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第36話:ジゴロってなんだ?

 午後の練習を終え、一同はロビーで束の間の休息を取っていた。柔らかなソファに腰掛けた望月の肩に、如月がすやすやと身を預けて眠っている。


 望月は苦笑をこぼし、肩に寄りかかる如月へ視線を落とした。眠りに落ちた如月の吐息が、規則正しく胸を上下させている。


「もう……ちゃんとしたところで寝ないと、風邪ひくわよ」


 小さな声でつぶやいたその口調は叱るようでいて、実際には優しさがにじんでいた。


 彼女の体重がじわりと肩にかかるたび、望月は姿勢を調整し、倒れ込まないよう自然に支え続ける。無意識のうちに、すっかり保護者のような仕草になっていた。


 その様子を横目で見ていたSAKEBIが、わざとらしく大げさに肩をすくめる。


「やっぱり優しいッスね、望月の“姉さん”は」


 含み笑いを浮かべながら放たれた一言が、空気を小さく震わせる。その瞬間、望月の耳の先まで一気に熱が広がり、頬は真っ赤に染まっていった。


「姉さんじゃないってば!」


 反射的に声を上げる。けれど声の裏には照れ隠しの震えが混じっていた。


「それに……あんたの方が、私より年上でしょうが!」


 言い返すほどに自分でも空回りしているのを感じ、望月は余計に焦る。


 そんな彼女を前に、SAKEBIは椅子にふんぞり返り、口角をつり上げたままじっと観察している。にやにやとした笑みは崩れず、完全に「面白がっている側」の顔だった。


 小さな言い合いの振動に合わせて如月の身体もかすかに揺れたが、本人はまるで深い眠りに沈んでいるかのように、微動だにしない。長いまつ毛の影が頬に落ち、呼吸だけが静かにその存在を知らせていた。


 そんな様子を見計らったように、島村がそっと歩み寄ってくる。手にした紙コップからは白い湯気がゆらりと立ち上り、香ばしい匂いが周囲に広がった。彼女は両手で丁寧にそれを支えながら、眠る如月に向かっておずおずと差し出す。


「如月さん……よかったらこれ、どうぞ」


 遠慮がちにかけられた声は、ロビーのざわめきに溶け込むほど小さく、それでも確かに彼の耳元へ届いていった。


 四月だというのに、窓の外では木々が揺れ、吹き込む風は冬の名残を残している。紙コップから立ちのぼる湯気が、その冷えを和らげるようだった。中身は粕汁。酒かすの甘やかな香りが鼻を抜ける。


 ふわりと漂った甘い香りに反応するように、如月の鼻先がぴくりと動いた。次の瞬間、ぱちりと瞼を開き、寝ぼけ眼のまま島村の手からコップをひょいと奪い取る。


 その素早さに、望月は思わず肩を落とし、呆れ混じりにぼやいた。


「……あんたね。いつも熊みたいに食べ物を横取りする癖、治した方がいいよ」


 だが如月はまるで聞き流すように、両手でコップを抱え込む。立ちのぼる湯気に顔を埋め、熱さも構わず、すすり込むと、ふうっと長い息を吐いた。頬がほんのり赤く染まり、口の端には満足げな笑みが浮かぶ。


 やがて、ふと我に返ったように視線を上げ、向かいの島村を見やった。


「……ありがとう。ほんとに、ありがとな」


 先ほどまで食いしん坊丸出しで粕汁をすすっていた姿とは打って変わり、その声にはしみじみとした温かさが宿っていた。軽口や照れ隠しでもない、まっすぐな感謝の響き――。


 それは一瞬、周囲の空気をやわらかく変えるほどだった。


 島村はその言葉を正面から受け止め、ふわりと花のような笑みを浮かべる。世話を焼くことを当然とし、そこに見返りなど求めていない。


 その穏やかな表情は、ただ相手を思いやることそのものが喜びなのだと語っていた。


 そんな静かなやり取りを壊すように、横で見ていたSAKEBIが口を挟む。


「まるで孫とおばあちゃんみたいッスね」


 わざとらしい声音とおどけた顔に、望月が「あんたね!」と抗議しかけるより早く、周囲から小さな笑いが漏れた。ロビーに広がる笑い声は、冬の名残を残す冷たい風をも和らげるように、温かな空気を満たしていった。


