第9話:月は三つ、魂は一つ
食堂の時計は、まるで眠気を知らぬ番人のように、無機質な針をゆっくりと進めていた。短針と長針は午前0時半を指しかけようとしており、その微細な動きすら、この静寂の中ではやけに大きく感じられる。
天井に取り付けられた蛍光灯は、冷たい白色の光を惜しみなく放ち、磨かれた床や食卓の表面を淡く照らし出していた。その光は温度を持たないはずなのに、長くそこにいると皮膚にじわじわと染み込むような、奇妙な熱を帯びて漂っている。
外の夜気は静まり返り、窓の向こうからは一切の風の気配も感じられない。耳を澄ませば、聞こえるのは蛍光灯の低いうなりと、時計の秒針が刻む乾いた音だけ。その空間に、本田と如月、二人だけの世界が閉じ込められていた。
やがて、本田は口を開いた。彼女の声音は驚くほど穏やかで、柔らかな響きさえ宿している。
だが、その一言には重い芯が通っており、軽々しく聞き流せるものではない。言葉は耳に入った瞬間、心の奥に沈み込む。それは、聞く者をその場に縫いとめるような力を持っていた。
何気ない調子の裏に潜むのは、確固たる現実と、それを受け入れざるを得ない必然。如月は、言葉を浴びるたびに、見えない鎖で少しずつ動きを封じられていく感覚を覚えていた。
そして、本田は淡々とギフトの説明を始めた。
――環境適応型の能力発現。
フェイバリットギフトの能力は、生まれ育った環境や人生経験に大きく影響される。同じカテゴリーのギフトであっても、発現する形や能力は個々で異なる。
――女性限定の奇跡。
この力は女性にしか顕現しない。しかし、才能や適性があったとしても、必ずしも覚醒するわけではない。覚醒には強烈な経験や、精神的な境地に至る契機が必要とされる。
――三種のカテゴリー。
フェイバリットギフトは名称の文字数によって3つに分類される。
二文字ギフト:比較的習熟しやすく、効果は限定的。
三文字ギフト:性能・汎用性ともに突出した“破格”の力を持つ。しかし発現者はごくわずか。
四文字ギフト:特殊かつ複合的な能力を持ち、扱いは極めて難しい。
――ギフトの命名。
ギフトが覚醒した瞬間、その“気配”は、森盧と呼ばれる聖域に根ざす神木の加護を媒介として、周囲へとあふれ出す。しかし、それを正しく読み取り、能力の本質を見極められるのは、限られた感応を授かった者だけである。その声は三女神の言霊のように響き、発現したギフトにふさわしい名を世界へと正式に宣告する――それは名を授けることにとどまらず、森盧に宿る加護を通じて存在を大いなる秩序へと結び、永劫へ刻む神聖なる儀式である。
――メリットと必然の代償。
すべてのギフトは、人知を超えた強力な効果を持つ。一方で、必ず“致命的なデメリット”が存在する。このデメリットは能力の根幹と結びついており、完全に消すことはできない。
――身体強化の副次効果。
ギフトの保持者は、常人離れした衝撃耐性と自然治癒力を持つ。ただし、これもギフトのデメリットを相殺できるほどではない。
――1人1つの宿命。
フェイバリットギフトは、ひとりにつき必ず1つのみ授けられる。複数を同時に持つことはなく、また新たに得ることもない。ゆえに、その選定は個の存在そのものを規定する“唯一無二”の烙印となる。
――一生涯変わらぬ運命。
いったん与えられたギフトは、生涯変わることがない。奪うことも、別のギフトに置き換えることも不可能である。
――三女神の恩寵。
フェイバリットギフトは「三女神」と呼ばれる存在から授けられる。女神たちは人々の運命を見定め、選ばれし者にのみ祝福を与えると伝えられている。その真意や選定基準は今も謎に包まれている。
本田はそこで間を置き、さらにその三女神の起源を語った。
