第8話:おにぎりの後で
如月は涼子に言われるまま、部屋の奥にある脱衣所へと足を運んだ。そこには小さな洗面台があり、個別のシャワールームやトイレも完備されている。寮とはいえ、一人暮らし用のワンルームさながらに最低限の設備は揃っていた。
蛇口をひねると冷たい水が勢いよく流れ落ち、手のひらにこびりついた油や黒ずみがゆっくりと洗い流されていく。擦り傷に水がしみて思わず顔をしかめながらも、如月は念入りに手を洗った。
タオルで水気を拭い、部屋へと戻ると、再びおにぎりの皿に向き合う。
如月が破竹の勢いでおにぎりを頬張る。一口かじるたび、ふわりと立ち上る米の香りが食堂に満ちる。白米は雪原のようにふっくらと炊き上げられ、噛めばほろりとほどけて甘みが舌に広がった。
しかも海苔は巻かれず、皿の脇に別添えで置かれている。如月は豪快に指でつまみ、かじる直前にぺたりと貼り付けるが、時には半分はみ出したまま豪快にかぶりつく。
頬をふくらませ、鼻息を荒くしながら次々と平らげる様は、まるで戦場で補給を得た兵士のよう。皿のおにぎりが雪崩のように減っていく光景に、島村と望月はただ呆然と見守るしかなかった。
「……うまい!」
短く放たれたその一言は、まるでリング上で勝利を掴んだ直後の叫びのように、力強く、そして心の底からの賛辞だった。
その声には、湯気と一緒に吐き出された温かい息が混じり、どこか湿り気を帯びている。まるでこの瞬間こそが、彼女の生きる理由であるとでも言うかのように——。
皿の上のおにぎりは、一個、二個と姿を消していく。頬を大きくふくらませ、口の周りに米粒をつけたまま、獲物に食らいつく肉食獣のような眼差しで次の一個へと手を伸ばす。時折、海苔を貼り付ける指先はやや乱暴で、貼ったそばからかじりつく勢いに、海苔はパリパリと音を立てて裂けた。
その迫力は、島村と望月の全身を縛りつけた。二人は一歩踏み出すことすらできず、ただ呑み込まれるように目を見開き、喉の奥でかすかに息を飲むしかなかった。
「そいつは良かった」
嬉しそうに目を細めたのは、作り手の赤沢料理長だった。筋肉質の腕を胸の前で組み、笑みを浮かべる。その笑顔は、猛獣が獲物を平らげる様子を見て満足げにうなる飼育員のようでもあり、同時に料理人として自分の仕事を褒められた誇らしさも滲んでいた。
「夢……いや、社長に一日断食を命じられてたみたいだけど、まぁ感謝の意味を込めてね」
ぶっきらぼうに聞こえるが、そこにはさりげない気遣いがある。赤沢は言うだけ言って、背を向けて階段のほうに向かうとする。その大きな背中が扉の向こうに消えかけた瞬間、思い出したようにひょこっと顔を戻した。
「……ああ、それと——」
声は低く抑えられていたが、口元がわずかに緩んでいた。続く言葉には、相手を気遣う響きがあった。
「食べ終わったらちゃんと洗い場で皿を洗っておくんだよ」
軽く人差し指で皿を指し、口角だけを上げてから、今度こそ足音も荒々しく廊下へ消えていった。去り際の背中に漂うのは、料理長らしい豪快さと、ちょっとした悪戯心の混じった余韻だった。
そう言い残し、今度こそ赤沢の足音が廊下の奥へと消えていった。
「しかし……なんで、あのでかい姉ちゃん、俺におにぎり差し入れしてくれたんだ?」
如月は口の端にまだ米粒をつけたまま、皿の上の最後のひとつをつまみあげ、そのおにぎりを見つめながら首を傾げた。
