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第30話:女王の待つ場所

 長い一日を終え、如月は控室の横にあるシャワー室で汗を流し、ジャージ姿に戻った。廊下はひっそりと静まり返っているが、外ではまだスタッフが後片づけや来場客の誘導に追われており、慌ただしさが残っている。


 あのスタジアムを揺るがした観客の熱狂は、客が帰路につき始めた今もなお、遠くから絶え間なく響いていた。


 熱狂の余韻を背に受けながら、如月は静まり返った廊下を歩き、その余韻をまといながら廊下を進んでいくと、自室の前に人影が見える。近づくにつれ、それが一人の女性であることがはっきりとした。


「如月さん、今夜から本館の方へ移っていただきます。申し訳ありませんが、すぐに準備をお願いします」


 声をかけてきた女性スタッフは、どこか急を要する様子だった。短くそう告げると、手にしていた本館の部屋のカードキーを如月に差し出す。


 如月が受け取った瞬間にはもう、女性スタッフは足早に背を向け、慌ただしく立ち去ろうとしていた。


 その説明で、部屋移動だとわかった。


 本隊に合流してからの騒がしさですっかり忘れていたが――ギフト訓練に合格したことで、いよいよ本館へ移る時が来たのだ。如月は「了解」と声を上げ、部屋へ飛び込むと、せわしなく荷物を詰め始めた。


 スタッフが用意した段ボールを組み上げ、ひとつひとつ荷物を詰めていく。その単調な作業のなかで、ふと考える。


 この世界で如月という女性の身体に入ってから――いや、それを“転生”と呼んでいいのかもわからないが――すでに三週間ほどが過ぎていた。


 いま手にしている私物は、どれも自分のものではない。その奇妙な違和感に突き動かされるように、最後の荷物へと手を伸ばす。それは、如月が笑顔で写る家族写真を収めた写真立てだった。


 写真の中の如月は、制服姿で柔らかく微笑んでいた。


 その笑みを見つめるうちに、如月の体に魂を宿す“英二”は、何とも言い表せない感情に突き動かされる。


(彼女は俺で、俺は彼女……それなら、彼女の魂は……?)


 ふと浮かんだ疑問を封じ込めるように、写真立てを荷物の上にそっと重ねる。如月は段ボールを抱えて立ち上がり、最後に部屋の明かりを落とした。


 その何気ない仕草の裏に、説明のつかない不安と、言葉にならない寂しさがよぎった。


 荷物をひととおりまとめ終えると、如月は段ボールをしっかり抱え上げた。


 名残惜しさを胸に、静まり返った部屋をあとにする。扉を閉める音が、やけに大きく響いた。


 そのままドアの前に立つと、如月は思わず背筋を伸ばし、深々と一礼していた。


 ――何故か、体が勝手に動いたのだ。


 廊下には人影ひとつなく、静まり返っている。そこでふと気づく。


「……そういえば、本館ってどうやって行くんだ?」


 随分と慌てていたのだろう。気がつけば、スタッフの姿はすでに消えていた。行き先を告げられることもなく、ただ慌ただしい気配だけが残っている。如月はひとまず階段を下り、ロビーへと向かう。


 そこには島村と望月の姿があった。どうやら二人も本館へ移動するよう指示を受けたらしい。


 彼女たちの腕にも、如月と同じ段ボール箱が抱えられている。目が合うと、二人は自然に笑みをこぼし、気心の知れた友人同士らしく軽く会釈を交わした。


 やがてニコニコとした笑顔を浮かべながら、親しげに如月のもとへ歩み寄ってきた。


「如月、待ってたよ!」


 にこやかに手を振りながら、望月が明るい声で言う。


「さあ、行きましょう!」


 普段は消極的でおとなしい島村まで、頬を紅潮させて弾んだ声を上げる。


 その表情は嬉しさに輝き、まるで先頭に立つのを楽しんでいるかのようだった。


「なんだ、わざわざ待ってくれてたのか?」


 如月がそう言うと、望月は肩をすくめながら笑った。


「どうせ本館の場所、知らないでしょ?先輩が連れてってあげるから、ついてきなさい!」


 同期なのに、楽しそうに先輩ぶる望月。


 その姿がおかしいのか、島村がくすくすと笑った。


「先輩って言っても、一日だけじゃないですか」


 三人のやり取りに温かさが混じる。


 望月は二人より二日早く施設に入り、仮住まいを涼子に紹介されていた。


 ――実は彼女は遠く離島から出てきたばかりで、心細さを抱えたまま施設に足を踏み入れたのだという。


 その初日のことを思い出す――。


 空港からの長い道のりに疲れ果て、心細さを抱えたまま辿り着いた玄関口で、偶然出会ったのが涼子だった。


 人を食ったように笑うその顔は、どこか怪しくも頼もしく、彼女にとって最初に出会った“都会の先輩”だった。事情を察した涼子は、施設のスタッフに掛け合い、泊まれる部屋を手配してくれたのだという。