フェイバリットギフトは、古来より人の世を見守る「三女神」から授けられる恩寵とされる。女神たちはそれぞれ異なる領域と価値を司り、その加護の下に生まれた者は特定の系譜のギフトを得る。加護の内容は女神の性質を色濃く反映し、力とともに必ず代償を伴う。
月読津姫
月と静寂をつかさどる女神。洞察や隠密、未来視など知略型ギフトを授ける。
厳剣命
剣と勝利をつかさどる女神。剛力や破砕、一撃必殺など武勇型ギフトを授ける。
血輝儀宇受女
血と戦舞をつかさどる女神。 痛覚消失や狂戦士化、超再生など激情型ギフトを授ける。
如月は、押し寄せる情報の波に呑まれ、思考の器が今にも溢れ出しそうになっていた。複雑すぎる理屈や、聞き慣れない専門的な言葉が頭の中で渦を巻き、整理する間もなく消えてはまた新たに浮かび上がる。
その中で――ふと、自分の身体に起こった異変を理解する。数時間前まで全身をいじめていた筋肉痛が、いつの間にか薄れ、消えている。重かった手足は驚くほど軽く、内側から熱を帯びるように力が満ちていく。
これは偶然でも気のせいでもない。信じがたいほど強力な回復力が、自分の内に宿っているのだと理解した。
それでも――ただ一つ、脳裏に深く刻まれた理解があった。
――すべてのギフトは、人知を超えた強力な効果を持つ。
その事実だけは、他の全てを押しのけて胸の奥に沈殿していた。そして、その重みが、英二としての冷静な部分をゆっくりと動かし始める。
事故の瞬間の光景が、まるでスローモーションのように蘇る。バスの急停止、衝撃、視界を覆い尽くした暗闇――。
そして気がつけば、この見知らぬ女性の体の中にいた。自分の声ではない声、自分の筋肉ではない筋肉、自分の匂いではない肌。この異様な違和感は、偶然ではなく、必然だったのではないか。
英二は、ある1つの答えに辿り着く。
――これは、元の如月という人物が持つギフトの力ではないのか。何らかの形で、魂そのものを引き寄せ、入れ替えるような……常識では説明できない仕組みが、そこにあったのではないか。
胸の奥に、ひやりとした感覚が広がる。確かめなければならない。
だが、もし本当にそうだとしたら――。その思考の先にある不安を振り払うように、英二は口を開いた。
「ねぇ、社長さん……」
呼びかけは、思った以上に低く、慎重な響きを帯びていた。
「ギフトの中には……魂を入れ替えたりするようなものもあるの?」
言葉を投げた瞬間、空気が微かに揺れたような気がした。それは、ただの気のせいかもしれない。
だが、自分の問いがこの場の温度をわずかに変え、静まり返った食堂の空気に、目に見えぬ波紋が広がっていくのを英二は確かに感じ取っていた。
胸の奥で、淡い期待が芽生える。
もし――もしこの不可解な現象が、自分の推測どおり如月という女性のギフトによるものであるならば。魂を引き寄せ、入れ替えるほどの力を持つのなら、その逆もまた可能なのではないか。再び元の肉体に戻る道が、どこかに残されているのではないか。
それは、暗闇の底でやっと指先に触れた、一本の細い糸のような希望だった。頼りなく、触れただけで切れてしまいそうで、それでも必死に縋らずにはいられない。落ちれば二度と戻れない奈落の縁で、たったそれだけを命綱にしているような感覚――。
英二は、その儚い糸を断ち切らぬよう、胸の奥で呼吸を押し殺し、本田の返答を待った。わずかな沈黙の後、本田は首をわずかに傾け、ほんの一瞬だけ眉を上げる。その仕草は驚きとも興味ともつかず、だが次の瞬間には、氷のように整った表情へと戻っていた。
「いいえ、私は聞いたことがないわね」
淡々と告げられたその声には、余計な感情を挟まない断定の響きがあった。その無機質さは、むしろ誤魔化しや躊躇の余地を一切許さず、言葉の重みを増していた。
