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第39話:朝のざわめき、廊下の緊張

 目覚まし時計のアラーム音が、甲高く部屋中に響き渡る。


 如月はまぶたを押し上げるようにして目を覚ました。ぼんやりとした視界の中で、すぐ隣に横たわるカナレの姿が飛び込んでくる。彼女は両腕をがっちりと絡め、まるで抱き枕のように如月にしがみついたまま、安らかな寝息を立てていた。


「おい……朝だぞ。起きろ……」


 声をかけても反応はない。けたたましいアラーム音が耳をつんざくのに、カナレは頬をすり寄せるばかりで夢の中から帰ってこようとしなかった。


 如月は渋い顔で彼女の腕をそっとほどき、もがくようにして自由になると、枕元の時計に手を伸ばす。ボタンを押すと同時に、甲高い音がようやく途切れた。


 だが静寂が戻っても、当の本人はぐっすり眠ったまま。


「お~い、起きろ~。もう朝だぞ!」


 今度はカナレの肩を両手で掴み、思い切り揺さぶった。シーツが音を立て、乱れた髪がふわりと跳ねる。


「ンッ?……」


 うめき声と共に、ようやくカナレが片目を開いた。


 眠気に曇った瞳が如月をぼんやりと映すが、その光はすぐに薄れ、まぶたは鉛のように重く閉じかけていく。


「おい……二度寝するんじゃないよ。もう朝の6時だぞ」


 如月が低く釘を刺すように言うと、カナレはようやくまぶたを持ち上げた。潤んだ瞳がとろりと如月を映し、数秒の間を置いてから、気だるげに口が動く。


「……おはよう……如月っち……」


 その声は、普段の快活な調子とはまるで別人のように力なく、寝起きの余韻を引きずるだけの挨拶だった。


 如月は肩をすくめつつも、彼女を起こしながら自分の身支度を始める。歯を磨き、顔を洗い、いつもの動作をこなしているうちに、ようやくカナレも布団の世界から這い出してきた。


「……ふあぁ~、よく眠れたぁ」


 大きな欠伸をひとつ。上半身をぐらぐら揺らしながら伸びをすると、寝癖で跳ねた髪が乱雑に揺れ、まだ半分夢の中にいるようだった。


 カナレは気だるそうに如月のベッドから腰を上げると、ふらつく足取りで自分のクローゼットへ。


 扉を開けると、目を細めながら中を探り、ようやく着替えを取り出した。


 如月もパジャマを脱ぎ、カーテンレールにかけてある練習着に袖を通す。


 だが、手が止まった。胸元に視線を落とし、ほんの一瞬、深い溜息をつく。


(……このブラジャー、どうもなれないんだよな)


 布地の感触や締め付けを思い出すだけで、気分が重くなる。できればつけたくない。


 ――しかし、逃げ道はなかった。頭の隅には、皇の鋭い眼差しがよみがえる。


 そう、あの「お泊まり会」の夜のことだ。些細な雑談の中で、ブラジャーをつけて寝るかどうかという、どうでもいいような話題になった。如月は何気なく、「俺は普段からつけていない」と正直に答えてしまったのだ。


 その瞬間、皇の目が光った。


『ブラはただの下着じゃない。自分の形を大切にする、小さな努力の証なんだよ』


 語気は冗談めいていなかった。むしろ宣告に近い響きがあり、如月は思わず背筋を正してしまったほどだ。


 その日以来、皇はことあるごとに「今日はちゃんとつけてる?」と確認してくるようになった。まるで監視官のように。


(……めんどくせえな……でも付けないと、後で何されるかわかったもんじゃない……)


 想像するだけで背中に冷や汗が流れ、如月は渋々ブラジャーを手に取った。


 そう考えながら、如月は渋々ブラジャーを手に取り、肩紐を通して胸元で留める。慣れない指先がもたつき、金具が小さな音を立ててかちりと閉じると、ようやく装着は完了した。


