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第38話:最強タッグの影

 午後11時。窓の向こうに見える反対側の棟は、ほとんどの部屋の明かりがすでに落ちていた。夜の静けさを背景に、如月は自分のベッドの上で胡坐をかき、外の景色をぼんやりと眺めている。


 部屋に戻るなり、シャワーで汗を流し、洗濯物を片付けてようやく一息。湯気の残る髪をタオルで拭きながら、ふと窓に目を向けると、暗がりの中でわずかに灯る光が小さな島のように点在している。


 その静かな光景が、今日一日の喧騒と対照的で、どこか心を落ち着かせてくれるのだった。


 すぐ隣にはパジャマ姿のカナレが机に向かって日課の日記をつけている。


 性格に似合わず意外と几帳面だと驚く如月だが、最初この部屋に入った時、整頓された衣服や私物などを見ていたので、その性格もうなづける。


 しかし、初見でそれがカナレと気づく人間はいないだろうな、と如月は思った。


 如月は少し興味が出たのでカナレの近くに行き、声をかけた。


「何をそんなに一生懸命書いてるんだ?」


 問いかけに、カナレはペンを走らせたまま振り返り、にこりと笑って答える。


「これは私のトレーニングの記録日記だ!」


 その声音にはどこか誇らしげな響きがあった。


 どうやら、一日の終わりに欠かさず、その日の練習メニューや体調の変化、気づいたことを細かく書き込んでいるらしい。


 ページの端には小さな付箋や印がいくつも貼られ、インクの色もさまざまに変わっている。青や黒のボールペンに混じって、赤字で大きく書かれた「反省点」や「次回への課題」まである。練習の手応えが強かったのか、力強く何度も書き直した跡まで残っていた。


 しかし、字は決してうまいとは言えなかった。勢いだけで書き殴られた文字は、かなくぎ流の走り書き。本人にしか判別できないであろう独特の字形で、傍から見ればただの暗号のようだ。


 よく見ると、その分厚い日記帳は革風の表紙が擦り切れ、角は丸くつぶれ、背表紙には幾筋もの折れ目が走っていた。何度も開閉され、汗ばんだ指でめくられた跡が、紙の端に黒ずんだ痕跡を残している。


 紙自体もすっかり黄ばんでおり、今にも破れそうなページもある。だがそれは単なる消耗ではなく、カナレが積み重ねてきた年月と、努力の証を刻んだ傷跡でもあった。


 ――もはや日記帳というより、彼女にとっては戦いの記録であり、かけがえのない相棒そのものに見えた。


 如月がそのことを指摘すると、カナレは胸を張って、自信に満ちた声で言った。


「これは私が高校生の初めごろから付けている日記帳なんだ」


 その口ぶりには、単なるノート以上の思い入れが込められているのが伝わる。


 十年分を書き込める特製の日記帳。かつて流行したらしいが、英二の記憶にはまったくない品だった。分厚い革風の表紙に金色の刻印、まるで古い手帳や航海日誌のような佇まいは、市販品というより伝統的な工芸品に近い風格を持っている。


 如月は思案に沈む。


(……こちらの世界にしかないものなのかもな)


 考えてみれば、この世界に存在するものの多くは、自分がいた世界とほとんど変わらない。紙幣や硬貨のデザイン、Queen Beeの協賛企業――看板に並ぶその名は、確かに英二の知るものと同じだった。


 だが、その一方で、こちらにしか存在しないものも確かにある。


 例えばこの日記帳。便利さよりも「記録し続けること」そのものに価値を見出して作られた、時代錯誤のような品。


(……こちらにあって俺の世界にはないもの……それが、この世界の仕組みや“差異”を知る手掛かりになるかもしれない……)


 窓の外に広がる闇を眺めながら、如月はひとり静かに考え込んだ。


 そう考え込んでいると、カナレがパタンと日記帳を閉じ、元気いっぱいの声を上げた。


「よ~し!今日の日記終了!それじゃ寝るか!」


 その宣言に、如月は条件反射のように肩を震わせた。


 脳裏に蘇るのは、昨夜の惨状――壁を震わせるほどの怪獣じみたいびき。布団をかぶっても容赦なく貫いてくる轟音の記憶である。


 再びあの悪夢に身を投じると思うと、胸の奥が一気に重くなる。


(……まずい、このままじゃ眠れやしない……!)


