第32話:挑戦者たち
ここで行われるのは、特異な形式の一戦――。
その名も『スリープ・ザ・お布団プロレス』。
試合場はリングではない。床一面に敷き詰められた巨大な布団――柔らかさと沈み込みを兼ね備えた、独特の舞台である。
ふわりとした感触は選手の足場を奪い、踏ん張ろうとすればするほど体勢は揺らぐ。だが同時に、相手を押さえ込んだ瞬間にはその柔らかさが逃れられぬ拘束へと変わる。まさに布団ならではの特殊なフィールドだった。
両者は膝をつき、対峙する。
基本姿勢は両ひざ立ち。試合の最中、膝を浮かせることは許されない。膝立ちという制約は、通常のレスリングの力学を一変させる。バランス感覚と体幹の強さが、勝敗を大きく左右するのだ。
勝敗は明快だ。腕だけを使い、相手の両肩を布団に押しつければ勝利。
ただし、戦いの最中に片膝でも浮けば、即座にレフェリーのカウントが入る。3つ数えられた時点で敗北。両膝が同時に浮けば、その場で即敗北。さらには、自らの両腕が布団に沈んだ瞬間も同じく敗北となる。
攻防の手段は限定されていた。
許されるのは手四つを含めた腕同士の押し合い、崩し合い。腕を駆使した押さえ込みや、一定の範囲内における関節技も認められる。
しかし――相手の首、頭部、指といった腕以外の関節を極めることは固く禁じられていた。
そして最も重要な禁忌。
打撃は一切禁止。拳や肘、ましてや膝や脚を使うなど論外。腕以外の攻撃を行ったその瞬間、反則負けが宣告。
布団の上で繰り広げられる、静かで、されど苛烈な知恵比べ。
それこそが――『スリープ・ザ・お布団プロレス』である。
皇から簡潔にルールが説明される。布団の上での戦いという異質さに、有無を言わせぬ勢いで試合開始の段取りが整えられた。
「――さてと、最初は誰がやる?」
皇の低い声が響くと、その場に一瞬の沈黙が走る。選手たちは互いに視線を交わす。まるで最初に手を挙げる者の重みを、全員が理解しているかのようだった。
その静寂を破ったのは、ハニーカースト側から伸びた一本の腕。
ゆっくりと、しかし迷いのない動作で挙げられたそれは、確かな自信と覚悟を帯びていた。
「私が行きます」
透き通るように澄んだ声が、布団の上の空気を震わせる。声量は決して大きくないのに、不思議と全員の耳に届く響きだった。
その主は――ハニーカースト第3階級〈フォージャー〉に属する選手。柔らかな所作の奥に、鋼の芯を宿した女。彼女の名は、藤堂琉。
藤堂琉。団体在籍6年目の出戻り組であり、新人や若手にとっては“最後の壁”とも呼ばれる実力者だ。藤堂を越えることが、一人前として認められる通過点とさえされている。
金髪のレイヤーボブが印象的な彼女は、音もなく歩を進め、布団の上の試合場へと上がる。その静かな佇まいには、百戦錬磨の落ち着きと、研ぎ澄まされた気迫が同居していた。
「うわっ……!いきなり藤堂さんかよ!」
カナレが大げさに肩をすくめ、動揺を隠せない。普段の豪胆さが影を潜め、口元はひきつっていた。
「マジっすか!?いきなり超ハードモードッスよ!」
SAKEBIの叫びは半分悲鳴。観客席の空気まで震わせ、藤堂という名前が持つ重みを改めて刻み込む。
二人の言葉に押されるように、新人三人も改めて思い知る。
――藤堂がこの限られたルールの中で、どれほどの強者なのかを。
だがその圧に飲まれることなく――新人三人の列から、ひときわ大きな声と共に一人が飛び出した。
