【Snatch】 恐怖は隣にいました
誰よりも早く我に返ったのは栗毛の男だった。
「こ、小僧ぉぉぉっ!! 馬鹿にしているのか!」
先よりも更に顔を赤くし、吼える栗毛の男に対して少年は軽く肩を竦めてみせた。
「馬鹿になんてしてないんだけど、これっくらいしか丁度良いのないんだよねぇ」
少年が手にした豚を模したヌイグルミはしっかりとした生地で出来ているタイプではなく、それは柔らかな布地で出来ているのが容易に伺えた。
例えるなら、女性の下着に用いられるような薄くて柔らかな生地である。
ピンク色の豚はとてもよく膨らんでおり、力一杯という訳ではなさそうだが、少年の握力で軽く掴んでいる足がかなり搾られている様子からも、中に詰められた綿は柔らかそうなのが分かる。
あのようなヌイグルミで叩かれても痛くも痒くもなさそうだ。
自分の相手の武器がアレであったら怒るだろう……そう思うベイザーであったが、栗毛の男は当然であるが憤怒の形相である。
一方ガディは投げやりな調子で狭まっていた人の輪を広げて回っている。
「あぁ、ベイザー。本当にすまないが、事が済むまでちょっと待っててくれ」
つい近寄っていたベイザーの元まで回ってきたガディが申し訳なさそうに詫びてくる。
「いや、それは構わないんだが……あの子供は大丈夫なのか?」
ベイザーの問いは当然である。
戸惑う表情を浮かべてるベイザーに答えるガディを遮り第三者の声が割り込んだ。
「医務室に怪我人が運ばれてきたと思ったら一体何の騒ぎな訳? あの人何してんの? あぁ、あの馬鹿貴族の息子が元凶? 面倒臭がりの癖に、よくよく厄介な事に首突っ込んでるよねぇ、あの人」
ベイザーが声のした方を見れば、受付担当のテールが面白そうな表情を浮かべ、腕を組み隣に立っている。
しかも問い掛けていながら自己完結している。
何も言えずにいたベイザーがガディを見ると、肩を落として頭を振っている所であった。
「今度は医務室でサボってたのか。で、新入りの怪我はどうだ?」
「窓口の係りが戻ってきたからねぇ。あの程度、直ぐに治したよ。今日一日ゆっくり寝れば、明日は元気さ」
サボりで受付窓口とは? と疑問に思いつつも医療魔術もこなせるのかとベイザーが感心した眼差しでテールを見ていると、それに気付いたテールがクリクリとした目を楽しげに輝かせる。
「これでも、騎士団の一員だからね」
「えっ?」
「え?」
驚きに声を上げたベイザーを笑いながらテールが真似る。
「合格したんだろ? ベイザーも医療魔術くらい出来るようになってもらうから頑張ってね」
「それよりテール。何であの人、残ってんだよ。ラルス隊長が引っ張っていったんじゃないのか?」
ベイザーをからかうテールにガディが声を掛ける。
「あの人が大人しく付いて行く訳ないじゃん。さっさとトンズラしてたけど? それにあの人行ったら練習にならないでしょ。何せ、片っ端から逃げられちゃうんだから。その辺は、ラルス隊長もリヴォール隊長も承知なんでしょ……とは言っても西の宮殿は逃げる連中は比較的少ないけどね。帰ってきたら怒られるんじゃないかなぁ」
ハッハッハッとテールが軽快に笑う。
「所で賭けない? あの馬鹿貴族がどれくらい持つか。俺一発でダウン」
「賭けにならないじゃないか」
己よりも背の高いガディの肩に片肘を乗せながら、テールが悪戯めいた笑みを浮かべるも、ガディの返事には唇を尖らせる事で不満を表す。
「あの子供、そんなに強いのか?」
二人の遣り取りに目を見張り、ベイザーが少年へと目を向ける。