 如月は一瞬の沈黙ののち、苦し紛れに別の話題を探した。そして、ふと思い出したことを切り出す。


「そうだ!さっきちょっと野暮用で本田社長のところに行ってきたんだ」


 カナレが首を傾げるのを見計らって、如月は声を低め、話の重みを強調するように続けた。


 本田から正式に――楓と正美ペアーとの一戦が決まったこと。そして、その試合が三週間後に行われると告げられたことを伝える。


 その報せを聞いたカナレは、いつものように胸を張って笑うでもなく、拳を打ち鳴らすでもなく、表情を曇らせた。威勢のいい態度は影を潜め、浮かない色が顔に滲む。


 普段の彼女なら「誰の挑戦でも受ける!」と即答し、無鉄砲な自信で周囲をハラハラさせるはずだ。


 だが、今のカナレからはその勢いが消えていた。


 そのギャップに如月は小さく眉をひそめる。


「なあ、今日の練習中もそうだったけど……やけにあの二人に対して反応がよくないな。もしかして気後れしてんのか?」


 問いかけは軽い調子を装っていたが、如月の瞳は真剣だった。


 しかし、カナレは答えずに、膝の上で組んだ両手を見つめ、うつむいたまま動かない。


 室内には、壁掛け時計の針が刻む音だけが響いた。普段なら騒がしいほどの存在感を放つカナレが、押し黙ったまま時間を止めたように見える。


 無言の時間が数秒続いた後、カナレがぽつりと口を開いた。


「あの二人は……Queen Beeで最強のタッグ。今まで負け知らずで、十連勝中なんだ」


 その声色はいつもの張りのあるものではなく、どこか力が抜けていた。


 如月は腑に落ちなさそうに眉をひそめる。――いつものカナレなら、その程度の実績など意にも介さず、持ち前のパワーと根拠のない自信で前へ突き進んでいくはずだ。


「……何か、引っかかることがあるのか?」


 そう尋ねると、カナレは一瞬だけ如月の顔を見上げた。しかしすぐに視線を落とし、机の端をじっと見つめたまま、淡々と話し出す。


「私がここに来た初日……あの二人とスパーリングしたんだけど、どうもかみ合わないんだよな……」


 吐き出すようなその言葉には、普段の豪胆さとは違う影が差していた。


 聞けば、カナレはそれ以来、ことあるごとに二人へスパーリングを申し込み、何度も挑戦してきたらしい。力任せだけでなく、投げや崩し、フェイントも混ぜて戦術を変え、工夫もした。


 だが――結果は一度も勝利を掴むことができなかった。


 勝負が終わるたびに、何か大きな壁に正面からぶつかったような徒労感だけが残った――とカナレは苦い顔で語った。


「なんだか……よくわかんないんだけどさ。私のギフトの力が……こう、手のひらから砂がこぼれ落ちるみたいに、うまく使いこなせないんだよな……」


 声は小さく、言葉を探しながら搾り出すようだった。あの剛腕を誇るカナレが、力を信じられないと言う。それ自体が異常事態に聞こえた。


 如月はその言葉を受け、眉を寄せて深く考え込む。


 ただの不調――そう片づけるにはあまりに不自然だ。彼女の肉体は安定して仕上がっているし、練習量も十分。


 それでも「力が抜ける感覚」に苛まれるのなら……。


(……もしかしたら、それは――あの二人のどちらかが持つギフトの能力による効果じゃないのか?)