望月だ。誰よりも早く手を挙げ、その動作に一切のためらいはない。胸をぐっと張り、真っ直ぐ布団の中央へと歩を進めていく。
足取りは力強く、迷いの影すら見えなかった。瞳には闘志の炎が燃え盛り、挑戦者特有のきらめきが宿っている。
藤堂が“最後の壁”と呼ばれるのなら得意のルールで――自分がその壁を叩き割ってやる。
そんな気迫が、若さゆえの無鉄砲さと混ざり合い、全身からほとばしっていた。
選手たちの空気はざわめき、仲間たちも思わず息を呑む。
だが望月は振り返らない。ただ前だけを見据え、藤堂の待つ布団の上へと歩み寄った。決意を刻んだ表情は、緊張よりも高揚に彩られていた。
「それじゃあ、二人とも両膝をついて、準備ができたら“OK”と言ってくれ。――レフェリーは私が務める」
皇の声は淡々としているのに、不思議と場を一瞬で支配する力を持っていた。布団の上の空気が張り詰め、わずかなざわめきすら吸い込まれていく。
望月は藤堂を前にしても一歩も引かず、真っ直ぐに相手を見据えると、小さく頭を下げ、はっきりとした声を響かせた。
「よろしくお願いします!」
気迫がこもったその言葉は、部屋の空気を切り裂くように響いた。
「……よろしく」
対する藤堂は、わずかに頷きながら短く応じる。
その低く静かな声には、余計な色が一切なく、ただそれだけで場を支配する重みがあった。
望月は圧に呑まれぬよう、両手で頬をパンパンと叩き、改めて気持ちを奮い立たせる。
「OKです!」
望月が真っ直ぐな声を張り上げる。その瞳には、挑戦者としての覚悟が宿っていた。
「……私もOKです」
藤堂は淡々と応じる。声は静かで抑揚すら薄いのに、耳に残る圧がある。まるで一言にして勝敗を予感させるようだった。
両者の言葉を受けた皇は、二人の姿勢をぐるりと見回し、布団の上に漂う緊張を一気に締め上げる。
「――よし。始め!」
皇の声が落ちた瞬間、望月が一気に飛び出した。狙いはただ一つ――藤堂の肩。両膝を布団に食い込ませ、腕を突き出し、全力で速攻を仕掛ける。
だが藤堂は、その勢いを真正面から受け止めはしなかった。腰を支点に、信じられないほど滑らかに上体を反らす。肩が布団に触れる寸前、髪がかすかに揺れる距離でぴたりと静止。まるで骨格そのものを無視したかのような柔軟性だった。
望月の腕は空を切り、攻め手は一瞬で封じられる。
「出た出た!状態そらし!」
カナレが叫ぶ。その声には驚きだけでなく、あきれ混じりの感嘆すら滲んでいた。
勢い余った望月は、そのまま藤堂めがけて突っ込む。
(……両膝さえ浮かなければ、このまま押し倒せる!)
望月の脳裏に閃きが走る。器用に片足を布団からわずかに浮かせ、体勢を崩さぬまま上体を前へ。勢いに任せ、藤堂を力ずくで押し潰そうとした。
だが――その瞬間。
反り返ったまま静止していた藤堂の身体が、まるで蛇が獲物を呑み込むように動いた。しなやかな腕が鋭く伸び、望月の右手首を正確に捕らえる。
「――っ!」
次の刹那、望月は自らの勢いを利用される。藤堂の腕がしなやかに引き込み、布団の柔らかさをも味方にして、その手を叩きつけるように沈めた。
「それまで!藤堂の勝利!」
皇の勝利宣言が響く。望月は布団に突っ伏したまま、唇を噛み締めて悔しさを押し殺す。あまりにあっけない幕切れに、島村と如月はただ目を見開き、言葉を失っていた。
「次、私が行きます!」
はっきりとした声が空気を切り裂いた。望月の敗北を受けて沈みかけていた場が、一瞬にして引き締まる。
