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第7話:消えた傷と料理長

 今日の練習はなんとか無事に終えたはずなのに、全身は鉛の塊を詰め込まれたように重く、動かすたびに鈍い痛みが走る。肩から腰にかけては一本の棒のように固まり、ひねろうにも筋肉が拒絶するようにこわばっている。


 リングで叩きつけられた衝撃や、ロープに何度も走らされた余韻がまだ体内を反響しており、呼吸さえ浅くなるほどだった。


 仲西の代わりに新しく就任した斎藤は、初日から容赦がない。ロープワークは普段の倍、しかも全力疾走を何往復も。受け身の反復では、マットに叩きつけられるたび肺から空気が抜け、呼吸を整える間もなく「もう1回!」の声が飛ぶ。


 さらにスパー形式の技合わせでは、ボディスラムやブレーンバスターの受けを立て続けにやらされ、背中と腰が悲鳴を上げる。最後はスクワットとプッシュアップの追い込みで、脚や腕も自分のものじゃないみたいに重くなった。


 だが、その中でも如月に課されるメニューは、明らかに他の選手より数段階きつかった。ロープワークの本数は倍、受け身も休憩なしで連続、技合わせも相手が遠慮なく本気で叩き込んでくる。まるで「ギフト持ち」だから耐えられるだろうと言わんばかりで、視線も如月にだけやけに長く留まる。


 他の選手たちが水を飲み息を整える間も、如月には一息つく余裕すら与えられず、次のメニューへと無情に駆り立てられた。足は鉛のように重く、肺は焼けるように熱い。それでも背中を押されるように前へ進むしかなかった。


「どこがギフトの訓練だ!ただのシゴキじゃねぇか!」


 吐き捨てるように叫ぶ如月をよそに、斎藤の“愛のシゴキ”は容赦がなかった。体の芯まで疲労が染み込み、肩から腰までが鉄板のように固まり、リングシューズの重さすら倍に感じる。マットを蹴る足はもう鉛の塊で、受け身を取るたびに脳の奥で鈍い音が響いた。


 斎藤のメニューは“鍛える”というより“削る”に近く、あれではギフト持ちどころか普通の新人でも一週間と持たない。それでも彼女は一切妥協せず、終始無表情で年季の入った機械式ストップウォッチを握り、秒針の刻む音だけが不気味に響く。視線は氷のように冷たく、誰が膝をつこうと、誰が倒れようと止める気配はない。


 特に如月が限界の顔を見せれば、そこにさらに一言添えて追い打ちをかける。そんなやり方だった。そして追い打ちをかけるかのように斎藤が如月に指示する。


「如月!罰として、そこにある練習器具全部、油を差しておけ!」


 突然の指示に、如月は息を切らしながら視線を向け、思わず目を剥いた。リング脇には、大小さまざまな器具が山のように積まれている。


 金属の匂いと油の臭気が混ざり、鈍い照明に照らされて鈍く光っていた。数を数える気力すら奪われ、ただ遠い目でそれらを見つめるしかなかった。


 手のひらは擦り傷と油で黒ずみ、関節は鉛のように重い。気がつけば、作業を終えた頃には時計の針は23時30分を指していた。如月だけ、朝昼晩と食事抜き、喉を潤す水すら脱水症状を起こさない程度でほんの数口、休憩もほとんど許されないまま、今に至っている。


 腹の虫の鳴き声が、薄暗いリングの隅でやけに大きく響いた。


 胸の奥に圧迫感が広がった。まるで「まだ終わっていない」と告げられているようで、如月は無意識に息を詰めた。


 練習場を出る頃には、シューズを脱ぐのも面倒に感じるほど体は限界を超えていた。肩は上がらず、太腿は階段一段分の高さすら重荷に感じる。汗は乾ききって塩を吹き、喉は砂漠のように渇いている。それでも耳の奥には、斎藤の冷たい掛け声がまだ残っていた。


