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第40話:鼓動の本道

 Queen Bee本道場。


 分厚いマットに叩きつけられる音が、まるで雷鳴のように幾度も響き渡る。その合間に飛び交うのは、受け身の号令と腹の底から張り上げる掛け声。


 鉄骨の梁まで震わせるようなその熱気は、道場に足を踏み入れた者の心臓を一瞬で高鳴らせる迫力があった。


 いつもの光景――。


 しかし今日に限っては、どこか普段以上に張り詰めた雰囲気が漂っている。


 マットの縁で腕を組み、厳しい眼差しを送っているのは安西。その横には、珍しく斎藤の姿もあった。


 どうやら、ギフト訓練がようやく一区切りを迎え、全選手が本棟へ合流することが正式に決まったらしい。


 天井の蛍光灯が、汗で光るマットを照らす。


 叩きつけられた汗が飛沫となって空気に混じり、鼻腔を刺すような熱い匂いをつくり出している。


 誰もが息を切らしながらも、まだ声を張り上げ、何度も技を仕掛け合う。本道場は、まるで巨大な心臓が鼓動するかのように鳴動していた。


 その熱気の中に立つ者たちは、誰一人として気を抜いてはいない。汗に濡れたTシャツが重く張り付き、吐く息は白く曇りとなって漂う。叩きつけられる度に舞い上がる汗の飛沫と、湿ったマットの匂いが混ざり合い、場内は緊張と昂揚が渦を巻いていた。


 今回はよほど粒ぞろいだったのか、斎藤の顔にも満足そうでいて、どこか誇らしげな色が浮かんでいた。


 普段は厳格で表情を崩さぬ彼女の口元が、ほんのわずかに緩んでいる。厳しい視線の奥に、将来を見据えた確信と、手応えを得た者の静かな誇りがにじんでいた。


 現在、ギフト訓練を終えた選手たちは、各自本棟への移動の準備と手続きを進めていた。慌ただしく書類を受け取る者、荷物をまとめる者、仲間と安堵の笑みを交わす者。


 本道場を離れた廊下は、リングとは違い、熱気とは打って変わって静けさに包まれていた。


 窓の外には、朝の柔らかな光を浴びた中庭が広がっている。濃い緑の芝には朝露が残り、宝石のように光を反射してきらめいていた。吹き抜ける風はまだ涼しく、湿った草の匂いがかすかに漂ってくる。


 早朝のランニングを終えたばかりの選手たちが、タオルで首筋の汗を拭いながら窓辺に立ち、冷たい外気を胸いっぱいに吸い込む。肩に荷物を抱えた者は、仲間と短い言葉を交わして笑みをこぼし、別の者は緊張の面持ちで書類を確かめながら足早に通り過ぎていく。