 ただし、その時ににやりと笑いながらこうも告げられた。


『お嬢ちゃん……もしテストに受からなかったら、一週間、私のところで働いてもらうよ』


 軽口や脅しともつかぬ言葉に、当時の彼女はただ必死にうなずくしかなかった。


 その悪戯めいた台詞が頭をよぎり、如月は思わず肩をすくめた。


 やがて三人は島村の先導で本館へ向かう。カードキーを差し込み扉を開けると、夜の光に浮かぶガラス張りの長い回廊が現れた。


 両側の窓の向こうには、ライトアップされた洋風の庭園が広がっている。整然と刈り込まれた生け垣や花壇、中央の噴水。彫像や石畳までもが柔らかな光に縁取られ、幻想的な景色を作り出していた。


 静寂の中、三人の足音だけが回廊に響き渡る。厚いガラスに囲まれた通路は、外界と切り離された異空間のようで、歩くたびに自分たちの存在だけが際立つ。


 まるで夢の中を漂っているかのような感覚に、如月は無意識に吐息を漏らした。


「俺、こっちには来たことないな」


 ぽつりと呟いた如月の声が、回廊の奥へと吸い込まれていく。すると島村が、抑えきれない高揚を隠さぬ調子で答えた。


「ここは……ギフト訓練を終えて、正式に“選手”として認められた人しか来られない場所なんです」


 その目はきらきらと輝き、足取りも自然と速くなる。壁に映る自分の姿をちらりと見て、誇らしげに背筋を伸ばした。


 望月が怪訝そうに眉を寄せる。


「……あんた、こっちには来たことないって……」


 如月は肩を竦め、苦笑を漏らした。夜、眠れないときがあると、暇つぶしに歩ける範囲をあちこち探索していたのだ。


「はぁ……」と望月は深々と溜め息をつき、呆れ顔を隠そうともしなかった。


 やがて回廊の突き当たりに、両開きの扉が姿を現した。島村がカードキーを差し込み、ゆっくりと扉を押し開けると――。


 その先に広がった光景も見て、三人は思わず息を呑んだ。


 視界いっぱいに巨大なホールが広がり、床一面を覆う黒大理石は磨き抜かれ、鏡のように輝いている。天井からは幾筋もの光を放つシャンデリアが降り注ぎ、その光が大理石に反射して、空間全体を幻想的な煌めきで包み込んでいた。


 正面には重厚なカウンターが据えられ、その奥には背筋を真っ直ぐに伸ばしたコンシェルジュらしき人物が二人、まるで彫像のように微動だにせず立っていた。


 磨き込まれた大理石の床は照明を淡く反射し、館内に漂う静謐せいひつと格式が、訪れる者を一瞬にして呑み込む。


 ――それは、テレビの中でしか目にしない5つ星高級ホテルのロビーさながらであった。


 三人は足を止め、その場から動けずにいた。


「えっ……何……ここ?」


 望月が目を丸くし、呆然とした声を漏らした。隣の島村もまた言葉を失い、ただ口を半開きにしたまま立ち尽くす。


 一方で如月は、驚きよりも半ば呆れたように小声でつぶやいた。


「こりゃまた……すげえな。どんだけ儲けてんだ?」


 如月がぼそりとつぶやいた瞬間、その声に応えるかのように、広々としたロビーの中央に置かれた重厚なソファから人影が立ち上がった。


 艶やかなブロンドを揺らしながらゆっくりと姿を現したのは皇だった。その動きは舞台の幕開けのように緩やかで、視線を集めることに一片の迷いもない。


 続いて、彼女の両脇から飛び出すように立ち上がったのはカナレとSAKEBI。三人はまるで待ち構えていた役者のように、光に照らされて如月たちの前に並び立った。


「――いらっしゃい、ハニーたち。ずっと待ってたよ」


 皇の低く艶やかな声が、磨き上げられた大理石の床に反響し、ロビー全体を包み込む。


 その笑みは慈愛にも見え、同時に支配者の余裕を漂わせていた。


 皇は笑顔を浮かべたまま、両腕を大きく広げると、三人まとめて勢いよく抱き寄せた。


 その抱擁は温かさよりも力強さが勝っており、愛情というより支配を誇示するかのようで、不気味なほど強かった。細身の腕からは想像もつかぬ圧力が込められ、三人の身体がひとつに押し潰されていく。


