第33話:お布団リングに泣き声ひとつ
時計の針は午前0時を指していた。
しんと静まり返った室内には、壁掛け時計の秒針が刻むリズムさえ、やけに大きく響いているように思えた。誰もが息を潜め、わずかな物音すら試合開始の合図に聞こえてしまうほどの緊張感が漂っていた。
布団を敷き詰めたリングの中心で、如月は膝をつく。
背筋を低く沈め、わずかに前傾――。
柔らかな布団に沈んだ膝は動きを吸収し、重心をより安定させる。眠たげな瞼の奥には、鋭く光る刃のような意志が潜んでいた。
「二人とも準備はいいかい?」
皇の低くも澄んだ声が、部屋の静寂を切り裂いた。余韻が壁に反射し、響きは増幅されて選手の心臓を震わせる。
その問いかけに、二人は息を合わせたように「OK」と返す。
声が重なった瞬間、空気がぴんと張り詰めた。布団の表面のシワが風に揺れたかのように震え、誰もがその先に訪れる衝突を予感した。
(……神眼は先読みというより未来視に近い特有の性質……)
藤堂は普段、頭で考えてから動くタイプではない。持ち前の柔軟性を武器に、長期戦に持ち込み、グラウンドを主戦場に据えるのが常。派手さこそないが、その動きは芸術的でトリッキー。観客や対戦相手の予想を軽々と裏切り、常識ではあり得ない関節技や脱出方法を次々と編み出す。
――「思考より行動」。それが藤堂のレスラーとしての信条だった。
(……定位置につく前から神眼を発動……すでにいくつもの未来を見て、その可能性を精査している……)
如月の瞳は半ば閉じかけているように見えながら、その奥では無数の未来の断片がちらついているようだった。
その間隙を突くように、藤堂が先に動いた。
低く沈めていた上体を一気に伸ばし、如月の両手首をがっちりと掴む。布団がぐしゃりと沈み込み、空気が押し出されるような音を立てる。藤堂の全体重を乗せた勢いに、周囲の選手も思わず身を乗り出した。
――だが次の瞬間。
如月の身体がふっと前へ踏み込む。ほんの一歩。
だがその一歩で、藤堂の攻め手が一気に封じられる。
柔らかな布団が波のように揺れ、沈み込んだ衝撃が返す力で二人の体を密着させた。汗ばんだ腕と腕が擦れ合い、呼吸の熱が交わる。
結果、藤堂の両腕は如月の動きに誘われるまま頭上へと押し上げられ、まるで観念したかのように如月の腕と重なり合う。選手たちからざわめきが漏れ、空気がさらに張り詰めた。
「おおっ!」
観戦していた選手たちから、思わず含みのある声が漏れる。
肌と肌が重なり合い、息づかいすら混じり合う、その距離感は闘技というよりも別の場面を連想させた。
張り詰めた空気は一転してざわめきへと変わり、誰もが口元を押さえて意味深な視線を交わす。
藤堂は一瞬たじろいだ。
思わず背筋が粟立ち、胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
だがすぐに深く息を吐き、肺にたまった熱気を絞り出すようにして呼吸を整えた。
額に浮いた汗がこめかみを伝い落ちる。彼女は首を強く振り、飛び散る雫とともに迷いを振り払った。
(……間違いない。今のは神眼によるもの……だが次こそ裏をかく!)
冷ややかに沈黙を守る藤堂の表情の裏で、頭の中では声にならない雄弁な戦略が絶え間なく組み上げられていた。
彼女は密着したまま体をわずかにずらし、如月の手首をするりと解放する。布団に沈む重みが揺れ、二人の胸元がふわりと触れ合った。
そのまま藤堂はしなやかな腕を巻き付けるように動かし、ダブルリストロックへと移行。細い指が関節を捕らえ、女性らしい優雅さすら漂う動きで、肩を極めにかかる。
しかし、如月は眠たげな表情を崩さない。まぶたは半分落ちかけ、口元には小さな吐息がこぼれる。まるで力を抜いたまま抱きしめられているかのようで、抗う素振りすらなかった。
――完全に極まった。
藤堂の唇が上がり、勝利を確信した笑みが浮かぶ。息が触れる距離で彼女の頬が紅潮し、熱を帯びる。
(……もらった!)
