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第37話:ルームメイト

 慌ただしくも熱気に満ちた一日が、ようやく幕を下ろそうとしていた。


 食堂で腹いっぱい夕食をかき込み、笑い合いながら皿を片付けた如月たちは、割り当てられた本館の宿舎へと向かう。


 広いロビーを抜け、いつもの四名――如月、カナレ、望月、SAKEBI――は並んでエレベーターに乗り込んだ。


 ボタンが押され、軽やかな電子音とともに扉が閉まる。やがて床がわずかに震え、密閉された空間が滑らかに上昇を始めたとき、如月がぽつりと漏らす。


「すごいよな……エレベーターがあるんだぜ」


 一瞬の沈黙。次いで、くすくすと笑い声が広がる。


「……そんなことで感心するなんて、子供みたい」


 望月が呆れ顔で首を振り、カナレも肩を揺らして笑った。SAKEBIまでも、口元を押さえて苦笑いを浮かべる。


 如月は耳まで赤くなり、むすっと口を閉ざした。


 ――元の世界の感覚が、つい顔を出してしまう。


 英二がいた世界では、選手寮といえば古びた木造や簡素な鉄筋コンクリートの建物で、共同の風呂とトイレがある程度。


 上下移動といえば急な階段で、洗濯機の争奪戦すら日常だった。設備の整備など夢のまた夢で、そこで暮らすこと自体が修行の一環のように扱われていた。


 だが、目の前にある本館の宿舎は違う。高級ホテルのような照明に整然とした廊下、そして何よりもスムーズに上下階を行き来できるエレベーターが備え付けられている。


 これが日常だと言わんばかりの空間に立つと、如月はどうしても感嘆の声を押し殺せなかった。


 話題はいつしか、食堂の料理へ移る。


「あとさ……あの料理、全部“培養肉”だって聞いた時はさすがにびびった」


 如月は箸を思い出すように指で持ち上げ、夕食の光景を振り返る。


 ジューシーなハンバーグ、脂の乗った焼き魚、ほろほろとほどける唐揚げ――。


 どれも目や舌にも“本物”としか思えなかった。だが聞けば、それらはすべて培養槽から生まれた肉や魚だという。


「味、食感も、本物としか思えなかったのに……」


 自分の世界で“人工肉”といえば、パサついた代替食のイメージしかなかった。如月には信じられない進歩だった。


 だが、仲間たちはきょとんとした顔を見合わせる。


「え、当たり前でしょ?」


「今さら何言ってんスか」


 如月の驚きは、この世界では笑い話にしかならなかった。


 如月の目はどこか疑わしげだ。牛、豚、鶏、さらには魚介類に至るまで――すべてが培養によって作られた人工肉。信じがたい話だが、この世界では常識だった。


「ねぇ……あんたってさ、時々ほんっとにわけわかんないこと言うよね?」


 望月がじろりと睨むと、如月は言葉を失い、返答に窮して目を泳がせた。


 二十一世紀半ば、世界政府が制定した国際規範――ナンディン条約。


 畜産によって命を奪われる動物を救うため、すべての動物性たんぱく質は培養肉に置き換えられた。その名は聖牛ナンディンに由来し、人と動物が犠牲なく共存する世界の象徴とされた。


 当初は動物を丸ごとクローン化して食肉にする案もあったが、「命ある存在を複製し殺すのは倫理に反する」と退けられ、研究は「必要な部位だけを培養する」方式へと転じた。牛の筋肉や魚の切り身を臓器単位で育てる技術である。


 これを支えたのが、量子コンピューター〈Richter〉を開発した巨大企業ジェネシスだ。遺伝子情報の解析と増殖を最適化し、理論上あらゆる生物を無限に再生産できる仕組みを提供した。ジェネシスは食料と医療の両面を掌握し、世界経済にまで影響を及ぼす存在となった。


 環境負荷は劇的に減り、飢餓地域にも食料が行き渡ったが、牧畜や漁業に根ざした共同体は文化と職を失った。料理人は培養肉をいかに本物に近づけられるかを競い、“培養の名匠”が三つ星シェフに並ぶ時代となる。