 だが、胸元を包み込む感触はどうにも落ち着かない。布がしっかりとフィットしているはずなのに、圧迫されるような違和感が常につきまとい、息をひとつ吸うだけで窮屈さが際立つ。肩紐が肌に食い込み、微妙な張りが筋肉に引っかかっているようだった。


(……大胸筋が発達したらどうするんだろうか?そのうち破けたりするんじゃ……)


 男らしい疑問が頭をよぎり、思わず苦笑する。それでもジャージの上を羽織り、ファスナーを上げると、布越しに押さえ込まれた胸元がさらにきゅっと締まる感覚がした。


 最低限の荷物や私物をまとめながら、如月はふと昨夜のことを思い返す。


(……それにしても昨日はよく眠れたな。カナレに抱き着かれながら寝たからか?)


 普段なら夜中に何度も目が覚め、浅い眠りを繰り返すのが常だった。


 しかし昨日は違った。絡みつくようなカナレの体温に包まれ、まるで重たい毛布に守られているかのように、一度も途切れぬ深い眠りに落ちたのだ。


 夢さえ見なかったほどの、久しぶりの安眠――その余韻が、まだ体の奥に残っている。まぶたの裏に残る心地よい重みが、まるで彼女の温もりを今も感じさせるかのようだった。


 それに、思い返せばカナレが言っていた通り、抱き着かれているときは彼女のいびきがぴたりと止んでいた。


 あの静けさが眠りを妨げなかったことも、安眠の一因だったのかもしれない――と如月はぼんやり考える。


 横で着替えようとするカナレに、如月はわざと軽い口調で声をかけた。


「シャワーでも浴びてきたら?」


 できる限り別の空間に移動させようという意図を悟らせぬよう、自然な提案を装う。


 カナレは欠伸混じりに「はぁ~い」と気の抜けた返事をし、乱れた髪をかき上げながらのそりと立ち上がった。そのまま風呂場のドアノブに手をかけ、ためらいもなく扉を開けて中へ入っていく。


 如月はその背中に向けて「着替え!」と短く声をかけ、一式を放るように渡した。カナレは「ありがとー」と間の抜けた返事をしながら、受け取った衣服を抱えてドアを閉める。


 部屋が静かになると、如月は自分の着替えを整え、荷物をまとめ終えた。そろそろ先に出て行こうかと――そう思った矢先、風呂場の奥からカナレの声が反響してきた。


「如月っち!一人で行くな!私と一緒に行くの!」


 ドア越しに反響する声は、どこか駄々をこねる子供のように響き、如月は苦笑混じりに気のない返事を返した。


「わかったよ……外で待ってる」


 そう言い残して部屋を出る。


 廊下に一歩踏み出すと、すでに何人かの選手が準備を終え、リラックスした様子でたむろしていた。遠征前の控え室のような空気が漂い、ジャージ姿の背中が行き交う。


 如月の姿に気づくと、数人がぱっと笑顔になり声をかけてくる。


「おはよう!如月!」


「おはよう、ハニー!」


 軽口混じりの挨拶に、如月は肩をすくめて「おはよう」と応じ、壁際に寄りかかる。まだカナレが来るまでには時間がありそうだ、と腹を括る。


 そのとき、隣室のドアノブが回り、がちゃりと音を立てて開いた。中から姿を現したのは島村と望月だった。


 島村は如月に気づくや否や、背筋を伸ばして深々と頭を下げる。


「おはようございます!如月さん!」


 その声は朝から張りがあり、律儀さがにじみ出ている。


 一方の望月は、片手で口を覆いながら大きなあくびを噛み殺し、もう片方の手をひらひらと上げて気の抜けた調子で言った。


「……おはよー」


 その様子に如月は眉をひそめ、軽口を飛ばす。


「まったく、年頃の女があくびしながら挨拶してんじゃないよ」


 すると望月は舌をぺろりと出して、むっとした顔で言い返す。


「うるさい!おじじ!」


 たちまち、いつものように火花の散る言い合いが始まった。互いに譲らず応酬を続ける二人。だがその横で、島村は止めに入るでもなく、目を細めて楽しそうに二人を眺めている。――まるで毎朝繰り返される儀式を微笑ましく観察するかのように。


