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カストルと黒い悪魔

 飢えて死にたくないのであれば、探索者になればいい。

 凍えて死にたくないのであれば、雪鉱夫になればいい。

 第三、第四の道を模索したいのであれば勝手にすればいいが、死に方を選べるとは思わないこと。

 それが、雪と氷に包囲された世界の、鉄条。

 海は凍りついた。

 空は曇天に覆われている。

 山は天辺から裾野まで雪を纏った。

 それは、リヴァーシの街に限ったことではない。世界規模で同時に起こったことだ。

 国家が機能を失ったことすら遥か昔で、かつての繁栄は神話の気配すら帯びつつある。

 文明どころか生命活動ひとつとっても進退窮まった人類は、活路を雪の下――埋もれた過去に求めた。

 人々は雪を掘り僅かな可能性を求め、雪の下に見つかった建造物――ダンジョンを開拓する。

 だが、彼らの努力も空しく、荒ぶる自然とのせめぎあいの中、永い永い時間をかけて、人類はゆるゆると滅びつつあった。



 バー、「白昼夢」。

 猛吹雪でリヴァーシの多くの店がそうそうに商売を切り上げるなか、そのバーにだけは暖かな光が灯っていた。

「五十連勝おめでとう、《糖酔/シュガー・ハイ》」

 暖炉の炎に照らされたカウンターの中で、老女――ママは笑みを浮かべた。外では吹雪が悲鳴を上げている。

 客は一名のみ。天気が荒れているからではなく、もともと客入りが芳しくない店だった。

「そいつはよかったな、ママ」

 今日の客であり、数少ない常連である、カストル・ポルックスは一言だけ吐き捨てる。手にしていたマグカップをママめがけて滑らせると、高級品である白砂糖の入ったビンにぶつかって軽い音を立てた。

「おかわり」

 若いバーテンダーが、ママをちらと見る。今日はママのおごりであり、そして、砂糖は貴重である。ひどい寒さと少ない日照のために、作物が十分に育たないからだ。だが、ママが頷くと、バーテンダーはマグカップに砂糖を山盛りにした。

「まったく、砂糖ばっかりバカ食いして。この不良探索者は」

「酒飲むよか、いくらかましだろう」

 そう言って、カストルは帰ってきたカップへ程々に合成ミルクを注ぐと、一気にあおった。

「そういう問題じゃないんだよウ」

 ママは深いため息をついた。

「あたしらギルドは決闘興行なんてやっちゃいるがね、本来の目的は『探索者』のサポートで、決闘もその一環なんだよ」

 男として生まれたものは、一度は探索者を志すものだ。

 探索者は、雪と凍風に包囲されたこの世に咲く数少ない華である。ダンジョンに潜り、過去の文明の遺物――資源や技術、あるいは人類が生活できる空間そのものを発掘する。

 けれど、冒険稼業は安全なものでもなければ、成功が約束されたものでもない。発掘されたダンジョンもいつかは掘り尽くされるし、特別な掘り出し物――「遺物」を見つけられないなら意味もまたない。

 何より、ダンジョンは地上の世界とは違った秩序のもとに成り立っている。探索者の命を脅かす生物や植物をはじめとする生態系、罠や機械、果ては物理現象までが、ダンジョンにて待ち構えている。とてもではないが、どれをとっても、一個人の手に負えるものではない。

 そこで登場するのが、ギルドである。

 ギルドは探索者を管理・統括する機関である。その目的は多岐に渡り、ダンジョンの封鎖や管理、情報の集積だけではなく、他の地域との交易や移動のための旅券を発行を請け負い、さらには今回のように決闘興行を催したりする。決闘興行は雪と格闘する人々の数少ない娯楽であり、スポンサーを求める探索者が名前を売ったり、ダンジョン発掘で成果の出せない探索者に小遣い稼ぎをさせる場でもあるのだ。

「あたしらギルドは、探索しない探索者はお呼びじゃないのよ。少しはこの極北ギルドの『二つ名持ち』だって自覚が欲しいものよ」

 極北ギルドの女支配人は、深くためいきをついた。

 二つ名。各地に点在するギルドの中でも、特筆すべき功績を持つ探索者だけに与えられる固有の称号である。

 カストル・ポルックスは、ろくに探索にも行かないくせに――否、だからこそ、だろうか。ママの統べる極北ギルドにおける最年少にして最強の『探索者』として、その名を轟かせていた。今回の五十連勝も、生ける伝説としてのカストルをより強く印象付けることだろう。

