表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/39

第4話:見せてやるよ、“怖いプロレス”を

 ファーストインパクトは、まるで獲物を狙う獣同士のように、互いの出方を慎重に見極めながら始まった。島村が先に痺れを切らしたか、わずかな隙を突いて踏み込み、攻撃を仕掛ける。


 だが、その一手を待っていたかのように、望月も即座に反応。素早く間合いを詰め、相四つへと持ち込んだ。


 体格差では1回り小柄な望月だったが、それを微塵も感じさせない膂力で応戦する。島村の腕をがっちりと掴み返し、力と力の真っ向勝負が展開された。互いの前腕がぶつかり合うたびに、骨と骨が軋むような鈍い音の響き、場の空気が一層張り詰めていく。


 両者一歩も譲らず、全身の筋肉が緊張し、汗がじわりと額を伝う。静まり返った空間に響くのは、かすかな呼吸と関節の軋む音だけ。他の選手たちも息を呑み、張りつめた沈黙の中で、時が止まったかのような時間が過ぎていく。


 ――それはまさに、「静」と「動」がせめぎ合う戦いの序章だった。


 しびれを切らしたコーチが、場の空気を裂くような怒声を響かせた。低く、腹の底から絞り出すような、太く重い怒鳴り声が練習場全体に轟く。


「おい島村ぁ!いつまで突っ立ってやがる!まるでカカシじゃねぇか!」


 その一言で場の空気がピリつき、島村の背筋がわずかにこわばった。コーチの声には、ただの叱責では済まない“嫌味”が込められており、無駄に緊張を煽るような妙な圧があった。傍目には動きのない膠着状態に見えていた構えも、今や一瞬の気の緩みが恥をかくきっかけになりかねない、張り詰めた空気へと変わっていく。


 だが、その言葉にピクリと反応したのは、島村ではなく、むしろ望月だった。


 前のめりになった島村の体勢を見逃さず、望月はすかさず間合いを詰め、両手でその腕を引き込む。自らの体を後方へと沈めながら巴投げの要領で鋭く腰をひねる。


 その一瞬の判断と動きが見事に噛み合い、島村の体はふわりと宙に浮かび――次の瞬間、無防備なまま床へと叩きつけられた。


 ゴンッ!


 鈍く重い音が、道場の静けさを切り裂くように響き渡る。


 打ち所が悪かったのか、島村は仰向けのまま大の字に倒れ、微動だにしない。呼吸はあるようだが、目は虚ろで焦点が合っていない。場の空気が一瞬にして凍りつく中、望月は思わず息を呑み、顔色を変えて駆け寄ろうとした――そのとき。


 「何やってんだ望月!さっさと極めろ、トドメを刺せ!」


 背後から叩きつけるようなコーチの怒号が響いた。まるで倒れた相手への配慮など一切ない、勝敗と勝者のみに価値を置くような冷酷な声だった。


 望月の足が止まる。一瞬、視線がコーチと島村の間をさまよう。練習とはいえ、今の一撃はやりすぎだったのでないか――そんな迷いが胸の奥でくすぶる。だが、道場の空気はその一瞬のためらいすら許さないほど張り詰めていた。


 島村の指が、かすかに動いた。


 それに気づいた望月の表情が揺れた。倒れてもなお、その微かな動きは立ち上がろうとする意思を示していた。


「何やってる!さっさと極めろ!」


 コーチの怒声が背中を叩きつけるように響く。耳に届いた瞬間、それはただの言葉ではなく、体の奥底まで突き刺さる衝撃となった。汗で滑る掌、早鐘を打つ心臓。ここでためらえば、自分がやられる――その理屈は頭で理解するより先に、本能が叫んでいた。


 だが、その場を包む空気に、わずかながら異物のようなざらつきを感じ取っていた者がいた。


 道場の隅で腕を組み、黙って一部始終を見ていた如月。その視線は淡々と流れを追っているようで、実際には細部まで逃さず観察していた。受け身の音、呼吸の乱れ、間合いの崩れ――そして、コーチの発した言葉。


