第31話:歓迎と布団の洗礼
エレベーターが静かに停止し、寮のフロアに到着すると、低い電子音とともに扉が開いた。
先ほどの雑然としたフロアとは違い、そこにはホテルの客室フロアを思わせる落ち着いた雰囲気が漂っていた。
厚みのある壁は重厚な色調でまとめられ、扉はどれも頑丈そうなセキュリティロック付き。整然と並ぶ光景は、まるで高級ホテルの一角を切り取ったかのようだ。
「フッフフ~ン♪」
鼻歌交じりに、カナレが軽快なステップで皆の前を歩いていた。
片手は腰に当て、もう片方の腕を誇らしげに振り上げ、まるで「ここからは私に任せろ」と言わんばかりの堂々たる態度だ。寮の廊下を舞台にした即席パレードの先導者――。
そんな錯覚すら覚える。
しかしその背中に、すぐさま冷静な声が飛んだ。
「カナレ、そっちは違うッスよ」
SAKEBIが眉をひそめて肩をぐいっと引く。カナレは「あっ」と声を上げ、次の瞬間には「まちがえた」と舌を出して小さく頭をかき、しれっと元の列へと戻った。
だが彼女の歩調はまったく鈍らない。むしろ「次こそは」とばかりに意気揚々と再び先頭へ躍り出ると、今度は勢いよく逆方向へと突き進む。
「カナレは大浴場に行くのかい?」
皇がやんわりとした声で指摘すると、カナレは足を止め、きょとんと目を丸くした。
「えっ?……あ、そうか!」
反省の色はどこへやら、すぐに明るい声で笑い飛ばし、再び肩を揺らしながら鼻歌を奏でる。
そんな調子で、彼女が先導しては止められ、戻ってはまた間違える――を数度繰り返す。一行の間に、自然と苦笑と小さな笑い声が広がっていった。
やがて、ようやく目的の部屋の前へとたどり着いた時には、まるで全員でちょっとした冒険を終えたかのような安堵感すら漂っていた。
「それじゃあ――真由子と麻子はそこの535号室、麗は隣の536号室だよ」
さらりと名前を呼ばれた島村と望月は、思わず背筋を伸ばし、皇の声音に心臓を一拍分飛ばされたような気持ちになった。
自分の名前が“女王”の口から紡がれる――それだけで、全身が熱くなるのを抑えられない。
すると、如月が口の端を上げてニヤリと笑った。
「で、どっちが真由子ちゃんで、どっちが麻子ちゃんだ?」
わざとらしく首をかしげながら、からかうように視線を往復させる。その言い草に、二人は同時に肩を跳ねさせた。
「ア、アタシが麻子だよ!麗ちゃま!」
望月が勢いよく名乗りを上げる。
だが声は裏返り、顔は耳まで真っ赤。冗談めかして返したつもりが、動揺を隠しきれていない。
島村は隣で、わずかに呆れたような表情を浮かべつつも、口元には小さな笑みがにじんでいた。
その柔らかな笑みに気づいた如月は、思わず目元をゆるめる。先ほどまでの茶化し合いが、ほんの一瞬だけ和やかな空気へと変わった。
如月はそんな二人の反応を、面白がるように眺めていた。わざと意味ありげに片眉を上げ、二人に視線を投げる。
その小さな挑発めいた仕草に、島村と望月はさらに頬を赤らめ、視線を泳がせる。
そんなやり取りを見ていた皇は、唇の端に余裕をたたえた微笑を浮かべ、やわらかな声で続けた。
「ひとまず部屋に荷物を置いてきなさい。そのあとで――この“巣”に暮らす仲間たちを紹介しよう」
声色は穏やかだが、どこか含みを帯びている。
その響きに、新人三人は胸の奥がひそかにざわつくのを感じた。
三人は顔を見合わせ、(聞いてないぞ……)と目と目で訴え合う。
だが抗議する間もなく、それぞれカードキーをドアノブの下にあるパネルへかざした。
ピッ、と乾いた電子音。小さな緑のランプが灯り、続けて「ガチャ」と錠の外れる確かな音が響く。
如月はカードキーをタッチ部分から離すと、手にしていた段ボールを床に下ろし、ゆっくりと扉を押し開けた。
外の廊下とはまるで空気が違う。冷えた空調の風がふわりと頬を撫で、ほのかに漂う木の香りと柔らかな洗剤の匂いが入り混じる。
一歩足を踏み入れた瞬間、如月の目に飛び込んできたのは――仮住まいの簡素な部屋とは比べものにならない、整い尽くした快適な空間だった。