「あんたを二つ名持ちに選んだあたしのメンツも少しは考えておくれよ」

「知らんね。あんた自身の見る目がないんだろう」

 カストルはカウンターの上の趣味の悪い小物をもてあそぶ。ここは、ギルドマスターであるママが道楽で始めた店だった。

「そう言わないでよ。あたしだって次の選挙が近いんだからさ」

 ギルドマスターの選挙。これは、実質リヴァーシの長を決める選挙に等しい。有力な敵対候補がいないとはいえ、可能な限り不安要素は排除したいのだろう。

 カストルは舌なめずりして、砂糖まみれの口元をふき取る。

「俺は探索になんか行かねえよ。決闘だけで十分稼ぎにはなってるしな」

 ママは、暖炉の炎に照らされるカストルをジッと見た。

 青みがかった黒髪に、漆黒の瞳。月下雪上に踊り、夜闇の中で対戦相手を蹂躙する彼の姿はひどく華やかで美しい。

 けれど、明かりの下に晒された彼はどうだ。確かに整った美形だが、頬は痩けている。灰色のコートも、額の赤外線ゴーグルも古ぼけている。おそらく父親から受け継いで、それを何度も直して着ているのだろう。ほつれかけの縫い目もぽつぽつと見受けられる。袖口から覗く手首も女の子のように細い。

 端的に言って、非常に貧相だ。いっそ病的とさえ表現できる。彼の姿を見た百人のうち九十は、彼が死の間際に立たされている、と思うことだろう。決闘によって何一つ不自由はないであろうほどの賞金を得ているのにも関わらず、だ。

 だが、彼の収入が、どこに消えているか知らないほど、ママはカストルを知らないわけではない。

「ラキちゃん、かい?」

 カストルは答えない。乾いた唇は青いまま。

「快くないのかい」

「……変わんねえよ。良くも、悪くも」

 カストルはやるせなさげにママを見る。ママは、カストルにもバーテンダーにも悟られないよう、小さくため息を吐く。

 カストルの妹のラキは、奇病に冒されている、らしい。らしいというのは、カストルはママにさえも容態も、病名も、何一つ伝えないからだ。

 ポルックス家は、ギルドを擁するリヴァーシの街の外縁にあり、おいそれと訪れられる場所でもない。そこは雪の世界に適応した生物――モンスターの跋扈する危険な場所だ。特にここ数年は「黒い悪魔」と呼ばれる正体不明のモンスターの目撃や被害が多発しており、ママの悩みの種の一つになっていた。

「妹ちゃんは寝てるんだね」

「……ああ。ラキはさっき『寝かしつけた』ばかりだ。あと三時間は起きねえよ」

「それが聞けて安心したよ」

 ママは車椅子から小型端末を取り出し、バーの液晶に繋いだ。そこに映し出されたのは、闇の中に吹き荒れる吹雪。そして。

「俺の家じゃねえか」

 見間違えるはずもない。鬱蒼と茂る森の中にある家は、ポルックス家のほかにない。

「ラキちゃんは預かったよ」

 その一言と同時に、ママの親衛隊とおぼしき白服がカストルの家を包囲する。

『ママ、病人がいるというカストル家に到着しました。これより突入し、病人を搬送します』

「と、いうわけ」

 ママが笑うと、カストルの表情は一気にこわばった。

「返してほしかったら、一度くらいは探索に行くんだね」

 家宅包囲と脅迫。選挙に響くどころではない。普通に犯罪行為だし、もし反ママ派――副ギルドマスターなどの耳に触れれば出馬自体が難しいところまで追い詰められるのは想像に難くない。だが、だからこそカストルの背筋に怖気が走った。

 ママは、己のことなど少しも省みていない。カストルのことを本気で心配してこの凶行に及んでいるのだ。

「……やめさせろ、ママ」

「あんたはダンジョンに探索に行く。その間、妹ちゃんの世話はあたしたちギルドが責任をもって行う。悪い話じゃないだろう」

 カストルの瞳にはどす黒い怒りがめらめらと燃えている。しかしママは、逃げも隠れもしない。微笑みを湛えて、飄々とその憎悪を真正面から受け止める。

「あんた自身、知ってるんだろ。あんたの評判は悪いってことをサ」

 カストルは答えない。ただ、目に力をこめるように、ゆっくりとまばたきをした。

 ママは続ける。

「探索はしないくせに決闘だけでいっぱしの探索者以上の金もらって、おまけに二つ名持ちの特権でギルドへの上納金も免除されてる。さらには、それだけの実力があるにも関わらず、ギルド内ではどの勢力にも属さない。いつ均衡を崩すとも知れない不穏分子そのもの。好かれる方が無理ってものさ」

「悪評とくらい付き合う覚悟はあるよ。それに一回や二回出撃したくらいでグズグズの評判が覆るかっての。わかったらとっととあんたの私兵引っ込めろ」

 次の瞬間だった。

 バーテンダーの視界から、カウンターに座っていたはずのカストルの姿が忽然と消えた。

 刹那、埃が立つ。灰色のコートがたなびき、暢気に閑古鳥の鳴いていたバーの空気が一気に凍り付く。場違いな、焼き菓子のような香ばしい匂いがママの背後から漂い、鼻腔をくすぐる。

 どんなトリックを使ったか、わかるものはいない。しかし、現実として、若き決闘者は、数メートルの距離があり、かつカウンター越しに座っていたママの背に立ち、さらには、ママの首もとに腕を回していた。少しでも腕に力を入れれば窒息、その気になれば首をへし折ることすら可能な位置だ。