 そこに潜む何かが、如月の中の警鐘を小さく鳴らす。眉間にしわが寄り、唇がわずかに動いた。


「極めろ、だと?」


 低く漏れた声には、抑えきれない怒りの色がにじんでいた。冷えた眼差しが道場中央に突き刺さる。


 立ったまま、技をかけるべきか迷っている者と、ぐったりと動かない相手――その光景が、如月の胸の奥に黒い波紋を広げる。


「意識飛んでる相手にか?……」


 吐き捨てるような声音には、呆れと軽蔑が入り混じっていた。


 そんな中、業を煮やしたコーチがついに自ら動き出す。乱暴な手つきで望月の腕をつかみ、抵抗を許さず無理やり島村の前へと引きずり戻す。


 その顔には苛立ちが色濃く浮かび、口元は怒気を孕んでひきつっていたが、それでもどこかで冷静さを保っているようにも見えた。


 望月は一瞬たじろいだものの、目線は外さず、まるで「どうするつもり?」とでも言いたげにどこか冷めた目でコーチを見た。


 「よく見てろ、お手本だ!」


 怒鳴り声と同時に、コーチは望月を乱暴に押しのけ、ためらいもなく島村の体に手をかけた。掴んだ瞬間、その指先には容赦のない力がこもり、動きは速く、正確だった。


 場にいた者たちの視線が一斉に集まり、息をのむ音が静けさに紛れる。一瞬、空気が硬直し、張り詰めた緊張が道場全体を覆う。


 「意識が飛んでいようが関係ない。これが“勝つ”ってことだ」


 そう言い放つと、コーチは仰向けに大の字で倒れた島村の頭の後ろへまわり込み、その上半身をわずかに引き起こす。その身体に覆いかぶさる。そして、裸絞を極めようとする。腕が顎の下に滑り込み、もう一方の手で後頭部を引き寄せるように締め上げると、島村の背筋がぴくりと跳ねた。


 見せつけるように、必要以上にゆっくりとした動作で締め上げられ、喉が鳴り、息が詰まり顔はわずかに歪む。コーチの動きには一分の迷いもなく、その無言の圧に場の空気が重く沈んでいく。


 「ちょっと……」と、誰かが小さくつぶやいた。見学している選手の一人か、それとも望月自身か。はっきりとは分からない。


 望月は拳を握りしめたまま、動けずにいた。ただ、真正面で苦悶の表情を浮かべる島村の顔が、まぶたに焼き付いて離れなかった。コーチの腕に締め上げられ、声も出せないまま必死に耐えているその姿が、心の奥にじわりと刺さってくる。


 助けなければ。


 ――そう思っても、足は鉛のように重く、声を出すことすらできない。ただ見ていることしかできない自分に、怒りとも悔しさともつかない感情が胸の内で渦を巻く。息をするのも忘れるほどの緊張の中で、望月は拳を握る力をさらに強めた。


 爪が手のひらに食い込み、じんわりとした痛みが現実へと引き戻そうとするが、それすらも遠いどこかの出来事のように感じられた。


 島村の体がピクピクと痙攣し始める。コーチの締めに抗おうとするも、すでに全身の力は抜けかけ、かすかに足が動くだけだった。視界が薄暗くなっていくなかで、過去の記憶がフラッシュバックのように脳裏をかすめる――。


 練習中、不意にもらったエルボーが顎に直撃し、その場で意識を飛ばした。倒れた瞬間、あろうことか失禁していた。床を濡らした生暖かい感覚。ざわめく声。抑えきれず噴き出した誰かの笑い。それが誰のものだったのかは分からなかったが、その音だけは、今でも耳にこびりついて離れない。


