裂いて、鍾乳洞の受付までの道を切り開いていく。カストルがその後ろを申し訳なさげに続く。
受付の男も、カストルとクレバスを仏頂面で出迎える。露骨に不機嫌だった。
「てめえが賭けに出てくるとシラけんだよ。……しかもこんな青い顔したガキだったとはな」
受付の男は、仕事中であり、取引先である探索者を相手にしているというのに、右腕の義手で凝固させた植物プランクトンをつまみ、かじり続けている。男は、カストル三枚重ねでようやく足りるかという分厚い胸板を持ちながらも、ダンジョンで片腕を失ったのだろう。クレバスのものを見た後だと、おもちゃのようにしか見えない義手で、乱暴に鉛筆と羊皮紙を放る。契約書だ。受付はカストルを長居させたくないのだろう。仕事の上でも、個人的にも。
カストルはその二つを空中で受け取った。
「文句ならヘナチョコなくせに俺に噛みついてくる雑魚に言いなよ」
横からクレバスの鉄拳が飛ぶ。しかし、そこはさすが王者と言うべきか、カストルはバランスを大きく崩しながらも契約書に目を通し、元の姿勢に戻った。
「ミッションの目的は……とりあえず配線か」
電気を通すか、もしくはダンジョン内の発電機を発見・復活させて後続の探索者が探索を行いやすいようにすること。最初の侵入者に任される一般的なミッションだ。
「ギルドカードを出しな、シュガー・ハイ」
カストルはギルドカードを提出する。そこには「近接戦闘員」とのみ書かれている。冒険者としてはもっとも初歩的な職能だ。一般的な探索者は、ここからさらに少なくて五年、長いものでは十年以上勉強し、経験を積むことによってさらなる職能を得、それを頼りに名を上げていくものだ。だが、純粋に腕っ節だけでのし上がってきたカストルにそんなものがあるわけもない。
「腕利きの工兵が必要なミッションだが、お前にそんな知り合い、いねえよなァ?」
受付の男は、これ見よがしに下卑た笑みを浮かべる。それは、嫉妬だ。若さへの、そして、絶対的な才能への憎しみだ。それがこう言っている。「ここはお前のようなヤツが道楽で来る場所じゃない」と。
カストルは目を合わせられなくて、視線をずらすと、受付の男のさびついた右腕が目に入る。一人の男の冒険、その総決算としてはチャチすぎる右腕。不器用そうな三本指義腕の維持で、彼の生活からどれだけの豊かさが失われたのだろうか? 駆け出しの探索者であるカストルには想像もできなかった。
「工兵ならここにいンぜ」
そんなカストルの心境を知ってか知らずか、横からギルドカードを提出するものが一人。鋼の無骨さをデザインとして取り入れた野心的な右腕が、受付にギルドカードを突きつけている。クレバスだ。そのギルドカードには、確かに工兵の職能があることが証明されていた。それだけではない。近接戦闘員はもちろん、薬師、医師、化学兵、通信兵、考古学者、地質学者など、クレバスのギルドカードには、少なく見積もって十五の職能がところ狭しと押し込めるように列挙されている。
「う、嘘だろ?」
受付の男は、少女の姿をしたクレバスからカードをひったくり、目を円くして本物かどうかを確認する。しかしカードリーダーはエラーを吐き出さない。
「足りねェかい? なんならまだあるぜ」
クレバスは懐のシリンダーから、びっしりと職能が書き込まれたギルドカードを取り出す。そして、新しいものを出しては、男はリーダーで読み込む。発掘記録や渡航暦、未知の職能や、未記入のまま認められた性別などに、いちいち驚きの声を上げながら。
「何か質問はあるかィ?」
「……お前、何者だ」
絞り出すように、受付の男は言った。
クレバスは涼しい顔で、「そこのギルドカードに書いてある通りだよ」と答えた。
~
そうして、二人が通されたダンジョンは、思いの外近い場所にあった。受付の男の案内のもと、探索者たちがすし詰めにされているトロッコを横目に、もと来た扉の方向へと逆戻りする。
