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第34話:深淵と怪獣の夜

 藤堂はすっかり冷静さを取り戻していた。


 つい先ほどまで涙で顔をくしゃくしゃにしていた人物と、今ここに座る姿が同一人物だとは、とても思えない。瞳にはまだ赤みが残っているものの、表情は石像のように整い、輪の中で交わされる軽口に淡々と相づちを返している。


 輪にはカナレや皇をはじめ、先輩選手たちが加わり、気の置けない仲間たちの談笑で場は和やかに満ちていた。


 笑い声が飛び交い、時折「あははっ」と明るい感嘆が重なる。先ほどまでの緊張と湿っぽさは跡形もなく消え、今はまるで合宿の夜のような活気すら漂っている。


 そんな中、藤堂がふと姿勢を正し、静かに頭を下げた。


「……先ほどは失礼しました」


 深く沈んだ声音。落ち着いた調子は、数分前に泣きわめき、肩を震わせていた姿を知る者にとっては信じがたいほどの変わりようだった。まるで心のスイッチを切り替えたかのように、別人のような面持ちである。


(……女ってのは、わからんな。さっきまで子供みたいに泣いてたのに)


 如月は眉をひそめ、いぶかしげな視線を投げる。心の中にはまだ疑問と戸惑いが渦を巻いていた。


 その思いを察したかのように、皇が口元に小さな笑みを浮かべ。余裕を漂わせながら言葉を落とす。


「ハニー、気にする必要はないさ。藤堂はそういう子だから」


 話題は自然と、先ほどの試合――お布団プロレスへと移っていった。


 藤堂が真剣な眼差しを如月に向ける。


 その瞳には、単なる興味ではなく、恐れと畏敬が入り混じっていた。


「……どうして、あんなに“神眼”が的中したの?」


 その淡々とした声色に、笑い声で賑わっていた輪の空気が一瞬にして引き締まる。耳をそばだてるように、周囲の選手たちの意識が集中するのが伝わった。


 如月は少しだけ考える素振りを見せた後、肩を竦めて静かに吐き出す。


「いや、あれは……正直、未来視は無視してた」


 あまりに率直な答えに、藤堂の声が揺れる。


「無視?」


 息をのむような小さなざわめきが輪に広がった。


 如月はしばし沈黙を置き、ゆっくりと右手を握り、そして開いてみせる。その所作は説明のためというより、自らの感覚を思い返すようでもあった。


「未来が見えたとしても、それが確定じゃないのはわかってたからな。それよりも――」


 視線を落としたまま、低く続ける。


「昔からなんとなく、相手の体に触れただけで“重心”がわかるんだよ。力がどこに流れて、どこに溜まってるか……直感みたいなもんだな」


 藤堂は無意識のうちに身を乗り出していた。唇から零れ落ちた言葉は、ほとんど自分に問い返すような調子だった。


「重心を……感じる?」


 輪の内外で誰もが息を潜める。今しがたの戦いが思い起こされ、如月の言葉と動作が一つひとつ重なっていく――そうして空気はさらに張り詰めていった。


 如月は言葉を切らず、淡々と続けた。カナレ戦でも同じことだった。ドラゴンスリーパーを仕掛けた瞬間、彼女の力が腕の末端――特に手首へと集中していくのを、掌を通じてはっきりと感じ取ったのだ。


「だから、それを頼りに動いただけだ。あの時の未来視はいわばブラフ」


 低く放たれた言葉が輪の中心に落ちると、沈黙が一瞬だけ走り、次の瞬間には小さなどよめきが広がった。誰もが思い返す。あの試合の緊迫した場面、如月の動きが不思議なほど噛み合っていた理由を。