 胸の奥で、はっきりとした警鐘が鳴った。フェイバリットギフト。個々人が唯一無二に持つ固有の力。時に常識を覆し、相手の強みを根こそぎ奪う異能。


 カナレの感覚は、まさに「力そのものを奪われる」類のものに聞こえた。そして、カナレ自身もその背景にギフトの力が介在していると理解しているようだった。


 この世界に来て、フェイバリットギフトという固有の能力について如月は自分なりに考えてきた。自身のギフト・神眼、カナレの剛腕、そして皇の胡蝶蘭。


 すべてが同じカテゴリー内での派生ではなく、その能力は十人十色、様々な形を取る。そして、ギフターは己の能力を生かしきるために、自分の能力とそのデメリットを隠すだけでなく、うまく利用しようとしている。


 ギフトの基本的な概念を理解した者が制する世界――それこそ如月が導き出した現状における答えだった。


 そして如月は、思考を整理するように息を整え、カナレに尋ねる。


「二人との対戦の時……どちらが相手で、その傾向が強かった?」


 カナレは腕を組み、う~んとうなりながら天井を見上げた。記憶を掘り起こそうとするものの、表情には迷いが浮かぶ。やがて肩を落とし、力なく答えた。


「両方だったよ。どちらの時も……いつもの半分以下の力しか出せなかった……」


 その声音には悔しさよりも戸惑いが滲んでいる。


 如月は顎に手を当て、さらに問いを重ねた。声は探るように低い。


「それは、どんな状況の時だった?相手に掴まれたときだけか?それとも……リングにいる間ずっと、力が抜けていったのか?」


 探偵が証言を洗い直すかのように、一つひとつ条件を絞り込んでいく。如月の眼差しに押され、カナレは記憶の糸をたぐり寄せようと、眉間にしわを寄せた。


 カナレはまた難しい顔をしながら、記憶をたぐるように視線を泳がせた。しばらく黙り込んだあと、ふと何かに思い当たったように口を開く。


「そういえば……掴まれてるときに、力が……体の奥から抜けていくような感じだった」


 その言葉は、自分でも信じがたい現象を説明するかのように頼りなく揺れていた。


 握られた瞬間に筋肉が緩む――まるで、見えない何かに力を吸い取られていくような不快な感覚。カナレの声には、その記憶が蘇ったかのようなかすかな震えが混じっていた。


 如月は眉を寄せ、すぐに頭の中で組み立てる。


 これはただの相性や技術の差ではない。カナレの剛腕そのものを削ぐ力――間違いなく、どちらかのギフトが関わっている。


(……手掛かりは出た。少なくとも、“力が奪われる条件”はある)


 そう確信すると、如月は静かに息を吐き、落ち着いた声でカナレに告げた。


「よし!とりあえず現状での予測材料はそろったってことだ。これなら……何とかなりそうだ」


 その言葉には根拠以上の力強さがこもっていた。頼もしさを滲ませる響きに、カナレはぱっと顔を上げる。


 次の瞬間、弾かれたようにベッドから飛び上がり、勢いのまま如月の目の前まで詰め寄ってきた。


「本当か!?あの二人相手でも……ギフトの力を使えるのか!?」


 目を大きく見開き、頬を紅潮させながら期待に満ちた表情。声には子供のような無邪気さと、戦士としての渇望が入り混じっている。


 その迫力に思わずたじろぎながらも、如月は苦笑を浮かべ、静かにうなずいた。


 次の瞬間、カナレは歓喜のあまり飛びつくように如月に抱き着いた。


「さすがは私のパートナーだ!」


 豪快に腕を回され、ぐいと胸に引き寄せられる。確かに鍛え抜かれた筋肉の硬さはあるが、それだけではない。引き寄せられた瞬間、しなやかなラインに包まれるような豊満な柔らかさが全身に伝わってきた。