「どういうことだ? 俺たちはどこへ向かおうとしている」
カストルが聞くが、男は答えない。代わりに、鍾乳石の壁には不釣り合いな、鉄のドアの前で足を止める。ギルドと階段をつなぐシャッターよりは幾らかかわいげがあるが、そこに書かれた「立ち入り禁止」の文字と、ドアノブすらないドアの風貌は少なからずカストルの不安を煽った。
受付の男が義腕のレバーを引くと、三本の指は変形して一つのカギが現れる。それをドアが取り付けられた壁のカギ穴に挿入すると、義腕はゆっくり三六〇度回転した。義手のメカニズムか、カギは自動的に引き抜かれ、もとの形を取り戻していく。
それと同時に、鉄扉は上へと開き、はらわたを二人の前に晒した。
「さらに地下……ってわけか」
クレバスは即座に瞳を暗視モードに切り替える。
「なにが見えてるんだ」
「螺旋階段だよ」
受付の男が、左手でマッチを灯し、義手の持つ透き通った石に「着火」すると、火は石の中に吸い込まれ、その内側で煌々と燃える。C級遺物、《火保ち石》だ。その明かりを頼りに、カストルは恐る恐る、クレバスは興味津々といった趣で、ドアの先へと踏み出し、階段を降りていって、二人そろってその深層へと到達する。そこは思いのほか浅く、おそらく二階ぶんも下降していない。
「何だよ、ここ。行き止まりじゃねえか」
カストルは暗視ゴーグルを構え、改めて周囲を見渡すが、目の前に大きな壁があり、後ろには自分たちが下りてきた階段があるだけだ。担がれたか、そんな風に思ったとき、「厳重だな」と、クレバスがひとりごちる。
「ここから先は、リヴァーシの心臓だからな」
受付の男がそれに答えた。
「話が見えないぞ、俺にもわかるように話せ」
カストルが文句を垂れると、クレバスはふらふらと歩きだし、あっと言う間に炎の灯りの勢力圏外へと出てしまう。
「おい、クレバス?」
「まあ黙って聞いておけ」
クレバスの声が闇から聞こえ、その直後に、ゴンという音が聞こえた。ゴン、ゴン、ゴン。どうやら岩肌を叩いているようだ。断続的に、一定のリズムで壁を叩いている。ゴン、ゴン、ゴン。音の発生源からして、クレバスはどうやら移動しながら、壁を叩いているようだった。ゴン、ゴン、キーン。
キーン。
「金属音?」
間違いない。金属が岩を叩く音ではなく、金属が金属と擦れ合う音だ。だが、カストルは金属の壁など見ていない。もしくは、金属の壁を目にしたと気づいていないか、だ。
「まさか、この壁自体が……?」
「そうだ」
答えたのは受付の男だった。そこに設けられていたのは壁ではない。巨大な鉄の――「門」とでも形容した方がふさわしいであろう、巨大な仕切だった。
カストルも、ギルドのさらに地下にある施設のことを、知識としては知っていた。もっとも、セキュリティのためか冒険者たちの間でも、その中身はブラックボックス扱いされ、冒険者の墓場やら、食用モンスターの栽培施設やら、無責任な噂が飛び交っていた。
「リヴァーシ全域に電気を届ける発電プラントが、あの中身だ。そして、さらに深層には遺物の保管倉庫がある」
二人を先導した受付の男は続ける。
「お前たちの目的地は、そのさらに下だ」
「まさかとは思うがよォ……ギルド・ベースの真下がダンジョンになってる、とかヤクいことは言わねェよな?」
クレバスが恐る恐る言う。その額には冷や汗の代わりに露が結露していた。
「ご名答、そのまさかだ」
受付の男は皮肉ぽく笑った。
「文字通り、このギルド・ベースを根底から揺るがしかねん火薬倉庫みたいな案件だ。お前のようなへっぽこを指名したのは、ママからの個人的な信用もあるからなんだろうな」
受付の男は立ち止まって、カストルを見る。掌大の炎に照らし出されるカストルは、少しは見栄えがするかなど考えたが、やはり痩せた死に掛けの少年のままだ。