名乗りを上げたのは島村だった。横に立つ如月は、その姿を見てわずかに目を細める。
(……いつもなら一歩引く子なのに。強くなろうとしてるんだな)
胸の内でそう呟き、仲間の成長を感じ取った。
島村は望月と交代し、布団の中央へ進む。腰をぐっと低く落とし、両腕を広げて構える姿勢は、小柄な身体をできる限り大きく見せようとしているかのようだった。
「よろしくお願いします!」
その声には、緊張を振り払うかのような張りがあった。
「……よろしく」
対する藤堂は、変わらぬ淡々とした調子で一言を返す。揺るぎない声の重みが、布団の上の空気をさらに引き締めた。
礼を交わすと、二人はそのまま構え合う。若き挑戦者と、歴戦の“壁”。互いの視線が交差した瞬間、場の温度は一気に上がった。
「OKです!」
島村の声は張りがあり、気合の芯を感じさせる。
「……OK」
藤堂の返答は短く、抑揚に乏しい。それなのに、不思議と場の空気を重く支配した。
皇が両者の構えを確認し、手を振り下ろす。
「――始め!」
その合図が落ちた瞬間、選手たちが一気に息を呑む。
だが、布団の中央で向き合う二人は、微動だにしなかった。
緊張だけが張り詰め、時が止まったように思える。布団がわずかに沈み込む音、衣擦れの気配すら大きく聞こえるほどの静寂。
(……あの異常な柔軟性は、間違いなくギフトの恩恵。だったら、その弱点を突くしかない!)
島村は心中で戦略を組み立てていた。ギフトには必ず致命的なデメリットがある。そう斎藤や安西から何度も教わってきた。情報は少ない。
だが記憶の奥底に、まだ素人だった頃に観戦した藤堂の試合が蘇る。
(……たしか、この人のギフトは――“円転滑脱”。)
四文字ギフト――円転滑脱。
その能力は柔軟性。相手の攻撃を受け流し、身体の可動域を極限まで引き出すことでカウンターを成立させる防御反撃型の異能。常人なら関節や筋肉が悲鳴を上げる角度や体勢でも、彼女の身体は水のように器へ沿って流れる。相手の力を呑み込み、反撃へと転じる。
だが、それは万能ではない。発動条件はあくまで「相手の攻撃」に対するリアクションであり、自ら能動的に仕掛けることはできない。攻め手を欠き、相手に攻撃させねば真価を発揮できない――これが明確な制約。
さらに致命的な代償は「筋力の低下」。柔軟さと引き換えに力強さを奪われ、打撃や投げも決定力を失う。相手の力を借りなければ、勝機を掴めない。
ゆえに「円転滑脱」は、ただ柔らかい肉体を意味するものではない。 受けて流し、流して返す相手の攻撃を起点に戦局をねじ曲げる――それが「円転滑脱」の本質である。
だが――フェイバリットギフトに潜む致命的な欠点を隠すのは、レスラーの必然。最下級ラーブに上がったばかりの島村に、それを知る術などあるはずもなかった。
布団の上でにらみ合う二人。わずかな呼吸音と衣擦れだけが響く時間が続き、場に緊張が積み重なっていく。
その膠着を断ち切るように、皇の声が響いた。
「一分経過!」
島村の瞳が鋭く揺れる。
(……考えてても仕方がない。ここは私が犠牲になって、後の如月さんに託す!)
覚悟を決めた瞬間、島村の身体が前へ動いた。勢いよく藤堂の腕を掴みに行く――その刹那。
パンッ!
視界に閃光。目の前で猫騙し!思わず瞬きを強いられ、島村の動きが一瞬止まる。藤堂の冷静な表情にも、わずかに隙が生まれた。
(――今だ!)
