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第6話:赫き女王の裁定

 如月は、重たげな足取りで数歩よろけ、膝に手を当てて深く息を吐いた。鈍い痛みが脛から太腿へとじわじわ広がり、顔をしかめる。呼吸は乱れこそしていないが、胸の奥に熱がこもり、耳の奥で血の音がかすかに脈打っていた。


「チッ……あのバカ、狙いが甘ぇんだよ。下手すりゃひび入ってんぞ、これ……」


 小声で吐き捨てるように言いながら、痛む膝を軽くさすった。掌越しに伝わる熱が、さっきの衝撃を生々しく蘇らせる。周囲では興奮とざわめきが入り混じる、リング上の異様な一幕がまだ誰の頭からも抜け切っていない。


 熱気は湿った空気となって肌にまとわりつき、立ち尽くす選手たちの視線は如月とリングへと交互に注がれていた。その空気は勝負の後に訪れるはずの解放感とは無縁で、むしろ何かがまだ終わっていないかのような緊張と重さを孕んでいた。


 そのとき――背後から、足音もなく静かな気配が近づく。音がしないのに、背筋の奥をひやりと撫でられるような感覚が走り、如月は反射的に肩をすくめた。振り返るより先に、首筋の産毛が総立ちになる。空気がわずかに揺れ、周囲のざわめきがその一角だけ吸い込まれたように薄まっていく。


 まだざわついていた選手たちの視線が、一斉に何かの到来を察したかのようにそちらへ向いた。まるで荒波の中、ひときわ強い潮の流れがすっと入り込んできたような、異質な圧。それは威圧というよりも、場の重心そのものを塗り替える存在感だった。


 振り返った瞬間、如月は思わず声を上げた。視界に飛び込んできたのは、見知らぬ顔――なのに妙に記憶をざわつかせる雰囲気を纏った人物だった。その存在感に一瞬、言葉が喉でつかえ、思わず間の抜けた声が漏れる。


「うおっ!?誰だ、あんた!」


 立っていたのは、三十代ほどの切れ長の目をした女性。


 端整な顔立ちは冷ややかな美しさをたたえ、余計な感情を削ぎ落とした彫像のように整っている。髪型は如月と同じセミショートベースのクラゲウルフで、後ろ髪が滑らかに肩口まで流れていた。毛先は柔らかく揺れるレイヤーが重なり、動くたびに淡い影を落とす。


 前髪の内側には鮮やかな赤のインナーカラーが隠れるように差し込まれ、ふとした仕草で覗くたび、彼女の白い肌との対比が一層際立った。落ち着いた立ち姿からは無駄な力が抜けているのに、わずかな仕草や眼差しの向け方ひとつで場を支配するような静かな圧が漂っている。


 その視線は、射抜くような鋭さと包み込むような柔らかさを同時に宿し、如月の胸の奥に説明のつかないざわめきを走らせた。


 その姿を見た瞬間、見学していた選手たちが一斉に背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を取った。まるで軍隊の号令がかかったかのように動きが揃い、空気がピンと張り詰める。


 数秒前まで交わされていた小声の会話や笑い声は、まるでスイッチを切ったかのように消え失せ、場内には靴底のきしむ音すら聞こえない静寂が落ちた。誰もが声を発しないまま、ただ無言でその威容を受け止めている。


 足音ひとつ立てずに場を支配するその存在感は、上下関係の厳しいこの世界で、本能的に必要のない“敬礼をすべき相手”と認識させる力を持っていた。


「お疲れ様です!」


 声を張り上げたのは選手たちだった。緊張と敬意が入り混じったその響きは、揃った掛け声というよりも、反射的に口をついて出た儀礼のようだった。女性はそれに軽くうなずき、しかし一言も発さず、静かに如月を見つめる。


 その眼差しは柔らかさと鋭さを併せ持ち、まるで値踏みでもするかのように一瞬で如月の全身を走査する。わずかに目が細められたかと思えば、次の瞬間には感情を読ませない静謐せいひつな表情へと戻っていた。そのとき、彼女の背後から、床板を踏む低く重い音と共に、体格のいい女性が一歩前へ進み出た。