「もう一度しか言わないぜ。手遅れになる前に退け」

 しかし、痩せた小僧の脅しで怯むほど、ママもこの稼業が短いわけではなかった。

 彼女がまず嘆いたのは、それなりに付き合いがあるはずの自分の命をたやすく奪いに来る、カストルの容赦のなさ。年経た淑女は、窓ガラス越しに映る少年の、張り詰めた横顔を見、そしてつとめて穏やかな声で言った。

「新しくダンジョンが見つかったの。おそらく医療機関タイプさね」

 過去の警備機械や、どこからか迷い込んだモンスターがうろつくダンジョンは、危険地帯であると同時に今は亡き技術の宝庫でもある。建築、工業、戦闘、そして、医療も例外ではない。

 まず、第一にダンジョンで得られた遺物はギルドが占有したのち、しかるべき専門家に振り分けられ研究が開始される。例外として、ダンジョンを最初に踏破したものは、ダンジョンで得られたすべての情報を閲覧することができるし、望むなら揉み消すことだって出来るのだ。

「それだけじゃない。今回はダンジョンの場所がヤクくってね。どこだと思う?」

 カストルは答えない。

「ギルド・ベースの地下さ」

 カストルは震えた。無理もない。ギルド・ベースはギルドはもちろん、リヴァーシの街の中心部。さらに、その地下には街に電力と熱とを供給している発電所がある。その側にダンジョンがあるということは、この街の地盤に位置するべき場所に不発弾が眠っていることに等しい。そんな事実を平気で伝えるママからの信頼の深さ。それ以上に

――俺はいま、笑ったのか?

 空いた手で己の口元を触る。あたかも、自身の表情を隠すかのように。探索に行きたいと思っているのだろうか――カストルはそんな風に自問する。

「ラキちゃんを治す手掛かりがあるかもしれない。もちろんその間妹ちゃんの面倒は私たちが見るわ」

「……わかった。とりあえず話は聞く。だから早くあんたの部下を退避させろ」

 震える声で、カストルは言った。まるで、何かを恐れるかのように。

「あなたが頷くまで、そうするわけにはいかないわ。『黒い悪魔』のことだってある。ラキちゃんをそんなところに放置してもいいの?」

 ママがその存在を口にした瞬間、カストルの態度が引きつるように変化した。老女は、それを動揺だと思った。あと一押しで交渉は完遂。そんな風にママが考えた瞬間、カストルの感情が炸裂した。

「別にあんたの心配をしてるわけでも妹があんたの手に落ちること心配してるわけでもねえんだよ」

 悲壮な方向が、ママの耳をつんざく。「ラキが、ラキがあんたの部下を殺しちまう」と。

 次の瞬間である。

 液晶画面の中のカストルの家から、壁を突き破り、巨大な黒い腕が生え、林木ごと人影を打ち払い、吹き飛ばした。

『あ、悪魔――』

 画面の向こうのママの部下が呟く。

「逃げろ!」

 ママと、バーテンダーが呆気にとられているなか、事態を理解したカストルは叫ぶ。

 次の瞬間には、ドアすら開かぬままに、バーの中の人数は三人から二人に変わっていた。カストルが飲んだミルクと砂糖の代金トークンだけを残して。


 ~


 ポルックス家の長女、ラキは、おとなしくて、優しくて、頭がよくて。でも少し人見知りなだけの女の子だ。

 歳は十三。カストルより三つ下だが、彼よりも早く読み書きをものにし、今では部屋中にダンジョンから発掘された本を積み重ねている。一方で、女の子らしいおしゃれにはとんと興味がないようだったから、ほんのちょっぴりだけ、カストルと家族を不安がらせた。

 それだけの、ふつうの女の子のはずだった。

 通り過ぎた道を振り返りそうになって、思わずカストルはかぶりを振った。そうしてまつげを凍らせる雪を払った。悪夢を疑いたくなるほどの、激しい雪嵐だった。だが、そんなものに構っている余裕はない。ただ、脚にいっそう力を込める。

 少年の影は雪の上を翔ける。

 しかしそこには足跡のひとつも、ジェットスキーの痕跡もない。親衛隊はおそらく本拠地であるギルドから森を迂回してポルックス家に向かったのだろう。

 カストルは、彼らと同じルートを走っていては間に合わないからと、森の中央を突っ切る腹積もりだ。無秩序にそびえる針葉樹の枝から幹へ、幹から枝へ、ピンボールの銀玉さながらに駆け抜けていく。