色々と叫んでいた栗毛の男は堪えきれなくなったのだろう。
剣を掲げて少年へと怒りのままに突進していく所であった。
周りにいた男たちも息をも忘れて見入っている。
突進してくる栗毛の男に反して、少年は何気ない動作で片足を浮かせた。
「そりゃぁ、強いよ。だって、あの人はこの騎士団の団長だもの」
両手でヌイグルミの足を持ち、右肩を後方へ下げるように軽く上体を捻る。
「はっ?!」
場にそぐわない軽い調子で告げるテールに思わずベイザーが振り返る。
近くにいた男たちも咄嗟にテールへ視線を向けた。
慌ててベイザーが視線を戻せば、間合いを詰めた栗毛の男が剣を振り下ろすよりも先に、少年は極々軽い勢いでヌイグルミをスイングさせた所であった。
「「「「!!!!!!」」」」
柔らかく打ち返すかのような、そんな軽い勢いであったにも拘らず、栗毛の男は吹っ飛んで行った。
自分の背丈の倍以上に飛んでいった栗毛の男は、ガディが広げた人の輪の中へ突っ込みそうな勢いであった。
「な…………」
言葉が無いとは正にこの事だろうか。
誰しもが何も発する事ができずに、地面へ突っ伏したままの男を見つめる。
「相変わらず、デタラメな人だなぁ。アレ以上、力を弱められないっていうんだから滅茶苦茶だと思わない? それなのに、片っ端から動物に避けられるとか逃げられるとか、一人じゃ馬にも乗れないとか、団長ってば凄ぇウケるーっ!」
静まりかえった中、一人ウケているのはテールのみである。
「うるせーっ!」
顔を赤くした少年がこちらに向かって叫ぶ中、ガディが栗毛の男の傍へと向かっていた。
「誰か、こいつ医務室運ぶの手伝ってくれ。テール、診てやれよ」
「面倒だから嫌だ。大丈夫だよ、一過性の脳震盪だから時間経てば勝手に覚めるって!」
「そんな遠くから見て判断すんな!」
テールの返事に怒鳴り返したガディの表情が恐怖の色で固まった。
「あ……」
それまで軽薄とも思えるようなテールの声に脅えが混じる。
怪訝と隣を見れば、笑みの表情を浮かべたまま固まっているテールの肩に手を置く麗人の姿があった。
一言、美しい女性である。
しかし、寄らば斬るとばかりの雰囲気を持つ女性は、邪まな思いを持たずとも相手に緊張を強いる、鋭利な刃を首筋に当てられるような錯覚を覚える、凛々しくも研ぎ澄まされた雰囲気の女性だ。
ちらりとベイザーが全身に目を走らせると、銀の甲冑の上からでも胸の膨らみは豊かであると易く分かる形に、絶妙なラインが腰を引き締めている。
傍らの麗人の美しさに魅入られた者が、彼女の体を何者からも護り、そして彼女の美しさを一片と曇らせる事のない、精魂削って作り上げたかのような甲冑を纏った美しい女性である。
腰まで伸びた金の髪は艶を帯び、娘によっては春を思い起こさせる薄い碧の目を細めた笑みになぜか背筋が寒くなりだしたベイザーであった。
本能からぎこちなく視線を少年に戻すと、テールと同じように固まっている。
但し、背後に立ち少年の肩に手を置いているのは、甘い容貌のガディを更に凌駕する甘さの男であった。
女に騒がれるだろうと、半ば妬む気持ちを抱かせるガディの容貌であったが、ベイザーはそんな思いを抱いた事をガディに心底謝りたい気分になった。
細身にも見える均整の取れた体躯を持つ男は、炎のように赤い髪を後方へと撫でつけ、青い目を細めて笑みを浮かべている。
ベイザーは開いた口が塞がらなかった。
しかし、それはベイザーだけではない。
その場にいた新人全員が思った事である。
フェロモン過多で垂れ流し過ぎだろう――――と。