 ガラガラとキャリーケースの車輪が床を擦る音、事務員が書類をまとめる紙の音、控えめな足音――それらが重なり合って、規則正しいリズムを刻んでいた。


 道場の荒々しい衝突音とは対照的に、この廊下には、旅立ちの朝に似た張り詰めた静けさが漂っていた。


 道場の外に出てしまえば、そこはもう「試験の場」ではなく、新しい生活と試合の日々へ踏み出す通過点。


 選手たちの表情には、安堵と期待、そしてこれから訪れる未知への不安が入り混じっていた。


 ――一方、その頃。


「俺の時は適当だったぞ!」


 休憩中、如月が不満げに口を尖らせた。口調には拗ねたような響きがあり、足を投げ出したまま手持ち無沙汰にタオルをいじっている。


 どうやら、本棟への移動の際の手続きが自分だけぞんざいに扱われたと感じている。


 それを聞いた島村は、ふっと小さく笑みを漏らし、わずかに肩をすくめた。眉尻が下がり、どこか柔らかな表情になる。


「私や望月さんもそうだったから」


 声は張らず、穏やかに語りかけるような調子。


 その声音には安心させるような響きが宿っていた。慰め半分、共感半分――大げさではないが、張り詰めた気持ちをほどくような優しさがにじんでいた。


 如月は「なんだよ、それ」とぼやき、わずかに眉をひそめる。


 だが島村の落ち着いた態度に反論の矛先を失い、結局は口をつぐむしかなかった。


 ふっと静かな間が落ちたその時――。


 カナレがすぐ隣に歩み寄り、神妙な顔つきで如月に声をかけてきた。


「なぁ、本当に大丈夫なのか?」


 普段の快活さからは想像できない低い声色。その真剣さに、場の空気が一瞬だけ張りつめた。


 豪快で自由奔放な振る舞いが常のカナレだからこそ、その変化は際立ち、周囲の耳をも自然と引き寄せてしまう。


 如月は一瞬きょとんとし、何のことやらと考え込む。頭に浮かんだのは、楓たちとのスパーリングのことくらいだった。そこで肩を竦め、気取らぬ調子で言い放つ。


「別段どうってことはないだろ?」


 あまりにも飄々とした返答に、島村とカナレは思わず言葉を失った。


 二人の視線が揃って如月に注がれ、その呆気に取られた表情が、彼女の無頓着ぶりをいっそう際立たせていた。


 ふとカナレの視線がリングへ向かう。


 そこでは望月とSAKEBIが、今まさに激しいスパーリングの最中だった。


 望月は肩で荒く息をしながらも、必死に食らいついている。額から滴る汗がマットに落ち、髪が顔に張り付いても構わず前へ出る。


 対するSAKEBIは、ギフトを使うまでもなく、余裕を崩さぬ表情で攻防をいなし、時に鋭く打ち返していた。


 その落ち着き払った立ち回りが、必死に食らいつく望月の苦境をいっそう際立たせていた。


 望月は、序盤こそギフト《剛体》を発動し、SAKEBIの攻撃をものともせず先に仕掛ける速攻で優位に立とうとした。


 だが、その力の代償は大きい。身体は硬質化して耐久力を増す代わりに、動きは鈍り、身のこなしは荒くなる。


 さらに一度攻撃を受ければ衝撃をうまく逃せず、受け身すら取りにくい。結果としてダメージは蓄積し、体力をじわじわと削られていった。


 そのため、今では立っているのもやっとの状態だった。


 SAKEBIは腰を深く落とし、望月の下半身の動きをじっと追いながら、いつでも迎撃できる構えを崩さない。視線は鋭く、わずかな隙を逃すまいと集中していた。


 その刹那――意識がもうろうとした望月が、残った力を振り絞って飛び込む。低く身をかがめ、必死にSAKEBIの腰へと食らいつこうとタックルを仕掛けた。


 だが、その動きは読み切られていた。SAKEBIは軽やかに身をかわし、逆に背後へ回り込む。


