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「ねぇ、エルバート。グレトナ・グリーンへ行くには、どの駅から汽車に乗ればいいのかしら?」

 足下の栗鼠に胡桃の実を投げ与えていたフェリシアがぼそりと尋ねると、ベンチの隣で新聞を読んでいたエルバート・プリムローズは怪訝な表情を浮かべた。

 ハイド・パークには夏の午後の陽射しを浴びようと散歩に訪れた人々や、水晶宮博覧会を見物するため会場へ向かう人で溢れかえっている。子供たちのはしゃぐ声が辺りに響き渡り、大人たちもそこかしこで立ち話をしていた。

 楡の木陰のベンチに座ってから一時間以上も黙り込んでいたフェリシアがようやく意を決して口を開いたかと思えば、脈絡もなくスコットランドにあるグレトナ・グリーンへの行き方を聞いてきたのだ。エルバートが戸惑うのも当然だろう。

「フェリシア。君、グレトナ・グリーンへなにをしに行くんだい?」

 亜麻色のモスリンのドレスを着て造花で飾ったボンネットを被ったフェリシアをまじまじと見つめると、エルバートは聞き返した。

「決まっているじゃない。結婚しに行くのよ」

 クリノリンで膨らませたドレスの裾を睨みつつ唇を尖らせてフェリシアが答えると、すぐさまエルバートは重ねて尋ねた。

「誰と?」

「……それはまだ決めていないけど」

「君ね、結婚はひとりでできるものではないんだよ」

 年長者ぶったエルバートの諭すような口調に、フェリシアはむっと顔を顰める。

「わかっているわよ。ちゃんと相手を見つけてから駆落ちするわよ」

 グレトナ・グリーンはスコットランド南部に位置するロンドンからスコットランドのエジンバラへ向かう街道の、スコットランドに入って最初の町だ。諸事情によりイングランドで結婚することができない男女が、スコットランドの法律で結婚するため駆落ちをして結婚式を挙げる町として広く知られている。

「そもそも君、なんだって急にグレトナ・グリーンへ行って結婚しようなんて気になったんだい? せっかくクィーンズ・カレッジに通えることが決まったっていうのに」

「わたしがクィーンズ・カレッジに合格したものだから、まさか受かると思っていなかった父が大慌てで見合い話を持ってきたのよ」

 大きな溜息を吐きつつフェリシアは最後の胡桃を芝生の上に放り投げると、待ち構えていた栗鼠たちがそこに群がった。

 三年前に創設されたばかりのクィーンズ・カレッジは、中産階級以上の良家の女子を対象とした中等教育機関だ。この春で十六歳になったフェリシアは入学試験の難関を見事突破し、秋からこのクィーンズ・カレッジに入学することが決まっていた。

「父には不合格だったら結婚しなさいと以前から言われていたのだけど、どうせ合格したって最初からわたしを学校に行かせるつもりなんかなかったのよ」

 昨夜の父親の態度を思い出すと、ふつふつと怒りがよみがえってきた。

「君が勉学に熱中し過ぎて嫁き遅れることを心配しているだけなんじゃないかな」

「とてもそうは思えないわ。だって見合い相手は東インド会社のインド駐在員なのよ? しかも、あさっての日曜日がお見合いなの! きっと相手は結婚許可証を持っていて、父はお見合いの数日後にはわたしたちに結婚式を挙げさせるつもりなのよ! そして月末にはわたしをインドへ送りだそうって計画に違いないわ!」

「それは君の早とちりじゃないかな」

 エルバートは宥めようとしたが、フェリシアの耳には届いていない。

「あの父があっさりと受験を許してくれたから変だとは思っていたけれど、まさか合格したのに無理矢理結婚させられることになるとは想像していなかったわ!」

 両手で顔を覆うと、フェリシアは大仰に嘆いた。すでに彼女の中では結婚後のインド行きは確定事項となっている。

「それでインドへ行かずに済む方法を熟考した結果、グレトナ・グリーンでの駆落ち結婚をしようと結論が出たわけかい?」

「えぇ、そうなの。ただ家出しただけでは連れ戻されて終わりでしょう? このお見合いを破談にするためには、とにかくわたしが先に結婚してしまうことが肝心だわ。結婚してしまえば、父だってわたしの嫁き遅れを心配することもないんだもの!」

 握り拳を作ってフェリシアは力説する。

 現在のイングランドの法律では二十一歳以上の男女でなければ親の許可なしに結婚できないが、スコットランドの法律では男性が十四歳以上で女性が十二歳以上であれば親の承諾がなくとも結婚できる。また、イングランドでは結婚の前に結婚予告の公示をするか許可証を取得する必要があるが、スコットランドではそのようなものは一切必要ない。