 如月は気にせずさらに一口。味噌の深みと根菜の素朴な甘みが舌にじんわりと広がり、体の芯まで温めていく。冷えた空気の中、その一杯は格別のぬくもりだった。


「島村、これどうしたんだ?」


 カナレが尋ねると、涼子が気を利かせて用意してくれたものだとわかる。大ぶりに切られた大根や人参は、彼女らしい素直な料理そのものだった。


「本当に気が利くよな、あの姉ちゃん」


 如月が感心したように漏らすと、周囲は一斉にうなずいた。料理長・涼子の心遣いは、誰もが納得せざるを得ないほど温かかった。


 すると、待ちきれないようにカナレがぱっと立ち上がる。椅子の脚が軽く床を鳴らし、勢いそのままに胸を張って言った。


「じゃあ、私ももらってくる!皆の分も取ってくるから!」


 言葉と同時に足取りは早まり、背中にはいつもの元気さがありありとにじんでいる。


 その姿を見送りながら、如月は思わず口元をほころばせた。


「……なんだかんだ言って、カナレも気が利くよな」


 軽口めいた言葉には、仲間を認める素直な響きがこもっていた。そんな如月を横目に、望月がにやりと意地悪く笑みを浮かべる。


「じゃあ如月。お嫁さんにするなら――どっちがいいの?」


 挑発めいた一言が放たれた瞬間、如月の喉に入っていた大根が見事につかえた。


 「ごほっ、ごほっ!」


 咳き込みながら顔を真っ赤にし、苦しそうに胸を押さえる。


 すかさずSAKEBIが「おっと危ないッスね!」と笑いながら背中をバンバン叩き、島村は慌てて手を伸ばして背をさすった。望月も深いため息をつきながら、「もう、しっかりしてよ……」とあきれた声で世話を焼く。


 ようやく呼吸を整えた如月は、胸を上下させながら荒い息の合間に、ぽつりと呟いた。


「……望月かな。嫁にするなら」


 あまりに自然に放たれた一言は、冗談や本気と判別がつかないまま場に落ち、ロビー全体の空気を一瞬で凍りつかせた。笑い声も止み、誰もが言葉を失う。


 その中心にいた望月の頬は、みるみるうちに紅潮していく。真っ赤に染まった顔は熱気を帯び、まるで頭頂から湯気が立ちのぼるかのようだった。視線を逸らそうとしても逸らせず、唇がわななき、言葉は出てこない。


 周囲の沈黙と彼女の反応が、如月の一言の破壊力をさらに際立たせていた。


 如月が肩にもたれかかると、望月はびくりと体を震わせ、顔をさらに赤くした。


「なによ!あんたもう起きてるでしょ!どきなさいってば!」


 怒気を帯びた声を上げながらも、突き返す手はどこか遠慮がちで、完全に振り払うには至らない。怒りと照れとが入り混じった仕草に、周囲も思わず苦笑する。


 そんな掛け合いに身を委ねながら、如月はふと(まるで昔から、こうして一緒に笑い合ってきた気がする)と錯覚した。


 だがすぐに、その感覚を打ち消すように胸の奥で声が響く。――現実は違う、と。


(……俺は今、この体に“居候”してるだけだ。いずれ消えるのは、俺かもしれない)


 英二の魂は如月の体に宿っている。本来の自分は、この世界のどこにも存在していないと理解している。あの事故の瞬間から意識は途切れ、気がつけばこの肉体にいた――。


 それ以来、答えのない問いだけが頭の奥にこびりついていた。


 考えが深みにはまりかけた、その矢先。


「あっ!」


 短い声が飛んできた瞬間、頭上に影が差す。視線を上げるより早く、なみなみと注がれた粕汁の紙コップが落下し――。


「グアアアッ!アッチィィィ!」


 熱々の汁が頭頂を直撃。髪は瞬く間にずぶ濡れとなり、熱で皮膚がチリチリと焼けるように刺激される。如月は条件反射のように飛び起き、ロビーの洗面所へ転がり込んだ。蛇口を全開にひねり、頭を突っ込んで冷水を浴びる。


「なんだこれぇぇ!」


 水滴を散らしながら振り返ると、視界に映ったのは床に派手に突っ伏しているカナレの姿だった。手足を投げ出したまま、「やっちまった」という顔をしている。


「いや~、走ったら思いっきりずっこけちゃって!」


 頭をかきながら笑うカナレ。その悪びれない調子に、場が一瞬シーンと固まる。


 次の瞬間、SAKEBIが眉間にしわを寄せ、本気の声を張り上げた。


「危ないッスよ!熱い汁持って走るなんて、何考えてるんスか!」


 普段は冗談混じりの彼女の口調に、周囲も思わず背筋を伸ばす。


 慌てて駆け寄ったカナレは、謝るより先にバケツを掴んで床にぶちまけた汁を拭こうとする。しかし、その腕を制するようにSAKEBIが再び声を飛ばした。


「先に如月さんへ謝る!」


 叱責に押され、カナレは肩をすくめ、小動物のように縮こまりながら振り返った。視線を泳がせた末に、しょんぼりとうなだれて頭を下げる。


「……如月っち、ごめんなさい」


 消え入りそうな声に、如月は濡れた髪をぐしゃりとかき上げ、苦笑を浮かべた。


「いいから床を拭け。俺は平気だ」


 その大らかな一言に背中を押され、カナレはほっとしたように息を吐くと、勢い余って雑巾を取りに駆け出す。


 だが次の瞬間――。


「走らない!」


 SAKEBIの鋭い叱声がロビーに響き渡る。カナレはびくりと肩を揺らし、情けない顔で小走りを強引にセーブするしかなかった。


 頭を冷やし終えた如月がロビーへ戻ると、カナレは椅子の端に腰を下ろし、今にも泣き出しそうな顔でうつむいていた。大きな体を小さく丸め、指先をぎゅっと握りしめている。


「熱かったけどさ……おかげで眠気も吹っ飛んだよ」


 如月はわざと軽口めかし、片手をひらひらと振ってみせる。冗談めいた仕草に、張り詰めていた空気がようやくほどけ、周囲の緊張も薄れていった。


 その明るさに救われたように皆が安堵の笑みを見せるが、カナレだけは俯いたまま、小さな声で「……ごめんなさい」と繰り返すばかり。普段の快活さはなく、肩は小刻みに震えていた。