その仕草は子犬が聞き慣れない音に反応するようでもあり、どこか本気で不思議そうだ。眉間に小さな皺を寄せ、まるで目の前の食べ物と差し入れの理由が謎で、同じくらい重要だとでも言いたげだった。
望月が答えた。
「たぶん、涼子さん……仲西を追い出してくれたことへのお礼の気持ちなんじゃないかな?」
淡々とした口調だったが、その目には、あの一件をはっきりと思い出しているような陰が差している。仲西の存在が、どれほど場の空気を重くしていたか——それを知る者だけの重みが、言葉の端々ににじんでいた。
「あいつ、いろんな人から煙たがられてたんだよ。立場上、政府公認だから誰も逆らえなかったし、。社長も、そのせいでだいぶ頭を抱えていたみたいなんだ。」
望月はそう言いながら、入り口の壁際に寄りかかる。片足を軽く後ろに引き、靴底で床をこすりながら、視線は天井の一点をぼんやりと見つめている。その何気ない仕草には、言葉に出せない苛立ちや諦めが、かすかににじんでいた。
島村が小さく息を吸い、口をはさむ。
「KDPの嫌がらせって噂もありますけど……」
関西ダイナマイトプロレスリング——通称KDP。女子プロレス界でも屈指の規模を誇り、関西一円を拠点に強い影響力を持つ大手団体だ。派手な興行と、地元密着の活動で名を知られる一方、その影響力は業界の外にも及ぶと噂されている。
裏から手を回し、仲西を特別コーチとして送り込んだ——そうした話は、単なる噂話で済ませられないほど具体味を帯びていた。しかも、代表の藤沢寛美が政府や行政にまで口を出せるほどの人脈を持つとなれば、なおさら現実味を帯びる。
望月が付け足す。
「あそこの社長、うちの本田社長と犬猿の仲だからね……」
言い終えた後、望月は壁に預けた肩をほんの少し揺らし、長く息を吐く。その一瞬、彼女の視線は床に落ち、口元がわずかに引き結ばれた。何かを思い出し、そして今は語らないと決めた者の表情だった。
如月が腕を組み、顎を少し上げながら言った。
「じゃあ、あの仲西の代わりに来た斎藤とか言うババアも、その国の要請で来てるってことか?」
軽く吐き捨てるような声音に、島村は即座に首を横に振った。反射的ともいえるその動きは、まるで火のついた爆弾を止めようとするかのように素早い。
「あの人は、元々社長が現役だった頃の先輩で、今はここで現場監督を任されています……」
島村の声はそこで一度途切れ、言葉を探すように視線が揺れた。まるで思い出したことを補足するように、再び口を開く。
「私たちが来る前は、ギフト訓練のコーチと審判部長を兼任されてたみたいですけど……」
また言葉が途切れ、島村は一瞬だけ視線を落とした。その口調は歯切れが悪く、次の言葉を選ぶように間を置く。そして顔を上げた時には、さっきまでの柔らかさは消え、真剣な色を帯びていた。
「如月さん、斎藤コーチの前では“ババア”なんて絶対言っちゃダメですよ」
その目には、かつて何かを見てしまった者だけが持つ、薄暗く冷たい光が宿っていた。まるで過去に斎藤コーチと関わった“誰か”が逃げ場のない恐怖を味わい、その記憶の残滓が瞳の奥に映り込んでいるかのようだった。
如月はそんな気配を感じ取ったのか、珍しく素直にうんうんとうなずく。背筋をほんのわずかに正しながら、軽口を封じた姿は、次の瞬間また別のことを口にしそうで、それでも今だけは黙っていた。