 そんな折、廊下の奥から澄んだ声が響いた。


「如月!」


 呼びかけに振り向くと、そこに立っていたのは楓と正美だった。


 凛とした立ち姿の楓と、少し彼女の後ろに隠れるように並ぶ正美。二人の姿が現れた瞬間、廊下の空気が一段ピンと引き締まった気がした。


 島村と望月はすぐさま姿勢を正し、声をそろえて元気よく言う。


「おはようございます!」


 先ほど如月に挨拶した選手たちも釣られるように、口々に「おはようございます!」と頭を下げた。


 如月は皆ほど改まらず、いつもの調子で短く返す。


「おはよう」


 それに対して楓はにこやかに微笑み、落ち着いた声で答えた。


「おはよう。みんな――如月も、おはよう」


 その横で、正美が小さな声をもらした。


「……おはよう……」


 あまりにか細い声で、風のざわめきに紛れてしまいそうなほどだった。


「声小っさ!」


 如月が容赦なく突っ込むと、正美はぱっと顔を赤くして俯いてしまった。


 白い首筋から耳の先まで一気に染まり、視線を落としたまま指先をもじもじと握りしめる。その様子に、周囲の空気がふっと和らいだ。


「おいおい、そんなに正美をいじめないでよ。こう見えて結構繊細なんだ」


 楓がやんわりとたしなめる。


 ――見たままだろ、と如月は心の中で毒づいたが、口に出すことはなく肩をすくめて流した。


 そのとき、不意に肘で二の腕を小突かれる。望月が露骨にツンツンと突きながら、頬を膨らませるようにじっと如月を見上げていた。普段の彼女らしくない、妙に絡む態度に如月は目を細める。


(……どうしたんだ、朝から機嫌悪いのか?)


 不思議に思っていると、横で島村が小声で説明を添えた。


「望月さん、楓さんの大ファンなんですよね」


 その言葉に、望月は弾かれたように顔を真っ赤に染め、慌ててうつむいてしまった。耳まで熱を帯び、さっきの正美以上に分かりやすい反応だ。


 楓はそんな望月に気づき、柔らかく笑みを浮かべて歩み寄る。


「そうだったのかい!ありがとう麻子……」


 楓は囁くような声でそう告げると、ためらいなく望月の肩を抱き寄せ、そのまま胸の中に包み込んだ。


 抱き締められた瞬間、望月の身体からは一気に力が抜ける。頬は真っ赤に染まり、膝がかすかに震え、呼吸さえ忘れてしまったかのようだった。


 次の瞬間、彼女は喜びのあまり耐え切れず、その場にぺたりと座り込んでしまう。


「……」


 正美が慌てて声を上げることなく、過度なスキンシップを咎めるように楓の袖を引いた。


 だが楓は悪びれもせず、まるで妹をあやす姉のように望月の頭を軽く撫でている。

如月はそんな望月に手を差し伸べた。


「ほら、立てるか」


 望月は小さく頷き、その手を取って立ち上がる。顔を真っ赤にしたまま、震える声でぽつりと呟いた。


「……ありがとう」


 あまりにもか細い声で、かすかな吐息に紛れてしまいそうだった。如月は思わず片眉を上げ、心の中で毒づく。


(……小声祭りかよ)


 柔らかな笑いが周囲に広がり、しばし穏やかな空気が流れる。だが、その空気を断ち切るように、楓が一歩前へ踏み込んだ。


 にこりと微笑む口元とは裏腹に、瞳の奥には冷ややかな光が宿っている。笑顔の皮をかぶった刃――そんな緊張感が漂った。


「最近、如月は皇とばかりスパーしてたよね。今日は私たち二人とやってみない?」


 口調は淡々としている。だがその視線は、獲物を追う肉食獣のそれでもなく、冷静に値踏みをする鑑定士のようでもなく――ただ如月という存在を見極めようとする、研ぎ澄まされた光を放っていた。


