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第41話:揺らぐ神眼

 背後を取られた楓は、反射的に肩を震わせて息を呑んだ。


 熱気のこもるリング上で、一瞬にして背筋に冷たいものが走る。背後から襲い来る気配――。


 次の瞬間には技を仕掛けられると悟り、彼女は床を強く蹴って距離を取った。


 楓の瞳には驚愕の色が宿る。普段なら決して許さぬ死角を突かれたことが、理解できなかった。


「……それが神眼の能力かい?」


 吐き出す声には、軽い皮肉と探るような響きが混ざる。


 しかし対する如月は、言葉を受けても眉1つ動かさなかった。


 彼女は淡々と次の行動に移る。軽やかにステップを踏みながら、瞳孔を収縮させるように目を凝らす。


 視界の隅々にまで神経を張り巡らせ、相手の重心、呼吸のリズム、わずかな筋肉の動きを拾い集めていく。


 世界の雑音を削ぎ落とすようにして、如月の意識は一点に収束していた。


 楓は正面からその姿を見据える。先ほどの動きと同じく、微動だにしない。


 ただし、静かな瞳の奥には――「何処からでも来い」という挑発めいた光がちらついていた。


(……あの動き、明らかに俺の行動を理解した動き。ギフトの力か?)


 如月は胸の奥に渦巻く思考を1つずつ整理し、呼吸を整えた。


 そして足を止める。


 リングの床がわずかにきしみ、張りつめた空気が広がる。腰を沈め、低く重心を構えると、その視線は相手の動きの一点――カウンターの起点だけを射抜いていた。


 まぶたの裏で、幾度となく想定された攻防が反復され、次の瞬間に備える。


 一方、楓は逆の動きに出た。軽やかにステップを刻み、左右へと流れるように舞う。リングの床を滑る足音がリズムを刻み、フェイントを織り交ぜて翻弄を狙う。


「今度は逆になっちゃったね」


 挑発めいた声を吐き、唇の端を上げる楓。余裕を湛えたその笑みには、自信と遊び心が入り混じっていた。


 かたや如月は、視線を一瞬も逸らさない。絞り込まれた瞳孔が相手の筋肉の収縮を捉え、呼吸の浅深を読み取り、全てを研ぎ澄まされた感覚で追っていた。


 ――一歩でも見誤れば、終わる。


 互いの対照的な気配が、リング上に濃密な緊張を張り詰めさせていく。


 まるで空気そのものが重くなり、選手のざわめきすら遠のいていくかのようだった。


 その異様な空気を、最も敏感に感じ取っていたのはリング下のカナレだった。いつもなら陽気に声を張り上げる彼女が、今は唇を固く結び、瞳を細めて試合を凝視している。


(……ヤバい……如月っちが出遅れてる。完全に楓さんのペースだ)


 心中で呟いた瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられるような感覚。普段の彼女らしからぬ、余裕のない表情。こめかみにはうっすらと汗が滲んでいる。


 そんな時――ふいに横合いから影が差した。


 カナレはびくりと肩を震わせ、反射的にそちらへ顔を向ける。


 そこに立っていたのは、冷静な面持ちの正美だった。彼女の落ち着いた気配が、カナレの高ぶった心拍を一瞬だけ鎮める。


「正美さん!」


 驚きと安堵が入り混じった声、思わずカナレの口からこぼれた。正美は小さく頷くように軽く会釈を返し、すぐさまリング上へと視線を移す。


 その眼差しは鋭く、ただ一挙手一投足を見逃すまいとする観察者のものだった。


 リング中央――如月はさらに腰を沈め、重心を極限まで落とす。両腕はだらりと垂らされ、構えすら放棄したような姿勢。


 だがその眼光だけは獲物を狙う獣のように鋭く、挑発めいた無防備さが逆に圧力を帯びて選手たちを飲み込む。


 その姿は「撃って来い」と声なき言葉を放つ檻の中の猛獣そのものだった。


 対する楓は、その威圧を正面から受けながらも口元の笑みを崩さない。視線を細め、まるで宝石を吟味するかのように如月を眺める。


 次の手を測りながらも、余裕と遊び心を漂わせるその態度は、舞台を掌握している自信の表れだった。


(……悪くないね。だけど、挑発にのってあげるほど子供じゃないよ)


