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初めて乗る汽車から見る景色はどれもフェリシアには新鮮で、特に牧羊地や草で覆われた丘陵地帯はロンドン育ちの彼女の目を楽しませた。
ただ、客車の堅い椅子に長時間座ったまま揺られ続けているのには、正直一時間で辟易した。
イングランドの端である古い城塞都市カーライルに到着したのは、すでにすっかり日が暮れた後だった。
「つ、着いたのね……」
自分で旅行鞄を持つつもりが、腰と尻が痛くて歩くのがやっとの状態のフェリシアは、持ってあげるよ、というエルバートの申し出を有り難く受け入れた。とてもではないが、いまは大荷物を提げて歩ける自信がない。
「疲れた? 今日はここに泊まるよ。旅籠を探そう」
カーライル駅はユーストン駅に比べれば駅舎は小さかったが、それでも終点だけあって立派な駅だった。
プラットホームに下りると、フェリシアは両手を大きく上げて伸びをした。はしたない振る舞いではあるが、凝り固まった身体をほぐさなければ、とても歩けたものではない。ボンネットを被り直し、スカートの皺を手で整え、クリノリンの形も整えると、深呼吸をした。ロンドンとはまったく違う澄んだ空気が美味しい。
途中の停車駅で窓越しに売り子からキドニーパイやパン、コーヒーを買って食べたので、胃は満たされていた。さらに、満腹になった後は緊張疲れもあってうたた寝をしていたが、座って眠っていたせいか首の後ろが痛い。
旅行がこれほど大変だとは、フェリシアの想像以上だ。
ランプが灯された駅舎を出ると、外は街灯で照らされ仄かに明るい。
すぐ目の前には古い城門が見える。
駅前には客待ちの辻馬車が数台停まっており、御者たちは駅舎から出てきた人々に声を掛けている。
両手に鞄を提げたエルバートは、御者のひとりに近づいて呼び止めると、なにか交渉を始めた。どうやら旅籠まで乗せていってくれるよう頼んでいるらしい。御者はエルバートが提示した金額に対して首を横に振り、ぼそぼそと自分の取り分を主張していたが、あまりにも訛りが酷く、フェリシアには御者がなにを喋っているのか理解できなかった。
五分ほどエルバートが掛け合った結果、両者は合意に達したらしい。
「フェリシア、あの御者の馬車で旅籠まで行くよ」
前金の硬貨を御者に支払いながら、エルバートはフェリシアを手招きした。
「そう遠くない場所に僕らが泊まれる旅籠があるらしいから、そこまで連れて行ってもらうことにしたんだ。今夜なら、多分満室ではないだろうって彼は言っている」
宿の探し方など知らなかったフェリシアは感心する他なかった。
「エルバートって、旅慣れているのね」
「そうでもないよ。いつもは朝一番の特急列車に乗って、丸一日掛けてエジンバラまで帰っているんだ。カーライルで泊まるのは初めてだから、良い宿が見つかるかどうかが実は心配だったんだけどね」
顎を髭で覆った中年の御者は、ぶっきらぼうな口調で早く馬車に乗れと急かした。エルバートとフェリシアの服装から、かなり裕福な客であると見込んでおり、他の御者に客を奪われる前に自分の馬車に乗せてしまいたいようだ。旅行鞄は御者が馬車の上に運んで乗せてくれた。
馬車に揺られて向かった旅籠は、マナーハウスを改装したとおぼしき建物だった。ランプを灯した玄関の脇にはスグリの生垣が茂っており小さな赤い実を付けている。壁からスレート屋根の上までは蔦で覆われていた。
御者は二人分の荷物を馬車から降ろすと、旅籠の玄関まで運び、扉を叩いた。
すぐに中から旅籠の女将らしき中年女性が顔を出し、荷物を受け取ると二人を中に招き入れた。
元は玄関ホールだったとおぼしき空間は、帳場となっていた。
「いらっしゃいまし。お泊まりですか」