 次の瞬間、望月の身体は高々と宙に舞い、重い音を立ててマットへと叩きつけられた。鮮やかなバックドロップ。


 続けざまにSAKEBIは腕を絡め取り、腕挫十字固へと移行する。容赦ない極まりに、望月の顔が苦悶に歪んだ。


「……ギブアップ!」


 声を絞り出すように宣言した瞬間、レフェリー役の選手が終了の合図を告げると勝負は決した。


「何やってる!望月!」


「ギフト連発で自分の首絞めてたら意味ねーぞ!」


 安西と斎藤の檄が、鋭い鞭のように場内へ飛ぶ。叱咤というより怒号に近く、響いた声はまだ荒い呼吸をしている望月の背を容赦なく押さえつける。


 他の選手たちも思わず動きを止め、その言葉に耳を傾けていた。


 如月はリングの外からその光景を目にし、気の毒そうに視線を落とす。


 怒声の鋭さとは対照的に、如月の胸に浮かんだのは「責められて当然」と「それでも同情せずにはいられない」という入り混じった思いだった。


 そろそろ自分のスパーの番かな?――。


 徐に時計に視線を落とした、その瞬間だった。


「如月。そろそろ始めるよ」


 楓の澄んだ声が、道場の喧噪の中で不思議と鮮やかに響いた。呼びかけられた途端、周囲のざわめきが一瞬遠のいたように感じられ、胸の奥に小さな緊張が灯る。


 いよいよ、楓や正美たちとのスパーリングが始まろうとしていた。


 ただのスパーリングではない。Queen Beeの中でも屈指の実力者たちを相手にするとあって、胸の鼓動がひときわ速まる。


 彼女の声を耳にしただけで、他の選手が息を呑む。今まさにその中心に、自分が足を踏み入れようとしている――。


 その事実が、緊張と高揚をないまぜにして押し寄せてきた。


 島村は如月の方を見て軽く一礼すると、リング下で息を荒げる望月のもとへ小走りで駆け寄っていく。


 その背中は「頑張ってください」と静かに託すようで、如月は無言でそれを受け止めた。


 如月は、3つあるうちの楓がいるリングへと歩を進める。そのすぐ後ろを、元気なくとぼとぼとついてくるのはカナレだった。


 いつもなら誰よりも早く前へ踏み出し、胸を張って自信満々に歩いていくはずの彼女。


 その姿は、場を明るく照らす太陽のようにさえ思えることが多い。だが今は違った。足取りは鉛を背負ったように重く、視線も落ち気味で、普段の豪快さは影を潜めている。


 そんなカナレの横顔をちらりと見て、如月は思わず声をかけた。


「大丈夫か?スパーするのは俺だから、お前が気落ちする必要もないだろ?」


 心配を悟られまいと、わざと軽く言ったつもりだったが、その声音にはわずかに優しさがにじんでいた。


 如月の言葉に耳を傾けるが小さく「うん……」と言ってうなづくだけだった。


「よ~し、それじゃ始めようか。如月、上がっておいで」


 楓は余裕を隠さぬ笑みを浮かべ、リングの上から片足をロープに掛けて身を乗り出す。


 その仕草は観客に見せるパフォーマンスのように大げさで、挑発めいた華やかささえあった。


 如月は余計な音を立てぬよう、スッと身を沈めて一気にロープを越える。軽やかな動きはまるで空気を滑るかのようで、マットに着地するまで一拍の間もなかった。


 その俊敏さに楓の目が細められる。


「……ふふ、まるで猫みたいだね。音もなく獲物に忍び寄る……それが、如月の強さの秘密ってわけ?」


 声色は冗談めかしていたが、瞳の奥には探るような光が宿っていた。


 楓は言葉巧みに相手を揺さぶろうと軽い舌戦を仕掛けたが、如月は特に気にする様子もなく、ふっと柔らかな笑みを浮かべただけだった。挑発を受け流すその態度は、逆に余裕すら感じさせる。


 そのまま青コーナーへ歩を進めると、如月は静かに屈伸を繰り返し、肩や腰を軽く回して身体を温めはじめた。


 次の瞬間、リングを力強く蹴る。


 ――バン!