「同時に、ほかの連中からまったく好かれも信用もされていないから」――と付け加えようとして、負け惜しみにしかならないと気づいて、やめる。代わりに、受付の男はさらにもう一本のマッチを擦り、新たな炎を火保ち石に呑み込ませて、たどたどしい足取りのカストルへ放り投げ、昇降機を起動する。
「ここから先のフロアは、すべてが遺物の倉庫だ。ダンジョンはその先にある縦穴の下だ。簡易昇降機が垂らしてあるからそれを使って下りろ」
「お前は行かないのか?」
カストルが聞くと、男は首を横に振った。
「買い手がつかない遺物なんかにゃあ、頼まれても近づきたくないね」
「そうか」
カストルとクレバスが準備をするなり、昇降機は無音で下降を始める。男は踵を返した。彼らの間に別れの挨拶はない。その代わり、カストルらにはすぐに下層の様子が見えてきた。
そこは、ギルド本部の真下だけあって、同じくらいにだだっぴろい空間だ。それは幅や奥行きはもちろん、高さも同様である。だが、その異容はギルド本部の比ではなく、在りし日のコンクリート・ジャングルのごとく、長方形の塔が林立していた。カストルは一呼吸で、そこが既に魔境の一部であることを察した。
「マスクを装着しろ、シュガー・ハイ。酸素濃度は既にかなり低下してる」
頷くと同時にマスクとゴーグルを装着する。いざ、仄明かりに照らされる下層に到着してみれば、床や壁は当然のこと、空気はもはや冷気そのものと化し、傷つけるべき箇所を探して肌や粘膜の上を這い回っている。一歩進むごとに、ブーツに取り付けられたスパイクが凍ったコンクリートとこすれ合い、不快な悲鳴を上げた。
「こいつは……地下牢か何かか」
さもなくば、死体安置所か。理路整然とした静けさが、寒気を伴い、骨身に染み渡る。下層に用意された空間は、エントランスフロアよりもさらに一回りは大きい。ただし、三メートル立方の箱が、縦に横にとぎっしりと敷き詰められている。人が動けるスペースはおそらくエントランスフロアの百分の一もないだろう。
箱は、ガラス張りで中身を確認できるものと、全面にコンクリートを打ち付けられているものとがあり、そしてどの箱も例外なく瘴気ともいうべき気配を放っていた。
道は箱と箱の隙間にちょうど人が一人通れるかどうか程度のものしかなく、カストルとクレバスは居住性や利便性を完全に無視した通路を縫うようにして進む。
「しかし、禍々しいな」
カニ足で前を進むカストルは、身震いして言った。寒さだけではない。目に付く遺物は、どれもこれも不自然に黒い何かがこびりついていて、そこからは濃厚な死の気配が香っていた。
「そうか?」
クレバスが気のない返事をした。カストルの背後で、いつの間に肉体を組み替えていたのか、もはや人にありうべきでない細さに変形していた。
「……お前は、体がほとんど遺物だから、そんな風に感じるんじゃないのか?」
クレバスは胸部のスピーカーで「違う」と答える。
「まず大前提として、遺物はこの雪の世界で人が生き残るために作られたものなんだよ」
「使い方が違います、ってか?」
クレバスはよどみなくうなずく。その頭部は積み上げられた遺物の牢より高い位置にあった。
「どんなものであれ、本来は希望として生み出されたんだ。殺傷力が低かろうが高かろうが、C級だろうがS級だろうが、そこに貴賤はねェ」
「なら、用法用量を書いたテキストも合わせて置いといてもらいたいもんだな」
クレバスが振りかざすのは、都合のいい理想論だ。遺物は、発見されたときには、紙面のマニュアルだとか、データを入力したハード自体が劣化していることも少なくない。正しく使われている遺物は発見されているものの一割を切る、とさえ言われている。
「そのためのD級遺物もまた、存在するわけだが」
「それだ」と、カストルが指を鳴らす。擦れた箇所が冷気でひりひりと痛んだ。
「D級っていったい何なんだ」
「こらえ性がねェなあ。シュガー・ハイ」