 「命を奪わずとも人は生きられる」という理念は教育に組み込まれ、屠殺映像は残虐表現として規制されるに至った。


 ――そんな世界の当たり前を、如月は知らない。


 如月にとって肉や魚は“生きた存在を食べるもの”であり、こちらの価値観こそが奇妙に映るのだった。


 そうこうしているうちに、エレベーターが到着。チン、と軽やかな音が鳴った瞬間、如月は待ってましたとばかりに飛び出した。


「それじゃ!」


 手をひらひら振りながら、そそくさと自室のある方へ小走りで駆けていく。その背中は、試合の時の堂々たる姿とはまるで別人で、どこか逃げ腰の子供のようだった。


「ちゃんと歯を磨きなよ!」


 望月が釈然としない顔で声をかける。母親の小言のような響きに、廊下の向こうで振り返った如月は、気まずそうに片手を挙げて応えるだけだった。


「どうしたんですか、望月さん?」


 首をかしげる島村が、心底不思議そうに尋ねる。望月は一瞬言葉に詰まり、それでも取り繕うように笑みを浮かべると、短く答えた。


「……なんでもない」


 その声はどこか釈然としないまま、島村と並んで如月の消えた廊下の方へ歩き出した。


 SAKEBIは二人とカナレに「おやすみなさいッス」と声をかけ、ひらひらと手を振って反対側の自室へ戻っていった。廊下には、まだかすかに消灯前のざわめきが漂っている。


 如月はカードキーを取り出し、扉横のセンサーにかざす。ピッ、と電子音が鳴り、ロックが外れる音。


「まるでホテルだな、こりゃ……」


 分厚いドア、無機質な電子錠、柔らかな間接照明。寮というより高級宿泊施設のような佇まいに、如月はほんの少し胸を弾ませながら中へ足を踏み入れる。


 だが、その高揚感も束の間――ふと思い出す。


「そういえば、相部屋だったよな?」


 独り占めできると思った空間に、もう一人の気配を意識した瞬間、さっきまでの浮き立つ気分が冷めていくのだった。


 昨日、お泊り会の前に荷物を置いたままの部屋。机の上にはもう一人の雑誌やコップがそのまま残り、ベッド脇にはきちんと畳まれたジャージが置かれていた。そこに確かに“誰かの生活”が息づいている。