「ただ、貴方の能力は先読み……たぶん未来視のようなものだから、そんな物騒な物じゃないわよ」
あっさりと言い切られたその瞬間、英二の胸の奥に、冷たい刃をなぞられたような感覚が走った。短いやり取りにすぎない。だが、その一言に込められた精度の高さが、背筋をぞくりとさせる。
ほんの数分――いや、正確には三分にも満たないスパーリング。そのわずかな時間で、自分の能力の本質をほぼ見抜いた観察眼。それは単なる勘や経験則ではなく、戦いの中で培われた感覚と、何百、何千という相手を見てきた積み重ねの結晶だった。
まるで、相手の呼吸の間合い、視線の揺らぎ、指先のわずかな力みまでを読み取り、心の奥に隠された切り札すら容赦なく暴き立てる鋭さ。その眼差しは、肉体ではなく魂をも見透かすかのようで、英二は思わず喉奥がひりつくのを感じた。
――この女、本当に油断ならない。
そう心の中で呟いた瞬間、食堂の空気は目に見えぬ氷膜を張ったかのように、ひんやりと肌にまとわりつき、呼吸までも重くした。
蛍光灯の白い光は変わらないはずなのに、どこか鋭く、冷たい刃のように輪郭を強調して見える。
「ほかに聞きたいことがないようなら、私は失礼するわ。……それじゃあ、おやすみなさい。」
本田はそう告げると、椅子の背に軽く手を添え、ゆっくりと立ち上がった。背筋は伸び、動作には一分の隙もない。その立ち姿は、会話が終わったことを告げるよりもむしろ、「もうこれ以上は教えない」という明確な線引きを示していた。
彼女は机に残された空の焼きそばのカップと湯呑をそっと手に取り、重さを確かめるように指先へ預けた。その何気ない仕草は、会話の余韻を静かに包み込み、場の空気をやさしく落ち着かせていった。
足音は不思議なほど軽やかだった。硬い床を踏みしめるはずなのに、靴底の音はほとんど響かず、影だけが静かに出口へと伸びていく。その背中を目で追ううちに、英二は自分が無意識のうちに肩へ力を込めていたことに気づく。
本田は扉の前でわずかに振り返ることもなく、そのまま闇へ溶け込むように食堂から消えていった。残された空間には、如月の存在感だけが微かに残り、夜気と混じって静かに沈殿していった。
一人になった食堂。如月は、耳を澄ませば自分の呼吸音さえ聞こえてきそうな静けさの中で、ふと窓へと視線を向けた。蛍光灯の光がガラスに反射し、その奥に広がる夜の景色を淡く縁取る。
そして、その瞬間――息が止まった。
そこにあったのは、あり得ない光景。
墨を流したような濃紺の夜空に、満ち欠けのない円形の月が3つ。それぞれが黄金や銀にも似た光を放ち、三つ巴のように三角形を成して配置されている。互いの輝きが重なり合い、夜空を神秘的な光の模様で満たしていた。
その光景は、美しいというよりも、不気味なほど整っていた。自然界の偶然ではあり得ない配置――まるで誰かが意図して天に刻みつけた印章のように。
如月は額にじんわりと汗が滲むのを感じながら、わずかに目を細める。
「……やっぱり、自分がいた世界とは違うみたいだな……」
その声は、自分自身に言い聞かせるというより、世界そのものに確認を求める呟きのようだった。
その瞬間、胸の奥底で、重く沈んでいた何かがゆっくりと裏返り、形を変えていく感覚があった。
それは、恐怖や不安といった単純な感情ではない。もっと深く、根のように張り巡らされた価値観や常識が、音もなく崩れていく感覚――。
如月は、その渦に飲まれぬようにと無意識に体を動かしていた。理解できない現実を前に、頭を空っぽにするため、足を洗い場へと向ける。流し台に近づくと、手には、先ほど食べ終えたおにぎりが乗っていた皿。それを水で流しながらスポンジを当てる。
