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ベッカライウグイス⑩  寄る辺なき夏の宵

突然のユニコーンの訪問に、慄いてしまう私。

一体なぜ、ユニコーンは、ベッカライウグイスへやってきたのか。

夏の宵、静かな時間が訪れ、リスさん、シューさん、私の三人は、

外のベンチに腰掛け、語り合います。深まる夜の星空が、

人生へのエールを送る、第10話。


 「三多さん、どうしたの、いったい……」


 リスさんが、ショーケース横のカウンターを跳ね上げて、出てきた。

 私は……なんていうことをしてしまったのだろう。一瞬にして後悔が押し寄せた。

 「あの……」

 なんと言ったらいいのか……。

 私の困った様子を見たリスさんは、そっと背に手を当てて、ショーケースの奥へ招いた。私は、リスさんについて行き、中のスツールに座らされた。

 「三多さん、大丈夫?暑い中水まきをしたから、幻覚でも見ちゃたんじゃない?」

 リスさんの言葉に、お店の中にいたお客さんたちが安堵の息をつくのが分かった。

リスさんは、私が暑さのために体調が悪くなったことにしてくれたのだった。


 「あの……」

 だが、私は正直に言わなければならない。

 お客さんを一人、閉め出しているのだから……。


 「リスさん、あの……私、外で水まきをしようとしていたら、急に後ろから声を掛けられて……」

 リスさんの心配した顔は、みるみる驚いた表情に変わった。

 「えっ」

 リスさんは、私を座らせたままショーケースの外へ出ると、大きな嵌め殺しの窓から外を確認した。

 「……不審者……」

 ちょうど、昼食用のパンを買いに来ていた、スーツ姿の男性客と女性客が、心配そうにリスさんを見た。

 「不審者ですか?」

 女性の方が、リスさんに尋ねた。彼らは時々ベッカライウグイスに来てくれているので、顔見知りである。

 「……もういないみたいなんですけど、三多さんが急に後ろから声を掛けられたって……」

 それで、駆け込んできたのか、とお客さんたちは納得がいった様子である。

 「本当に、怖いですよね」

 「なんか、熊みたいな不審者がいるってきいたな」

 男性客が思い出したように言った。それは、シューさんである、という言葉をリスさんと私は飲み込んだ。

 だが、私は、言わなければいけない。私は、スツールから立ち上がった。

 「……あの、急に声を掛けられて、見た目はまったく知らない人だったので驚いたんですが、……その人は、リスさんに用事があったみたいで……」

 私は、ショーケースの奥からリスさんの方へ向かった。並んで、窓辺から外を見る。

 もうそこに、ユニコーンの姿はない。

 「……その人、ユニコーンの刺繍のポロシャツを着ていたんです……」

 ああ、それで。

 お客さんの二人は、ますます納得がいったようだった。

 私は、その先を、お客さんがいる前でどうしても言えなかった。まさかお客さんを閉め出したなんて、私がお客さんをえり好みしたことを他のお客さんたちの前でリスさんに伝えることはできなかった。

 リスさんは、一瞬、私の言葉を気に留めた様子だった。

 お客さんが帰って行くと、私に尋ねた。

 「三多さん、ユニコーンって……」

 私は、洗いざらい話した。

 「……すみません、リスさん。私、お客さんを一人、撃退してしまったんです。本当に、申し訳ありません……。庭に、水まきをする準備をしていたら、後ろから話しかけられて、驚いて見たら、全然知らない人だったんです。でも、その人は、ユニコーンの刺繍のポロシャツを着ていて、この前のパン教室に参加したって……いうので、あの時の、ユニコーンのトレーナーのお父さんだと思います!」

 私は、リスさんに深く頭を下げた。

 「すみません。その人、パンを買いに来たって、言っていました。私、お客さんを閉め出してしまったんです。本当に、もう訳ありません」

 リスさんは、笑った。

 「ユニコーン、大人気なのかな?今度、ショッピングセンターで見てみたいわ!」

 それから、私の横に来て並んで言った。

 「本当に、この前のパン教室の人だったんですか?」

 私は、頷いた。

 「確かに、そう言ってました。でもこの前のピンクのユニコーンの人は……眼鏡を掛けていて、髪がこう全体的にマッシュルームで……にこにこしていて……。今日は、眼鏡ではなくて、髪も違って全く別人に見えて。でも、今思うと眼鏡も髪も簡単に変えられるものですし……」