もしものとき、教えてやるって言ったのに、とクレバスは遙か上空にある頭で嘆息のジェスチャーをするが、機械の口は白い吐息を漏らさない、代わりとでも言うかのように、腕部が排気した。
「講義をする前に、逆に聞いておきたい。SからCまである『遺物ランク』、その基準は何だ?」
突然切り替えされた問いに、カストルは言葉が詰まった。
「それは……遺物の超常度合いだろ?」
鑑定士の職能を持つものが、可能な限り安全に遺物を起動させ、その働きがどれだけ既知の科学を逸脱しているか、有用であるかを観察し、おおまかな等級を決める。
しかし、市場価値を高めるため、もしくは下げるためだけにランクを変動させられた遺物もある。つまるところ、彼らの匙加減と需要と大人の事情で如何様にもなるため、明確な基準がないのだ。
だが、とクレバスは言った。
「D級認定の条件はきわめてシンプル。『雪に包まれた世界を変えることができるか否か』だ」
怪訝な顔で、カストルは遙か高くに首を伸ばしたクレバスを見上げる。そんなものが存在して、きちんと活用されているならば、この世界はとっくに雪を溶かし尽くし、土の大地を取り戻しているはずだ。しかし、そんな地に脚のついた生活は、未だ夢物語のままに人類はゆるゆると破滅を迎えようとしている。
「信じてねェな?」
クレバスは口を尖らせる。
「そうだな……たとえば、D級遺物によって既に世界の常識は塗り変わっている――その内のひとつが、お前ら能力者だ」
クレバスは八本の指を編み上げ、ひとつの指先を形作り、そして、それでもってカストルの胸をまっすぐに指した。
「俺たちが遺物の落とし子だって言うのか? 雪の中から拾われた子だとでも?」
それは侮辱だ。カストルにも、ラキにも、失われはしたが家族はいたのだから。ゴーグルのレンズ越しに、ひどく不愉快そうな視線がクレバスを射抜いた。このときばかりは、クレバスは自身の目の精巧さを、そして己の迂闊さを恨んだ。
クレバスは、違うんだ、と言う。カストルを指した指が、組変わっていく。八本の指が形を整え、長方形の平面を作ると、その空白の中央に光が灯ると同時に、モスキート音がカストルの鼓膜を突く。静電気を帯びたクレバスのグレーの髪が、非生物的に揺れた。
――即興の立体映像だ。
「四の五説明するよかァ、こいつを見た方がいいだろ」
クレバスが言うとともに、画面に初老の男の顔が浮かび上がる。白髪交じりの頭髪で、白衣を着たその人物は、カメラの前でマクスウェル・ホワイトと名乗った。
『私は、この雪の世界の中で人類を生き残らせるため、そしてやがてはこの世界を克服できることを信じて、人間の遺伝子組み替えと品種改良を行った』
「……おい、待て、止めろ」
カストルが言うなり、画面の中のマクスウェルは口を開いたポーズで制止する。
「これ、禁書指定の映像だろう!?」
「ああ、ここのギルドはコレ系のブツは御法度なのか。悪ィ、そこまで気回ってなかったわ」
カストルが怒鳴るが、クレバスは悪びれる様子さえない。
「でも死と生の間をうろつく探索者ならよ、善と悪のボーダーラインはてめェで引くべきだろ。そのためにも見とけ」
カストルは答えない。クレバスはそれを許容だと受け取り、動画を再開した。
『私たち研究チームは、生物を強制的に進化させる手法を開発した。端的に言うなら、人間に超能力を与えることができる。そのためには特殊な環境や道具、プロトコルは必要なく、パテント料も取らない』
男は、シミだらけの手で、懐から茶色の小瓶を取り出し、カメラの前に掲示する。
『我々が開発した薬品を必要とはするが……それも可能な限り安価で提供しよう。これを見ているあなた方には、判断を委ねたい。これを使うべきか否か』
マクスウェルが、カメラを見る。彼の顔に深く刻まれた皺が、目元のくまが、その印象に過剰なまでの陰影を与えている。