 カストルと、そしてその妹・ラキの住処は針葉樹が茂る、人里離れた場所にある。

 普段は手つかずの自然に包まれているはずのそこに、ジェットスキーの残骸が点々と汚れた染みを作っていた。

 進路を変更。ラキは家ではなく、ママの手先を追っている。残骸を目印に、木々の隙間を翔け抜けた。

「ラキィィィ!!」

 吹雪の夜に、カストルは吼えるが、咆哮は雪の嵐に飲み込まれて、どこへもたどり着くことなく掻き消える。

 そう思われた刹那。

 衝撃が樹々をなぎ倒し、カストルの視界を埋め尽くす暗黒すらをも覆い隠し、彼の肉体を弾き飛ばす。

 結論から言うなら、それは掌だった。ただ、それはモンスターを含めたあらゆる既知の生物と比較しても、大きすぎ、堅すぎた。

「ぐ、があ!」

 少年の肢体が紙人形のように吹き飛ぶが、その過程――吹っ飛ぶカストルがバウンドしたとか、あるいは巨大な掌のフォロースルーが生み出す風圧によってへし折れた木々が、彼の肉体が相応の質量を伴うものだということを生々しく証明していた。

 散らばる木屑と抉れた雪原、地に奔る赤の飛沫。それはさながら事故現場のように、無秩序に暴力の爪痕が刻まれている。凄惨の一言だ。

 ただ、強いて違う点を上げるならば、被害者の瞳は熱を帯びていた。

 カストルは生きている。その肉体も、闘志も。

 折れた手足の骨に、全身に走る打ち身の跡。衣服は当たり前のようにボロボロに剥げていて、残った箇所は例外なく血で真っ赤に染まっている。死んでしまってもおかしくないような、満身創痍を絵に描いた格好ではあったが、しかし、カストルは意識を保ち、まっすぐに「敵」を見据えている。

 「敵」。全身を黒い毛皮で覆い、そこから覗く眼球は、煌々と知性の失われた輝きを放つ。針葉樹たちに匹敵する背丈を持ち、腕はその樹を三つ束ねたよりも太く、地を擦るほどに長い。

 その姿は、通称のとおり、悪魔に酷似していた。神の不在を証明するかのように。

 悲しいかな、それこそカストルの妹、ラキ・ポルックスの全容であり、巨大化、凶暴化、狂化を伴い、目に付くものを破壊しようとする、彼女の病気の正体だった。

――そう、これは病気なんだ。ラキは何一つ、悪くない。ラキは、悪魔なんかじゃない。

 カストルは辛うじて動いた右手で腰のホルスターに手をかける。しかし、彼が掴んだのは銃のグリップではない。少年が取り出したのは、点滴に使われる容器――点滴バッグ。そこに記された文字は「ブドウ糖」。人間のエネルギーである、最も小さく、基本となる糖。

 カストルは残った力でもって点滴バッグのセーフティを弾き飛ばし、先端の針を露出させる。痛む胸で無理やり深呼吸する。肺に炎を灯されたような苦痛のなか、どうにか呼吸を整え、瞼を閉じる。身を切るような吹雪の吹き荒れる銀世界に、心の中で小さく別れを告げた。

「《糖酔・過/シュガー・ハイ:オーバードース》」

 一息に、右手の針を自身の胸へと突き立て、左手で点滴バッグを握りつぶした。。

 異形の光景は、すぐさま始まった。

 いかなる薬物の力であろうか、カストルの肉体が跳ねるようにのけぞると、みるみるうちにへし折れた手足が倍速映像もかくやという速度で再生し、切り裂かれた傷口は泡立って、たちまち塞がれていく。それどころか、貧相だった骨身はいつの間にか筋肉が盛り上がり、青筋が全身に網のように浮き上がっている。

 今やカストルの体には傷一つなく、鍛え上げられた肉体は雪明かりを受けて一層瑞々しく煌めいた。

 カストルは、両眼を開く。

 変わり果てた世界を視界に捉える。

 再誕した視界の中では、写真のように、なにもかもが暗黒の中に静止していた。ラキも、木々も、風も、宙を荒れ狂っていた雪の粒さえも。

 静寂。世界は、時間ごと凍り付いてしまったかのようだった。

 ただ、対照的に、カストルだけは生ける炎のごとく煌々と白く白く燃え上がり、その光は容赦なく闇を切り裂いた。

 これこそが、カストルの力の到達点、「時間停止と見まがうほどの高速移動」。

 カストルは、雪原に一歩を踏み出す。

 積もった雪は蒸気となって掻き消える。まるで、カストルのために道を開けているかのよう。空気は異形の少年を恐れ讃えるかのようにチリチリとか細い悲鳴を上げる。

 異形の少年は、彼方の異形の悪魔を見据える。狙いは正中線。腕を大上段から振り下ろすと空気中を熱波が走り抜ける。疾風は木々を焼き焦がし、雪原をふたつに切り裂いた。

 それだけではない。悪魔の全身を覆う体毛が正中線に沿って縦一文字に白熱している。その白い割れ目の中に、うなされたような表情で、ラキはまどろんでいる。

 静止した世界で、カストルはゆっくり、丁寧に脚に力を込める。ずたずたに切り裂かれた防寒着がはち切れんばかりに膨らむ。炸裂のときを待つ火薬のように。

 一呼吸。余計な力みを取り除く。

 カストルは凍えそうに冷たい空気を胸いっぱいに取り込み、肺からすべて吐き出す。それと同時にカストルは白熱した。それと同時に、暁と見紛うかのようなまばゆい白光が周囲を包んだ。