 「違う人なのかも。それに、パンを買いに来たのなら、庭にいる人に尋ねなくても、普通、真っ直ぐお店に来るものじゃない?それは、三多さんが驚いて当然だから、気にしないで!お客さんが一人減っても、三多さんがその分食べてくれたらそれでいいですから!」

 私が、お詫びの言葉もなく肩を落としていると、リスさんは、

 「さ、お昼のお客さんたちも波が途絶えたから、休憩にしましょ?三多さん、パンを食べないと!ふふふ……三多さんじゃなくても、シューさんでもオッケーですよ!」

 と明るく言って、コーヒーを準備してくれた。

 この私の失敗は、以後、様々な場面で語られることになるが、それはリスさんも私もまだ知るよしもない、ベッカライウグイスの午後であった。



 その夜、スーツ姿のシューさんは、ご機嫌でお土産を持って帰宅した。

 焼き鳥である。それは、日本食大好きシューさんの、好物であった。

 「リスも、三多さんも、食べますよ!」

 そう言うと、焼き鳥をフライパンで上手に炙り、タレを絡めてお皿に盛った。ねぎま、つくね、手羽先、レバーが山のようにある。

 「ビールですかね?」

 と言いながら私は、夕方スーパーで買ってきたばかりの枝豆を冷蔵庫から出した。たっぷりのお湯を沸かし、枝豆をハサミでぱちんぱちんと切る。

 シューさんは、それをじっと見ていた。

 「枝豆、そう切るの?」

 私は、枝豆の鞘に少し穴が開くようにして切る。おばあちゃんからそう教わったからだ。言われたようにしているに過ぎないが、それがシューさんには発見だったようだ。

 「お湯が、よく回るね」

 私は、笑った。

 「お見事な日本語ですね」


 

 リスさんと私はビールが苦手である。だから私たちは、好みのリキュールを炭酸で割って、時々楽しむ。今夜は、大きめのグラスにそれを作った。

 「リスぅ、ドイツにいたのにね」

 と、自分がビールを飲む場面で、シューさんは必ずそう言う。


 夏の宵を味わおうと、私たちは焼き鳥と枝豆を上げた竹ざるなどを、一緒に大きなトレイに載せると、外へ出た。

 ベッカライウグイスの工場横の、張り出した軒下には、大きなベンチが置かれていた。厚い木製のベンチは年代物に見えるが、屋根の下、雨から守られているので古びてこそ傷んではいない。定期的に保護材を塗布しているのだろう。朝には、濃い艶が琥珀色に見える。今は、宵になずんでその色は分からない。

 三人でそこに腰掛けた。

 「そうだ!」

 リスさんは急に思いついて立ち上がると、自宅へ戻り、アウトドア用のテーブルを出してきた。折りたたまれている木製のそれを開くと、ちょうどベンチに合った高さのテーブルができた。

 私も濡れ布巾を持ってきて、それを拭き上げる。

 「ありがとう、三多さん」

 「いいえ」

 シューさんは、行儀よく膝を揃えて座り、その上にちょこんと置いていたトレイから、テーブルへ、運んできたものをきちんと並べ始めた。


 日は暮れたばかりで、辺りは、まだほんの僅かに夕刻の明るさが残っている。首を傾げて空を見上げると、濃紺の天空と雲がまだらに見分けられた。厚い雲の奥に、月は隠れているようだった。

 リスさんは、工場の入り口にあるスイッチを押した。

 瞬時に、ベンチの周りが仄明るくなった。壁にある、ポーチ灯が灯ったのだ。リスさんと、リスさんのお母さんが早朝に工場へ入るときの足下を照らす明かりである。今は、私たちの夏の夜を照らしてくれる。