島村は反射的に飛び込む。開いた手のひらを思い切り伸ばし、藤堂の肩をがっちりと掴み取った。まさかの大チャンス。選手たちもどよめき、仲間たちの息が詰まる。
しかし――そこまでだった。
藤堂は掴まれたまま、島村の両腕の間に手を差し込み、ぐっと肩をそらせた。瞬間、押し上げられた力に島村の重心が崩れ、両膝が床から浮き上がる。
「それまで!藤堂の勝利!」
皇の声が布団の上に響き渡る。島村の両膝は空を切り、そのまま重力に従って落ちていく。
藤堂は力任せに突き放すこともせず、むしろ相手を労わるかのように腕を添えて、ゆっくりと布団へ下ろした。
「フェイントはまずまずだけど……相手の能力をもっと観察したほうがいい」
勝者の声は淡々としていた。ただ事実を告げるのみ。だがその言葉は、刀のように鋭く島村の胸に突き刺さる。
島村は肩で息をしながらも、すぐに上体を起こし、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました!」
その声は悔しさに震えていた。
だが同時に、敗北を受け入れた者にしか持ち得ない、確かな敬意が宿っていた。
彼女を見下ろす藤堂は、相変わらず無表情のまま。
しかし――ほんの一瞬、唇の端がわずかに緩んで見えた。それが錯覚だったのか、それとも本心から漏れた小さな評価なのか……誰にも分からない。
「私もいいところまで行ってたと思うぞ!」
沈んだ空気を払いのけるように、カナレが明るく声を張った。大げさに腕を振り、にかっと笑ってみせる。その調子に場がふっと和む。
島村は布団に手をつき、その言葉を噛み締めるように目を伏せた。
表情には複雑な影が差す。悔しさ、恥ずかしさ、そしてほんの少しの安堵。やがて、こわばった頬がわずかにほぐれ、控えめな笑みが浮かぶ。
「……ありがとうございます」
その声は力強さには欠けていたが、確かな温かみがこもっていた。仲間の言葉に、確かに救われた証だった。
「さて――真打登場かな?」
皇の視線が射抜く先にいたのは如月だった。名を呼ばれたわけでもないのに、逃げ場はないと悟ったのか、如月はゆっくりと腰を上げる。
眠そうに半眼を細め、肩をすくめながら歩みを進める姿は、まるで気乗りしない学生のようだ。興味などこれっぽちもない――そんな態度を全身で示している。
だが、その内面では冷静な計算が巡っていた。
(……ギフトの詳細は未知数。だけど、動きからして“柔軟性”に起因するもの……。とりあえずそれ狙いで……)
布団の中央に立った如月は、長く息を吐き出す。ふう――と吐息が揺れ、張り詰めた空気に溶けていった。
そして――ゆっくりと、右目を閉じる。それは彼女にとって、戦いに臨むときの儀式のような動作だった。
《神眼》、発動。
キュイィィィィン――。
甲高い金属音が脳内を突き抜ける。世界の時間軸がずれるかのような感覚。それは如月にしか聞こえず、誰にも感じられない、異能の覚醒を告げる音色だった。
まるで空気そのものが硬質に変わるように、布団の上の空間が一気に緊張を孕んでいく。
片目を閉じる仕草は、周囲にとってはただの癖にしか見えない。だが、この場にいる歴戦の者たちにとっては明確なサインだった。
――彼女が“神眼”を解放したという証。
その瞬間、観戦していた歴戦のハニーカーストたちが一斉に息を呑む。
普段は妹分を気にかける頼れる姉たち。だが勝負の場となれば話は別だ。優しさの仮面を脱ぎ捨て、鋭い牙を剥く。
(……神眼を使ったな)
(ここで見切る、徹底的に……)
(力の正体を暴き出す……!)
幾重もの心の声が重なり、部屋の空気を震わせる。先ほどまでの柔らかな歓迎ムードは大きく変わった。
視線はすべて鋭利な刃に変わっていた。
新人たちもまた固唾を呑む。望月は拳を握りしめ、さっきの敗北の痛みを噛みしめながら「如月なら……!」と心の中で祈る。
島村は必死に目を凝らし、今度こそ藤堂の動きを見逃すまいと食い入っていた。
カナレは腕を組み、大げさに見栄を切る仕草だが、瞳の奥には仲間への期待が隠せない。
SAKEBIは思わず声を漏らす。「やっべぇ……超ピリピリするッス」
強さを渇望するキラービーたちの眼差しが、今や一点に集約される。――如月へと。