 女性ならではの温もりと力強さが同居し、如月は息が詰まりそうになると同時に、どうにも意識のやり場に困ってしまった。


「お、おいっ……!」


 慌てふためきながらも必死にその腕をこじ開け、ようやく距離を取った如月の顔は真っ赤になっていた。


「言っておくけど、まだ相手のギフトの鱗片だけを理解できたかもしれないってことだからな!」


 そう言って、如月はカナレを落ち着かせた。


 視線を上げると、壁掛け時計の針は午前0時を指している。秒針の刻む音がやけに鮮明に響き、夜の静けさを強調していた。


 「明日も早朝練習があるから、そろそろ寝るか!」とカナレが元気に布団へ潜り込む。


 だが如月の胸に去来したのは安堵ではなく、重いため息だった。


 ――これから始まるであろう悪夢を、思い出してしまったのだ。


 カナレのいびき。


 昨夜は壁を震わせ、布団をかぶっても容赦なく突き抜け、夢の世界から何度も叩き落としてきた。


 その恐怖を思い出しながら、如月はポケットから小さなパッケージを取り出す。Queen Beeの施設内にあるコンビニで買ってきた耳栓だ。


 包装を破り、左右の耳にねじ込んでみる。柔らかなスポンジがじわりと膨らみ、外の音を薄い膜のように遠ざけていく。


(……なるほど、確かに少しは静かになるな)


 だが同時に、不安も頭をもたげる。昨夜の轟音を思い返すと、この程度で防ぎきれるとは到底思えなかった。


 怪獣の咆哮の前では、耳栓などただの小石同然。しかも同じ部屋、すぐ隣のベッド。遮るものなどほとんどなく、直撃を受ける環境である。


 如月は耳を覆いながら、心の奥で冷や汗を流した。


(……やっぱり心もとないな……)


 耳栓をしてもなお、脳裏には昨夜の轟音が蘇る。壁が震え、布団を貫き、夢の底から何度も叩き落としてきた怪獣じみたいびき。――あれをまた浴びるのかと思うと、背筋が冷たくなる。


 如月は頭を抱え、唇を結ぶ。


(……完全に不可能だ。熟睡なんて望めない……)


 何度も考え直した末に、苦渋の決断を下す。


(……仕方がない……できるだけ小刻みに寝て、断続的に体を休めるしかない……)


 その覚悟は、まるで戦地に赴く兵士のそれのように重苦しかった。


 沈黙を破ったのは、隣のベッドからの声だった。布団の中でごろりと寝返りを打ったカナレが、振り向きざまに悪戯っぽい目を向けてくる。


「如月っち、やっぱり私のいびきがうるさくて眠れないのか?」


 図星を突かれ、如月は気まずそうに視線を逸らし、わずかにうなずいた。否定しようにも顔に出てしまうのは自分でも分かっている。


 カナレはそれを見て、にこりと勝ち誇ったように笑う。口元だけでなく瞳まで楽しげに細めて。


「だったらいい方法があるぞ!」


 声の調子には、悪ふざけとも本気とも取れる妙な自信がこもっていた。


 その言葉の直後、布団を蹴って自分のベッドから抜け出すと、ためらいもなく如月のベッドへ潜り込んできた。


「なっ……何やってんだお前!」


 慌てふためく如月の声をよそに、カナレはあっけらかんと答える。


「私な、昔から誰かに抱き着いて寝るといびきをかかないんだよ」


 言うが早いか、ぐいっと如月に腕を回し、豊かな体をそのまま預けてきた。柔らかさと温もりが一気に押し寄せ、如月の全身を包み込む。


「お、おい、離れろって……!」


 抵抗する間もなく、カナレはまるで瞬間芸のように五秒もしないうちに寝息を立て始めた。


「……おやすみ……Zzz」


 その寝顔は驚くほど安らかで、さっきまでの豪快な言動が嘘のようだった。


 結果的に如月は抱き枕のように抱きしめられる形となり、身動きが取れない。


「……こんなんじゃ余計に眠れないだろ……」


 ぼやきながらも、ぴたりと寄り添う体温がじんわりと伝わってくる。筋肉の下に隠れた柔らかさ、落ち着いた寝息のリズム――それらが次第に如月の緊張を解きほぐしていった。


 柔らかな感触とぬくもりは、逆らえない重力のように眠気を引き寄せる。まぶたが重くなり、視界がゆっくりと暗く沈んでいく。


 ――そして如月もまた、カナレの安らかな寝息に誘われるように、静かに深い眠りへと落ちていった。

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