 風は、まだ涼しくはない。けれど、昼間よりはずっと心地よい。こんなふうに、家の外で小さな宴会を開くのは、子どもの頃以来だった。

 夏の夜、誰かが外に出てお酒を飲み始めると、お隣やお向かいからまた誰かが出てきて、ともに時を過ごす。宵の入り口は、人を誘って立ち籠める。


 私たちは、それぞれの飲み物を手にし、小さく乾杯した。


 シューさんは、一口でグラスの半分ほどのビールを飲み込むと、焼き鳥に手を伸ばした。

 リスさんは、ポーチ灯を見上げた。

 「虫がきちゃうわね」

 灯りの周りに、羽虫が吸い寄せられている。

 「蛾がくるころには、退散しましょうか」

 私の提案に、リスさんは、頷いた。


 私たちは、枝豆の食べ終わった鞘を、上手に積み上げていった。それが、楽しくなってくる。

 「日本に来て、三か月過ぎました」

 シューさんは、積み上げた鞘の横に、食べ終わった串を並べる。

 「シューさん、お仕事が順調でよかったですね」

 「ありがとう。もうすぐ終わって、月子さんとミアのところへ帰れそうだよ」

 「あとどのくらいで?」

 「うーん、一か月くらい?」

 「それは、すごい短縮。来たときは、半年くらいかかるって言っていたけれど」

 「この仕事にはトラブルがつきもの、だから、トラブルを入れて半年。でも、今のところ大丈夫で、ぼくの実力だね」

 リスさんと私が笑った。

 「日本に来て、よかった。リスも元気そうで、三多さんにも会えた。ベッカライウグイスに来られた」

 リスさんは、微笑んで飲み物を口にした。

 「ファーツゥアームゥツァーも元気そうでなによりだわ」

 「リス、次は、リスが遊びにおいで。パパママ、待ってるよリスのこと。僕、たくさんベッカライウグイスの写真を、送ったら、ものすごい喜んでた」

 「……うん」

 リスさんは、頷いた。

 シューさんは、私にも言った。

 「ドイツのリスのパパとママは、三多さんのパパママも同じだから、三多さんも来てね。待ってるよ。ミアを見にきて」

 シューさんは、家族を愛している。

 リスさんは、私を見て頷く。

 唐突かも知れない、と思った。

 しかし、私は、今が言うときかな、とも思う。

 

 「……リスさん、私、そろそろここをお(いとま)しようかと思うんです」

 「えっ」

 リスさんは、突然のことに驚いた様子だった。

 「辞めたいっていうことですか?ベッカライウグイスを」

 私は、慌ててかぶりを振った。

 「いいえ。辞めたくはないです。お暇、というのは、ベッカライウグイスの宿舎からマンションへ帰ろうかと」

 リスさんは、しばし沈黙してから言った。

 「何か、不自由でしたか?」

 「そんなこと、ひとつもありません」

 「じゃあ、どうして……」

 「最初は、シューさんが知らない人だったから心配で、でも、一緒に暮らしてみてとても信頼できる人だと分かったから、そろそろ出て行くときかなと」

 「……でも、三多さん、それは本当に表面上の理由だったんです。私はシューさんのことよく分かっていましたし」

 私は、ここで思い出した。私の待遇問題をリスさんはとても気にしていたのだったと。

 「リスさん、私のお給料のことなら、このままで全然構わないんです。暮らしていけたら、それで十分です。時々、パンをいただけたらラッキーです」

 私は、笑顔をリスさんに向けたが、リスさんは、黙った。

 「私、三多さんには、三多さんがいいと思うまで、ずっとここにいて欲しいんです。でも……ここに住んでも、三多さん、マンションを解約されていませんよね?私、知ってました。三多さんが時々マンションに帰っていること。……やっぱり、一人の方がよかったですか?」


 もはや、私の居住問題にシューさんは無関係になった。

 私とリスさんの間にある問題は、待遇契約と私の抱える問題、この二つだった。


 シューさんは、静かにビールを飲みながら、私たちの話を聞いていた。とうとう、茶色い蛾が、一匹、灯り近くの壁にとまった。宵は足早に、夏の闇に飲まれ、虫の声もなく辺りは静かだった。

 

 

 「…………ずっと一緒に暮らしていたおばあちゃんが、冬に亡くなったんです」

 シューさんが、そっと私を見るのが分かった。

 「子どもの頃に両親も亡くなっていて、でもおばあちゃんがずっと一緒だったから、生きてこられたんだと思います。おばあちゃんが……いてくれた家に、両親の記憶がある家に、一人でいられなかったんです。それで、仕事も辞めて、この街に来ました」

