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第5話:フェイバリットギフト

「覚悟はできてるんだろうな、如月。」


 場内に何とも言えない空気が満ちている。コーチは赤く染まった顔で如月に凄み、島村と望月はほかの選手たちと共に、その成り行きを固唾を呑んで見守っていた。


 だが当の如月は、この張り詰めた場すら楽しむかのように、ゆったりとストレッチを続けている。筋肉をほぐす動きには、どこか余裕すら漂っていた。


 やがて、視線と息遣いを飲み込むような空気の中、場所はスパーリング用リングへと移される。金属製のコーナーポストが照明を受けて鈍く光り、ロープは何度も張り替えらているはずなのに、ところどころ手汗の跡で黒ずみ、その一本一本が歴戦の証を物語っている。


 マットには長年の戦いの跡が擦り傷や染みのように刻まれ、踏み込むたびに沈み込み、微かに軋む音を返す。その足場の上で、汗と革の匂いが混ざった独特のリングの空気が、今まさに二人を中心に渦を巻き始めていた。


 観客代わりにリングを取り囲んだ選手たちは、息をひそめ、視線を二人の間に固定させたままだ。誰もが次に何が起こるのかを見逃すまいと、肩越しで前のめりになり、まばたきすら惜しむような眼差しを送っている。


 道場特有の湿った空気と、マットに染みついた汗の匂いが鼻腔を刺し、緊張と期待がないまぜになった重たい空気が場を包み込む。足元では、踏みしめられたマットがかすかに軋む音を立て、その微かな響きさえ鼓動のように耳に残る。


 コーチはリング中央に立ち、腕を軽く回しながら如月を睨みつける。その目には敵意というよりも、「ここで叩き潰す」という固い意志が宿っていた。


 如月はジャージに着替えてコーナーにもたれかかり、片足を軽く揺らしながらストレッチを続ける。表情は飄々としていて、まるでこれから始まるのが試合ではなく、退屈しのぎのお遊びであるかのようだった。


「……よーし、じゃあ始めるか」


 低く響くコーチの声がリングに落ちる。その瞬間、見守っていた数人が無意識に唾を飲み込む。


 そして――。


「ゴング!」


 カーン――!


 リング脇に立っていた女子選手の一人が、片手で小さなハンマーを握りしめ、ゴングを力強く打ち鳴らす。乾いた金属音が高く、長く響き渡った。それはただの開始の合図ではなく、この狭い空間の空気を一瞬で張り詰めさせる“呪文”のようだった。


 緊張の糸が全員の背筋を走り抜け、わずかに汗の匂いとマットの匂いが混じった空気、急に重たく変わっていく。視界の中で、二人の間の距離が、計り知れない深みを持つ溝に変わったかのように感じられた。


 如月は軽やかなステップを踏みながら、コーチの周りを円を描くよう滑らかに舞う。その動きは跳ねるというより、弾むように軽快だ。


 まるで音を立てない猫科のような滑らかさと、舞のような優雅さが調和していた。その流れるような動きに目を奪われた島村が、思わず小さく呟く。


「……綺麗……」


 だが、コーチは容赦しない。


「馬鹿が!」


 コーチが吐き捨てるように罵倒する。


「動きが単調すぎるんだよ!」


 吠えるように突進し、分厚い腕を広げてベアハッグを狙うが――如月はほんのわずか、しなやかな動きで重心を後方へスウェーし、その抱擁を空に切らせる。コーチの腕が虚しく空をかき、勢い余った身体がマットを踏み鳴らす音が響く。


 その瞬間、如月の足元は一切乱れず、踵がマットをなぞるように滑らかに戻る。その姿は、まるで攻撃を避けたというより、最初からそこにいなかったかのような錯覚すら与えた。


「へっ!動きだけは大したもんだな!」


 太く短い毛深い腕をぐるぐると回し、肩と首の筋肉を膨らませながら、再び間合いとタイミングを計るコーチ。その目は獲物を逃さぬ猛獣のように細まり、呼吸が低く荒くなる。


(……今度こそ捕まえて、グラウンドに持ち込んでやる……)