島村が気持ちを切り替えるように、ぐっと背筋を伸ばした。その瞳には決意の光が宿り、握りしめた拳がわずかに震えている。
「如月さん! 私、強くなります! 誰よりも強く! そしていつか、リングの上で如月さんと戦いたいです!」
宣言のように響く声は、部屋の空気を一瞬だけ引き締めた。だが、その熱を真正面から受けた如月は——最後のおにぎりを頬いっぱいに詰め込んだまま、口をもごもご動かす。
「ゴノウィギ! ゴノウィギ!」
ご飯粒がかすかに擦れ合う音だけが、はっきりと耳に届く。その様子に望月は眉をひそめ、静かにひとつ溜息をついた。
「……食べ終わってから言いなよ。何言ってるか分かんないよ」
真剣な宣言と、咀嚼音混じりの返事。両極端すぎる温度差が、場の空気をあっさりと食欲のほうに引き戻していた。
そのやり取りに、島村と望月は思わず笑い出す。如月はようやく飲み込み、「その意気! その意気!」と言い直す。
「あんた、さっきもそう言ってたんだ?」
望月が肩を揺らしながら笑い出す。その笑いはつられるように島村にも広がり、二人の笑い声が狭い部屋に柔らかく響いた。
笑いの合間に、如月はふと手元の皿へ視線を落とす。皿の上はすでに空っぽ。白米の欠片さえ残っていない。その様子はまるで、祭りの後に残った舞台を眺めるような、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
「二人とも、今日はありがとうな! おかげで、明日もあのバ……」
一瞬、口が“ババア”と動きかける。しかし、つい先ほど島村から釘を刺されたことを思い出し、ほんのわずかに口を引き結んで言い直した。
「あのコーチのシゴキに耐えられそうだ」
笑いの余韻と、食事の満足感、そして次への覚悟。それらがごちゃまぜになって、如月の声には妙な温かみが宿っていた。
「また言ってる……」
望月が呆れ声でつぶやく。その声には呆れと、どこか笑みをこらえるような柔らかさが混じっていた。
如月はそんな反応を意にも介さず、空になった皿を手に取る。片手で器用に回しながら、立ち上がり。
「さて、あのでかい姉ちゃんにも感謝だし、言われた通り皿でも洗ってくるか」
まるで試合前のウォーミングアップのように軽やかな動きで、廊下へ足を踏み出した。
ドアがわずかに軋む音とともに、廊下の涼しい空気が部屋に流れ込む。島村は思わず声をかけた。
「如月さん……おやすみなさい」
望月が、ぽつりと付け足す。
「食堂なら、ロビーからまっすぐ行けるからね」
その声に、如月は振り向きもせず、後ろ手でひらひらと手を振って階段へと消えていった。
そして一呼吸置き、島村は心を決めるように拳を握りしめる。
(明日からまた、ギフト覚醒のための訓練だ……)
望月もその気迫を感じ取り、両手で自分の頬をパンパンと叩いた。続けて、開け放たれたままのドアを、音を立てぬよう静かに閉めた。
その頃――。
階段を下り、ロビーに出た如月は、食堂の場所を探してきょろきょろと視線を巡らせた。夜の建物は昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、足音だけがやけに響く。
その時——鼻をくすぐる香ばしい香りが、ふと漂ってきた。甘じょっぱく、油の焦げるような香り。鼻腔に触れた瞬間、如月の脳裏に鮮やかな映像が浮かぶ。
(……カップ焼きそばの匂いだ!)