『……ただ、私見を述べさせてもらえるなら、我々人類の文明はもはや死に瀕していて、それをやり過ごすには手段を選んでいる余裕はないということだ。どうか、有効利用してもらえることを祈る』
マクスウェルは、懐から、拳銃を取り出した。薬瓶を取り出したように、淀みない動作で。
『それではみなさん、ごきげんよう。今日までおつき合い頂き感謝する』
突然の死と、画面を埋め尽くした赤にカストルは、小さな悲鳴を上げた。マクスウェル・ホワイトは、躊躇なく己がこめかみを撃ち抜いたのだ。映像は、死体となった彼が地面に倒れる音を最後に、再生が終了した。
「ヤツらの遺物開発のために尽力したのが『D機関』だ。旧世界のフィクサーたちが財産を出し合ッたとか、貨幣価値が消滅した世界で人々の善意が作り上げた機関だとか、正体については諸説あるな。だが、このD機関に認められた遺物――D級遺物だけが、本当の遺物なんだ」
それは確かに、世界の真実なのだろう。だが、カストルにとって世界なんてものは遠すぎ、他人事すぎた。彼の手元にあるのは、自分の命とラキだけだから。
「俺たちは創られた……弄ばれた命だってことかよ」
カストルは、周囲のものに当たり散らしたかった。ここが火薬庫よりもっと危険な、遺物の集積場でさえなければ。
「違ェ。マクスウェルは、変わりゆく世界に対応し、生き残るため、自分の持てる技術をすべて公開し、希望を世界に拡散した。人類を強制的に進化させるためにな。その結果、能力の因子が世界にばらまかれることになった。てめェはたまたまそれが発現しただけだ」
あくまで、マクスウェルの目的は、人類の進化の加速であり。加工ではない。それは頼まずとも過酷な自然がやってくれる仕事だ。
「まあ一方で、遊び半分で畜生相手に実験を処す奴も出てきたわけだが。マクスウェルが、そこまで折り込み済みだったかはわからないが、そうしてダンジョンに徘徊するモンスターも誕生した」
「それは、D級遺物の悪用じゃないか?」カストルは、そう口を開きかけたが、言いとどまった。
モンスターとて有害なばかりではないことをカストルは知っているからだ。雪下の低酸素空間であるダンジョンで生存し、管理できるモンスターは人々の大事な食料資源として密接に関わっている。カストルは、昨晩味わった、スープの味を思い出していた。
D級遺物は、既に益物として、人々の生活に密着していた。そして何より、彼のもたらす「作られた奇跡」こそ、この世界に神はいないと人々に確信させた最大の要因のひとつだった。
「……というわけで、マクスウェルの開発した薬物と技術の拡散、浸透、現在進行形のそれらすべてを含めて、D級遺物《禁じられた遊び》として認定されている。……もっとも、これを遺物扱いをするのは、D級の存在を知ってるヤツだけだが。今じゃこの出来事は”常識”だからな」
カストルの抱いていた疑問は晴れた。しかし、その答えはカストルの――ラキの抱える問題にも、密接に関わっていた。非常に、許しがたいかたちで。激情の荒波が、カストルの心を揉んだ。
「じゃあ、能力は遺伝子疾患みたいなものだとでも言うのか!?」
カストルの喉が、怒声を放つ。それは倉庫や、彼自身が着用するマフラーに吸い込まれ、ほとんど響くことなかった。
「そうだ」
けれど、その怒りと絶望は確かにクレバスに伝わっている。クレバスの柄にもなく粛々とした声が、それを物語っていた。
「じゃあ! じゃあ!! ラキの『病気』は!!」
治らないとでも言うのか。
口にしたら、本当にそれが事実であると認めるようで辛くて、だから舌先まで出かかった悲鳴を、願望が無理矢理飲み込んだ。分かっていた。ラキの「病気」が本当の病気ではなく――治療できないものだということくらい。
悲しみさえも萎えきっていた。絞り出されたカストルの声はもはや、悲鳴ですらなく、ほとんど泣き言だった。
カストルの知る限り、遺伝子の異常を治療する技術も施設も喪失し、それきりだ。
――これが、D級?