 楓の心は揺るがなかった。軽やかに浮かべる笑みは、如月の挑発を易々と受け流す壁のように揺るぎなく、相手の勢いを殺していく。


 やがて楓は一歩、また一歩と後ろへと下がった。足運びは慎重に、だが確固とした自信を纏っている。挑発には乗らない――。


 それが彼女なりの回答だった。


 対する如月は、その退き際を追いもしない。腰を低く沈めたまま、視線だけを相手に据え、動かない。


 呼吸すら抑え込んでいるかのように静まり返った姿は、逆に選手たちに圧迫感を与えていた。


 緊張が極限に達しかけたその時――。


「如月っち!だめだ!そこは楓さんの……!」


 リング下からカナレの大声が飛んだ。悲鳴にも似た叫びは場内のざわめきを突き破り、張り詰めた空気に亀裂を入れる。選手の視線が一斉に彼女へと向かい、何事かと息を呑む。


 次の瞬間、張り詰めた均衡が破られた。


 カナレの言葉より早く、楓の身体が宙へと舞い上がる。


 リングを蹴る音が鋭い破裂音となり、持ち前の跳躍力で弾かれたように跳ぶと、空気を切り裂く軌跡を描きながら如月へ襲いかかった。


 ――旋風脚。


 華やかでありながら、相手の視界を奪い、一瞬で試合を決する威力を秘めた大技。


 その軌道は、まるで宙に咲いた旋風のように美しく、観客の視線を釘づけにする。


 だが、如月の頭上をかすめるだけに終わる……はずだった。


 そこで回転が不意に止まる。動きの余韻を断ち切り、体勢を変えた楓が鋭く軌道を切り替える。


 振り下ろされるのは、容赦なき踵落とし。狙いは一直線に如月の頭――。


 その速度は落下の加速を乗せ、破壊力を倍増させていた。


 しかし如月は一歩も退かない。両腕を素早くクロスさせ、硬く組み合わせた前腕でその一撃を真正面から受け止めた。


 激しい衝突音がリング全体に響き渡り、空気が震える。クロスした腕に衝撃が重くのしかかり、如月の足元のマットがわずかに沈む。


 鋭い衝突音がいつまでも耳に残り、リング下の選手たちから一斉にどよめきが起こる。


「すごい……!」


「正面から受けた!」


 興奮と驚愕が入り混じり、声は波紋のように広がっていった。


 だが、その熱気の中でただ一人――カナレの表情だけが沈んでいた。


 彼女は唇を噛みしめ、眉根を寄せたまま動かない。頬に冷や汗が伝い、視線は如月を追いながらも落ち着きを失っていた。


 普段の如月なら、あのかかと落としを紙一重でかわしていたはずだ。


 ギフト《神眼》を用いた彼女の戦いは、本来なら「当たらない攻防」でこそ真価を発揮する。


 だが今の如月は、避けず、ただ真正面から受け止めた。


 それは彼女の流儀に反する動き。


 カナレの胸に不安が広がる。


(……やっぱり、ギフトが使えてないのか、如月っち……)


 叫びにも似た心の声が、彼女の鼓動とともに内側で鳴り響いていた。


 心の中で如月を心配するカナレ。


 だが、如月はただ防御に徹したわけではなかった。


 クロスで受け止めた腕を素早くさばき、そのまま楓の足首をがっちりと捕らえる。一瞬の隙を逃さず、体を捻って床へと倒れ込み――鋭く関節をねじり上げる。


 ――ヒールホールド。


 足首を極めるその技は、リング上の空気を一変させるほどの殺気を帯びていた。


 選手達から息を呑むような声が漏れる。楓が地面に叩きつけられ、体勢を崩したその瞬間――。


 彼女のもう片方の足が閃く。如月の肩口を狙った鋭い蹴り上げが炸裂し、衝撃が走る。


 次の瞬間、極まっていたはずのホールドはあっけなく外れていた。


 リング下の選手たちが一斉にざわめき出す。


「外れた!?」


「決まったと思ったのに……!」


 驚愕と困惑が入り混じった声。


 だがその中で、ただ一人カナレだけは状況を理解していた。


(……あそこを蹴られると、しびれて力が抜けちゃうんだよな……)