 脳裏に描くのは、マットへ叩きつけた後の展開までも含めた冷徹な勝利のシナリオ。足元ではマットがギシリと鳴り、回転する腕の軌跡が空気を切り裂く音と共に、じわじわと如月の周囲の空気を圧迫していく。


 次の瞬間、如月の耳に、歪んだ声にならない声が届く。


(……グラウンドに持ち込んで、そのあとは上着を引っぺがしてやる……)


「お前……そんなこと考えてやがったのか?本当に気持ち悪いな!」


 吐き捨てる声は、低く乾いていた。挑発でも怒鳴りでもない。冷たく刃物のように、相手の心臓を直に突く響き。


 コーチの目がわずかに揺れ、次の瞬間には血の気が引いたように顔色が変わる。自分の胸の奥だけにしまっておいた卑しい考えが、なぜか如月に聞かれた。


 ――コーチが理解するのに時間はかからなかった。


「てめぇ……ま、まさか……ギフトが覚醒しやがったのか!?」


 声が裏返る。焦りと恐怖が入り混じり、普段の尊大な威圧感は影を潜める。嫌な汗が額を流れ、膝のバネがわずかに沈む。


 そして、何かを振り払うように一気に腰を深く落とし、足を踏み開く。視線は鋭く如月の腰へ。全身を低く構えたその姿は、完全にタックルを仕掛ける前の予備動作。だがその動きの裏には、先ほどまでの余裕を欠いた焦燥しょうそうが滲んでいた。


「ギフト?何言ってんだお前?タックルでも何でもいいから早く来いよ」


 如月の挑発を受け、コーチは低い体勢から飛びかかる――が、それはフェイント。本命は前蹴り、プロレスで言うケンカキック。


 タックルの勢いを止め、一撃で流れを変える狡猾な選択。だが如月はそれすら紙一重で回避してみせた。まるで最初から分かっていたかのように。


 新しい、若い肉体。筋肉の張りも、関節の可動域も、かつてのボロボロに痛めつけられた肉体とは比べ物にならない。呼吸の回復速度は倍以上、筋力の立ち上がりも早く、わずかな重心移動だけで身体が鋭く反応する。


 そこに二十年以上、幾千という試合と練習で積み重ねられた経験値が加わる。相手の呼吸、足音、視線の揺れ――そうした断片を無意識に拾い、脳内で即座に「次に来る動き」を組み立てる。


 しかし、それらを差し引いてもなお、今の如月の動きは説明がつかなかった。軽やかで、しなやかで、無駄が一切ない。まるで、何かに操られるように正確で、予め用意された答え通りに身体が動いているかのような異常さだった。


 ステップは水面を滑る水鳥のように音を立てず、回避の一挙一動には淀みがない。瞬き1つの間に、攻防の流れが如月の思い通りに形を変えていく。


「てめぇ……やっぱりギフトが!」


 コーチの目が大きく見開かれ、眉間に深いシワが刻まれる。歯ぎしりの音がかすかに響き、額には一瞬で汗が滲んだ。呼吸は荒く、まるで目の前で不測の怪物が産声を上げたかのように、警戒と恐怖がないまぜになった視線が如月を射抜く。


 その声は怒鳴りにも似ていたが、耳に残ったのは明らかな焦りの震えだった。


「なんだ……この感覚?」


 視界の端に、ちらちらと異物のような映像が浮かび上がる。まだ起こっていないはずの光景――相手の動き、足の運び、次に訪れる衝撃までもが、断片的な夢のように脳裏をよぎる。息が浅くなる。


