第35話:怪獣カナゴンと二人の守護者
月曜日、いつものように本道場での練習が始まる。皆普段以上に気合が入り、安西の檄に呼応するように鋭い声で返事を返した。
しかし、如月と言えば――動きはしっかりついてきているが、その表情は重い。昨日のカナレのいびきのせいで、結局一睡もできぬまま朝を迎えてしまったからだ。
眼は虚ろで、スクワットをしながら眠気に勝てず、そのまま寝落ちしてしまいそうになる。必死に意識を繋ぎ止めてはいるが、耳に届く安西の掛け声がまるで子守歌のようで、更に眠気を誘った。
そうしているうちに、いつの間にか目標回数の二千回は終了していた。だが如月はそのことに気づかず、なおも黙々と腰を上下させている。
その顔は夢遊病者のようにぼんやりとしていた。腕で膝を支えながら、眠気と戦うようにふらふらと上下を繰り返す姿は、もはや執念というより“寝ながらスクワット”に見える。
その異様な光景に、周囲の選手たちは思わず顔を見合わせ、口元を押さえてクスクスと笑い出した。笑いには呆れも混じっていたが、どこか憎めないものがあった。
見かねた安西が、低く響く声で雷を落とす。
「如月!何をやっている!二千回はもう終わってるぞ!」
その声にはっと目を覚ました如月は、ぼんやりした瞳を大きく瞬かせ、あたりをきょろきょろと見回した。仲間たちの視線が一斉に集まっていることに気づき、頬を引きつらせるようにして、なんともばつの悪い表情を浮かべる。
「まったく……寝ながらスクワットとは。器用というか、ふざけているのか……」
安西は腰に手を当て、深いため息をついた。
その表情には諦めの色が濃くにじんでいたが、声色の奥にはほんのわずかに感心の響きも混じっていた。
時刻は、午前11時30分。
朝7時からの練習を続け、汗にまみれた道場の空気は蒸し風呂のようだ。息をするたび、熱気が肺にまとわりつく。
如月は膝を折ってその場に座り込み、両腕で太腿を支えながら荒い息を吐き出した。視界が揺れ、耳鳴りがする。スクワットはすでに二千回を二本目までやり終えた直後――常人ならとっくに立てなくなっているはずの地獄のメニューをやり切ったのだった。
そうこうしていると、カナレやSAKEBI、島村、望月が心配そうに集まってきた。眠気で視界が霞む如月は、何か言おうとしても声にならず、こくりとうなずくのが精いっぱいだった。
「ちょっと、あんた大丈夫?」
望月が眉をひそめて身をかがめる。
如月は震える手を横に振り、問題ないと示そうとする。だが唇は乾き、喉も声を拒んでいる。しゃべる体力すら、もう残っていなかった。
その重苦しい空気を切り裂くように、カナレが元気いっぱいの声を響かせる。
「いや~!昨日は迷惑かけたみたいで、ごめんなさい!」
場を明るくしようとする無邪気な調子。しかし、その眩しすぎる笑顔と張りのある声は、疲労困憊の如月にとっては逆効果だった。
耳に突き刺さるほどの明るさが、残りわずかな体力までも吸い取っていく。
「そうだ……」
如月はわずかな力を振り絞り、かすれるような声でぼそりとつぶやいた。あまりの唐突さに、集まっていた四人が思わず顔を寄せ、息を殺して耳を傾ける。
「カナレ……お前のあだな考えてやったぞ。今日からお前は――怪獣カナゴンだ……」
その場に、なんとも言えない沈黙が落ちた。命懸けのような顔で吐き出した言葉が、あまりにくだらなく、力の抜ける代物だったからだ。
絶句する三人。口を開けたまま固まる者、額に手を当てて呆れる者、笑っていいのか迷う者……反応はバラバラだが、全員が言葉を失っていた。
ただ一人、カナレを除いて。
「なんだ、その弱そうな名前!そこはカナキングだろ!」
顔を真っ赤にして声を張り上げるカナレ。本人は真剣そのものなのだが、その反応すら周囲の脱力感に拍車をかけ、思わずまた沈黙が広がった。
ネーミングセンスのなさに、更に絶句する一同。何とも言えない沈黙が場を支配した。
だが、周囲の選手たちは違った。脱力する表情を浮かべながらも、如月とカナレの漫才のようなやり取りにクスクスと笑いをこぼしていた。
その目はどこか、無邪気な妹を見守る姉のようで、温かな色が混じっていた。
「……つまり、怪獣であること自体には文句がないってことッスかね?」
SAKEBIが肩をすくめ、ぼやくように言った。
カナレは「うむ!」と大きくうなずき、腕を組んで難しい顔をする。だが理由は至極単純――「そのほうが強そうだから」というだけだった。
「なんか、カナブンみたいに聞こえるけど」
望月がぽつりとつぶやいた瞬間、カナレの眉がぴくりと跳ね上がる。
「なにおうっ!」