 彼女の目には、ほんの一瞬の攻防に潜む理と罠がはっきりと映っていた。


 その間にも如月は、痺れの残る腕をぐるぐると大きく回す。


 筋肉がきしむ鈍い痛みを無理やり押し殺すように、肩から肘まで血流を流し直す仕草。


 だが表情には一片の苦悶も見せず、あたかも何事もなかったかのように再び腰を沈めた。


 マットを踏み締め、低い構えを取るその姿は、リング下で二人の攻防を見ている選手たちに「まだ余裕がある」と錯覚させるほどだった。


 一方の楓も、素早く体勢を立て直していた。リングの上を刻むステップは、再び小刻みに、軽やかに――。


 だが、その足運びにはほんの僅かな鈍さが混じっている。選手たちには気づかれないほどのわずかな違和感。


 しかし、注意深い者の目には、確かにぎこちなさが滲んでいた。


 その足取りに影を落とすのは、先ほどの攻防で刻まれた小さな代償。それでも楓の表情からは笑みが消えていない。


 痛みを抱えながらも余裕を装うその姿は、如月の強がりと鏡写しのようでもあった。


 楓の顔にわずかな歪みが走った。笑みの下に隠されていたもの――。


 それは鋭い痛みに耐える陰影。ステップのリズムが乱れ、やがて足運びはぴたりと止まる。彼女は静かに息を整え、如月と同じように腰を沈めて重心を低く構えた。


 リング下の選手たちは、その変化を理解できずに首をかしげる。


「どうして構えを変えた?」


「何があった?」


 小さなどよめきが波紋のように広がる。


 しかし、カナレの隣に立つ正美だけは、冷静に真実を見抜いていた。


 ――先ほどの関節の攻防の一瞬。如月がアキレス腱を壊さない程度に挫いた、その微細な動き。わずか数秒の出来事を見逃さなかったのは、彼女の研ぎ澄まされた眼だけだった。


「面白いことするじゃないか……誰に教わった。皇?もしかして斎藤さん?」


 楓の声にはまだ余裕があった。痛みに揺らぐはずの声音を、あえて軽やかに装い、試合を支配するかのように問いを投げかける。


 如月は答えなかった。


 だが沈黙を選ぶ代わりに、別の刃を言葉にして放つ。


「さっきからよくしゃべるな。あんたなりの戦い方なのかい?」


 冷ややかに切り返されると、楓は一瞬だけ目を細め――。


 次の瞬間、再び笑みを浮かべた。


 その笑みは挑発と言うよりも痛みを隠す仮面にも見えた。


 だがそれ以上は何も言葉を返さなかった。


(……やっぱり、カナレの言ってることは正解みたいだな。確かに神眼の精度が著しく落ちてる)


 如月の心中に去来するのは、確信にも似た違和感。戦いの只中であっても、冷徹に己の異変を見据えていた。


 如月は、この攻防の中、楓や他の選手に悟られないよう、瞬間的に、そして断続的にギフトを発動させていた。


 しかし、使用中に違和感を覚える。見える未来視は、いつもの半分以下の映像しか映らない。


 使用回数や発動時間の短さとは関係ないことは、常日頃からギフトを試している如月が一番理解していた。


(……だけど、引っかかるな。最初のあの動き、明らかに俺の動きに合わせて後方に飛びやがった)