 如月はさらに声を落とし、輪の内側へと染み込ませるように言葉を継いだ。


「それに、全員が俺のギフトを探ろうとしてただろ?あれはもう獣の眼だ。なら、こっちも“神眼が的中している”ってブラフを流した方が都合いいだろ?」


 静かな口調とは裏腹に、その内容は鋭利だった。まるで罠を張る猟師が、逆に獲物を誘い込むかのような狡猾さが漂っていた。輪を囲む面々は思わず息を呑み、笑い声に包まれていた空気はすっかり緊張に変わっていた。


 カナレが口元を大きく歪め、豪快に腕を組んだ。


「なるほどなぁ。つまりは“未来視を使ってる”って勝手に思ってたてわけか!」


 彼女のにやりとした笑みと明快なまとめに、張りつめていた輪の空気が一気にゆるむ。押し殺されていた息が次々と解放され、数人の先輩選手は思わず肩を揺らして笑い声を漏らした。重くのしかかっていた緊張が、豪快な笑いに押し流されていく。


 だが、ただ一人だけは笑わなかった。藤堂である。彼女は視線を逸らさず、じっと如月を見据えていた。場の空気に流されることなく、むしろその奥を探るよう――。


 やがて細く息を吐き出すと、低く掠れた声を落とす。


「……本当に、新人?……」


 その呟きは小さかったが、輪に再びかすかな影を落とすには十分だった。畏怖とも感嘆ともつかない響きが混じっていた。彼女だけが、如月の言葉の裏に潜む深淵を確かに感じ取っていたのだ。


 当の本人は、居心地悪そうに頭を掻く。


「いや、先輩たちが俺を過小評しすぎてただけだよ」


 曖昧な苦笑と共に放たれたその一言は、場を和ませようとする照れ隠しに過ぎなかった。


 だが輪の内側にいる誰もが――如月の奥底はまだ誰一人として覗き込めていないのだと、改めて思い知らされていた。


 その時、不意にカナレが前のめりになった。乗り出すような勢いで、好奇心と確信の入り混じった瞳を如月に向ける。


「もしかして――私の試合の時、腕十字を決めた時も?」


 問いかけは鋭く、しかし子供のような真っ直ぐさを帯びていた。


 如月は一拍の迷いもなくコクリとうなずいた。


「お前の重心の移動に合わせたんだよ」


 その声音は穏やかで、あまりに淡々としている。


 だが告げられる内容は鮮明で、場にいた者たちの脳裏にあの試合の光景をまざまざと呼び起こさせた。説明というよりも、まるで映像をそのまま再生して見せられているような錯覚さえ与えるほどだった。


 ――BuzzMatで観た山崎戦。カナレは相手の猛攻を受けきり、最後に逆転することを当然のように望んでいた。その戦い方の癖を、如月は見抜いていたのだ。


 だからこそ、不利を承知で腕十字に飛び込み、相手を誘うような動きを選んだ。


 さらに如月は感情を交えず、淡々と語った。


 あの時、力の流れが上腕二頭筋から手首へと徐々に移っていくのを、はっきりと感じ取っていたという。


 だからこそ、狙うべきは手首の関節だと確信できたのだ。


 しかも、そのままの流れであれば、カナレは必ず得意のアルティメットボムへと移行する――そこまでを読み切っていた。


 その説明ぶりは、まるで試合の映像を頭の中で再生しているかのようだった。光景をありありと思い返し、ただ淡々と事実だけを積み重ねる。その冷ややかさに、聞く者の背筋には自然と緊張が走った。


 輪の誰もが思い出す。あの瞬間の衝撃、そして如月がまるで未来をなぞり的確に動いた光景を。


 理屈としては筋が通っている。


 だが相手はカナレだ。常人なら到底踏み切れない危険な賭けに、如月は迷いなく身を投じていた。


 ――自分なら同じことができるだろうか。輪の中にいた誰もが胸中でそう問いかけ、ぞっとしたものを喉の奥に飲み込む。


 重苦しい沈黙が落ち着きに変わりかけたその時、場の空気を切り裂くようにひときわ明るい声が響いた。


「正直に言うと――私も如月の神眼、ちょっと探ろうとしてたんだよね」


 輪の外から現れたのは、青みを帯びた濡烏の艶やか長い髪を後ろでざっくりとまとめた先輩レスラー。凛とした立ち姿に姉御肌の風格を漂わせながらも、その表情は飄々とした笑みに満ちていた。