 それ以来、彼女は本能的に“戦い”そのものを恐れるようになった。打撃の気配に身をこわばらせ、組み合いでも本気を出し切れない。頭では分かっている。怖がっていたら強くなれないと。でも、身体は素直に動いてくれない。いざという場面で力を抜いてしまう自分を、何度も嫌というほど思い知らされてきた。


 そして今、再び締め上げられる苦しさの中で、あのときと同じ感覚が背筋を這い上がってくる。このまま意識を手放したら、また――。島村の胸の奥で何かがかすかに悲鳴を上げた。


 コーチの腕に島村の指が食い込む。苦し紛れにすがるようなその手を、コーチはあえて無視するかのように微動だにせず受け止めた。まるで、その必死さすらも“見世物”として楽しんでいるかのようだった。締め上げる腕には一切の緩みがなく、むしろわざと加減を外しているような悪意すら感じられる。


「どうした島村ぁ、またお漏らししてんじゃねぇだろうな?」


 その言葉に、島村の顔が一瞬で真っ赤に染まる。羞恥と苦痛がないまぜになったような表情のまま、目が泳ぎ、焦点を失っていく。視線はどこにも定まらず、瞳の奥がにじみ、揺れていた。呼吸は浅く、喉の奥でかすれた音が漏れる。


 汗の雫がこめかみを伝い、耳の横をすべり落ち、顎先から床へと落ちていく。必死に耐えようと歯を食いしばるが、こらえきれない嗚咽が小さく震えとなって喉を揺らす。それでも涙は勝手にあふれ、頬を熱く濡らしながら落ちていった。


 口元がかすかに動くが、声にはならない。かすかに震える指先が、コーチの腕にしがみついたまま離れず、その動きも次第に弱く、頼りなくなっていく。


 心や身体も限界だった。頭の奥がしんしんと痛み、意識の輪郭がぼやけていく。コーチの声が、もう遠くのほうで響いているように感じられた。暗闇がじわじわと広がっていく。


 島村の目に、最後に残った光のなかで、望月の姿がぼんやりと映る。何か言おうとしたが、声にならなかった。堪えきれず流れた涙が、頬をすべり、畳にぽたりと落ちた。


 ブラックアウト寸前——。


 その瞬間。


 バシィッ!


 鋭く乾いた衝撃音が道場に響いた。まるで稲光のような一撃。コーチの体が宙に浮き、そのまま無様に空中を転がる。力なく崩れるようにして畳に落ち、ゴミ袋でも蹴飛ばされたかのように、ズズッと数メートル先まで転がっていった。


 道場全体が凍りついたように静まり返る。誰も声を出せず、誰も動けなかった。ただその音の余韻だけが、耳の奥でじわじわと反響していた。


 咳き込みながら、島村がうっすらと目を開ける。視界がまだ揺れていて、ぼやけた景色の中に人影がひとつ。やがて焦点が合い、そこに立っていたのは——如月だった。


 「……大丈夫か?」


 如月は静かにそう言って、島村に駆け寄る。倒れ伏したコーチは仰向けのまま、顔を押さえてのたうっていた。うめき声とともに唸り声のような息が漏れ、足先がかすかに痙攣している。威圧的だったはずのその姿には、もはや見る影もなく、ただ苦痛に耐えるだけの惨めな人間がそこにいた。


 島村の目尻にまたひとすじ、涙が流れる。けれど今度のそれは、少しだけあたたかかった。


「ほら、深呼吸してみ」


 優しく背中をさすりながら、如月はそっと、心配そうに話しかけた。島村は促されるままに肩を上下させ、震える息をゆっくりと吐き出す。かすかに乱れていた呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 コーチを吹き飛ばしたもの――それは英二の十八番。かつてIWAのリングで数々の強敵を沈めてきた、低空から放たれる必殺のドロップキック。通常は相手の膝を正確に打ち抜き、動きを止めるための技だが、今回はためらいなくコーチの顔面に叩き込まれた。


 如月の身体を通じて、英二の本能が静かに、しかし確実に牙を剥いた瞬間だった。無駄のない助走、鋭く跳ねる身体、迷いのない軌道——技のすべてに、かつてリングで命を削って戦った男の記憶と闘志が宿っていた。