巨大な現実の壁が立ちふさがる。多少強いだけの力が、何の役に立つ? カストルの細い膝が、ふるえて折れた。
既に、《禁じられた遊び》によって日々の糧を得て、苦しめられて、それでも能力に頼るしかない。それを仕掛けたものたちだって、その日を生きることに必死になっていたのだ。たとえ負債を後の世代――カストルやラキたちに押し付けることになったとしても。
マクスウェルの泣き腫らした目を、途方もない苦悩に苛まれた顔を見てしまった今、カストルに、その身勝手さを糾弾できず、ただ、やり場のない怒りだけがその胸の中で膨れ上がった。
「俺たちは、幸せになりたかっただけなんだ」
カストルは崩れ落ちる。だが、眼前に立つ歴戦のサイボーグは、折れることを許してくれない。
「希望を捨てンな」
クレバス。その可変の腕で、軽々とカストルの体を吊り上げる。
「遺物は、人間の想像を越える。そうだろ?」
クレバスは人間離れした姿で、人間を語る。カストルはそれをはねのけたかったが、手も口も動かなかった。クレバスの異形のシルエットは遺物によってもたらされたものであり、それ自体が説得力の塊だった。
「《禁じられた遊び》は世界に公開した状態で拡散された。むろん、それを研究・解析・改良しようとする奴だって現れたはずだ。その対抗策――アンチD級の遺物だって、作られている可能性は高い」
クレバスは、カストルを持ち上げる腕にスピーカーを作り、耳元で言って聞かせる。
偽善だ。
たったひとつの明確な目的をもって探索することは、とてもつらいことだ。世界は広大であり、ダンジョンは数え切れないほど存在し、人生は短く、病を抱えたカストルの人生に与えられたタイムリミットは尚儚い。
クレバスは、カストルに「希望」と言う名の毒を吹き込もうとしている。己の目的のために。望まない表情が現出しない機械の体と、自分の魂の邪悪さを呪った。
――否、「我々の魂」か。
それは苦難の道ですらない。だが、もはや他に進路はないことも事実。
「もし俺がダメだったら、俺も、ラキのようにしてくれ」
「……妹ちゃんはそんなン望まねェだろうと思うが」
「だから、俺は死なねえ」
カストルは笑っている。怒りと、悲しみと、絶望で。そして何より、覚悟でもって、笑った。
「タフだな」と、クレバスは言う。それは素直な賞賛だった。闇へ続く道で、それでも前を向き続けることの辛さは、クレバスもよく知っていたから。
「じゃ、このあたりで今回の講義は終了だ。それよりシュガー・ハイ。今度はオレの番だ。お前のことを聞かせろ」
カストルは振り返る。
「俺の話? 何もおもしろいことなんてねえよ」
クレバスは、歩調を変えない。機械の瞳で、カストルを見下ろした。
「お前は、無敵か?」
「……どういう意味だ?」
「端的に言うなら、作戦を練るために、お前の能力について把握しておきたい。もしくは作戦なんて不要なくらいにお前は強いのか? オレは配線だけやっていれば大丈夫なのか?」
カストルは、異形のクレバスをまっすぐに見上げる。能力の詳細はカストルとラキの生命線だ。クレバスは運命共同体ではあるが、彼らには、大きな隔たりがある。クレバスは街を渡り歩く「冒険者」。その過去も、今現在でさえも、カストルはまだ知らないのだ。
だが、もはや最も大事な弱点は、クレバスの手中にある。これ以上失うものはない。
「《糖酔・過/シュガー・ハイ:オーバー・ドース》。その名の通りブドウ糖を媒介とした能力だ。体内のそれが消化され切るまで、俺は自分以外の時間を止められる」
それは共に戦い、生きるいう決意の証。希望をくれたクレバスへの、カストルなりの誠意だった。
「するとお前がやせ細って、今にも死にそうなのは、糖尿病の末期症状ってことか?」
糖尿病。血中の糖分が多くなりすぎることによって、身体に異常をもたらす病。末期には四肢は腐り、目は視力を失う。立って歩いていられるあたり、今のところ脚の心配はないようだ。
「能力の回数制限は?」
「わからん。が、おそらくある。短時間で時間停止モードを連続して使うと多分死ぬと思う」
「モード? その口振りから察するに、ほかの使い方があるのか」