そのまま体を預けるようにして、藤堂は如月を持ち上げる。
絡め取った両腕に全身の力を込めると、布団がぐっと沈み込み、周囲の空気までも引き寄せられるように重くなる。藤堂の背筋が弓なりに張りつめ、細い腕に隠されたしなやかな筋肉が浮き上がった。
――ダブルリストロック・スープレックス。完成すれば逃れようのない投げ。
その鮮やかな一撃の映像が、藤堂の脳裏に鮮明に焼きついていた。膝が浮き布団の上へ叩きつけられる未来を、まるで如月のお株を奪うかのように、彼女自身が「視て」しまったのだ。
だが。
次の瞬間。如月は密着の中で、ほんのわずかに緩んだ関節の角度を逃さなかった。腰を鋭く切り返す。布団が波打ち、沈み込んだ空気が「バフッ」と弾けるような音を立てる。
その勢いのまま体をひねり、回転させ――藤堂の身体は制御を失った人形のように翻弄され、ふわりと宙へ舞った。選手たちから思わず悲鳴に似た声が上がる。
「勝者!如月!」
皇のはっきりとした勝敗宣言が、場を震わせた。
次の瞬間、観戦していた一同から歓声とどよめきが爆発した。
驚きと喝采が渦を巻き、熱風のように空間を駆け巡る。誰かが叫び、誰かが手を叩き、誰かはただ口を押さえて立ち尽くす。複数の感情が一斉に解き放たれ、室内は一瞬にして沸騰した。
「すごい!」
「あの藤堂が負けた……!」
誰もが目を疑う結末。飲み込んだ息が詰まる音すら、歓声の奔流の中にかき消されていった。
その只中で――如月の動きだけが不思議なほど静かだった。
投げ飛ばした直後、彼女は布団の反発を正確に読み切り、藤堂の体をふわりと導く。衝撃を和らげるように抱き込む仕草で、布団の弾力に優しく委ねさせた。
まるで荒々しい投げではなく、舞のように相手を送り届けたかのような所作。選手たちの喧騒の中で、その一瞬だけは柔らかな静寂が生まれていた。
「それじゃ、そういうことで……」
力の抜けた藤堂の腕をそっとほどくと、如月はそのまま布団の上にゴロンと転がった。
ぐしゃり、と柔らかな生地が波打ち、彼女の髪がふわりと広がる。あまりの無防備さに、全員の表情が一斉に固まった。目を丸くしたまま、言葉を失ったように誰もが動きを止める。
「麗……君は何をやっているんだい?」
皇の声には困惑と戸惑いがにじみ、低く澄んだ響きがかえって滑稽に響いた。
その視線を受けても、如月は気怠げに片腕で目をこすり、あくびをこらえるように口を小さく開いた。
「もう終わったろ。今日は朝からドタバタしながら試合したから……眠いんだよ……おやすみ……」
力なくこぼれた言葉は、試合を締めくくる宣言ではなく、まるで眠る前の独り言のようだった。
緊張と高揚のただ中でも、如月だけは我関せず。その場違いなマイペースぶりに、全体が凍りつく。沈黙が落ち、誰もがどう反応していいか迷う――。
ただ一人を除いて。
カナレだけが満面の笑みを浮かべ、両手を腰に当てて胸を張った。
「うむ!なんという胆力!それでこそ私のパートナーだ!」
空気を読まぬ自信満々の声が、室内に響き渡る。
「何一人で納得してるッスか!てか、よく“胆力”なんて言葉知ってたッスね」
すかさずSAKEBIが眉をひそめ、矢継ぎ早にツッコミを入れる。
次の瞬間――。
パシィン!