 次の瞬間である。爆音とともに、悪魔がまっぷたつになったのは。

 世界はあるべき姿を取り戻した。もう静止してはいない。輝く雪も消え失せ、目も満足に開けていられないような吹雪が周囲を覆い、皮膚を切り裂くような風が吹き荒れて、焼けた砂糖の残り香の甘い香りをさらってゆく。

 吹雪のなか、少年が、少女を大事そうに抱きかかえていた。少女は、頬を紅色の上気させながら、少年の腕の中で安らかな寝息を立てていた。

「手荒なまねをしてすまなかった、ラキ」

 カストルは腕の中の少女――ラキ・ポルックスの黒髪を払い、露出した首に、先ほど彼が自身に使ったものとはまた別の薬品を投与する。長いまつげに触れた雪が溶けて、少女の赤みがかった目尻をほんのりと濡らした。

 そうしながら、ママの言ったことを思い出していた。

――探索に行け、か。

 腕の中のじゃじゃ馬が静まっていてくれるだろうかだとか、そもそもカストル自身無事帰ってこれるかという不安だとか、懸案事項は少なからずある。

 けれど。

「まずは……暖の取れる家だな」

 カストルが振り向くと、そこにはことごとく抉りつくされた景色と、辛うじて、といった様子で原型を保つポルックス家がぽつんと残されていた。

 いずれにせよママに借りを作る事態は免れないだろう。後のことを思って、カストルは小さくため息をついて、ヘッドライトを付けた。

 そのとき、激しい動悸がカストルの体を揺らした。内臓の上を百足が這っているような苦痛と悪寒に、極寒の吹雪の中にも関わらず、カストルの体からどっと汗が吹き出た。

「いずれにせよ、あなたには時間がない」

 カストルとラキの他に誰もいないはずの星雪夜、雪解け水のような済んだ声がカストルの体調を代弁した。

「ママの手の者……か?」

「いいえ」

 雪を踏む音が、背後から一人ぶん。カストルは思わず振り向くと、そこには少女が立っている。雪上に足跡すらないままに。

「お前は……何者だ?」

 数メートル先、雪に照らし出されたその姿は、緑色の髪と、黒のマントを風にたなびかせる少女。カストルを見つめる蛍色の瞳には憂いの闇が宿っている。

 明らかにママの私兵ではないし、そもそもモンスターが生息し、極寒の風と雪に晒されるリヴァーシの街を出るには、異様なまでに軽装で、無垢すぎた。

 だが、カストルはその姿を知っている。

 リヴァーシの人間が好んで身につける、「緑の天使」そのものだ。

「あなたは、残された時間を穏やかに過ごすべき。ダンジョンには関わらないで」

 少女は、そうとだけ言い残すと、カストルの返事も聞かずに夜の闇へ溶けていった。

「俺は幻でも見ていたのか?」

 カストルはわれに返って自問する。しかしその問いに答えるものは、もはやそこにはなかった。


 ~


 極北街・リヴァーシ。

 ポルックス家から西へと数キロメートル先、針葉樹林を抜けた先に、その白い壁はある。

 長い。果てがひたすらに遠い。南北に伸びる雪造りの壁は、暗闇の世界にそびえ立っている。果てが黙視できないほどに長大で、高遠。これが、リヴァーシは巨大な要塞たらしめている。そして、奇妙に曲がりくねった建築物が、高い壁を超えて顔を出している。街の顔であり頭脳である、ギルド・ベースだ。

 圧倒的な存在感を誇る壁だが、しかし、そこに門衛はいない。この壁がシャットダウンしようとしているのは外敵ではなく、際限なく吹き付ける雪と風だからだ。もしモンスターが入り込もうものなら、リヴァーシの歴戦の猛者たちの手で葬られることになる。

 カストルは空けられたトンネルをくぐり、壁の内部へと入る。雪の照り返しを受けた街灯のあかりがカストルの黒い瞳に突き刺さった。

 リヴァーシは、ギルドを有する中では最北端に位置する、もっとも寒さと雪の厳しい街。けれど、厳しい外部環境に対抗するかのように、この町の人のありさまは温かい。街の外沿部には旅人を歓迎するように宿屋が立ち並んでおり、夜の道を照らしている。燃料資源の供給がそう多くないのにも関わらず、だ。

 カストルはこの街の人々の情の深さへの感謝もほどほどに、周囲を見回す。まずは、ママに連絡を取らねばならない。

「あった」

 ほどなくして、彼が目を輝かせて駆け込んだのは、緑色の看板の宿屋「かいあし亭」。木造の屋内を暖炉の炎がぼんやりと照らしている。酒場も併設されているが、そこに客は一人もいない。かわりに店主とおぼしき筋骨隆々のスキンヘッドの男がグラスを磨いているところだった。