「なっ……なんだ!?……」


 ――フェイバリットギフト。


 この世界で、選ばれし女性だけに与えられる不思議な力。


 ある者は――天を裂くほどの跳躍を授かり。

 ある者は――岩をも砕く怪力を授かり。

 ある者は――風のようにリングを駆け巡る脚を得る。


 それは単なる異能ではない。女子プロレスのリングを通して顕現する、三女神からの神聖な恩寵であり、この世界の闘いを神事たらしめる根源だった。


 ――少なくとも、ここにいる誰もがそう信じている。


 如月には、まだすべてが飲み込めてはいない。だが、選手も、その瞳の奥に熱と畏怖いふが同居しているのを見た瞬間、胸の奥で何かがざらついた。


 これは、自分の知るリングの興奮や殺気とは違う。もっと濃く、もっと深く、何かに祈りを捧げるような空気が満ちている――その正体を、この時の“彼”は理解できないでいた。


 そして如月が目覚めたのは――。


 二文字ギフト――神眼。


 その能力は未来視。一定時間先の未来の「可能性の1つ」を、まるで目の前で起こっているかのようで、視覚的に捉える力。主に相手の動きを先読みし、その行動を阻害するために用いられる、行動阻害系の異能。


 だがそれはあくまで無数に枝分かれする未来の一本に過ぎず、的中率はおよそ五割。確定した未来ではないため、予測は外れることもある。


 さらに、ごくまれに相手の心の声――意識の奥底にある衝動や策略――が、雑音のように頭の中へ割り込んでくることがある。それは制御不能で、必要なときに聞けるとは限らず、むしろ混乱を招く場合も少なくない。


 そして最大の代償は「視覚」にある。未来と現在を同時に処理しようとする脳の負荷によって、視界に二重映像や残像が生じ、距離感を誤ることがある。


 長く使いすぎれば光の残滓が網膜に焼き付き、白飛びや黒点が視界を覆い、相手の姿を見失うことさえあるのだ。さらに限界を超えれば眼球そのものに痛みが走り、赤い血がにじみ、一時的な視覚障害が起こる。


 不確かな未来を掴み取り、戦況をねじ曲げる――それが「神眼」の本質。


「うわ……なんだこれ!頭の中に映像がチラチラと……」


 初めての力に脳が混乱し、制御できない如月。視界の端から端まで、いくつもの未来像がマルチスクリーンのように同時に押し寄せる。


 右上の映像ではコーチの蹴りが脇腹を打ち、左下の映像では自分が逆に投げを決めている。中央では見たことのない角度からの攻撃が迫る。


 ――すべてが一瞬にして切り替わり、また重なり合う。映像同士が干渉し、音や色も匂いすら混ざり合い、脳内で混線していく。


 まるで巨大なスクリーンに数十本の映画を同時再生されているような圧迫感。思考の軸がぶれ、どれが現実でどれが幻なのか、その境界が急速にあいまいになっていった。


 その隙をコーチは見逃さない。意趣返しの低空ドロップキックが如月の膝に突き刺さった。


「痛っ!」


 まともに食らい、膝をつく如月。そこへ即座にフロントチョークが極まる。渾身の力で締め上げ、コーチは勝ち誇ったように吐き捨てた。


「どうした如月。所詮ギフトが覚醒しても、使いこなせなきゃ意味ねぇよな。」


 耳元で吐き捨てられるような声が、現実感を取り戻すきっかけになる。息が詰まる。視界ではまだ、無数の未来がせめぎ合い、互いを押しのけ合って明滅していた。


 蹴りを放つコーチの姿、タックルを仕掛ける姿、拳を振り下ろす姿――どれもが同時に迫ってくる。脳が悲鳴を上げ、雑音が思考を削り取り、濁った圧迫感が頭の中を占めていく。


 如月は歯を食いしばり、呼吸を一度深く沈める。そして、意識の中で不要な映像を1つ1つ切り捨てていく。ノイズのようにざわめく未来を、刃物で裂くように払い落とし、今この瞬間に必要な一本だけを残す。


(……クソッ、なんだかわからねぇけど……とりあえず映像は消えたな)


 喉を締め上げる圧力の中で低く呟き、如月は腰を沈め、両足に力を込める。次の瞬間、両腕を内側から跳ね上げてコーチの腕をこじ開け、強引にフロントチョークを外す。解放された呼吸が胸に一気に流れ込み、肺が焼けるように熱くなる。