「全員、注目!」


 低く響く声が場を貫き、ざわめきが一瞬で断ち切られた。空気が張り詰め、誰もが無意識に背筋を正す。視線は自然と声の主へと集まり、その中心に立つ前髪の赤い女性が、ゆっくりと口を開く。


「……一部始終、見させてもらいました」


 その声音は落ち着いていながらも揺るぎなく、場の隅々にまで染み渡るように響いた。


 澄んだが芯のある声が、場内のざわめきをすっと押しのけるように響いた。視線がゆるやかに移動し、いつの間にか意識を取り戻していたコーチの姿を正確に捉える。呆然と立ち尽くすその男は、名指しされぬまま一瞥いちべつを受けただけで肩をわずかに震わせた。


 瞬間、表情に引きつった笑みを浮かべ、場を取り繕うようにロープをくぐり抜け、女性の元へ急ぐ。足音は軽いはずなのに、静まり返った空気の中ではやけに大きく響き、その背中には追い詰められた獣のような緊張がまとわりついていた。


「社長!聞いてください!この如月という練習生が、私に暴力――」


「……暴力?」


 その一語は、刃物のような冷たさと静かな威圧を帯びて放たれた。耳に届いた瞬間、場内の空気がわずかに沈み込み、コーチの喉がひくりと鳴る。言葉を継ごうと口を開きかけたが、視線の圧力に押し返されるように声が途切れた。


 まるで胸の奥を掴まれたかのように呼吸が浅くなり、額に細かな汗が浮かぶ。その場にいる誰もが、次の一言を待つというよりも、軽率に音を立てることを避けているような沈黙に包まれていた。


「あなたが“コーチ”という立場を利用して行った理不尽なシゴキ……それは暴力ではないと?」


 その声は氷を思わせるほど冷ややかで、言葉が発せられた瞬間、場の空気がきしむように張り詰めた。周囲の温度が一段下がったかのように、誰もが身じろぎすらためらう。視線は一点、コーチのみに注がれ、逃げ場を与えぬ檻の中へ閉じ込めたようだった。


「ギフト覚醒のための訓練だとしても……あなたの常軌を逸した破廉恥な行為は、すべて報告を受けています」


 近くで聞いていた如月は、眉間に深いシワを寄せ、あからさまな嫌悪を隠そうともせずコーチをにらんだ。胸の奥にこみ上げる不快感が、じわじわと腹の底に溜まっていく。視線を受けたコーチは一瞬たじろぎ、足先がわずかに引ける。


 その張り詰めた空気を断ち切るように、もう一人の女性が床を強く踏み鳴らし、一歩前へ。直後、場の壁を震わせる怒声が響き渡り、全員の背筋を一瞬で凍らせた。


「仲西博也!お前がこの神聖なQueen Beeの施設内でやった破廉恥行為……覚悟はできてるんだろうな!」


(……仲西?ああ、コイツそういう名前だったのか)


 如月は心の中でつぶやいた。耳に入ったその響きは、かつての同期・中西公平の名とほとんど同じで、一文字違うだけ。イントネーションも似通っていて、一瞬だけ懐かしい顔が脳裏をかすめる。


 中西は誠実で練習熱心、試合中の大怪我から奇跡の復帰を果たし、その姿に観客が涙したほどの男だった。それだけに、同じ響きを持ちながら真逆の人間性を晒す仲西という存在は、如月の胸に強烈な不快感を呼び起こす。似て非なる名前が、如月の記憶を汚すかのように耳に残った。


「仲西博也、今日をもってあなたをQueen Bee特別コーチの職から解きます。……出て行きなさい」


 社長の静かな声は、冷えた刃物のように空気を裂き、場の温度を一瞬で奪った。感情を抑えた抑揚がかえって決定的で、撤回の余地など一片もないことを告げている。その一言は、リング上での激闘や観客の歓声よりも重く、仲西の足元から力を奪った。