 周囲の選手たちは息をのんだ。


 廊下に漂っていたざわめきは嘘のように消え、空気が凍りついたかのように静まり返る。誰もが軽々しく声を挟めず、ただ場の行方を固唾をのんで見守っている。


 島村は目を丸くし、望月は唇を噛みしめたまま身じろぎもせずに立ち尽くしていた。二人の視線は如月と楓のあいだに釘付けとなり、わずかな言葉すら落とせない。


 そんな緊張をまるで意に介さぬように、如月は肩をすくめてみせた。

 吐息とともに投げられた言葉は、あまりにも軽やかで、逆に重さを帯びて響く。


「じゃあ、よろしく」


 その平然とした一言が落ちた瞬間、張り詰めた空気が揺らぎ、見えない波紋が広がった。


 周りにいる選手たちも、島村と望月は、息をひそめたまま――ただ次の展開を待つしかなかった。


 その静寂を破るように、如月の部屋のドアが勢いよく開かれる。


 バタン、と派手な音を立てて飛び出してきたのはカナレだった。髪を後ろでまとめきれずに跳ねさせたまま、元気いっぱいの足取りで廊下に現れる。


 だが、すぐに楓の姿を認めると、表情が一変した。眉をひそめ、露骨に顔をしかめて声を上げる。


「うわ、楓さん……」


 冷ややかな空気を纏ったその反応に、廊下の空気が再び張り詰める。


 楓は一瞬だけ言葉を飲み込むように唇を結び、それから悲しげに目を伏せてカナレに歩み寄った。


「ねぇ、カナレ。私、あなたに何か悪いことした?最近、私や正美のこと避けてない?」


 声は責めるような調子ではなく、押し殺した寂しさがにじんでいた。


 どうやら今回、彼女がこの場に現れたのも――カナレと一緒に本道場へ向かうためだったようだ。


 カナレは楓のさびしそうな顔を見た途端、はっとして表情を変える。


「そんなことない!」


 声が裏返るほどの勢いで否定した。その慌てぶりには虚勢ではなく、相手を傷つけたくない一心がにじみ出ている。


 楓はそんなカナレの必死さを見て、わずかに唇をゆるめた。それでも微笑みは短く、瞳に残る影までは消えなかった。


「……スパーをして以来、なんだか私たちを避けているような気がして。ずっと気になってたんだよ」


 静かな声に宿るのは、責め立てる響きではなく、長く胸の奥に溜め込んできた寂しさだった。


 その切実さに、カナレは言葉を詰まらせ、落ち着きなく視線を泳がせる。どうしていいのかわからず、最後には助けを求めるように如月の方を振り返った。


 ――なぜこっちに振るんだよ、という顔をした如月は、渋々と口を開き、場をつなぐように言った。


「そうだ、カナレ。楓さん達が俺とスパーをしたいらしいんだよ。お前の参考になるかもな。見て損はないぞ」


 言い回しは何気なさを装っていたが、その響きはどう聞いても挑発めいていた。


 その瞬間、楓の瞳がきらりと鋭く光を帯びる。


「……面白いことを言うじゃないか」


 口元には笑みが浮かんでいる。しかし声色には冷ややかな棘が含まれていた。


「まるで私達が君に挑戦するような言い草だね」


 廊下の空気が一層張り詰める。いくら同じ屋根の下で暮らす仲間であっても、ひとたび戦いとなれば一切の容赦を捨て去る――それがQueenBeeの流儀だった。


 如月は微動だにせず、楓と、その背後に控える正美へと視線を向ける。嘲りや挑戦ではない。ただ冷静に対象を観察するような目つき。その無表情の奥底に、二人の力量を量ろうとする鋭さが潜んでいた。

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