 その姿に、如月は苦笑を浮かべながら自然と手を伸ばした。濡れた髪を整えるように、優しく頭を撫でる。


「ほら、元気出せよ。いつものお前らしくないぞ」


 濡れた髪を撫でられたカナレは、びくりと肩を震わせる。普段なら「そんなことない!」と勢いよく言い返すところだが、今は唇をきゅっと結んだまま俯いていた。握りしめた拳に、情けなさが滲んでいる。


 如月はそんな様子を見て、小さくため息をつき、声の調子を少し柔らかく変えた。


「どうした。いつもの調子は?気にしてないから、また一緒に涼子さんのところへいこうぜ」


 気遣うようなその響きに、カナレの瞳が揺れる。ぐっと堪えていたものが決壊するように、大粒の涙が目尻に浮かび、彼女は言葉を発する代わりに、ただ黙って強くうなずいた。


 場がようやく落ち着きを取り戻したころ、島村がぽつりと声を上げた。


「あの……如月さんって、神眼で人の気持ちもわかるんですか?」


 唐突な問いに、如月は瞬きをひとつしてから肩をすくめた。たまに心の声が耳に届くことはある――。


 だが、今は意識的に使ってはいない。もし本気で神眼を働かせていたなら、粕汁が落ちてくるくらい簡単に避けられたはずだと。


 冗談めかした返しに、周囲から小さな笑いが起こる。しかし如月はすぐに真顔に戻り、島村をじっと見つめた。


「……にしても、なんで急にそんなこと聞くんだ?」


 問われた島村は、はっとしたように目を泳がせ、慌てて首を横に振る。


「い、いえ……別に、何でもないんです」


 その答えは明らかに苦しいごまかしだったが、島村はそれ以上口を開かず、笑みを作ってごまかした。


 場の空気も次第にやわらぎ、張りつめていた緊張が解けていく。泣きそうだったカナレも、ようやく呼吸を整え、元の表情を取り戻しつつあった。


 そんな中、島村だけはどこか落ち着かない様子で、ちらちらと如月の方へ視線を送っている。気になった如月が眉をひそめ、「……どうした?」と静かに問いかけた。


 促され、島村は一瞬ためらい、唇を噛んでから小さな声で切り出す。


「あの……如月さんって……天然ジゴロなんですね」


 言葉が落ちた瞬間、ロビーにふっと奇妙な沈黙が訪れる。どう受け止めればいいのやら誰も判断できずに間を取られた――。


 そんな空白が、逆にその一言の破壊力を際立たせていた。


 一瞬の沈黙。重たい空気が張りつめる中、去り際の選手が思いついたようにぽつりとつぶやいた。


「……あ、それわかるわ」


 あまりに素直な同意の一言に、その場にいた全員の視線が一斉に交錯する。互いの顔を見合わせた刹那、抑えきれなかった笑いが弾けた。ロビーに響く笑い声は、つい先ほどまでの気まずさを一瞬で吹き飛ばし、温かな空気に変えていく。


 如月はその渦中で、苦笑を浮かべながら頭をかき、肩をすくめた。


「……俺としては、普通にしてるつもりなんだけどな」


 本人の戸惑いをよそに、笑いはますます広がっていった。


「それがジゴロってやつなんスよ」


 SAKEBIが茶化し、島村も小さくうなずいて見せる。


 しおらしく俯いていたカナレも、つられて口元をほころばせた。さっきまで浮かべていた涙の跡は、もうすっかり乾いている。


 賑やかな笑い声がロビーに広がり、冬の名残を運ぶ風すら和らげるようだった。

 束の間――ほんの束の間ではあるが、皆が同じ温度で笑い合える時間が流れていた。


 そして、場の笑いがようやく落ち着いたころ、カナレが首をかしげて言った。


「ところでみんな、ジゴロってなんだ?」


 素朴すぎる疑問に、場が再びざわめく。言葉に詰まった如月は慌てて立ち上がり、カナレの手をぐいと引っ張った。


「……よし!粕汁もらいに行くぞ!」


 強引に話題を変えようとする如月の背を、望月の声が追いかける。


「カナレ、それがジゴロっていうのよ。気をつけなよ」


 思わぬ宣告に、カナレはぽかんと口を開けたまま連れて行かれ、残された一同は堪えきれずに再び笑い声を上げる。


 ロビーに響くその笑いは、冷たい風の残る春の午後をやわらかく包み込み、束の間の穏やかな時間を刻んでいった。

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