ビルトインエアコンは壁面に溶け込み、空間を広々と見せる。玄関から続く廊下の先には、トイレと洗面所、そしてゆったりとした浴槽が並ぶ。トイレと浴室が分かれているというだけでも贅沢だ。
奥にはクィーンサイズのベッドが2つ並び、そのうち一方には既に別の住人の痕跡があった。整然と積まれた雑誌や漫画、きちんと畳まれたジャージやインナー、几帳面な性格が透けて見える。
如月は段ボールをベッド脇に置き、再び廊下へ。すると、少し遅れて島村と望月も隣の部屋から顔を出した。きっと部屋の豪華さに見とれていたのだろうと如月は感じた。
「よし、それじゃ行こうか。君たちの先輩たち――Queen Beeの精鋭を紹介するよ」
皇の合図に従い、一行は再び歩き出した。
だが今度はエレベーターに戻るのではなく、廊下のさらに奥へと足を進めていく。照明はやや落ち着いた色調に変わり、床に敷かれたカーペットが足音を吸い込む。静けさが逆に緊張を煽った。
「どこに行くのでしょうかね?」
島村が小声でつぶやく。
隣の望月は肩をすくめて「さあ?」と首を傾げ、両手をひらひらと広げて見せる。軽く振る仕草は一見気楽そうだが、その指先はほんの少し固くこわばっていた。
二人のやりとりを背後から見ていた如月は、ふと気づく。自分の隣を歩くカナレと、さらにその横のSAKEBI――二人とも口元にわずかな笑みを刻んでいたのだ。
だがそれは楽しげというより、何かを知っている者だけが浮かべる「余裕」の色を帯びている。
(……何かあるな)
如月の背筋に、じわりと冷たい感覚が走る。彼女らの含み笑いは、ただの気まぐれではない――これから待ち受ける何かを暗示する合図のように思えてならなかった。
やがて、フロア中央に構えられた一際重厚な扉の前に到着する。周囲の部屋とは明らかに格が違い、空気ごと隔絶された雰囲気を放っていた。
皇がドアノブに手をかけると、自動で錠が外れる。
(指紋認証……?)
新人三人は一瞬そう考え、顔を見合わせた。まるで自分たちの知らない「選ばれた者だけの仕組み」がここにあるかのような気配が漂っている。
重厚な扉は、ゆっくりと内側へ押し開かれていった。蝶番が軋むこともなく、まるで空気そのものを切り裂くかのように、静かに、しかし確かな重みを持って動いていく。
その隙間から、まず淡い光が漏れ出し、続けて華やかな香りがふわりと漂った。花とも香水ともつかぬ香りが、外の空気とはまるで違う異質さを告げている。
そして、扉が大きく開かれた瞬間――彼女らの目の前に広がったのは、想像をはるかに超えた世界だった。
そこはまるで高級ホテルのスイートのような佇まいで常識外れの広さ。
仮に中央にリングを設置しても余白が有り余るほど。深い色合いの木材の床は磨き上げられ、クリーム色の壁には繊細なモールディング。照明は柔らかに輝き、空間全体に女性的な優雅さを漂わせていた。
アイボリー色のソファには花柄クッションが山のように積まれ、大理石のテーブルには淡いピンクのバラが咲く。窓辺のレースカーテンとベルベットのカーテンは、光と陰を巧みに操り、壁には女性を描いた絵画が並ぶ。
鏡台には小さな香水瓶や化粧品、サイドテーブルにはティーセット。どれも輝きを放ち、空間そのものを宝石箱にしていた。
3人たちはただ息を呑み、声を発することすらできなかった。視線は自然と部屋の奥へと吸い寄せられ、豪華な調度品やきらめく照明を目にしながらも、頭の中は真っ白になる。
「なんじゃこりゃ!?」
ようやく絞り出した如月の叫びが、張りつめた静寂を鋭く破った。
その声に反応するように、島村と望月もはっと我に返るが、言葉は喉につかえたまま、口を半開きにしたまま呆然と立ち尽くしている。
そして――その視線の先。
豪奢なリビングの中央に陣取るのは、Queen Beeが誇る精鋭たち。規律正しく並ぶその姿は、ただそこに立っているだけで圧を放ち、周囲のきらびやかな調度品さえ背景に押しやってしまうほどの存在感だった。
しかも、その佇まいは新人たちが普段、汗まみれの練習場で目にしていた彼女たちとはまるで別人のようだった。