二人の服装から上客と判断したのか、痩せぎすの女将は満面の笑顔で挨拶をする。
ホールの壁際には暖炉があり、夏場で使わないためか棕櫚の木の鉢が前に飾られていた。天井を見上げれば、吹き抜けとなっているが太い木の梁が組まれている。
物珍しげにフェリシアがきょろきょろと旅籠の中を観察している間に、エルバートは宿泊の手続きを済ませていた。
「さぁさぁ、お疲れでしょう。部屋までご案内いたします」
女将は作り物の愛嬌を振りまき、すぐさま主人らしき中年男性が二人の旅行鞄を提げて帳場の横にある大階段を上がりながら「こちらへどうぞ」と愛想良く案内をする。
黙ってついていくと、廊下を進み、一番奥の部屋へ案内された。
この部屋が一番上等なのだろう。
真鍮の鍵で錠を開けて扉を開くと、中は続き部屋になっていた。手前が居間、奥が寝室という造りだ。壁紙は赤と白のゼラニウムがあしらわれている。床に敷かれた絨毯はところどころ毛がすり切れていた。化粧室は寝室の反対側にあり、居間の中央には円卓と長椅子、それに肘掛け椅子が置いてあった。寝室のベッドはマホガニー製の立派な四柱式天蓋付きだ。
ロンドンの自宅の部屋に比べてれば狭いが、元がマナーハウスなのだから仕方がない。多少窮屈な思いをするのも旅の醍醐味だと考えれば良いのだ。
ただ、この部屋にはひとつだけ重大な欠陥があった。
(ベッドがひとつしかないのだけれど……)
ゆゆしき問題だ。
女将たちが去った後もフェリシアが黙り込んで凍り付いていると、すぐにエルバートは察したらしい。
「僕は居間で寝るから、フェリシアは寝室を使ってくれるかな」
「……それはちょっと……悪い気がするわ」
一応、遠慮してみたが、ベッドをエルバートに譲るとフェリシアは長椅子で眠ることになる。
「じゃあ、狭いけど一緒に長椅子で寝る?」
「え?」
なんでそうなるのかよくわからないエルバートの提案に、フェリシアは気兼ねするのを止めた。
「有り難くベッドを使わせていただくわ」
旅籠の主人が運んでくれた旅行鞄は寝室の扉の前に二つ並んでいる。その片方の自分の分を、フェリシアは引き摺りながら寝室の中へ持ち込んだ。鞄を開けながら、いつもは着替えを手伝ってくれるマリーがいないことに、いささかの不便を感じたが、自分から同伴は断ったのだから仕方がない。
(着替えだってひとりでできるもの)
鏡台の前に立つと、ボンネットを脱ぎ、羽織っていたショールを椅子の背もたれに掛けた。汽車を降りる際に慌ててボンネットを被ったせいか、鏝で巻いて結っていた部分は台無しになっていた。手袋を脱ぎ捨てると、髪を下ろしブラシで梳かす。
(明日はリボンで結んでおくしかないわね)
ドレスはすべてひとりで着られるものをマリーが選んでくれた。ボタンが後ろについているドレスを鞄に詰めていたところ、誰がそのボタンを留めるんですか、と叱られたのだ。
外出着を脱ぎ捨て、クリノリンを外し、下着も脱ぐと、鞄から寝間着を取り出して着替える。
(疲れたわ……。汽車の旅ってけっこう大変なのね)
靴を脱ぎ捨てると、緑と赤の縞模様のベッドカバーを勢い良く引っぺがしてそのままベッドに倒れ込んだ。枕はやけに硬く、シーツは糊が効きすぎてごわごわしており肌触りは悪い。
(エルバートに巧く言いくるめられてベッドを譲られてしまったわ)
彼の気遣いに感謝しつつ、後ろめたさも感じていた。
一方的に彼の善意に甘えてしまっても良いのだろうか、とフェリシアの中で躊躇いが生じ始めていた。自分の我が儘に付き合って偽装駆落ち結婚までしてくれるなんて、義理堅いにもほどがある。
(わたしと結婚して、エルバートは後悔することにならないのかしら。わたしは多分、十年後も後悔しないと思うけど)
もし父親に命じられるまま見合いをしてインドへ行くことになれば、十年後の自分は後悔しているだろう。エルバートと結婚した十年後の自分がどのような境遇だったとしても、駆落ち結婚したことを悔やむことはないはずだ。