「だから、日曜日までにグレトナ・グリーンでわたしと結婚してくれて、結婚後はわたしがロンドンで学校に行くことを認めてくれる相手を探さなければならないの。そうね、花婿募集の新聞広告でも出そうかしら」

 エルバートの手元にある新聞の求人広告欄を覗き込んだフェリシアは、腕組みをして考え込んだ。

「偽装結婚してくれる男性募集、謝礼要相談ってのはどうかしら」

 即座にエルバートは却下した。

「新聞広告が掲載されたその日のうちに、ヴィリアーズ卿は君をインド行きの船に放り込むだろうね」

「名案だと思ったのだけれど」

「どこが?」

 信じ難い、とエルバートは驚愕の表情を浮かべる。

「君は相変わらず、自分がクラレンドン伯爵家の血筋だって自覚に欠けているようだね。貴族の子女が新聞広告で結婚相手を探すなんて真似をしたら、大醜聞だよ」

「伯爵なのは伯父であって父ではないのだけれど……確かに、親戚中から非難されるでしょうね」

 見合い話は破談になるだろうが、クィーンズ・カレッジへの入学も取り消される恐れが出てくる。それでは元も子もない。

「どうせ結婚するなら、クラレンドン伯爵やヴィリアーズ卿が反対しない相手を選ぶべきだよ。あとでヴィリアーズ卿が婚姻無効を言い出したら面倒だろう?」

「反対されない相手ってことは、同じ階級の男性ってことよね」

 うーん、と眉間に皺を寄せてフェリシアは唸った。

 上流階級に属してはいるもののまだ社交界にデビューしていない彼女は、兄キアランの寄宿学校時代からの友人であるエルバート以外、同じ階級の独身男性に知り合いはいない。

 ローズベリー伯爵の四男であるエルバートは、現在ロンドン大学医学部に在学している学生だ。三人の兄を持つ彼は、よほどの不幸が兄たちに降りかからない限り爵位を継ぐ見込みはなく、政治家も軍人も聖職者も自分には向いていないからと内科医を目指している。礼儀正しく真面目で賢く、フェリシアの兄や従兄弟たちと比べても一番将来有望な二十一歳だ。また、狐色の癖のある髪に橡色(とちいろ)の瞳をしている彼は容貌も整っており、六フィート近い長身に青銅色のフロックコートを着こなしている。

 いまだって通りがかりの付添人を連れた令嬢が、ベンチに腰を掛けたエルバートをちらちらと横目で見ながら通り過ぎて行く。

 大学に進学しロンドンで一人暮らしを始めたエルバートを、兄キアランがヴィリアーズ家へ招いたことからフェリシアも彼と親しくなった。軽薄を絵に描いたような兄と実直なエルバートではまったく正反対の性格だが、不思議と二人は気が合うらしい。

「じゃあ……エルバートが一緒にグレトナ・グリーンへ行ってくれないかしら?」

 軽い口調でフェリシアは提案してみた。

 エルバートの性格では、駆落ちのような親の意見を無視した結婚を彼自身が手段として選ぶことは拒絶感を抱いているはずだ。当然、色よい返事は期待していなかった。

 なので、エルバートの返答を聞いた直後、一瞬フェリシアは自分の耳を疑った。

「いいよ」

 聞いてくれるのを待っていたとばかりに、エルバートはあっさりと快諾したのだ。

「え? あの、エルバート……夏休みだからエジンバラの実家へ帰るついでにわたしをグレトナ・グリーンまで送っていけばいいかとか考えているんじゃないでしょうね?」

 ローズベリー伯爵家の邸宅はスコットランドのエジンバラにある。グレトナ・グリーンはロンドンからエジンバラへ向かう道中にある町なので、帰省のついでに連れていってもらうことはできる。

「まさか」

 苦笑いを浮かべたエルバートは、訝しげに顔を覗き込んできたフェリシアの疑念を否定した。

「わたしはグレトナ・グリーンまでの道案内をして欲しいわけじゃなくて、一緒にグレトナ・グリーンまで行って向こうでわたしと結婚して欲しいと言っているのよ?」

「うん。だから、君は駆落ち結婚したいんだろう? もちろん結婚にも付き合うよ」

 真摯な態度でエルバートは頷く。

 その顔を見ているうちに、フェリシアは自分が言い出したにもかかわらず恥ずかしさと苛立ちで頬が火照るのを感じた。

 今朝、数日中にエジンバラにある実家に帰省するのだとヴィリアーズ家へ挨拶に訪れたエルバートに、相談したいことがあると言ってハイド・パークに呼び出したのはフェリシアだ。