「やあ、いらっしゃい……と思ったらシュガー・ハイじゃねえか」

 店主は、威圧的な外見ながら、人懐こくほほえむ。それだけで店の気温が数度上がるようだった。

「すまない店主。ママに繋いでくれるか」

 少し躊躇してから、カストルはそう言った。無理もない。最後に一緒にいたときは、カストル自身の手でその命を奪おうとしていたのだから。

 理由まではわからないが、年相応に動揺している。そんなカストルの様子を察した店主は無言で頷き、彼をカウンターの中へと通した。「ちなみに君が背負っている子は?」と店主がおそるおそる尋ねると、カストルは淡白に「妹だ」と答えた。

 電話が繋がった。

『はい』

 老淑女の声に、カストルは胸をなでおろす。ようやく、現実にあるべきところに自分が納まった、そんな感覚を覚えた。

「俺だ。カストルだ」

『妹ちゃんの容態は?』

「子細問題なし。熟睡してるよ。あんたのところの私兵は?」

 ラキは、長いすの上で先ほどまでの暴走がウソであるかのように、静かな寝息を立てている。

 受話器の向こうで、老女が笑う。

『あたしは何が何でも生き残れって徹底的に教え込んでる。あの程度の修羅場はなんてことないよ』

 ママは平気な風に笑う。

『そのうち戻ってくるはずさ。まあとりあえず、しばらくの間そこのやっかいになりな。あたしが口きいてやる。とりあえず店主にかわっとくれ』

 カストルは、言われるがままに店主を促し、受話器を渡す。

「まあ、これでも飲んでろ。体冷えてんだろ」

 入れ替わりに、店主から手渡されたのは、湯気の立つ二つのカップ。口を付けずとも濃厚に香る出汁は、ダンジョンの壁を掘り返すモンスター、ドリルガニのものだ。ひとくち啜るだけで、肉の濃厚な味が、口の中に広がった。

 同時に、カストルは、スープを吐き出した。飲み込めない。体が、食物を受け付けない。

――《糖酔》が解けて、肉体が衰弱したからか。それとも《糖酔・過》の反動か。

 弱っていることを自覚した途端にふらつく脚へ気合の鞭を入れ、倒れそうになるのを踏みとどまり、ソファにて身を横たえさせるラキへと目をやった。

 ラキは暖炉のそばに横たえているにも関わらず、心細そうに薄い唇を振るわせ、ただひとりの肉親を呼ぶ。

「にい、さん」

 カストルは罪悪感に押し潰されないように、ラキの首を長い髪の上から撫でる。髪に隠れた細い首は、注射針の痕で荒れていた。

「悪い兄貴ですまない……」

 ラキは眠ったまま、ただ、居心地悪そうに表情をゆがめた。

「怖いよ、兄さん」

「大丈夫、俺がついてるよ」

 欺瞞だ。カストルはラキの病気を治すために、何かをしてやれているわけではなく、そんな時間さえ、いつまで続くかあやふやだ。日々を凌ぐうちに、少年は無力感を噛み殺すことと、眠れる妹に作り笑いを投げかけることばかり得意になった。

――俺が妹のためにしてやれること、それはただ一つだけ。そんなことはわかっている。

――ダンジョンに、病を治すための手がかりを探しに行くこと。

 だが、問題は、ラキの存在そのものだ。もしカストルがいない間にラキが暴走したとして、一体誰なら彼女を止められる? ママの精鋭たちですらラキを止められなかったというのに?

 ……いや、止めることだけなら可能だろう。なにも戦力はママの精鋭たちだけではない。この町には腕利きの探索者が揃っている。しかしそれでも、暴走するラキを「生け捕り」にするには足らない。