その香りは誘惑の糸のように、暗がりの廊下をすり抜け、別棟の方から流れてくる。如月は吸い寄せられるように足を向け、匂いの濃くなる方へと歩を進めた。
やがてたどり着いたのは、蛍光灯が部分的にしか点いていない薄暗い食堂。長机の並ぶ空間の片隅で、一人の女性が湯気を立てるカップ焼きそばに箸を伸ばしていた。
静寂の中、麺をすする微かな音だけが響く——本田だった。
「あっ! 食べてる!」
如月の声は、思わず口をついて出た叫びだった。まるで現行犯を見つけたかのような勢いで指を差し、目を見開く。 深夜の食堂の静けさに、その声はやけに響き、蛍光灯の下で湯気がふわりと揺れた。
本田は、ゆっくりと顔を上げる。箸を持った手を止めるでもなく、ほんの一瞬だけ如月を見据え、そのまま淡々と告げた。
「あなたも食べてたでしょ」
その声音は、波風ひとつ立たない静かな湖面のようだった。責めるでも、驚くでもない。ただ事実だけを突きつける冷静さに、如月は一瞬だけまばたきを忘れた。
如月は心の中で舌打ちする。
(……あの姉ちゃん、告げ口しやがったな)
涼子のニヤリとした顔が脳裏に浮かび、頬の奥がむず痒くなる。
本田が無言で壁の時計を指差す。薄暗い食堂の隅、白い文字盤の針はきっちりと午前0時5分を指していた。日付が変わってわずか5分。昨日までの「一日断食」は、形式上はすでに終わっている。
「……間がないじゃん、……速攻じゃん」
思わず口からこぼれる言葉は、言い訳と自嘲が半分ずつ混ざったような響きだった。
本田は叱るでもなく、ただ湯呑を持ち上げる。湯気の向こうでゆるやかに目を細め、茶を一口すすると、ほっとするような香りが周囲に広がった。そのまま湯呑を置き、空いている方の手でひらひらと手招きする。
如月は、何かを悟られたような妙な緊張を抱えながら、ゆっくりと歩み寄った。
本田はじっとその顔を見つめる。やがて口元にうっすらと笑みが浮かび、その笑みは言葉より先に「全部お見通し」と告げているようだった。
「斎藤さんに、みっちり絞られたみたいね」
ぐしゃぐしゃの髪、肌にこびりついた汗の匂い——そして、本田だけが敏感に察知した“何か”の気配。それは一日中、斎藤コーチにみっちりしごかれた者だけが纏う、重たく鋭い空気だった。
本田は湯呑を手に取り、ゆっくりと口元へ運びながらちらりと如月を見やった。その視線は穏やかだが、奥底に警告の色が潜んでいる。
「……あの人は私や赤沢ほど甘くない。特に——」
一瞬、言葉を区切り、如月の目をまっすぐに見据える。
「軽口で“あの呼び方”は絶対にやめておきなさい」
頭の片隅に、夕方の島村の真剣な声がよみがえる。
『斎藤コーチの前では“ババア”なんて絶対言っちゃダメです』
——あの時の、島村の目に宿った暗い影も一緒に。本田の言葉は、その警告をさらに確かなものへと変えていた。
如月は湯呑を置いた本田の横顔を見ながら、ふと胸の奥に引っかかっていた疑問を口にしたくなった。このまま聞きそびれれば、きっと夜中じゅう気になって眠れない。
「なぁ社長さん、ちょっと聞きたいんだけど……」
本田がわずかに眉を上げ、短く返す。
「なに?」
如月は腕を組み直し、記憶をたぐり寄せるように言葉を紡いだ。
「さっきまで筋肉痛で、体が鉛みたいに重かったのに……部屋に戻ったら治ってたんだよ」
口に出してからも、自分で不思議に思い、もうひとつ思い出す。
「それに、仲西とのスパーリングで痛めた膝も……これってもしかしてギフトの力なのか?」
その言葉が静かな食堂に溶ける。空になったカップの底には、わずかに茶色いソースの跡がこびりついている。湯気はもう消え、代わりに濃い香りだけが空気の中に留まり、妙に現実感を薄めていく。
本田は軽くため息をついた。それは苛立ちでも怒りでもなく、呆れと諦めのちょうど中間にある、柔らかな息だった。口元には笑みと呼ぶには淡すぎる、けれど不思議な余韻を宿したゆるやかな表情が浮かび、首がほんの少しだけ傾けられた。
「あなた、そんな初歩的なことも知らないで、うちに来たの?」
静かにそう告げると、本田は顎で向かいの席を示した。その視線に促され、如月が椅子を引いて腰を下ろす。本田はわずかに前かがみになり、その目に深い光を宿す。
やがて彼女は、声の調子を落とし、語り始めた——。