 ごくり、とシューさんがビールを飲む音だけが聞こえる。

 やがて、私の隣で、リスさんが尋ねた。

 「ご両親は、三多さんがいくつのときに?」

 私の両手は、グラスから伝う水滴で濡れていた。

 「……16歳。高校生になってたから、そう子どもでもないですね……」

 リスさんが、小さな声で言った。

 「いくつでも、関係ない」

 「ずっと、子どもの頃から住んでいた街に、家はそのままあるんです。でも、おばあちゃんたちを、誰も住んでいないあの家に置いてくることはできなかったから、マンションに小さなお仏壇を用意してそこに……」

 「もし、私がマンションを引き払うと、リスさんのお家におばあちゃんたちのお仏壇もお引っ越ししてこなければいけなくなるんです。リスさんもご両親を亡くされてるって聞いて、一家に二つもお仏壇があるなんて……聞いたことのない話です」

 死を知ることは、本当の孤独を知ることだ。二つは、人の生に逃れることのできない辛い影を落とす。

 リスさんと私も、その影の中でかすかな明かりを求めて生きている。

 

 「それが、ここを出る理由なんですか?」

 私は、頷いた。

 リスさんの緊張していた肩が、緩やかに落ちた。

 「そんなこと、気にしなくて大丈夫です。私、そんなことも世の中あると思います。たとえば、夫婦が一人っ子同士で、改宗することを望まなかったりしたら、そうなりますよね?それで、いいと思います。本人たちがよければ、いいんです。三多さんと私がよければ、それでいいと思いませんか?私は、思います」

 「……でも……みっちゃんたちは……」

 「みっちゃんたちがどう思おうと、彼らは当事者本人じゃありません。それに、私、みっちゃんたちが正しい常識を持っていると信じています」

 「正しい常識……」

 「……私、両親が亡くなったとき、まだ中学2年生だったんです。両親は一人っ子どうしで、おじいちゃんやおばあちゃんも亡くなっていて、親戚が誰もいなかったんです。そのときは、悲しくてどうにもならなくて、自分の身の振り方もどうしていいのか分からなくて、学校にも行けなくなって閉じこもって……。そうしたら、学校の先生と相談員のひとがやってきて……」

 リスさんは、グラスを握りしめ、グラスを水滴が伝った。

 「私は、どこにも行きたくなかった。この家で、……お父さんとお母さんの記憶が残っているここで暮らしたかった。一人でも。でも、身寄りのない未成年はそんなことはできないって、先生に言われて……そのとき、ずっと一緒にいてくれたのがみっちゃんとみずほさんだったの」

 リスさんの口元に、いつの間にか微笑みが浮かんでいる。

 「お隣でしょ?みずほさんがすぐに駆けつけてくれて、みっちゃんも仕事が終わったら飛んできてくれて。二人が、私の生活の面倒を見ます、って、高校を卒業するまで一緒に暮らします、って先生と相談員の人を説き伏せたの。私のお父さんやお母さんとどんな関係だったのか、私が生まれたときからずっと近くで成長を見てきたことや、全部話して。翌日、私、本当にみっちゃんの家に引っ越したの。それから五年、ずっとみっちゃんの家で、まるで親戚の子どものようにして一緒に暮らしたのよ。嫌なことは一つもなかった。みっちゃんとみずほさんは、いつも正しい常識を持って私に接してくれたから。私、みっちゃんたちを尊敬しているの。私をひとりぼっちから救ってくれて、血のつながった子どもでもないのに、引き取って五年も一緒に暮らしてくれて、感謝してる」

 リスさんは、私に微笑んだ。

 「もしかして、みっちゃんのお姉さんたちは、ただ隣に住んでいた子どもの私を、五年も引き取って育てることをいいと思っていなかったかもしれない。近所の人も、そう思っている人がいるかも知れない。でも、みっちゃんは、私の心を守って、私の希望を守って、私自身を守ってくれた。よその人の常識からは外れていても、私には、それが自分たちの正しいことで、そうしたい、って二人は何度も言ってくれた。私たちは、自分の正直な気持ちで結ばれているんだと思う。そういう絆があるんだと思う」

 リスさんは、私を見つめた。

 「私、三多さんがあの日、ベッカライウグイスへ来てくれて、本当になんていう巡り合わせだろうと思っているの。ここで、ふた月、一緒に暮らして、友達のような、お姉さんのような、安心できる人だと思った……だから、三多さんが思っている理由は、気にしなくて大丈夫。もちろん、三多さん自身がここを出たければ、それは……仕方がないと思う。三多さんの正直な気持ちで決めて欲しい」