 カストルがラキの側についていてやるしかない。その結論は揺るがない。

――探索に行きたい。

 その思いは、葛藤となってたえずカストルの胸をかきむしり続けている。

「……妙にやかましいと思ッたら、てめェだったのか」

 ハッとしてカストルが振り向くと、宿の暗く長い廊下の入り口に、自分と同じか少し若い少女が立っていた。

 グレーのフードで真っ赤な髪を隠し、橙色の瞳を携えている。強い意志を感じさせる太い眉に切れ味鋭いまなじり。濃い香水の香り――それでも、隠し切れない機械油の匂い。

 『てめェだったのか』。彼女はそう言った。しかし、カストルに心当たりはない。賢明に記憶をたぐっても、それは変わらなかった。

「あンまりにもやかましいから説教の一つでもしてやろッかと思ったが、難儀な顔してやがンな」

 少女はうなるように笑う。

「相談にでも乗ッてやろうか、カストル・ポルックス」

「ならまずは誰だか名乗れよ」

 カストルがそう返すと、少女はハッとしたように自分の姿を省み、一通り見分が済んだ後、「違ェねえや」と苦笑した。

「オレはクレナイ・セキボ。クレナイが名字でセキボが名前だ。一昔まえの人間なんで、名字が先に来ンだ」

 少女はそう名乗り、カストルへと右手を差し出した。握手を求めるためだ。しかし、直後カストルの心臓は大きく跳ねる。

「どうした? オレと握手するのはイヤか?」

 セキボの右腕は、明らかにホモ・サピエンスにありうべき前腕からはかけ離れて、メタリックな輝きを宿していた。

 カストルは、セキボの体をまじまじと見た。複数の金属パイプからなる腕部。硬質な光を放つ八本の指。

 カストルは腐っても探索者だ。不具のものは見慣れている。だが、彼女の腕は彼らの義腕とは明らかにレベルが違う。――カストルの知識のはるか上位に、彼女はいる。

「お前、サイボーグか」

 人体の一部、もしくは大部分を機械に転換したもの。力も、そもそも体の動きさえも人間の力をはるかに凌駕した彼らだが、しかし修理の方法は失伝し、補修用の素材はさらに昔の段階で雪に埋もれ失われていた。遺物レベルで言うなら、A級はおろか、超S級を与えてしかるべき代物だ。

 カストルの知識ではリヴァーシの街にはサイボーグなど一人もいない。そのはずだった。今日の夕方までは。しかし、今は違う。カストルの中でパズルのピースが組み合わさっていく。

「クレバス……!」

 そうしてカストルは、自分が興行で倒した大男が、目の前の少女と同一人物である、と勘付いた。姿どころか、性別さえ違う。けれど、S級以上の遺物は常識外れさえも常道であり、これまで得てきた知識は何もかもノイズにしかならないのだから。

――敵だ。意趣返しだ。攻撃される。

 一瞬にして、カストルの精神は張り詰め、差し出しかけた右手を懐に潜り込ませた。

 恐怖。ごく近い間合いだが、人間と違って、サイボーグには間合いの概念は存在しない。それでも、少年は何かを掴みたかった。よりどころが欲しかった。それがたとえ、自分よりはるかに鈍い銃弾であったとしても。

「おゥ、覚えててくれてあンがとよ」

 対照的に、カストルが打ち倒したはずのクレバスは朗らかだった。少年のような笑顔で笑う。

「そんな緊張しねェでもいいぜ。別にオレにお前をどうこうしようって気はねェよ。もちろん、そこの女の子にもな」

 滝のような汗がカストルの額を伝う。彼はクレバスを見据えながら、身震いした。

「……この子に、ラキに手を出したら殺してやる」

 クレバスはため息をついて、言う。

「……あんなァ、オレは余所者だぜ? 私闘で花形探索者ブッ飛ばしたなんて知れたら居場所なくなるッつーの。オレがお前を恨んでるのはお前の想像通りだが」

 カストルは目を細めた。クレバスは冗談めかしてクックッと笑う。その鋼の四肢はうっすら蒸気を吐いて、文字通り、「緩んだ」。

「お前にボロ負けしたおかげでこっちに滞在する間のスポンサーもカネを出し渋りやがる。整備費どころか滞在費用さえ捻出できるかッてところだ」

「……悪ィが、俺も余裕はねえんだ」

「ハッ! そんなん一目見りゃ分かる。『能力者』なんて生き急いでる奴ばっかりだからな」

 クレバスは、ほくそ笑んだ。意趣返しとばかりに。

「おまけに『時間停止能力』なんて、超S級遺物に匹敵するか、それ以上じゃアねーか? 生身でそんな力を行使するンだから、どんな重いリスク背負ってるか、想像すらできねェよ」

「……どこまで知ってる」

 てめェの個人的なコト以外はだいたい全部、とクレバスは嘯く。

「オレは人類の拠点を旅する探索者、『冒険者』だぜ? 能力者なんて山ほど見てきたンだ。そして、だからこそてめェの能力に驚いてる。そして、ハードな『デメリット』にもナ」

 カストルの目に、少女の姿をしたクレバスが、今は一回りも二回りも大きく見えた。少なくとも、カストルは、それがプレッシャーによるものなのか、本当にクレバスの体積が弛緩とともに大きくなっているのか判断するだけの冷静さを欠いていた。

 しかし、能力の正体は、実績もなければ体力も知識もないカストルの、そして妹のラキの生命線でもある。そして、弱点はそれを遥か上回る価値をもつ。

 タネが割れ、万が一対策でもされた時、兄妹は本当に生きるすべを失う。何があろうと、死守しなければいけない一線。

 カストルが抱く恐怖は、いま、彼が守るべき死線が侵略されつつあることの裏返しだった。

「……お前を消す必要があるみたいだな」

 カストルの懐の薬瓶が暖炉の炎を受けて獰猛に光る。クレバスは面食らい、おののく。それでも余裕のポーズを崩さないのは、機械の体ためか、いくつもの死線をくぐり抜けてきたためか。

「おいおい、シリアスに考えすぎだッつーの。オレの情報収集能力は文字通り『人間を越えてる』かンな。その弱点は遅かれ早かれ、オレにはバレてたさ」

 カストルは、クレバスの瞳孔が、機械音を立てて絞られるのを見た。

「オレは機械の体だぜ? 勿論目も例外じゃねェ。望遠、拡大はもちろん録画から一時停止、倍速再生、赤外線まで何でもござれだ。今回ばかりは、オレも自分の目を疑ッたけどな」