 倒れたコーチは鼻血を滲ませ、道場の隅でうめきながら転げ回っていた。顔にはシューズの本底の跡が無惨に刻まれ、赤黒い線が皮膚を裂くように浮かんでいる。本来なら素足であるはずの畳の上で、わざわざシューズを履き直し、そのまま踏みつけた。


 ――そうでなければ、この鮮烈すぎる痕跡は残らない。


 意図的な悪意。訓練の一環ではなく、明確な暴力。場の空気は凍りつき、誰もがその光景から目を逸らせずにいた。


「……ありがとう、如月さん……」


 島村のかすれた声に、如月は静かに微笑んで応える。その表情には、張りつめていた緊張の余韻よりも、むしろ安堵の色が濃く浮かんでいた。


 それを見た道場の他の選手たちも、緊張で張り詰めていた表情をようやく緩め、しだいに顔をほころばせていく。どこか吹っ切れたように、あちこちからクスクスと笑い声が漏れ始めた。


「如月ぃ! テメェ何してくれてんだコノヤロウ!」


 怒鳴り声とともに、コーチが勢いよく立ち上がる。顔を真っ赤に染め、目を血走らせ、拳をぶるぶると震わせながら如月に詰め寄ろうとする——が、その顔面には見事なまでにシューズの裏の跡がクッキリと刻まれていた。


 誰かが噴き出す。次いで、こらえきれなかった者たちが吹き出し、やがて笑いの波が道場全体を包み込んでいく。


「テメェら何笑ってやがる!」


 下品な怒声が飛び散った空気を切り裂くが、もはやその怒りすら滑稽に聞こえる。場の空気が完全に変わっていた。


 如月が一歩、ゆっくりと前へ出る。その動きだけで、笑いはぴたりと止まり、視線が如月に集中する。


「おいオッサン、凄むんなら俺だけにしてくれや。もう十分だろ」


 その声は静かだったが、内に秘めた怒気がはっきりと感じられた。睨みつけるでもなく、淡々とした口調が逆に重く響く。声を荒げるわけでも、拳を振り上げるわけでもない。ただ、その一言に込められた感情が、周囲の空気をじわじわと圧迫していく。


 如月の表情は終始変わらない。目も細めず、眉1つ動かさないまま、コーチを正面から見据えていた。それなのに、体格では1回り以上大きいはずのコーチを前にしても、如月の立つ姿からは得体の知れない威圧感が放たれていた。


 怒りを露わにしないぶん、逆に恐ろしい。どこまで本気なのか、その一歩がどこへ向かうのか、誰にも読めない。その沈黙すら武器にしているかのような立ち姿に、コーチの顔からほんの一瞬、血の気が引いた。


 だが、それを悟られまいとするかのように、コーチは肩をいからせ、今度は如月を睨みつける。


「テメェ!コーチの俺に対していい度胸だな、殺されてぇのか!」


 怒鳴りながら、如月の胸ぐらを乱暴につかみ上げる。しかし、如月の表情に動揺はなかった。むしろ、どこか懐かしさすら感じさせるような落ち着きぶりで、コーチの目を真正面から捉える。


 しばらく無言のまま見つめ返し、やがて口を開いた。


「上等だよ。じゃあお前に見せてやるよ、本物の“怖いプロレス”ってやつを」


 その言葉には、余裕と自信、そして獲物を追い詰める捕食者のような静かな圧が込められていた。


 次の瞬間、道場から音が消えた。誰もが息を止め、わずかな衣擦れさえ耳につく。汗の匂いと畳の青い香りが、重く澱んだ空気に溶けている。二人の間に漂う熱が、じりじりと肌を焦がすように広がっていく。視線がぶつかり合うたび、空気がきしむ。


 目と目がぶつかるその瞬間——戦いの火蓋は確かに切って落とされた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