乾いた音と共に、カナレの手刀がSAKEBIの頭頂部に軽やかに落ちた。「痛い!」と頭を押さえてしゃがみ込むSAKEBIを見下ろし、カナレは胸を張って得意げに腕を組む。
「まぁ、まぁ……」
横にいた島村と望月が慌てて二人の間に割って入る。呆れ顔で両肩に手を置き、子供をいさめるように制した。
だが、事態は収まらなかった。
布団に寝転がったままの如月を見下ろし、藤堂が荒々しくその肩をがしがしと揺さぶった。布団の反発で如月の頭が小さく跳ね、揺れる髪が広がる。
「もう1回!」
その声には苛立ちが隠しきれず、普段の落ち着いた口調からは想像もできない尖りがあった。
「まだやるの?」
如月は眉をわずかにしかめ、渋々と上体を起こす。あくびを噛み殺す仕草は、まるで授業中に叩き起こされた学生のように気のないもので、肩から力が抜けている。
その無防備さと温度差が、藤堂の誇りを鋭く抉った。
――藤堂は、勝率こそ高いが、Queen Beeで突出した戦績を誇るレスラーではない。
だが、この「お布団プロレス」に限れば話は別だった。この特殊なルール下では負け知らず。女王・皇さえも圧倒し、無敗の覇者として君臨してきたのは他ならぬ藤堂だった。
その自負に泥を塗る如月の態度は、藤堂にとって耐え難い侮辱に等しかった。
「それでは構えて!」
皇の声が場を制した。いつも通りの澄んだ響きのはずなのに、そこにはわずかな緊張が混じっていた。女王自身も、この場の空気の異様さを察していたのだ。
如月はゆったりと腰を落とし、重心を低く前傾姿勢に構える。
だがその口元は緩み、次の瞬間――大きなあくびを、わざと聞こえるように吐き出した。布団に沈む膝が小さく揺れ、肩が上下する。眠気に身を任せた仕草は、挑発ではなく本気で眠そうにしか見えない。
その態度に、藤堂の苛立ちは一気に頂点へと跳ね上がる。
「OKです!」
普段は沈着冷静な藤堂が、まるで堪忍袋の緒を切ったかのように大声を張り上げた。
その声は布団の間にこもり、室内の空気を震わせる。
見たことのない姿に、観戦していた選手たちは一斉に息を呑んだ。誰もが互いの顔を見合わせ、普段の藤堂からは考えられない昂ぶりに動揺を隠せない。
「……OK」
如月の気の抜けた返事は、力の抜けた吐息のように響いた。それは勝負を盛り上げる言葉ではなく、熱気を一気に冷ます呟き。張り詰めていた空気が反転し、勝負の重みが妙な軽さにすり替わっていく。
「始め!」
皇の声が響いた瞬間、藤堂の身体がしなやかにうねった。
腕をぐるりと回す。関節が悲鳴を上げるような可動域、まるで人の体とは思えぬ柔軟さ。その流れで如月の腕を絡め取り、上腕二頭筋に白い指先を食い込ませる。血管が浮かび、筋肉が硬直する。
回転力をそのまま全身へ伝え、一気に反らし投げへ――。
だが次の瞬間、選手たちの目に飛び込んできたのは予想外の光景だった。
如月は投げられると同時に身体をひねり、布団に沈み込む。片膝でうまくバランスを保ち衝撃を吸収するように布団が波打ち、彼女の髪がふわりと舞う。
「1、2……!」
皇のカウントが響く。
だが2.5で、如月は両膝を床に沈めた。負けを認める形ではなく、自ら制御して膝をついたのだ。
「っ……!」
藤堂の顔が険しく歪む。食いしばった奥歯の音が聞こえそうなほど。
選手たちにもざわめきが走った。驚き、戸惑い、そして信じられないという吐息が重なり、室内の空気が一斉に震えた。