 カストルは手にした銃でクレバスの額に標準を合わせる。鈍く光るクレバスの額を睨みつけて、カタカタと力なく震える。カストルの細腕に湿ったように光る黒く長い髪が絡み付いているのだ。その髪の主は確認するまでもない。カストルの妹、ラキ。

「怖い……怖いよ……」

「なるほどね、兄妹で能力者……ッてわけだ」

「ラキのは『能力』なんかじゃねぇ! 『病気』だ!」

 カストルは言った。

「ラキはな! 治療してもとの生活に戻れるんだよ!」

「元の生活、ねェ」

 値踏みや嘲笑、そんなものより虚ろで冷たい視線がカストルの体を舐め回す。致命の弾丸は、カストルの指先が引き金を絞る先に、クレバスの舌先から放たれた。

「で、仮にこのビョウキが治って健康体になったとして、兄貴を喪ったこの子は本当に『元の生活』に戻れるのかい」

 ストーブの中の塵の弾ける音が、薄暗いロビーに響く。カストルが吐き出したスープが、炎の明かりを受けて、てらてらと光っていた。

 己の愚かさへの嫌悪が胸の内でとぐろを巻く。「こんなはずじゃない」口の中で、カストルはそうつぶやいた。

「わかるぜ。てめェは本当は探索に行きたいんだ。この子のビョウキを治す手がかりを探すためにな。でも同時に、いつその子の発作が起きるともわからねェから、この子のそばを離れるわけにはいかなかった。そうだろ?」

 クレバスの目に温度は宿らない。ただ、淡々と、カストルの胸の内を暴露する。冷酷さや嘲笑さえ失われた瞳の色は、ひたすら人間味や情緒といったものが欠けていた。

「しかし、悲しいかな、お前はもうすぐ死ぬ」

 堰が切れた。

内なる悲鳴が、カストルの胸の内も、意識も、視界も、何もかもを塗りつぶした。うっすらと感じていた死神の気配を、かき消すかのように。

 空気が弾け、炎を揺らした。光がしぶきを上げて、にわかにロビーを照らす。

「おい!? 何だ何だ!」

 カストルは、電話のために奥に引っ込んでいた店主の足音で正気に戻る。荒れた息。定まらない視界。硝煙の匂い。そこには変わらずクレバスがいて、、手にした銃から、弾丸の重みだけが消えていた。床にも天井にも、キズ一ツついていなかった。ラキは、穏やかな寝息を立てていた。

「何でもないヨ、おやっさん」

クレバスは、作りもののような笑みを浮かべると、店主は 禿げた頭を掻き、深くため息をついた。

「ドンパチならダンジョンでやってくれや」

「ああ、だから、オレたちで明日ちょっとダンジョン行ってくる」

 クレバスは何気なく言う。カストルと肩を組んで。

「ハァ!?」

 これに驚いたのはカストルだ。

「オレとこいつで探索パーティを編隊するぜ。チーム名は……保留でいいか」

 そう言うなり、クレバスの口から『探索者求ム!』と書かれた紙が印刷される。

「俺は組むなんて一言も……!」

 カストルはぼやくが、後の祭り。クレバスは聞く耳を持たない。

「これからオレとてめェは一蓮托生だ。てめェがコネで仕事を取ってきて、そしてオレはお前の取ってきた仕事に取り組む。てめェの死は、オレの死でもある。これでいいだろ?」

 つまり、カストルの弱点が晒され、最強の地位を脅かされるということが、クレバスにとっても仕事の喪失にも繋がる、ということ。二人三脚の関係だ。

 カストルの膝元では、妹がひそやかに寝息を立てていた。これさえあれば、ほかには何もいらない。それこそがすべてのスタートであり、最優先事項。

「……一ツ条件がある」

 弱みを握られていようが、何だろうが、譲れない一線。心臓を脈打たたせながらも、カストルはあくまでも強気に出る。

 そんなカストルに、クレバスは嫌な顔ひとつせず、間髪入れずに応えた。「言ってみろ」と。

「俺はこの子……ラキを守りたい。そして同時に、ラキから周囲の人間を守りたい。そのためにはこの子の病気を治すか、俺がいいと言うまで眠っててもらうかする必要がある」

「オーライ、その子を無力化すればいいってこッたな?」

「ああ」

 クレバスはニッと笑い、頷く。

「お安ィご用だ。妹ちゃんの身と、周囲の安全を約束しよう」

「……できるのか?」

 カストルとしては、相当の無理難題をふっかけたつもりだった。だが、目の前に差し出された右腕――機械に疎いカストルでも「美しい」と思える造形を持つそれは、今まで見てきたすべてのものとも違うと思えたし、賭ける価値があるとも思えた。そこからは、両者無言のままだった。ただ、カストルは右手を掴む。言葉はなく、ただ、二人は見つめ合う。

 契約は成立した。

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