 それでも足は出口へ向かって動き、冷たい外気が頬を撫でた瞬間、堪えていた言葉が喉の奥から込み上げてきた。


「あのババア!無茶苦茶しやがって!」


 吐き捨てると同時に、重い足を引きずって寮の廊下を進む。靴底が床に擦れる音が妙に大きく響き、階段を1つ上がるたびに腰へ鈍い痛みが走った。やっとの思いで部屋のドアノブを回すと、中の空気がひやりと肌を撫でる。


 照明は常夜灯代わりの天井の蛍光灯がつけっぱなしになっており、スイッチに触れる必要もなかった。その白い光が、薄暗い廊下から戻ってきた目には刺すように眩しい。


 シューズも脱がずにそのままベッドへ倒れ込み、天井を見上げたまましばらく動けなかった。息を吐くたびに腹の奥から苛立ちがこみ上げる。


 だが次の瞬間、ふと違和感に気づいた。仲西とのスパーリング“もどき”で確かに痛めた膝——あの時の感触からして、長年の勘で「骨にヒビぐらいは入った」と確信していた。なのに、その痛みがない。痣も、腫れも、跡形もなく消えている。


「おかしいな……違和感がなくなってる……痛みも治まってるし、痣がない」


 ジャージの裾をめくって確かめる。数時間前まで、どどめ色から青黒く沈んだ痣へと変わり、くっきり浮かんでいたはずだ。


 それが今は、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。触れても熱もなく、皮膚の下に固まった血の感触すらない。筋肉の張りもない。あれだけシゴかれて立っているのがやっとだったのに、筋肉痛もスタミナの枯渇感も、どこかに霧のように消えていた。


「骨まで、いっちまったかと思ったがな……」


 その時、ぐぅ~っと腹の虫が情け容赦なく鳴り響いた。皮膚の下で内臓が縮み上がるような感覚に思わず腹を押さえる。社長・本田からの罰で、今日は朝から一切の飲食禁止。水ですらほとんど口にしていない。限界まで酷使した体に何も燃料が入らず、胃袋はとうに空っぽを通り越し、内側から自分を食い破ろうとしているかのようだった。


「ダメだ……腹が減りすぎて動けない……」


 ベッドでうずくまり、虚ろな目で天井を見つめていた。空腹のため全身の筋肉が鉛のように重く、わずかに指を動かすだけでも空腹が加速する。


 乾いた喉がひゅう、と音を立て、腹の奥では空虚なうめきがくり返される。そんな時、ドアがコンコンと規則正しくノックされた。音ははっきりと耳に届くのに、体を起こそうという意志がまるで湧かない。重力に縫いつけられたようにベッドから離れられず、力の抜けた声だけが口をついて出た。


「あ~い……空いてるよぉ……」


 ゆるんだ声が部屋に落ちた直後、ドアが軋む音とともに開き、そこに島村と望月の姿が現れた。二人の手には、パンや補助食がぎっしり詰まった袋。透明な包装越しに見えるパンの焼き色、袋の隙間から漏れる甘い香りが、一瞬で如月の嗅覚と本能を刺激する。


 胃袋がぎゅるりと捻れるように鳴り、脳の奥で何かが弾けた。次の瞬間、ベッドに沈んでいたはずの体はバネのように跳ね起き、まるで瞬間移動のような速さで二人との距離を詰めていた。


「めっ!……めしぃぃぃ!」


 その声は、理性の皮を剥ぎ取られた獣のうめきにも似ていた。飢えが形を持って迫ってくるような圧に、島村と望月は思わず半歩後ずさる。


 足裏が床を擦る音がやけに大きく響き、二人の背筋を冷たいものが伝った。目の前の如月は、同じ練習生のはずなのに、その気迫はリング上で対峙する相手にも匹敵していた。


「あの……如月さん、もしよかったらこれ……」


 島村が恐る恐る差し出そうとした瞬間、如月は二人の手からパンと補助食が入った袋を一瞬で奪い取り、獣のようにベッドへ飛び戻って食べ始めた。動きには本能的な警戒心すら漂い、野生動物が餌を守るようだった。