 特に真ん中にいた如月は、まるで挟み撃ちに遭ったかのように逃げ場を失い、二人に比べて余計に力が入っていた。皇の豊満な胸に顔を押しつけられ、呼吸はすぐに浅く乱れる。


 甘やかな香りが鼻腔を満たし、耳の奥をじんわり痺れさせる。柔らかな感触に全身を包まれながらも、その心地よさと裏腹に、確実に窒息の恐怖が迫っていた。


「ぐっ……ぐるじぃ……たしゅけ……」


 必死の呻きも空しく、皇の腕はさらに締まり、骨が軋むような感覚すら走る。


「姉さん、そのくらいで。如月さん、本当に死んじゃいうッス!」


 SAKEBIが慌てて声を上げる。切羽詰まった声音に、さすがの皇もようやく力を緩めた。


 解放された如月は大きく咳き込み、肩で荒く息をつきながら涙目で顔を上げる。頬は真っ赤に染まり、髪も乱れ、見るからに瀕死の様相だった。


「……ごほっ……ごほっ……皇さん……なんで俺だけ……」


 涙目のまま息を荒げながら、如月は声を絞り出す。


「悪いのはカナレの方だろ……」


 控室の件が原因だろうと察しはついた。


 その抗議めいた言葉は掠れて弱々しかったが、理不尽さを訴える熱だけは確かににじんでいた。


 皇は芝居がかった仕草で大げさにくるりと回り、その裾がふわりと広がる。視線だけを鋭く如月に向けながら、女王めいた声音で答えた。


「カナレのお仕置きは――もう済ませたから」


 その一言に、三人の視線が自然とカナレへと吸い寄せられる。彼女の頬には、試合後のセレモニーで皇が纏っていたタキシードのスパンコールの痕が、まるで刻印のようにくっきりと残り、いまだ淡い熱を孕んだ赤みを帯びていた。


 だが当の本人は気にする素振りもなく、豪快に笑い飛ばす。


「はっ、はっ、はっ!いつものことだ!私は気にしてない!」


 その明るさが逆に痛々しく、望月と島村は思わず顔を見合わせた。


 一方の皇は、そんなカナレの様子にかえって力が抜けたのか、肩を落とし、ため息混じりに視線を逸らした。


 だが次の瞬間、皇は女王の容貌を取り戻し、艶やかに口元を歪めた。


 その笑みには慈愛と支配、そしてどこか含みのある甘さが同居している。


「大事な妹たちが――ようやくこの愛の巣に来てくれたんだ。丁重にもてなすのが、女王であり……姉である私の役割だよ」


 言葉の端々に柔らかな響きがありながら、その声音はやけに甘ったるく、囁くように耳へまとわりつく。まるで恋人に向けた愛の告白めいていて、望月と島村の頬は思わず赤く染まる。


 一方で如月はぞくりと背筋に悪寒が走り、内心で低くぼやいた。


(……大丈夫か、この人……いや、絶対やばい……)


 胸の奥にざらついた感覚を抱えたままも、足は止まらない。皇の背を追うしかなく、三人はそのまま彼女に導かれていった。


 ――そして。


 皇の案内で進むホールは荘厳そのものだった。


 エントランス付近では黒大理石の床がひんやりとした輝きを放っていたが、奥へ進むにつれてその質感は変わり、やがて深紅のウール絨毯へと切り替わっていく。足裏に伝わる感触が硬質な冷たさから柔らかな温もりへと変わり、三人は無意識に歩調を緩めた。


「足元の大理石、気づいたかい?」


 皇が振り返り、得意げに口を開く。


「あれは何百年も前から王侯の館を飾るためだけに選ばれてきた大理石さ。ただの石とは訳が違う」


 さらに歩みを進めると、頭上から燦然と光が降り注ぐ。ロッククリスタル製のシャンデリアだった。結晶はひとつひとつ角度を計算して磨かれており、光はまるで舞台照明のように床を照らす。