水道から落ちる水の音が、やけに大きく響く。冷たい水が指先を伝い、皮膚の感覚を鋭くするたび、胸の中のざわめきがわずかに和らいでいく。何も考えず、ただ皿を洗い続ける――そうしていなければ、心のどこかがきしみ、ひび割れてしまいそうだった。
「俺……このままずっと、こんな状態なのか?」
水音に混じるように、かすかな声が漏れる。その問いは、返事を期待して発せられたものではなかった。空虚な夜の空間に溶けて消え、ただ自分の耳だけがそれを拾い上げる。
答えのないまま、皿を洗う手は止まらなかった。水の流れる音が、夜の静けさに溶けて一定のリズムを刻む。その単調な響きの中で、如月――いや英二の脳裏には、かつて共に過ごした仲間たちの顔が浮かんでは消えていく。
笑い合った日々。肩を並べて戦ったリング。そして――ヒロミの、あの落ち着いた声と、時折見せる不器用な優しさ。胸の奥をかすかに締めつける感情が、洗い場の冷たい水よりも鋭く染みた。
「みんな……ヒロさん……」
声に出した瞬間、その響きがあまりにも頼りなく、どこか遠くから聞こえてくるように感じられた。皿を洗い終え、シンク脇に整然と畳まれた食器用タオルを手に取る。水気を拭き取りながらも、思考は同じ場所を何度も巡り、出口のない迷路を歩き続ける。
やがて、吐息と共に諦めにも似た言葉が、唇から零れ落ちた。
「……悩んでてもしょうがねぇな……まぁ、なるようになるか……」
それは自分を励ますための言葉でありながら、どこか投げやりで、しかし不思議と胸の奥に少しだけ温もりを残す響きだった。まるで、嵐の中で一瞬だけ風が止み、呼吸を取り戻すためのわずかな間が訪れたかのように――。
電気を消すと、食堂は闇に沈み、わずかに残った蛍光灯の残光がゆっくりと空気に溶けていく。如月は、静まり返った廊下を歩き、自分の部屋へと戻った。ドアを閉め、ベッドに身を投げ出す。そのまま、ふと横を向いた視界に、窓の外の夜空が映る。
そこにはやはり、3つの月があった。互いに間隔を取り、三角形を成して静かに輝く光。冷たい銀色の輪郭が、夜の深さをさらに強調するようで、見れば見るほど現実感が遠のいていく。
――あの月、三女神と何か関係があるのか?
本田の話が、脳裏で断片的に蘇る。
ツクヨミツヒメ、イツルギノミコト、チテルギノウズメ――三柱の女神。
それぞれが異なる加護を授け、選ばれし者にギフトを与えるという伝承。もしもこの月がその象徴なのだとしたら、自分はいま、女神の見ている世界の真っ只中にいるのかもしれない。
そんな思考がゆるやかに渦を巻き、やがて重さを増していく。瞼が静かに降り、深い水底へ沈むように意識が落ちていった。
――夢の中、またあの声がする。
『……ごめんなさい……』
その声は、深く湿った闇の中から響くようで、どこか震えていた。次の瞬間、視界がゆっくりと引き上げられ、俯瞰する位置へと変わる。まるで誰かの記憶を上から覗き込むように、情景が流れ込んでくる。
陽の光の下で笑う幼い少女。
両親と手をつなぎ歩く休日、友達と無邪気に駆け回る放課後。
中学の運動会で全力疾走の姿、頬を赤らめながら男子からの告白を受けた瞬間。
プロテスト合格の通知を受け取り、声を上げて喜びを爆発させるその表情――。
英二は、視界に流れる1つ1つから目を逸らせなかった。喜びも、悔しさも、痛みも――自分のものではないはずなのに、胸の奥が締めつけられる。少女の笑顔が、まるで刃のように胸を切り裂いていく。
これは自分が奪ってしまった人生なのか。そう考えた瞬間、喉の奥に鉛のような塊が詰まり、呼吸が浅くなる。
それでも夢の中の英二は、そのすべてを見届けるしかなかった。その記憶の中の少女が、今、自分の体の本来の持ち主であることを――。