電光石火の速さで望月の首に腕を回し、チョークスリーパーを極める。気づけば望月の顔はみるみる赤く染まり、苦悶の声が漏れ出した。
「ちょっ……まっ……!ギブッ、ギブッ!」
必死にカナレの腕を叩き、タップを繰り返す望月。しかし、技をかけているカナレの顔は真剣というよりも無邪気そのもの。
まるで子供が新しいオモチャを手に入れた時のように目を輝かせ、頬には楽しげな笑みが浮かんでいる。
その姿は強者の苛烈さよりも、新しい仲間とじゃれ合う無垢な子供のように見えた。
そんな賑やかな輪に、少し離れたところから2つの影がゆっくりと歩み寄ってきた。皇と、その隣に並ぶ十文字楓だ。場の空気が自然と引き締まり、先ほどまでの笑い声も次第に小さくなっていく。
「君たちは本当に仲良しさんだね。見ているこっちまで、なんだかいい気持ちになれるよ」
皇が柔らかな声で微笑む。その穏やかな表情に、島村と望月は思わず顔を赤らめ、はにかみながら目を伏せた。
だがその温かい空気を破るように、カナレが一歩前に出て、食い気味に問いかける。
「ツバサさん、そういえば――私たちの最初の相手って、もう決まったのか?」
問いかけには、期待と高揚が入り混じっていた。皇はその勢いを正面から受け止めるように、一瞬だけ間を置いてから挑発的な笑みを浮かべた。
「ああ、すでに決めてあるよ。コンディションもばっちりだ。――なあ、楓」
楓は口元にニッと笑みを浮かべ、挑むように言い放った。
「私はいつでもいいよ。……まあ、パートナーはどう考えてるかわからないけどね」
楓は肩をすくめ、口元に余裕の笑みを浮かべながら、視線を横へと投げた。
「正美、どうだい?」
その名を呼ばれた宗像正美が、静かに腰を上げる。黒のロングウェーブが揺れ、凛とした顔立ちと共に近づいてくるだけで、場の空気が一段重く沈んだ。
言葉を発さずとも伝わる迫力――楓と並び立った瞬間、二人の長身が放つ存在感は圧倒的だった。
如月たちの中で最も背の高い望月ですら一八〇センチ。それでも、楓の姿は頭1つ分抜け出ており、見る者にはひとまわり以上大きく映る。
鋭い剣と揺るがぬ盾。二人が揃った光景は、それだけで完成された“壁”のように思えた。
「……そうか、最初に当たるのは楓さんと正美さんか」
カナレの口調はいつになく重かった。冗談や軽口もなく、表情に浮かぶのは緊張と警戒。
その心境は近くにいたSAKEBIや島村、望月も同じで、三人の顔からは自然と笑みが消えていた。
十文字楓の隣に立つ宗像正美。
凛とした顔立ちに一切の隙を見せない。無口で感情を表に出すことは少なく、ただそこに立つだけで周囲を圧する威厳を漂わせていた。
打撃、投げ、空中殺法すらもこなすオールラウンダー。楓と組んだタッグはQueen Beeの至宝――BHC世界タッグ王座を戴冠する現チャンピオンの最強の二人組である。
楓が剣なら、宗像は盾。互いを補い合うように動くその姿は、まさに鉄壁の守護者と呼ぶにふさわしかった。
楓と正美も、その場に立つだけで強烈なオーラを放っていた。まるで周囲の空気そのものを支配するかのような圧力に、誰もが息を呑む。
――しかし。
その張りつめた空気の中で、ひとりだけ異質な存在がいた。先ほどから静かだった如月をよく見れば、背を揺らしながら舟をこぎ……なんと、本気で眠っている。
新人ならば膝が震え、身動きすら取れなくなるような状況下での居眠り。呆れるよりも先に、どこか大物めいた風格を漂わせる光景に、楓と正美は思わず顔を見合わせた。
「……すごい子……」
正美がぽつりとつぶやいた瞬間、道場全体がざわめきに包まれる。普段ほとんど声を聞くことのない彼女が発した一言。それだけで、楓の放つ剣気にも負けぬ衝撃が走った。
「すげぇ!正美さんがしゃべった!」
カナレが両目を丸くし、まるで怪奇現象でも目撃したかのように叫んだ。
「私、三年間の付き合いだけど……初めて聞いたよ……」
別の選手が呆然とつぶやく。その声に同調するように、あちこちからざわめきが広がった。驚愕と興奮が入り混じったざわめきは、一気に道場全体を揺さぶっていく。
注目を浴びた当の本人――宗像正美は、頬に赤みを差しながら視線を逸らし、黒のロングウェーブを指先で払い落とすようにして顔を隠した。普段の寡黙さからは考えられない仕草に、皆がさらにざわつく。
「お、おい、みんな落ち着け!」
皇が両手を広げて場を制そうとする。
だが、その端正な顔にも驚きの色がありありと浮かんでおり、声の端は震えていた。どうやら皇自身も正美の肉声を聞いたのは初めてらしい。
その空気をかき乱すように、SAKEBIが何気なく口を開く。
「そうッスか?正美さん、結構おしゃべりさんッスよ。この前だってライブ配信で――」