 乾いた衝撃音が本道場全体に響き渡り、思わず視線が集まる。


 気づけば如月はリング中央に立っていた。滑らかな一連の動きには一片の淀みもなく、猫のように静かでありながら、獣のような鋭さを宿していた。


 その存在感は、道場の空気を一瞬だけ支配するほどだった。


 楓もその姿に思わず目を見張り、赤コーナーで足を止める。表情にわずかな驚きが浮かんだが、すぐに笑みを取り戻し、余裕を装うように一歩ずつ歩みを進めた。


「どんなルールで行く?打撃なしでもいいけど?」


 楓の声音は軽く、しかし上から見下ろすような響きを帯びていた。


 挑発めいた言葉ではあったが、如月に声をかけたその瞬間から、すでに試合は始まっていた。


 それを如月も理解しているように、間髪入れず言葉を返す。


「だったら俺は関節技を抜きでやるかな?結構、警戒してるみたいだし」


 肩をすくめるような軽い口ぶり。


 だがその瞳は笑っておらず、相手の反応を探る鋭さを帯びていた。


 楓の眉間がわずかに動く。ほんの一瞬の揺らぎだったが、その変化は確かに如月の挑発が届いた証だった。


「……言うじゃないか」


 小さく笑みを浮かべ、楓はすぐに自信を取り戻す。


「OK、本番と同じで――何でもありでいこうか」


 二人の間に落ちる沈黙は、言葉以上に重い。試合前の駆け引きは終わり、あとは実際の技で語り合うだけだった。


 両者互いにルールを理解したかのように沈黙が訪れる。青コーナー側のリング下に移動したカナレは浮かない顔だった。


(……もしここで如月っちが負けたら、私みたいになっちゃうかも……)


 楓と正美に連敗中のカナレは、いつの間にか二人に対して負け癖がついてしまい、自分でも思うように体が動かなくなっているのを理解していた。


 いざ二人を前にすると、心のどこかで「また負ける」とよぎり、足がすくんでしまうのだ。


 そんな自分の状況と重ね合わせるように、カナレの胸には不安ばかりが膨らんでいった。気づけば思考は後ろ向きになり、如月の姿を心配することでいっぱいになる。


 抑えきれず、カナレは声を張り上げた。


「如月っち!無理するなよ!」


 その叫びには励ましよりも祈りに近い響きがあった。普段の豪快な声色ではなく、必死さのにじむ真剣な声音。


 如月は振り返らず、背中越しに片手を挙げて応える。


 その仕草は「大丈夫だ」と言わんばかりに軽く見えたが、不思議と安心感を与える温かさを持っていた。


 始め――!


 合図が飛んだ。


 如月はいつもの調子でステップを踏みながら距離を保ちつつ楓を中心に回りだす。


 しかし、目は鋭く楓を捉えている。


 対して楓は無駄な動き1つなく、その回転に対して追従するように如月を取れえている。隙あらば食らいつくような視線で。


 すると如月はステップの動きを止めた。


 その動きと同時に、ノーモーションで前方へと飛び、一気に距離を詰めた。


 しかし、楓も読んでいたのか、タイミングを合わすように後方へと飛ぶ。まるであらかじめ如月がどこに動くか分かっていたかのように。


 如月が楓の表情を見ると、自信に満ちた笑顔。それは余裕さえ感じる。


 如月は再度体制を整えステップを始める。小刻みで変拍子のリズム。


 楓はそれに動じることなく先ほどと同じように如月の動きを追従する。


 如月のステップは速く、しかし無駄がなく、逆に追いかける楓の足取りを誘導するかのようだった。


 気づけば、楓はいつの間にか如月に追いついていた。


 2つの影が交差し、次の瞬間には真正面から激突してもおかしくない――。


 そんな張りつめた空気が、あたりを支配していた。


「――っ!」


 その瞬間を目にしたカナレの胸がざわついた。


(ダメだ……距離を取られたら如月っちの間合いが消える!アウトレンジからの攻防は楓さんの土俵なのに……!)


 心配そうに身を乗り出すカナレ。


 しかし、次の瞬間――。


 如月はあえて間合いを詰めさせるように振る舞いう。


 楓が勢いよく踏み込んでくる――。


 その接近を待っていたかのように、如月は猫科のような俊敏さで身体をずらす。


 間合いが縮まった一瞬を逆手に取り、楓の横を抜けて背後へと回り込んだ。


 一瞬の交錯は、如月が仕掛けていた罠だった。


(……っ!まさか……最初から追いつかせるつもりで!?)


 カナレは息を呑む。動揺が驚愕に変わっていった。


 楓の自信に満ちた笑顔が、一瞬だけ曇る。


 如月の眼差しは冷静で、最初から試合を掌握していたかのように鋭く光っていた。

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