いま纏っているのはユニフォームやリングコスチュームでもなく、色とりどりのパジャマやルームウェア。髪も丁寧に整えられ、シンプルな三つ編みや、軽やかに下ろされたスタイルが柔らかな印象を添えている。布地はやわらかく肌に馴染み、胸元には小さなリボンやレースの飾り――。
だがその軽やかな姿でさえ、彼女たちの放つオーラを和らげることはなかった。
練習場で見せる真剣な表情も、額に滲む汗もここにはない。それなのに、不思議と圧倒される。
まるで「選ばれし者だけが持ち得る特別な輝き」を、寛いだ夜の姿のまま惜しみなく放っているようだった。
ふと、如月の視線が、壁に飾られた女性をモチーフにした絵へと吸い寄せられる。柔らかい光に包まれた横顔――どこか見覚えがあると思った瞬間、口をついて言葉が漏れた。
「あれ?これって……翼さん?」
その言葉に、皇は唇の端を上げ、何も否定せずただニコニコと微笑む。そのまま三人を手で促し、ハニーカーストに属する選手たちの列の前まで導いた。
新しい妹たちが巣に加わることがよほど嬉しいのだろう、誰もが穏やかな笑みを浮かべ、柔らかな視線を向けてくる。
やがて皇が一歩前に出て、朗々とした声で言った。
「では皆に紹介しよう!我がQueen Beeが誇る精鋭部隊――ハニーカーストの面々だ!」
言葉と同時に、精鋭たちが一斉に胸を張る。肩の線が揃い、背筋は一本の糸で引かれたかのようにまっすぐ。並んで立つだけで、部屋の空気が一段と重く張りつめるのを、新人三人は肌でひりつくように感じた。
皇はその沈黙を切り裂くように視線を移し、三人へと穏やかに笑いかける。
「それじゃ君たち、自己紹介をお願いするよ」
促された瞬間、喉の奥がひゅっと鳴った。緊張がのどを塞ぎ、言葉が思うように出てこない。
島村や望月そして如月も、一瞬だけ互いの顔を見合わせた。張り詰めた空気の中で、誰が先に動くか――その沈黙がやけに長く感じられる。
だが、ほんの数秒後。島村が唇を結び、勇気を振り絞るように一歩前へ出た。小柄な体を精一杯大きく見せるように背筋を伸ばし、足音は小さくとも、その一歩には彼女なりの覚悟が込められていた。
「第五期生、島村真由子です!お姉さま方、よろしくお願いします!」
声はやや上ずっていたが、最後まで言い切ると深々と頭を下げる。右側に並ぶ、女性らしさを前面に出した選手たちから温かい声が飛んだ。
「お姉さまだって。うれしいわ」
「可愛い子ね。大丈夫よ、真由ちゃんはそのままでいいのよ」
柔らかな言葉に、島村は一瞬で頬を赤くし、思わず目を伏せた。
続いて望月が一歩、前へと踏み出した。胸の奥で心臓がどくんと鳴り、その鼓動を振り払うように大きく息を吸う。
「第五期生、望月麻子です!皆さま、よろしくお願いします!」
勢いよく声を張り上げ、そのまま腰を折り深々と頭を下げる。声はやや強張っていたが、真っ直ぐで迷いがなかった。
その凛とした姿に、今度は左側から反応が返る。そこに並ぶのは、華やかな美しさの中に凛々しさや頼もしさを併せ持つ選手たち。彼女らは互いに目を見合わせ、口元に笑みを浮かべながら口を開いた。
「やっぱりハンサムな子だね。私は最初から目をつけていたんだ」
「背も高くて美しい……最高の逸材だよ。練習中に見せたあのバネ、忘れられないね」
褒め言葉の矢が次々に飛び、望月の耳までが赤く染まる。頭を下げたまま、顔を上げることができず、ただ小さく肩をすくめて受け止めるしかなかった。
そして、最後に如月が前へ進んだ。背筋を正し、わずかな逡巡ののちに、きっぱりと名を名乗る。
「第五期生……新――いや、如月麗よろしくお願いします」
深々と礼を取ったその瞬間――リビング全体の空気が爆発的に変わった。
「キャーッ!麗ちゃーん!」
「待っていたよ、ハニー!」
一斉に響く黄色い声。
豪奢な部屋の壁が震えるほどの歓声に、如月は思わず顔を上げる。視線の先では、ハニーカーストの面々が一斉に立ち上がり、手を振り、身を乗り出していた。