 島村はぽかんと口を開けたまま。望月もまた、目の前の如月に言いようのない違和感を抱く。


 望月はプロテストの頃から如月を見てきたが、こうして間近に接してみると、あの時や少し前に見た如月と言動や立ち居振る舞いが微妙に違っている気がした。何が変わったのかははっきりと言葉にできない。


 ただ、目の奥にある光や、ふとした時の声の調子――そして、いつの間にか一人称が「俺」に変わっていることが、以前の如月とは別人のように感じられた。


「あの……如月さん、今日は本当にありがとうございました」


 島村の言葉にも、如月は食事の手を止めなかった。片腕にパンや補助食が詰め込まれた袋を抱え込み、もう片方の手で中身を次々と引きずり出しては、ちぎり、口へと放り込む。


 視線は袋から外れることなく、咀嚼の合間に感謝を示す余裕など微塵も見せない。ただ燃料を求める機械のように、黙々と飢えを満たす動作を繰り返す。


 静まり返った部屋に響くのは、頬張る咀嚼音と、くしゃくしゃと袋が擦れる音だけだった。その単調な響きは、かえって切迫した空気を濃くしていた。


「別に俺が好きでやったことだから、感謝なんかいらねぇよ」


 袋の中身を引き出す手を止めず、如月がぽつりと口を開いた。食欲に突き動かされる動作と同じ調子で、まるで咀嚼の合間に言葉もついでに吐き出したかのようだ。


 わずかに口角が上がったようにも見えたが、それが照れなのか皮肉なのかはわからない。だが続く言葉は、妙に冷たく響いた。


「……たださ、あの程度で根を上げてたんじゃ、この先誰が相手だろうが同じことになるんじゃねえかな?」


 その口調には、慰めや励ましの色は一切なかった。長くこの世界に身を置いた者だけが持つ、残酷な現実を突きつける響きだけが残っていた。冷たいわけではない。ただ、そこには情けや甘さを差し挟む余地がまるでなかった。


 突き放すような言葉に、二人の表情が固まり、呼吸すら浅くなる。冗談や軽口で返すこともできず、視線だけが揺れる。続く如月の言葉はさらに重く、二人の胸の奥に沈んでいった。


「ここは弱い奴が強い奴に何されても文句は言えない場所だぜ。嫌ならとっとと辞めちまうか、強くなるしかねえわな」


 その言葉は刃のように真っ直ぐで、飾り気や慰めも一切なかった。むしろ、これまで何度も同じ現実を突きつけられ、それを飲み込んできた者だけが持つ、諦めと覚悟が滲んでいた。部屋の空気がさらに重く沈み、島村は視線を落とす。


 だが、望月はすぐに顔を上げた。瞳の奥に反発の火が灯り、言葉がこぼれるより先に息が鋭く吐き出される。


「だったらあんたは、仲西みたいな奴がやってることを肯定するってわけ!?」


 その言葉が空気を張り詰めさせた瞬間、廊下側からスッと長身の女が顔をのぞかせた。


 ショートカットに、無駄のない筋肉がシャツ越しでもわかる引き締まった体つき。朝、廊下で如月に声をかけてきたあの女性だ。近づく気配とともに、湯気と米の匂いがふわりと漂い、空腹で研ぎ澄まされた如月の嗅覚が即座にそれを捉える。


「あらら、お前さん、今日一日飯抜きって社長に言われてたんじゃなかったのかい?」


 軽口のようでいて、どこか事情を知っている者の声音だった。場違いなほど落ち着いた目で室内を一巡させると、その視線は如月の腕の袋へとわずかに移る。島村と望月は反射的に姿勢をただし、ほぼ同時に「涼子さん!?」と声を上げた。


 彼女の手には、湯気を立てる皿に盛られたおにぎりがあった。白米の香りがふわりと漂い、空腹で限界を迎えていた如月の意識を一瞬で奪う。視線は皿に釘付けとなり、気づけば膝が勝手に沈み、次の瞬間には飛び掛かっていた。


 しかしその動きも、涼子はあっさりと見切っていた。まるでリング上で間合いを外すベテランのように、半歩引いて軽やかにかわし、おにぎりは一粒の米すらこぼさず無事だった。