(昔からエルバートは理想の兄様って感じで好きだったし、家族として一緒に暮らすのはきっと楽しいはずだわ)
兄キアランが初めてエルバートを家に招いたときから、彼に対して好感を持っていた。それがどういう種類の好意かは深く考えたことはなかったけれど、エルバートと結婚することに不安を抱くことはない。
(でも、エルバートはどうかしら。いまになって、やっぱり結婚にしりごんだりしていないかしら。彼のことだから、騎士道精神を発揮して最後まで責任を持って結婚しようって考えるかもしれないけれど)
彼の性格を考えれば、いまさら駆落ち結婚を取りやめるようなことは言い出さないはずだが、だからこそなおさら彼に迷いが生じていないか心配だった。
(大丈夫よ、大丈夫)
堅い枕に顔を埋め、フェリシアは自分に言い聞かせた。
(彼だってただの同情で駆落ち結婚してくれるほどお人好しではないはずよ。いくらなんでもそんな博愛精神に満ちあふれた人ではないはずよ。わたしと結婚してもいいかなって思ったからこそ、一緒に来てくれたはずよ……多分)
考えれば考えるほど、心配で憂鬱になってくる。本当にこれで大丈夫なのかと恐れが胸に沸き上がる。
明日の朝になってエルバートの姿が消えていたら。彼の気が変わってグレトナ・グリーンに立ち寄らずにまっすぐエジンバラの実家に帰ると言い出したら。
彼に結婚を断られたとしたら、自分は冷静でいられるかどうか、わからなくなってきた。今日の午前中までは、インドへ行かずに済むなら結婚相手は誰でも良いと思っていたはずなのに。
(……心配するだけ無駄だわ。だって、エルバートはそんなことをする人じゃないもの)
彼の誠実な人柄がわかっているだけに、罪悪感が増すのだ。一緒に来てくれた相手が彼で良かったと安堵すると同時に、彼の本心がわからず不安にさいなまれる。
仄暗い部屋の中でひとり思い巡らしていると、息苦しくなってきた。慌てて枕から顔を上げると、仰向けに寝転がる。
(これじゃあ、とても眠れそうにないわ)
大きな溜息を吐き煩悶していたフェリシアだったが、疲れ切っていた身体はそれ以上悩むことを拒否した。
眠れないと心配した一分後、フェリシアは深い眠りに就いていた。
「フェリシア。明日の朝だけど起きるのは六時頃に……もしかして、もう寝た?」
扉越しに声をかけたエルバートは、寝室から返答がないことに不安を感じつつ、扉の取っ手を掴んで細い隙間から中を覗き込む。
鏡台の上に置かれたランプは煌々と周囲を照らしていたが、明かりがほとんど届かない薄暗いベッドの上には微動だにしない人影が見える。どうやら熟睡しているようだ。規則正しい寝息が聞こえる。
初めての汽車の旅でかなりくたびれている様子が気掛かりだったが、充分に睡眠を取れば体力も回復するだろう。明日はグレトナ・グリーンへ移動し、その後エジンバラまで汽車に乗らなければならないのだ。一等車の座席で腰を下ろしているだけとはいえ、快適とは言い難い。
もし彼女が明日になっても疲れているようなら、グレトナ・グリーンへ行った後、またここに戻ってきて一日ゆっくりと休息をとることも検討しよう、と考える。エルバート自身は長旅も負担ではないが、なにしろ彼女は旅行そのものが初めてらしいのだ。グレトナ・グリーンへ辿り着けば、あとはそう急ぐ旅でもない。明日はカーライルの観光をしてのんびり過ごすのも良いだろう。どちらにしても彼女次第だ。
「……お休み」
静かに扉を閉めたところであることに気付いたエルバートは、額に手を当て天井を仰ぐ。
「明日、どうやって起こせばいいんだろう」
上着を脱いで肘掛け椅子の背もたれに掛けると、長椅子に横たわりながら頭を悩ませた。