「見惚れるだろう?本物は、光の扱いすら芸術なんだ」


 皇の声には、誇示と甘美な自慢が入り混じっていた。


 足元に視線を戻せば、今度は深紅の絨毯。細かな模様が一面に織り込まれており、踏みしめるたびに柔らかさと重厚さが伝わってくる。


「これは特注品だよ。熟練の職人が時間をかけて織り上げた逸品。触れればすぐわかる、本物の芸術だ」


 皇の言葉に、望月と島村は圧倒されるように頷き、如月は思わず肩をすくめた。


 その声音には、所有する者だけが抱ける誇りと、誇示せずにはいられない優越感が滲んでいた。


 初めて足を踏み入れた如月たちは、ただ息を呑むばかりだった。黒大理石の硬質な輝きから、深紅の絨毯の柔らかな感触、そして天井から降り注ぐ光の海――どれもが圧倒的で、空間そのものが1つの舞台装置のように思えた。


 聞けば、このホールの意匠はすべて皇の趣味が反映されているらしい。


「最初はね、社長好みの無骨で渋いデザインだったんだ」


 皇はシャンデリアの下でくるりと振り返り、肩をすくめてみせる。その仕草は、まるで舞台女優が観客に秘密を打ち明けるかのようだった。


「でも、こんなのじゃ女王の巣にはふさわしくないだろ?無理を言って、ぜんぶ変えてもらったのさ」


 その言葉に気負いはなく、むしろ誇らしげに、そして悪びれる様子も一切ない。


 煌びやかな空間を背にした皇は、自らの欲望と美意識を臆面もなく晒す姿こそが「女王」であるとでも言うように、堂々と笑っていた。


 「一応言っておくけどね」


 皇は歩みを止め、わざとらしく片手をひらひらと振った。


「これはあくまで私のわがままを、本田社長が聞いてくれただけ。女王として特別な権限があるわけじゃないんだ。“女王”はただの“名誉職”ってやつさ」


 その軽い口調を耳にして、如月の脳裏に1つの記憶がよぎる。


 ――社長室に呼び出されたあの日。

 背後から迫る斎藤の鋭い眼光、張り詰めた声が耳に蘇る。


『これは社長と、Queen’s Crown優勝者である皇が決めたことだ。女王の命令は――絶対だ』


 あの時は誰もが逆らえぬ威圧として響いた言葉。


 だが今目の前にいる皇は、そんな重みなどどこ吹く風とばかりに肩を揺らし、楽しげに微笑んでいる。


「……じゃあ、あれって……」


 如月は思わず口を開いた。眉間に深い皺を寄せ、半ば自分に言い聞かせるように低くつぶやく。


「……あの時の“女王の命令は絶対”って……」


 記憶に焼き付いた斎藤の威圧的な声を口にした途端、皇はくすりと笑った。


 その笑みはどこか妹をからかう姉のようで、けれど冷ややかな余裕も滲んでいる。


「そうだよ、ウソさ。斎藤さんの方便だよ。あの人、そうやって Queen Bee の女王って立場に威厳を保ちたわけなんだ。かわいいだろ?」


 軽やかに言い放たれた一言に、如月は肩透かしを食らったように固まり、思わず視線を落とす。


 胸の奥に広がるのは怒りではなく、力の抜けるような落胆。してやられた――そんな感覚だけが残った。


 そうしているうちに、一行は寮へと移動するためのエレベーター前にたどり着いた。皇がスイッチを押すと、低い音を響かせて扉が開く。内装は全面がガラス張りで、照明に照らされた光沢が鏡のように映し出される。


 皇は待ってましたとばかりに、芝居がかった声で説明を始めようとする。


「これは標高8000mの――」


「もういい……」


 如月は思わず遮った。疲れ切った声音で顔をそむける。


 皇は不満げに眉をひそめ、言いたげに口を開きかけたが、やがて何かを含んだ笑みを浮かべて黙り込むと、寮がある階のボタンを押した。


(今日はもう、いろいろありすぎた……早く寝よ……)


 如月は大きく息を吐き、重たい体をエレベーターに預ける。


 だが、このときの彼女はまだ知らなかった。この先で待ち受けているのが休息ではなく――新たな試練の幕開けであることを。

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