ただ一人、カナレを除いて。
「ナイス!如月っち!」
場の緊張を切り裂くように、能天気で明るい声が響いた。両手を叩いて笑顔を浮かべるその様子は、今の攻防が遊戯にしか見えていないかのようだ。
その瞬間、藤堂の目が射抜くように細まり、鋭い刃のような光を帯びる。冷気すら漂わせる視線に、カナレは肩をびくりと揺らし、慌てて視線を逸らした。
だが口角の笑みは消し切れず、空気の読めなさを一層際立たせていた。
「あんたは余計なこと言わない!」
望月が声を裏返しながら慌ててたしなめる。場をこれ以上荒立てまいと必死に間に入るが、その慌てぶり自体が張り詰めた空気をさらにぎこちなくさせていた。
藤堂は望月の声すら耳に届かぬまま、激情に突き動かされるように如月へ飛びかかった。
布団が大きく揺れ、肩を掴む手には必死の力がこもる。その勢いのまま抑え込みに入ろうと――。
しかし如月は慌てることもなく、掴まれた手を逆にがっちりとロックする。わずかに腰を落とし、背を返すように動く。
次の瞬間、重さと勢いを丸ごと背負って、背負い投げの要領で藤堂の体を宙に浮かせた。
ポスッ!
柔らかな布団に沈む鈍い音。藤堂の体は反発で小さく跳ね、ふわりと沈み込んで止まった。選手の誰もが一瞬息を詰め、呆気に取られたような沈黙が落ちる。
「ねぇ、まだやる?俺眠いんだけど」
如月が小さく吐き出した声は、挑発の鋭さもなく、ただ眠気に任せた素直な呟きだった。
その無邪気すぎる一言に、選手たちは逆に胸をざわめかせる。勝敗の余韻よりも、場に広がる温度差の方が鮮烈で、同情と戸惑いがないまぜになって空気を奇妙に揺らした。
――だが。
藤堂が身を起こした瞬間、場が一気に凍りついた。
無敗の強者のはずの彼女の顔が、すねた子供のように歪んでいたからだ。潤んだ瞳に涙が滲み、頬を伝う前に嗚咽となって喉からこぼれ落ちる。
「えっ?」
如月は慌てふためき、手を伸ばしかけて止める。どう声をかければいいのか分からず、ただ狼狽えるばかり。
そんな中、空気を読まぬ声が高らかに響いた。
「あっ!如月っちが藤堂さんを泣かせた!」
カナレの明るすぎる言葉が、導火線に火をつける。
その瞬間、藤堂の頬に溜まった涙が大粒となってこぼれ落ち――。
「うわーん!」
堰を切ったように泣き声を上げ、藤堂はその場に崩れ落ちた。
布団に顔をうずめ、肩を上下させながらしゃくり上げる。
その背中は小刻みに震え、無敗を誇ったお布団プロレスのチャンピオンの姿は跡形もなく、まるで枕を抱いて泣きじゃくる子供のようだった。
誰もが目を見開き、信じられない光景に声を失う。あまりの落差に、選手からは「え……」と小さなざわめきが漏れるばかりだった。
「ちょ……ちょっと……なあ、どうしたの?」
如月はおろおろと両手を伸ばしかけては引っ込め、落ち着きなく周囲を見回す。助けを求めるように視線を彷徨わせながら、か細い声を投げかけるが、返事はない。
その空気を切り裂くように――。
「なーかせーたー♪ なかせたー♪ せーんせーに言ってやろ~♪」
カナレの能天気な歌声が響いた。場違いなほど明るく、まるで遊びの延長のような調子。その無邪気さが、逆に残酷な追い打ちとなる。
布団に顔を埋めた藤堂の泣き声はますます大きくなり、こもった声が部屋の隅々まで響き渡る。すすり泣きと嗚咽が混じり合い、重い空気が布団部屋全体を支配していた。
時計の針は、無情にも午前0時30分を回ろうとしていた。