「う~ん……いいのかなぁ?」


 如月は悩む。見た目はうら若き女性でも、中身は四十をとうに過ぎたオヤジだ。若い娘と二人きりで同室――そう考えるだけで背筋がむず痒くなり、どうにも落ち着かない。


 考え込んでいると、ふいに背後から気配が走った。空気の揺らぎに思わず肩が跳ねる。


 振り向けば、そこにカナレ。どうやら何のためらいもなく、一緒に部屋へ入ってきたらしい。


「ど、どした?」


 如月が上ずった声で問いかけると、カナレはきょとんと目を丸くして、まるで当然のことのように答えた。


「うん?どうもしないぞ。自分の部屋に帰ってきただけだ」


 思考が一瞬、真っ白になる。如月のルームメイトは――カナレ。


 そして昨日の悪夢が脳裏をよぎった。


『ンッガァァー!』


 壁を震わせるほどの爆音。怪獣の咆哮を思わせるいびき。頭の中でフラッシュバックするのは、眠気と絶望に押し潰された一夜。


 ――怪獣カナゴン。


 その不吉な2つ名が、再び如月の脳裏に蘇る。


「ど、どういうことだよ!俺は聞いてねぇぞ!」


 声が裏返り、抗議というより悲鳴に近かった。


 しかし、カナレは特に悪びれる様子もなく、むしろ当たり前だと言わんばかりに肩をすくめる。その態度も当然だった。


 今朝、カナレと並んで着替え、道場へ向かったのは確かに一緒だったのだから。


 ただ、寝不足気味の如月は夢遊病患者のように朦朧としていて、その記憶すら曖昧になっているにすぎない。


「ここ、前はSAKEBIと一緒だったんだよ」


 カナレは何でもないように言い放つ。


 だが続く説明は如月にとって青天の霹靂だった。


 ――山崎のルームメイトが引退してしまい、空きが出た。そこでSAKEBIが山崎の部屋へ移動し、代わりに如月がこの部屋に割り当てられた。


 簡単な理由だ。筋も通っている。だが、当人にとってはまるで宣告に等しい。


「だから今は、如月っちと自分が同室ってわけさ」


 カナレは笑顔でまとめたが、如月は愕然としたまま言葉を失い、その場で立ち尽くすしかなかった。


 その間に、カナレは当然のように自分のスペースへ行き、躊躇もなくジャージのジッパーを下ろす。


 視線の端に白い肩がのぞく。


「ちょっと!お前何やってるんだ!」


 反射的に叫ぶ如月。驚きと焦りが混じり、声は裏返り気味だった。


「今からシャワーを浴びるの」


 その一言に如月の頭は真っ白になった。


 女子が同じ部屋でいきなり服を脱ぎ始める――中身が四十過ぎのオヤジである自分にとって、そんな状況はあまりに刺激が強すぎる。


「待て、待て、待て、待て!」


 如月はとにかくその場に居られず、反射的にカナレの肩を掴んだ。そのまま半ば押し出すようにシャワー室の方へと誘導する。


 カナレはされるがままに運ばれ、ぽかんとしたまま脱衣所に押し込まれた。


 如月が慌ててドアを閉めようとしたその瞬間、向こう側から無邪気な声が飛んでくる。


「如月っちも一緒に入るか?ここのお風呂、大きいから二人でも余裕だぞ」


 如月の全身が硬直した。顔から火が出そうになる。


「俺はあとから入るから!お前が先に入れ!」


 必死の叫びは、ほとんど狼狽そのものだった。


 そしてドアを閉めると、如月は自分にあてがわれているであろうもう1つのベッドに腰を下ろした。


 スプリングが沈み、柔らかな感触が背中を支える。だが心は少しも休まらない。


 壁の向こうから、シャワーを浴びる音が規則的に響いてくる。


 水流がタイルを叩く音は、ただの生活音にすぎないはずなのに、今の如月には死刑宣告のカウントダウンのように聞こえた。


「このままでは……俺は死んでしまうかもしれない……」


 顔を覆い、呻くように吐き出す。


 いびきの悪夢をもう一度味わうくらいなら、今ここで直談判してでも環境を変えるべきだ――そう思い立った如月は、決意のように立ち上がった。


 廊下に出ると、冷えた空気が頬を打つ。足取りは重いが、気持ちは逸る。心の中で「頼むからわかってくれ」と祈りながら、向かうのは社長室。


 ――社長室。


 扉の前で深呼吸をひとつ。意を決してノックを打ち込む。


 中から落ち着いた声が返ってきた。


「どうぞ」


 静かにドアを開けると、室内には規則的なキーボードの打鍵音が響いていた。


 デスクランプの下、ノートパソコンに向かう本田は背筋をぴんと伸ばし、無駄のない動きで書類の確認と入力を繰り返している。


 湯呑の脇には分厚いファイルが積まれ、卓上は緊張感を帯びた事務空間そのものだった。


 如月は思わず背を丸め、無言で深々と頭を下げる。すぐに声をかける勇気も出ず、ただタイミングを見計らいながら本田の指先の動きを目で追っていた。


 ――この人に直談判なんて、本当にできるのか。喉がひとりでに渇いていく。


 しかし、意外にも先に口を開いたのは本田の方だった。


「どうしたの?」


 顔を上げると、そこには仕事に集中していた時の鋭さとは違う、柔らかな声音の本田がいた。いつもの冷たい響きを持つ事務的な言葉遣いではなく、まるで雑談を始めるかのようなフランクさで――。


 そして如月は本題へと話を進めた。


 カナレとの同室――どうしても耐えられない、と本人に正面からは言えない。


 だから言葉を選び、相手の立場を考慮しながら、なるべく早く別の部屋を、と切り出す。できれば個室が望ましい。無理なら、どんな部屋でもいい。いっそ、以前使っていた仮の部屋でも構わないと、必死に訴えた。