 如月は一歩、二歩と爆発的に踏み込み、抱え込むようにコーチの胴へ突き刺さる。勢いそのままに押し倒し、コーチの体は抱えられたまま宙へ浮き、背中からマットへ激しく叩き落とされた。


「ごはっ!」


 呼吸を潰され、マットに沈むコーチ。その胸を至近距離から打ち抜かれ、抱え込まれた体は衝撃で大きく仰け反った。息を奪われた拍子に、反射的に両腕が開く――その隙を逃さず、如月……いや、“英二”は首へと素早く腕を回し込む。


 次の瞬間、ためらいなど一切なく、自らの軸足を中心に鋭く回転を開始した。抱え込まれたコーチの首がわずかに軋み、締め上げられた気道が悲鳴を上げる。


 これは見せ場を狙ったスリーパー・スピンなどではない。観客を沸かせるための派手な演出ではなく、“英二”がデスマッチや異種格闘戦の極限の中で、勝利をつかむためだけに編み出した、無慈悲な実戦仕様の裸締め。


 ――「鬼殺し」


 遠心力と慣性で上半身を容赦なく揺さぶりながら、相手の動きにシンクロして左右へと回転する。その回転のリズムに合わせ、頸動脈への締め圧と解放が一拍ごとに切り替わる。解放された瞬間に脳へ血液が一気に押し戻されるが、次の瞬間には再び締め上げられる。


 血流が回復しきる暇もなく繰り返される圧迫は、神経と平衡感覚を同時に破壊し、視界は白く瞬き、耳鳴りが脳を満たす。目の奥が焼けつくように熱を帯び、胃の底から吐き気がせり上がった刹那――すべての感覚が闇に呑まれ、意識は完全に瞬断される。


 コーチの足元がバタつき、マットをかきむしる音が短く響くが、それも長くは続かない。十五秒足らずで筋肉は制御を失い、口元から白い泡を吹きながら白目を剥き、全身が弛緩して力なく崩れ落ちた。


 英二は腕をほどくと、ゴロンとコーチの体を転がし、リング中央で大の字になったままの彼を軽く突き放す。その口からは荒い息1つも漏れず、股間にはみっともない染みが広がっていた。


 「ったく……最後まで汚ねぇ野郎だ。神聖なリングを汚しやがって!」


 吐き捨てるように言い残し、首を小さく回して筋肉の緊張をほぐすと、如月は倒れ伏すコーチに一瞥もくれず、ロープへ歩み寄る。マットを踏みしめるたび、静まり返った場内にその足音だけが響く。


 ――カン! カン! カン!


 試合終了を告げる金属的なゴングの連打が、場内の空気を一気に解き放った。


 軽やかにトップロープを飛び越え、マットから床へと降り立つ動作には、一切のためらいや迷いもない。その背中には勝者の誇示も、挑発もなく、ただ戦いを終えた者の冷ややかな静けさだけがあった。


 だが、その静寂を破るように、リングを囲んでいた女子選手たちから抑えきれない黄色い声が漏れる。


「すご……今の何?」


「やば、カッコよすぎ……!」


 興奮と驚きの入り混じった視線が、一斉に如月へ注がれる。その眼差しには、畏怖と憧れ、そして言葉にできない感情が揺れていた。誰もが息を呑んでいる。だが、当の本人は、それに気づいていない。


 あるいは最初から興味すらないのか、肩でわずかに息を整えながらも表情は変えず、場外で静かに呼吸を整えていた。


 マットの上には、まだ意識を取り戻さないコーチと、場内に残る熱気だけが漂っている。その空気を割るように、誰かが小さく唾を飲み込み、また静寂が戻った。


 ――その静寂のさらに向こう。道場の入口、影の中からじっとこちらを見つめる視線があった。誰も気づかないまま、その視線は最後まで場外で呼吸を整えている如月を捉えて離さなかった。

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