「ふざけるな!あんたにそんな権限などない!――俺は国の要請で――」


 仲西は血が上った顔をさらに歪め、必死に声を張り上げる。だが、その叫びはもはや威厳ではなく、沈みゆく者が水面を掻く無様なもがきに見えた。周囲の視線は冷ややかに彼を突き刺し、逃げ場を1つ残らず塞いでいく。


「あなたの行為は、被害者の証言と録音・映像と共に、すでにNMAC《国家闘技審議会》へ提出済みです」


 その宣告は、まるで鋭い刃が心臓の奥を貫いたかのように容赦がなかった。仲西の瞳からは瞬く間に光が失われ、頬から血の色がすうっと引いていくのが分かる。口を開きかけたが、喉が詰まったように声は出ない。


 やがて、糸の切れた操り人形のように膝から崩れ落ち、両手が床に落ちる鈍い音が響いた。場の空気は凍りつき、誰もが息をひそめる。耳に届くのは衣擦れのかすかな音と、仲西の荒く不規則な呼吸だけだった。


 如月はその光景を、まるで遠くの芝居でも眺めているかのような冷ややかな目で見つめていた。そこに哀れみや怒りもない。ただ、「こうなるべくしてなった」という確信だけが、胸の奥に澱のように沈んでいた。


 社長が歩み寄ってくる気配に、如月は視線をわずかに動かす。次の瞬間、不意に肩や脚に手が伸び、軽く押したり触ったりと確かめるような動きが続いた。あまりに唐突で、ほんの一瞬だけ身体がこわばる。だが、その手つきは攻撃的でなく、何かを見極めるような冷静さを帯びていた。


「ちょ、ちょっと……なにしてんすか!?」


 思わず声が裏返る。如月の肩から太ももにかけて、社長の手が遠慮なく滑り、押し、捻るように動く。不意を突かれた身体がこわばるが、その手つきには敵意や下心もなく、まるで精密機械の動作を確認する整備士のような冷静さがあった。


「あの動き、そしてこの足腰……素晴らしい素質ね」


 感嘆かんたんとも独り言ともつかぬ声が低く響く。その目は獲物を値踏みする捕食者ではなく、逸材を前にした職人の眼光だ。


「ギフトも覚醒したようですし、如月麗――あなたをギフト試験合格とし、本隊への合流を許可します」


 その宣告は、先ほど仲西に下された断罪とは正反対の響きを帯びていた。冷たく切り捨てるのではなく、確かな価値を認め、未来を差し出すような温度を持っている。


 その言葉が胸に落ちた瞬間、如月は意味を測りかねたまま、心の奥に小さなざわめきが広がっていくのを感じた。熱ではなく、形の見えない波紋――それがどこへ向かうのかは、まだ自分でも分からなかった。


 周囲がざわめく。驚き、羨望、――複雑な感情の入り混じった視線が、一斉に如月へ注がれる。空気の密度が増し、わずかな呼吸音や衣擦れまで耳に届くほどの静まりが訪れた。


 社長が一同を見渡し、声を張った。


「これからは、この斎藤幸奈が、あなた方のギフト覚醒を導くコーチとして務めます。彼女の指導のもとで成果を出せるかどうかは、あなたたち次第。――皆、今まで以上に気を引き締めて臨むように!」


 その中で、斎藤幸奈が音もなく一歩前に出た。足取りは迷いなく、背筋は弓のように張りつめている。鋭く切りそろえられた前髪の奥から、冷ややかで芯の強い瞳がのぞき、その口元から低く、よく通る声が放たれた。


「これからは私がギフト覚醒訓練を担当する!全員、今まで以上に気を引き締めろ!」


 少し離れた位置で直立していた島村が、目尻をやわらかく下げ、嬉しそうに如月へ微笑んだ。その笑みには、仲間としての安堵と、これから共に歩む期待が混じっている。如月も肩の力をわずかに抜き、苦笑いで応じた。


「そういえば、あなたと会うのはこれが初めてですね」


 落ち着いた声が耳に届き、如月は視線を社長へ向ける。社長はほんの一瞬だけ口元を緩め、右手をすっと差し出した。その所作は形式的な握手ではなく、新たな契約を交わすかのように重みを帯びていた。