 だが返ってきた答えは、無情な一言だった。


 本田は事務作業の手を止め、手元の湯呑を口へ運ぶ。静かにお茶を含み、一息ついてから淡々と告げる。


「言ったわよね?天道カナレと行動を共にしろって?」


 その言葉に、如月の胸が冷たく締め付けられる。思い出す。あの控室で本田が放った言葉を――。


『如月麗。あなたは天道カナレと行動を共にしなさい』


 耳にこびりついた声が、再び脳裏で反響する。頭を抱え込み、崩れ落ちるようにうずくまる如月。


 しかし本田はそんな様子に目もくれず、湯呑を机に戻すと、何事もなかったかのようにノートパソコンへ向かい、黙々と作業を再開した。


 うずくまったままの如月。そのすぐそばで、キーボードを叩く音が一定のリズムで続いていた。


 本田は視線を上げることもなく、黙々と事務作業を進めている。まるで如月の存在など最初から無いかのように。


 壁の時計に目をやると、短針と長針は八時二十分を指していた。


 夜はまだ長い。だが、このままカナレと同室で過ごす未来を想像するだけで、如月の胃は締め付けられるように痛んだ。


 ――打開策はないのか。必死に頭を巡らせる中、ふと1つの可能性がよぎる。


(……そうだ!神眼だ!これを使えば最善策が……)


 光明を見出したかのように顔を上げかけたその瞬間、冷たい声が空気を裂いた。


「言っておくけど、私用でギフトの力を使うことはご法度だから」


 打ち消すように放たれた一言。如月の胸に灯りかけた希望は、瞬時にかき消された。


 本田の先読みは、やはり如月の上手だった。


 本田は「ほかに用がないなら出ていきなさい」と冷たくあしらう。仕方なく如月は重い足取りでドアへ歩いていくと、本田が呼び止めた。


「そうだ」


 その言葉に望みをかけ、如月は本田の元へと駆け寄る。しかし、それは如月が求めていたような答えではなかった。


「あなたと天道カナレの対戦相手は聞いているわね」


 そう言うと、如月は無言でうなずく。


 本田は特にその仕草を気に留めることもなく、ノートパソコンの画面に目を向けたまま続ける。


「三週間後、あなたたちと十文字楓、宗像正美組との試合が決定したから調整をしておいてね」


 それだけ言い終えると、もう用はないという様子でまた黙々と作業に戻る本田。


 如月は一縷の望みもなくなり、重い足取りで部屋へ戻っていった。


 ゆっくりと自室へと戻るなか、想像していたのは楓と正美の試合のことではなく、部屋に戻れば待ち受ける怪獣のことだけで頭がいっぱいだった。


「おうちに帰りたい……」


 如月は、涙がこぼれそうなほど悲しい目をしながら歩き、気がつけば自室のドアの前に立っていた。


 無表情のままカードを扉のセンサー部へかざす。ピッという電子音、続いてカチリとロックが外れる。


 扉を押し開けて中へ足を踏み入れた瞬間、低く唸るような音が部屋に満ちていた。カナレがシャワーを浴び終え、髪をドライヤーで乾かしているのだ。


 普段はきっちり結んだツインテールの彼女。だが今は髪をすべて下ろし、濡れた金髪が肩に張りついている。見慣れぬ女らしい姿に、如月は思わず心臓が跳ねた。


 カナレも如月に気づき、にこやかに手を上げる。


「お先!」


 ――だが、次の瞬間。


 如月の目に飛び込んできたのは、バスタオルを首に掛けただけの姿だった。上半身は全裸、豊満な胸は辛うじて布に隠れているものの、下はパンツ一丁。あまりに無防備な格好に、如月は慌てて背を向け、声を張り上げた。


「な、何考えてんだ!早く服着ろ!」


 カナレは気にした様子もなく、にこにこと笑っている。


「年頃の娘なんだから、もう少し警戒心を持て!」


 如月が必死に言うと、カナレは逆にケラケラ笑い出す。


「如月っちもだろ?」


 無邪気すぎる一言に、如月は頭を抱えた。


 ――この先、どれほどの苦労が待ち受けているのか。


 前途多難、という言葉だけが胸の奥でこだまするのだった。

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