なかにはクッションを抱きしめたまま跳ねる者や、星でも見るような目でうっとりと見つめる者までいる。明らかに島村や望月への反応とは熱量が桁違いだった。
「な、なんだよこれ……」
如月は困惑の声を漏らす。戸惑いと驚きに眉を寄せ、足元を確かめるように一歩後ずさった。
その様子を見ていた皇は、唇の端をゆるめ、得意げな微笑を浮かべる。
「やっぱりモテモテだね、麗は」
挑発めいた声音に、如月は思わず皇を振り返る。
「どういうことだよ……これ……」
その問いは震え混じりで、半ば悲鳴に近かった。
だが、返ってきたのは皇の含み笑いだけだった。如月が小声で問いかけると、皇は肩をすくめるように説明する。
聞けば――先のカナレ戦を、この部屋で全員が観戦していたのだという。
その熱狂がいまだ冷めきらず、興奮ごと部屋に持ち込まれた状態で迎えられたのだ。
如月は思わずため息をついた。
だが、視線の先ではまだなお、ハニーカーストの面々が少女のように瞳を輝かせ、歓声を送っている。
――そして、ふと如月の視線が部屋の隅に積まれた布団へと止まる。
高級感あふれる空間の中に、まるで旅館の大広間にあるような布団の山が無造作に積まれている。そのミスマッチに、如月は眉をひそめ、思わず声を上げた。
「翼さん、あれ何?」
問いかけながら、指先で布団の山を示す。ふわりとしたカバーが重ねられ、枕まで整然と積まれている光景は、この空間にはどうにも馴染まない。
「ああ、今日はここでみんなとパジャマパーティーさ。そのまま一緒に寝るんだよ」
皇は当たり前のように微笑んで告げる。その声音にはまるで悪びれた様子がなく、むしろ楽しげな響きすら混じっていた。
次の瞬間――如月は思わず声を荒げてしまった。
「はぁ!?そんなの一度も聞いてねえぞ!」
如月の声が部屋に響き渡る。予想外の展開に思わず語尾が裏返り、布団の山を指さしたまま、目を見開いている。
「だって、言ってないもん」
皇は小首を傾げ、指先で頬をちょんと突きながらぶりっ子めいた仕草をする。無邪気に言い切るその姿。如月は即座に食ってかかった。
「もんじゃねえよ!」
ぴしゃりと鋭いツッコミが飛ぶ。その瞬間、周囲からは小さな笑いがこぼれた。やり取りを見ていたSAKEBIは、口元をゆるめてにやりと笑う。
「安心するッスよ。僕らも通った道ッスから」
肩をすくめながら、どこか懐かしむような口調だ。
「楽しいぞ!これから始めるパジャマパーティーは!」
カナレは胸を張り、両手を腰に当てて高らかに宣言する。その瞳は妙に輝いていて、経験者としての余裕すら漂っていた。
ますます不安になる如月の耳に、今度は澄みきった声が飛び込んでくる。
「よし!全員、布団を敷くんだ!」
皇の号令は楽しげでありながら、どこか有無を言わせぬ迫力を帯びていた。
「はいっ!」
ハニーハンドたちは声を揃え、全員が同時に動き出す。その統率の取れた動きは、まるで軍隊の演習か舞台の一幕のようだった。布団は音を立てずに広げられ、シーツは一瞬でシワなく張られていく。
豪奢なリビングは、ほんの数分で様相を一変させた。
ついさっきまで高級ホテルのスイートのようだった空間が、いまはまるで旅館の大広間。畳こそないが、隙間なく並べられた布団の列と、きちんと揃えられた枕の整然さが妙に異様で、滑稽ですらある。
「なんか……この部屋と調度品にミスマッチじゃねえか?」
如月が呆れを隠さずにぼやくと、皇は返事もせずににこにこと笑い、その頭を優しくなでた。
その仕草は子どもをあやすようでいて、どこか「逃げ場はないよ」と言外に告げる圧があった。
そして皇は布団の中央へと進み出ると、両腕を大きく広げて高らかに宣言した。
「それでは――第5回!スリープ・ザ・お布団プロレスを開催する!」
その瞬間、如月たち以外の選手から「おおーっ!」と歓声が上がり、布団の海が一気に熱気を帯びる。
如月はその光景を前に、完全に言葉を失った。
「なんだよそれ?……寝たいのに……勘弁してくれよ……」
頭を抱えながら心の中で呻く。試合の疲労がまだ抜けきらぬ体には、この「遊び」が何よりも過酷に思えた。
時計の針は、すでに23時を指していた。