 それは、如月が幾千もの猛者との戦いで研ぎ澄ませてきた勝負勘が告げる、強烈な違和感だった。


 目の前の楓は、ただの一選手ではない――。


 まるで心の奥を覗き込み、次の行動を先読みして回避しているかのような動き。


 それに加えて、如月の《神眼》の未来視そのものを濁らせ、精度を奪うかのような不可解な気配が漂っていた。


 読んだはずの一手が、次の瞬間には裏切られる。神眼に映る映像と、現実の動作がずれるたび、如月の感覚は乱されていく。


 それは、如月にとって未知の領域――ただの「技術」では説明できない領域だった。


 (……これは、本当にギフトの作用なのか?それとも……)


 胸中に芽生えた疑念が、じわりと冷たい汗となって背筋を伝う。


(……でも、カナレが言っていたこととは少し違うかな)


 如月の脳裏に、昨夜の会話がふと蘇る。


『そういえば……掴まれてるときに、力が……体の奥から抜けていくような感じだった』


 カナレが漏らした言葉。


 しかし今は、掴まれてなどいない。むしろ距離を置いたままの状況で、《神眼》の精度に違和感が走っている。


 予測していた未来像がことごとく外れていく。その事実が、如月の胸の奥でじわじわと不気味な影を広げていた。


 だが――。


 如月はその不安を表に出さない。呼吸を一定に保ち、次の展開を冷静に予測する。己の勝負勘と神眼の断片的な未来視を重ね合わせ、情報を丹念に精査していく。


 まるで一枚一枚、乱れたパズルを組み合わせていくかのように。


 一方の楓は、いつの間にか余裕の表情を取り戻していた。張りつめた笑みを浮かべ、ゆっくりと、しかし確信をもった足取りで間合いを詰めていく。


 その動きは選手の目には堂々とした攻勢に映るが、如月やカナレには異様なものとして映った。


 リング下でその様子を凝視していたカナレが、小さく息を呑む。


「……珍しいな。楓さんが自分から相手の懐に入っていくなんて」


 楓のファイトスタイルは、本来アウトレンジからの攻防にこそ真価を発揮する。持ち前の跳躍力と、リーチのある手足を武器に一方的に間合いを制圧し、相手を追い詰めていくのが常道だった。


 それが今は、あえて自ら距離を潰し、如月の懐へ飛び込もうとしている――。


 その異様な動きに、カナレの声には驚きと薄い警戒が滲んでいた。


 そんな珍しい動きに、パートナーである正美も少し動揺しているようであったが、表情からはそれを察することはできなかった。


 だんだんと楓と如月の距離は近づきつつあり、互いの手が触れる位置まで迫る。


 息をのむ一同。


 やがて楓がゆっくりと片手を構えるように出すと、如月も同じように片手を出す。二人は片手四つになり、さらにもう片方の手を伸ばして完全に四つに組み合った。


 二人の握力が同時にぶつかり合い、その力が手から腕、肩、そして全身へと瞬間的に伝わっていく。


 筋肉がきしむ低い唸りと、関節が悲鳴を上げるような軋む音が、リングの上からはっきりと響き渡った。


 若干、楓の方が身長と体格で有利。


 その差は如実に表れ、如月はじりじりと押され気味になっていく。


 それでも歯を食いしばり、必死に踏みとどまる姿を見た選手たちの視線は釘づけとなった。


 ――だが、次の瞬間。


 楓の身体がふっと揺らぎ、まるで見えない糸に引かれるように如月の方へと吸い込まれていく。


 その不可解な動きに選手たちから驚きの声が上がる。


 如月は逃さなかった。


 まるで待っていたかのように一気に腕を回し込み、楓の首を抱え込む。完璧なタイミングでヘッドロックの体勢へと持ち込んだ。


「なに?今の……?」


 リング下の選手たち、そして捕らえられた楓自身までもが目を見開き、状況を理解できずにいる。


 正美ですら、ほんの一瞬判断を迷い、視線を揺らした。


 ただ一人、カナレだけは違った。彼女は目を細め、心の中で確信めいた言葉をつぶやく。


(……如月っち、なんかやったな)


 次の瞬間、カナレの口元にほんのわずか、不敵な笑みが浮かんだ。


 張り詰めたリングに、再び鈍い音が響き渡る――楓の頭が締め付けられる圧迫音だった。

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