 私の、正直な気持ち……。



 私は、どこへ行くのだろうと、思っていた。

 冬が終わり、春が来る頃には、私たちが住んでいてた家に一人でいることが耐えられなくなった。職場でも、みんなに可哀想だと一線を置かれているようで、そこから逃げたかった。私には、私自身しかなかった。おばあちゃんとの時間や、お父さんやお母さんとの思い出は、どこにいってしまったのか分からない。どこへ消えてしまったのか、本当にあったのか、確かに過ごしたあの家で探し回ることは孤独を深めた。

 何もかもが、終わりへ向かっていく。あの家で、すべてが終わるのだと思った。

 けれど、……。

 私は、小さな猶予を自分に与えた。

 いずれすべてが終わる前に、家を出て、新しい街に向かってみようと。

   

 それは、啓示のような、突然いなくなった両親の分も、私を見守り続けてくれたおばあちゃんの、最後の言葉だった。

 「来春こはる、もうすぐ春が来るねぇ。春が来たら、一緒に散歩に出掛けたいよ……」

 私は、おばあちゃんを連れて、散歩に出掛けた。

 


 グラスの中で、氷が溶け落ちる音が鳴った。

 「……ミアのこと、考える。ぼくたちは、生きてあげたい」

 シューさんが、ぽつりと言い、リスさんと私は、隣り合って触れた手を思わず握った。

 

 いつもシューさんが見せてくれる写真でしか知らない、シューさんの家族。

 会いたいという希望、生きている祈り、再び訪れる朝の明るさを、希求する。世界は、人の望みにあふれている。

 「シューさん、希望って、ドイツ語でなんていうんですか?」

 私は、シューさんに尋ねた。

 「Hoffnung」

 それは、澄んだ優しいドイツ語だった。


 気づけば、壁にとまっていた蛾は、どこかへ飛び立っていた。あとは、小さな羽虫が飛び回って、何かを惜しんでいる。

 私たちは、テーブルの上を静かに片付け始めた。

 シューさんが、自分の膝ほどの高さの小さなテーブルに向かって、かがみ込んでいた腰を伸ばした。

 「うーん。リス、三多さん、空見て!」

 大きな声に、私たちは夜空を見上げた。

 「空の星くらい、人はたくさんいるんだよ。もっと外に出てごらんよ。リスは、リップシュティフ塗って、お化粧して、綺麗だから。たくさんの人と出会うために、僕たちは生きてる。だから、この仕事をしてる」

 シューさんが、こちらで知り合った人たちとたまに食事に出掛けたり飲みにでかけていることを私は知っている。

 シューさんは、ドイツからたくさんの見えない橋を作りにやってきたのだろう。システムも、人との関係も。そうして、またドイツへ帰っていく。また、いつかやってくる。そんな自由で大きな生き方もある。

 「……私は、出会える人は、限られてると思うの。だから、その一つ一つを大切にしたい。今、私の周りにいてくれる人たちを大事にしたい」

 リスさんの生き方が自由ではないと、そんなことは言えない。大きくないわけがない。

 対照的なのに、似通った考え。世界は、不可思議だ。

 「三多さん、三多さんは名字でしょ?名前は、なんて言うの?」

 シューさんは、テーブルを小脇に抱え、私に聞いた。

 「来春こはるです」

 「こはる。ぼくのことは、クラさんって呼んで。特別」

 「クラさんね」

 私は、笑った。

 「クラさんね」

 そして、シューさんは同じことを言った。

 リスさんは、シューさんに尋ねた。

 「月子さんは、シューさんのことをなんて呼んでるんでるの?」

 「アキ」

 シューさんは胸を張り、私たちは微妙な表情をした。

 「あき……」

 「秋ね、月子さんが、月といえば秋だって」

 「ああ」

 ニックネームは色々である。



 私は、ほどなくしてマンションの解約を申し込み、ベッカライウグイス宿舎へ引っ越した。

 先のことは、分からない。いずれ、あの家へ帰るのだとしても、今は、これでいいと思えた。それが、私の正直な気持ちだった。 

読んでくださっている方々へ

つたないベッカライウグイスを、いつも読んでくださり

本当にありがとうございます。

ベッカライウグイスも、折り返し地点くらいに到達できました。

皆さんのおかげで頑張れています。

もし、よろしければ、感想などをいただけると、

とっても嬉しいです。よろしくお願いいたします。

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