 生まれてから一度もロンドンを出たことがない彼女は、駆落ちをしてグレトナ・グリーンで結婚することまでは計画したものの、目的地までの交通手段がまずわからなかった。この五年くらいの間に英国のあちらこちらに鉄道が敷かれて長距離移動が便利になったものの、ロンドンからグレトナ・グリーンまで線路が続いているのかすらわからない。辻馬車で旅をするとなると、どれくらいの日数がかかるのかもわからなかった。

 どうすればグレトナ・グリーンに辿り着くことができるのだろうと散々悩んでいたところに、エルバートが訪ねてきたのだ。夏期休暇中はエジンバラの実家で過ごすのだという彼の一言で、グレトナ・グリーンへの行き方は彼に訊けばよいのだということに気づいた。ついでに旅費はどれくらいかかるのか、切符はどのように買うのかなど、旅の心得も訊きたかった。長期休暇のたびにロンドンとエジンバラを往復している彼なら、鉄道での旅にかなり慣れているはずだ。

「本当にわかっている? わたしは本気で偽装結婚するのよ!? 父の言いなりになってお見合い結婚してインドに行ったりしないためにも!」

 真剣な眼差しでフェリシアが挑むように睨むと、エルバートは軽く肩を竦めた。

「それならなおさら、君の結婚相手はロンドンに住んでいないと都合が悪いんじゃないかな。グレトナ・グリーンまで行く途中でロンドン在住の独身で君と釣り合う階級の男を探すなんて、難しいよ」

 エルバートの指摘に、フェリシアはぐっと言葉を詰まらせた。

「自分で言うのもなんだけど、僕は君に都合の良い条件が揃っている男だと思うよ」

「そ、そうね」

 確かに、エルバートのような好条件の男性はそう簡単に見つかるものではない。階級、年齢、性格、居住地、将来性のすべてが及第点だ。しかも彼は以前からフェリシアがクィーンズ・カレッジで勉強することに賛同してくれていた理解者でもある。

「鉄道を使うなら、ユーストン駅からカーライル行きの汽車に乗って、さらにグラスゴーへ向かう汽車に乗り換えればグレトナ・グリーンに着くことができる。今日の夕方にロンドンを出発したら、明日には到着できるよ。せっかくだから、グレトナ・グリーンで結婚した後、エジンバラに一緒に来てくれないかな。僕の家族に君を紹介したいから」

「え? あ、そうね。ご挨拶をしなければならないわね。でも、いきなりわたしが訪ねて行ったら、あなたのご両親は驚くんじゃないかしら。それに、勝手に結婚したことを叱られるというか、責められるというか……」

 スコットランドだからといって、誰もが思い立つ日が吉日で結婚するわけではない。貴族には貴族の流儀というものがあり、周囲に隠れて結婚するなどあまり誉められたことではないことは彼女も承知していた。

「僕が帰省の途中で結婚してきたって報告したら最初は驚くだろうけど、祝福してくれるはずだよ。特に母は喜んでくれると思うな。子供が男ばかりでつまらないってよくぼやいている人で、いまだ独身の兄たちにはことあるごとに早く結婚しろってせっついていることだし。駆落ちすることになった顛末は、君が他の男と結婚させられてインドに行かされそうだからというところまで説明しておいて、君の進学の話は伏せておくけれど、両親は僕らの味方をしてくれるはずだよ」

「そんなに都合良くいくかしら」

 ローズベリー伯爵夫妻が味方をしてくれるなら心強い。父親だけではなく伯父や親類縁者も、フェリシアが駆落ち結婚したことについて強く咎めることはできなくなるはずだ。

「僕の両親のことは本当になにも心配いらないよ」

 白い手袋をした手でエルバートはフェリシアの両手を強く握った。

「それじゃあ、夕方の汽車で出発しようか」

「え!? 夕方って、今日の夕方!?」

「駆落ちの計画がヴィリアーズ卿に気づかれる前にロンドンを出ないと、君が連れ戻されてしまうかもしれないだろう? こういうのはすぐに行動に移すべきだよ」

 熱意の籠もった口調で説得され、フェリシアは考える暇もなく慌てて首を縦に振った。

「午後四時にユーストン駅で待ち合わせをしようか。切符は僕が買っておくから、君は最低限の荷物だけ持ってきてくれたらいいよ」

「わかったわ」

 エルバートの勢いにのまれながら、フェリシアは大きく頷いた。

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