「初めまして、女子プロレス団体Queen Bee代表、本田夢路です。……あなたには、非常に優れた可能性を感じる。期待していますよ」


 その声は穏やかで、しかし底に揺るぎない芯を秘めていた。まるで先ほどまでの断罪や叱責は別の世界の出来事だったかのように、滑らかに次の話題へ移っていく。


 本田は仲西を伴い、出口へ向かう。静かな室内に、底の薄い室内靴が床を打つ乾いた音が、一定の間隔で響いた。その足取りは迷いがなく、一歩ごとに扉までの距離を正確に刻んでいく。だが途中でふと足を止め、肩越しに振り返った。その動きは、視線ひとつで場の空気を再び凍らせるだけの迫力を帯びていた。


「……破廉恥な相手であろうとも、指導者への一方的な暴力は、あってはならない行為……」


 ゆっくりと如月を指差す。その指先は迷いなく、鋭く標的を捉えていた。無駄な力は入っていないが、的確な一撃のように重く、場の視線を自然と引き寄せる。


「如月麗、罰として――今日一日、食堂並びに施設内での飲食全て禁止します」


 一瞬、周囲の空気が緩む。あまりに子供じみた罰に、真剣さと滑稽さが同居する空気に包まれた。張り詰めていた緊張が細い糸のように切れ、そこに笑いをこらえる息がこぼれ始める。


「はぁ!?飯抜き!?なんだよそれ!?」


 如月の抗議は、場の緊張を少しだけ緩ませた直後に飛び出したため、一層浮き立って聞こえた。周囲の視線が一斉に集まり、中には口元を押さえて笑いをこらえる者もいる。だが、その空気は一瞬で打ち消される。


「如月!社長に向かってなんだその口の利き方は!」


 ――ゴンッ!


 鈍い衝撃音が空気を震わせ、骨の芯まで響いた。斎藤の拳骨が如月の頭を正確に捉え、その瞬間、視界が一瞬だけ白くはじける。


「いってぇ!」


 本田はその様子を見て、わずかに口元を緩めた。笑みといっても嘲りではなく、どこか愉快そうな色を含んでいる。


「確かに、この状況を放置した私にも責任があります。同じく、私も今日一日飲食を絶ちます」


 落ち着いた声が静かに場を渡り、周囲のざわめきが一瞬だけ止む。意外な宣言に、視線が一斉に本田へ向けられる。


 彼女はそれ以上何も言わず、背を向けると仲西と並んで歩き出した。足音は一定のリズムを刻み、距離が開くにつれて場の緊張も少しずつほどけていく。やがて出口の向こうへ姿が消え、その残り香のような余韻だけが場に漂った。


「……飯抜きはねぇだろ……」


 如月が肩を落とし、視線を床に落とす。空腹を想像するだけで気力が削がれていくが、そんな間もなく斎藤の鋭い声が飛んだ。


「如月!何を突っ立っている!訓練を始めるぞ!」


 叩きつけるような号令に顔を上げるも、状況を飲み込めず眉をひそめる。


「はぁ?なんで?俺はギフトってのがあって……その……」


 言い訳とも説明ともつかぬ言葉を探していると、間髪入れずに斎藤が切り捨てた。


「やかましい!社長にたてついた罰だ!」


 その声は稲妻のように鋭く、如月の胸を容赦なく貫いた。反射的に背筋がピンと伸び、口の中で組み立てかけた言い訳があっさり霧散する。息を飲みつつも、視線だけは斎藤を追った。あの眼光は、一歩でも退こうものなら即座に引き戻すぞと言わんばかりだ。


 こうして、如月の本格的なギフト訓練が幕を開けた。足元の床がやけに硬く、これから始まる数時間を思うと肩にじわりと力がこもる。遠くではグローブがミットを打つ乾いた音や、踏み込みで床を蹴る音が響き、場内の空気がじわじわと熱を帯びていくのを感じた。

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