 まるで人前で秘密を打ち明けるのも遊びの一環だと言わんばかりに、悪びれる素振りは一切ない。


 不意に差し込まれた明るさ。張りつめていた輪の空気がやわらいでいく。黒髪の先輩レスラーは肩をすくめ、茶目っ気たっぷりに続けた。


 倒そうとか蹴落とそうとか、そんなつもりではない。


 ただ――もし勝てたら「お姉さま」と慕われるに違いない。それが少しばかり憧れだったのだ、と。


 その言葉をきっかけに、ほかの先輩レスラーたちも口々に白状する。「実はわたしも」「わたしもですぅ~」と、遠慮がちに、あるいは楽しげに声が重なり、輪の空気は一転して笑いに包まれていった。


 カナレは豪快に腹を抱えて笑い、如月の背を勢いよく叩く。


「ハッ、ハッ、ハッ!つまり如月っちは、先輩たちからモテモテってわけだな!」


 如月は顔を真っ赤にし、慌てて手を振る。


「やめろよな!」


 その照れ隠しめいた反応がまた一層可笑しみを誘い、輪の中にはさらに大きな笑い声が広がっていった。


 普段は感情をあまり表に出さない藤堂までが、珍しく口元を緩め、ぽつりと本音を零す。


「……確かに、私も慕われたいかも……」


 その言葉に、場の笑いがひときわ和らいだ。硬さが溶け、どこか温かみのある空気が広がっていく。


 皇はその空気を愉快そうに受け止め、杯を軽く掲げた。


「いいじゃないか、ハニー。慕われるのは悪いことじゃない。むしろ誇るべきさ」


 視線を浴びた如月は、思わず赤面を隠すように頭を掻く。


「……俺はそんな柄じゃない」


 つっけんどんに言い放ったつもりでも、その声音にはどこか居心地の悪さが滲んでいる。むしろ照れ隠しだと誰の耳にも分かる調子だった。


 その不器用さこそがまた輪をくすぐり、笑いと温もりが絶え間なく広がっていった。


 如月が頭を掻きながら諦めたように言葉をこぼすと、再び笑い声が弾け、場はすっかり和気あいあいとした空気に包まれる。


 そんな中、黒髪の女性がすっと立ち上がった。凛とした佇まいに周囲の視線が集まる。


「自己紹介がまだだったね。私の名前は十文字楓。一応Queen Beeでは皇に次ぐロイヤルガードの一人だよ」


 その言葉に、如月の瞳がわずかに鋭さを帯びる。笑い声が響いていた輪の空気が、一瞬で変わった。近いうちにカナレとタッグを組む相手の一人――そう理解した瞬間、如月の視線は鋭く楓を射抜いていた。


 冗談めかした笑みを浮かべ、楓は肩を竦める。


「ちょっと、そんな怖い顔で睨まないでよ」


 すると、近くにいた選手がすかさず声を張った。


「早速嫌われちゃったね!一人脱落~!」


 楓は大げさにその場へしゃがみ込み、両膝を抱えてうつむいた。涙をこらえる仕草をしながら、わざとらしく肩を震わせる。


「あぁ……嫌われた……」


 さきほど藤堂が見せた本物の涙がまだ印象に残っていることもあり、如月は途端にうろたえた。女性の涙に免疫のない如月。両手を宙に泳がせ、声にならない言葉をもごもごと零す。