カストルは、返事を少し考えるそぶりをしてから、前を見る。理路整然と並べられていたコンクリートの塔たちが、その列を乱し始めている。二人の進む先は行き詰まりになっていた。カストルはすぐにピンと来た。おそらくあの場所の近くが、ダンジョンの入り口なのだろう、と。
「じゃあ、俺もお返しに、ショウ&テルと行こう」
そう言い、右手の親指を立てる。それを口の中に突っ込み、噛んだ。
「どうした? お前の指にはハチミツの味でも染みてんのか」
「B級遺物、《痛みを届けるもの/アロー・オブ・ペイン》。飲んだ人間の肉体的苦痛に反応して溶けるナノマシンだ。俺は砂糖の詰まったこいつを常に仕込んでる」
そこから先、質問は不要だった。変化はすぐに、目に見える形で現れた。
カストルの肉体へ、急速に力が漲っていく。頭髪は力を取り戻し、目は輝きを湛える。黒いコートを纏っているが、それが隠しようもないほどに盛り上がる。肩や腕の筋肉、もしかすると骨格まで強化されているかもしれない。脚も先ほどまでの弱々しいものとは打って変わって、執拗、あるいはグロテスクと表現できるまでに膨れ上がっている。土気色だった顔に血気が溢れているあたり、内臓の機能も増強されているのかもしれない。
「……《糖酔/シュガー・ハイ》の能力の正しい使い方は、身体能力強化なんだ。それによって足腰や視力や回復力、生命力なんかを強化して、今俺は生きながらえてる。むしろ時間停止の方は副産物なんだよ。あれは超高速で動くことが可能なだけ強化された肉体に、その反応に追いつけるだけ加速強化した精神が乗っかってるだけだ」
それが、《糖酔》の真実。本来、栄養であるものを使って肉体を蝕み、そして、その作用によって肉体を保全する。カストルの命を形作るのは自己矛盾の円環そのものだ。
何もかも、死どころか生でさえも、《禁じられた遊び》に振り回されている。けれど、この力のおかげで前に進める――そんな現状があまりにも皮肉っぽく出来すぎていて、カストルは少し笑った。この笑いや強気さえも、心が「強化」されたからだろうか? シュガー・ハイ。砂糖の取りすぎで、心まで狂ってしまった状態のことだ。言い得て妙な名前だと、カストルは改めて思った。
カストルは、膝を曲げる。血管や筋繊維が切れていくのを、触覚と音で感じる。そして、破壊された肉体が凄まじい速度で超再生で倍々ゲームのように、膨らんでいくことも。
ふくらはぎと太股に貯められた力がとき放たれると、風切り音だけを残して、カストルは消える。
「マジか」
だが、クレバスの目はカストルの姿を一から十まで繊細に捉えていた。だからこそ大きく驚く。カストルが今いるのは、二十メートル以上の高さがある天井であり、そこに刻まれた僅かな凹凸に手足の指をひっかけて、カエルやヤモリのように、天井を進んでいたのだから。
「あれか」
カストルの予想通り、床に四角く切り取られた穴が、遺物の塔に囲まれていた。おそらく、普通に遺物庫を歩いていたのでは、進入はおろか発見すらできないだろう。カストルは、穴を包囲する塔のうちの一つに、宙返りしながら飛び降りる。
それに続いて、六本足になったクレバスが、遺物の塔を這い上って、カストルに追いついた。
「ちなみに、《痛みを届けるもの》から糖を取り込んだとして、何分持つんだ」
「三十分程度だな。連続使用すればそれだけ制限時間は短くなるし、同じだけのパワーを出すのに必要な砂糖の量も増える」
カストルは新たな砂糖の袋を懐から取り出し、そのまま口を切ると、一気に飲み下す。
クレバスも「糖分中毒」の名は伊達ではない……と思ったが、さすがに口に出すのははばかられた。代わりに、出入り口にC級遺物《アリアドネの糸》を打ちつける。糸という名前だが、その実体は金属のピン。目印のため、通り道などに刺しておくものであり、センサーとしても活用できる。
「長時間活動するのに《糖酔》は頼りにしないさ。そのための”秘密兵器”を、お前が用意してくれたわけだしな」
カストルは黒いコートを愛でるように撫でる。
「忘れんなヨ、そのコートが大切なら、オレの側から離れないッてことを」
カストルと顔を見合わせ、クレバスは笑った。
「それじゃあ、行くぞ!」
カストルはときの声だけを遺物倉庫に残して、体一つで穴の底へとダイヴした。