「まあ、あんたらの言い分もわからないでもないけど。正直、私はこのお嬢ちゃんが言ってること、正しいと思うよ」


 その「お嬢ちゃん」というのは、他でもない如月のことだった。涼子の視線が一瞬だけ如月へと向けられ、その意味がはっきりと伝わる。そう言いながらも、おにぎりを乗せた皿は一歩たりとも前に出さない。指先は皿の縁をしっかりと押さえ、揺れ1つ許さない構えだ。


 如月はその様子を睨みつけ、まるで獲物を狙う“プレデター”のように腰を低くし、呼吸を殺す。瞳は皿の一点に集中し、肩や指先のわずかな動きさえ逃すまいと研ぎ澄まされていた。空気が張り詰め、少しでも隙を見せれば飛び掛かる——そんな緊張感が漂っていた。


 如月の手が皿へ伸びる。だが次の瞬間、涼子の手首が軽く返され、皿はひらりと半歩分後ろへ下がる。指先がかすめそうでかすめない距離を保ったまま、おにぎりは逃げる。


 如月が逆方向から狙いを変えると、今度は皿ごと横へすっと滑らせ、間合いを外す。まるで小動物が天敵の前でひらりと身を翻すような、軽やかな動きだった。


 その場にあるのは皿一枚と二人の手だけなのに、空気は試合開始直前のリングのように張り詰めていた。


「そもそも、あんた達、なんでここに来たんだい?強くなりたいからだろ?」


 低く落ち着いた声――しかしその間も、涼子の片手はおにぎりの皿をわずかに後ろへ引き、如月の伸ばした指先をひらりとかわしていた。


 島村と望月の目が一瞬こわばる。まるで心の奥を覗かれたような感覚が走り、視線が泳ぐ。頭ではわかっていても、その言葉の重さは予想以上に鋭く、胸の奥を突き刺してくる。


 勝ちたい、認められたい、自分を変えたい。もし“ギフト”と呼ばれる力が本当にあるのなら、それを手に入れたい――けれど、そのために何を犠牲にできるのか、まだ答えを出せていない自分たちを突きつけられた気がした。


 その横で、如月は皿の反対側へ回り込み、もう一度手を伸ばす。だが涼子は会話の調子を変えることなく、皿を軽くひねって再び距離を外した。


「いいかい。世の中、理不尽なんて山ほどあるんだ。でも強くなれば、誰からも文句を言われなくなる。ここは、そういう場所なんだよ」


 その言葉は穏やかに響いたが、芯には揺るぎない確信があった。努力や情熱ではなく、ただ“強さ”という一点だけがこの世界での免罪符になる——。


 そんな現実を、彼女は知っている声だった。その言葉に、島村と望月は思わず黙り込む。涼子の声は軽やかに聞こえながらも、その奥には鉄のような硬さと重みがあった。


 如月は、ふっと動きを止めて涼子を見据えた。袋を抱え込んだままの姿勢から、ゆっくりと視線だけが持ち上がる。


 その目は、獲物を値踏みする獣のように静かで鋭い。相手の立ち方、呼吸のリズム、指先の微妙な動きまでを、次の瞬間に飛び掛かるための材料として確かめているかのようだった。


「あんた、ただもんじゃねぇな?」


 低く放たれた言葉に、涼子は口元をニヤリと歪める。挑発を楽しむような笑みを浮かべ、一拍の間を置いてから如月に皿をすっと差し出した。その所作は滑らかで、まるで「来るなら正面から来な」と言わんばかりだった。


「そうだよ、あたしがここの料理長、赤沢涼子だよ」


 にこりと笑ったその目には、厨房の中だけでは磨かれない鋭さが宿っていた。如月はそのおにぎりを受け取ると、先ほどの獣のような勢いとは打って変わって、今度は少しだけゆっくりと、おにぎりを掴もうとした瞬間――。


「待ちな。食べる前に、その真っ黒な手を洗いな」


 涼子の声音は柔らかいが、有無を言わせぬ確かな力があった。

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