 だが楓は不意に顔を上げ、からかうように舌をちょろりと出して笑った。演技だったと分かった瞬間、如月の頬はみるみる赤く染まっていく。


「なるほど、如月は女の涙に弱いわけか」


 周囲から囁きが漏れ、次の瞬間には大きな笑いが弾けた。輪の空気は再び温まり、からかわれる如月の姿がますます皆を楽しませていた。


 皇が腕時計に視線を落とし、低く告げた。


「もう1時半だ。みんな、そろそろ寝ようか」


 その一言を合図に、選手たちは名残惜しそうに笑いを引き取り、それぞれ掛け布団や枕を抱えて散っていった。床の上に布が広がり、思い思いの場所に小さな“寝床”が作られていく。


 だが、静けさは訪れなかった。如月の周囲だけは別だ。布団を敷く音に交じって

「私はここがいい」「ちょっと詰めて」「そこ空いてる?」と、かしましい声が絶えない。枕を小突き合ったり、布団を引っ張り合ったり、子供の合宿のような騒がしさに包まれていた。


 そんな賑やかな空気を切り裂くように、カナレの豪快な声が響き渡った。


「よし!如月っち、こっちに来い!私と一緒に寝よう!」


 勢いはまるで地鳴りのようで、枕のぶつかり合う音や笑い声を一瞬にしてかき消した。


 途端に輪が水を打ったように静まり返る。明るくはしゃいでいた選手たちが、ぴたりと動きを止め、目配せを交わしながらすっと距離を取った。敷かれた布団と布団のあいだに、わざとらしいほどの空白が生まれる。


 ただ一人、状況を理解できていない如月だけが首をかしげていた。仲間たちの妙な沈黙に違和感を覚えつつも、その理由を掴めない。


 だがその理由を悟るのは、夜がすっかり更け、全員が布団に潜り込んでからのことだった。


 ――「ンッガァァー!」


 静寂を切り裂く轟音。まるで怪獣の咆哮のようないびきが部屋中に響き渡る。さらに容赦のない寝相。カナレの体は布団の上を転がり回り、ぶつかるたびに如月の全身に鈍い衝撃が走った。頭のすぐ上には不意打ちのように足が落ち、まともに直撃する。


 呻き声を漏らしながら周囲を見渡すと、如月とカナレの半径三メートルは見事に無人地帯と化していた。仲間たちは最初から心得ていたのだろう。耳栓やイヤーマフを装備し、ある者は寝袋にまで潜り込み、盤石の布陣で熟睡している。


「……痛い……眠れない……」


 恨めしげに天井をにらみつける如月の横で、皇が身じろぎもせずに小さくつぶやいた。声は囁きのように低く、しかし確かな皮肉を含んでいた。


「……SAKEBI……君はカナレのいびきのこと、麗に言わなかったのかい?」


 その問いかけに、隣の布団で丸まっていたSAKEBIがもぞりと動く。布団から半分だけ顔をのぞかせ、にやにやと口角を上げた。暗がりの中、その笑みは妙に悪戯めいて見える。まるで「わかって黙っていた」と白状するかのように――。


「いやいや、これからお互いにパートナーとして行動するから、予備練習ッス!」


 隣では皇が小さく「なるほど」と納得の声を漏らし、落ち着いた手つきでイヤーマフを装着した。


 その姿はまるで長年の経験者のように慣れ切っており、数分も経たぬうちに静かな寝息を立てる。


 島村や望月も普段から使い慣れたノイズキャンセラー付きのイヤホンを耳に収め、問題なく夢の世界へ落ちていった。


 部屋はやがて規則的な寝息と、ただ一人の怪獣じみた轟音に支配される。


 如月は、ただ布団に顔を押しつけるようにして深いため息をついた。轟音と衝撃が途切れなく襲いかかり、まともに目を閉じることすらできない。


 ――この夜は、試合以上に過酷な「耐久戦」だと痛感する。


 ――静かに眠る仲間たちと、一人だけ眠れぬ自分。如月は天井を仰ぎ、心の底から恨めしさを募らせるのだった。

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