言いかけた瞬間、正美の影が音もなく滑り込む。無言のままSAKEBIの口をがっしりと塞いだ。
「むぐぐっ!?」
声にならない悲鳴を上げてじたばたするSAKEBI。場にいた全員がその光景に目を奪われ、しんと静まり返る。
正美の瞳は、ほんのわずかに赤みを帯びながらも鋭く光っていた。
――それ以上言うなと……。
言葉はなくとも、その無言の圧力が痛いほどに伝わってきた。
声にならない悲鳴をあげてじたばたするSAKEBIを横目に、楓が小さく肩をすくめ、あきれ顔で言った。
「ま、そういうわけだから――よろしくな、如月、カナレ」
楓は手を差し出し、挑む者を歓迎するかのように二人に握手を求める。
カナレは一歩前に出て、その手を力強く握り返した。まるで迷いなどないように。
けれど、握る手のわずかな震えが、その裏に隠した焦りを物語っていた。眼差しは真っ直ぐで、火花のような意志だけが、空気を支えていた。
対して如月は――その横で舟をこぎ、夢の世界に片足を突っ込んでいた。わずかに開いた口から規則正しい息が漏れ、握手の差し出された手を前にしても、反応はない。
「お~い、朝ですよ~」
楓は苦笑しながら如月の手を取ると、上下に揺さぶった。まるで本当に眠っている子供を起こす母親のような調子だ。
その場には、次なる激闘を予感させる緊張感と、のほほんとした温さが奇妙に同居していた。思わず周囲の選手たちからクスクスと笑いが漏れる。
これから激闘を繰り広げる二人の姿に似つかわしくない、のほほんとした雰囲気。ギャップに堪えきれず、周囲からまた笑い声がこぼれた。
だが次の瞬間、場の空気を切り裂くように安西の怒声が轟いた。
「皆さん……とうに休憩は終わってるのですが?いつまで雑談に興じてるつもりだ! さっさと所定の位置に戻れ!」
雷鳴のような叱責に、場の空気が一変する。笑い声はぴたりと止み、選手たちは慌てて背筋を伸ばし、足を運んで所定の位置へと散っていく。誰も逆らえず、ただ沈黙のまま従うしかなかった。
その緊張感の中――如月はがばりと顔を上げ、目を覚ます。
だが状況を理解する前に、体が勝手に動いていた。再び腰を落とし、指示もされていないのに淡々とスクワットを刻み始める。
規則正しく上下する姿は妙に律儀で、しかしどこか夢遊病者めいていて、周囲の選手たちは言葉を失った。
安西は腰に手をやり、あきれを隠そうともせずに言った。
「如月……私はまだ何も言っていないけどねぇ……まあ、練習熱心なのは結構だ!――皆!スクワット開始!」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気が凍りついた。
誰もが息を呑み、互いの顔を見合わせる。朝から腕が焼けるまでのプッシュアップと、息が尽きるほどのスパーを終えたばかりだ。
そこに追い打ちをかけるように、全員で合計四千回のスクワットという地獄を乗り越えたばかり。腿は鉛の塊となって重くのしかかり、視界の端がかすむ。
ようやく呼吸を整えはじめたその矢先――再び悪夢の号令が下されたのだ。
「……はぁ!?」
「う、噓でしょ!?」
悲鳴にも似た声があちこちから飛び出す。肩をがっくりと落とす者、頭を抱える者、床に突っ伏して抗議のポーズを取る者。絶望の連鎖が、道場中を覆っていった。
あちこちから悲鳴に近い声が上がる。肩をがっくり落とす者、頭を抱える者、床に突っ伏して抗議する者。だが号令は絶対。誰一人、逆らうことはできない。
「如月、何やってんの!」
望月が声を張り上げる。顔は真っ赤に歪み、今にも涙がにじみそうだ。
「ヒィィ!足が砕けそうッス!」
SAKEBIは半泣きで悲鳴をあげ、今にも膝から崩れ落ちそうになりながら必死に動きを続けている。
だが当の如月は、聞こえているのか定かではない。瞼は重く半ば閉じかけ、虚ろな目で一点を見つめながら、夢遊病者のように淡々とスクワットを繰り返していた。
上下に揺れるその姿は奇妙に規則正しく、どこか現実から切り離された存在のようですらあった。
そんな彼女を見て、カナレは口には出さず、胸の内でつぶやいた。
(……やっぱりだ。流石は私のパートナーだ)
誰もが悲鳴を上げ、文句をぶつける中で、如月だけは眠気と疲労に沈みながらもなお脚を動かし続けている。常識では理解できない粘り強さ――。
その姿は滑稽でさえあるのに、カナレには眩しく見えた。
唇の端に、誇らしげな笑みが浮かぶ。
そして彼女もまた、誰に命じられたわけでもなく黙々と腰を落とし、スクワットを再開する。
まるで「この地獄を並んで越えてこそ、真のパートナーだ」と示すかのように。