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第3話:新しい体との対話

 部屋のカーテンレールに無造作にかけられた一着のジャージが目に入った。少し使い込まれた生地には、襟元にうっすらと汗染みが残っている。背中いっぱいにプリントされているのは、鋭い眼差しの蜂が王冠を戴く団体ロゴ。周囲を囲む円には堂々と《QUEEN BEE》の文字が刻まれ、《THE ONES WHO RULE THE RING》と掲げられていた。


「リングを支配する者たち」


 これは、おそらく、ここの練習着なのだろう。そう思いながら袖に腕を通すと、生地は思ったよりも肌になじみ、まるで昔から自分のものだったかのようにすら感じる。その不思議な感覚に一瞬戸惑いながらも、英二――いや、如月は時間がないことを察し、さっさと着替えを済ませて部屋を出る。


 階段を下りると、そこにはロビーらしき空間が広がっていた。広々としたスペースに古びたソファがいくつか並べられ、壁際にはテレビや飲み物の自動販売機が設置されている。誰の姿も見えないが、生活感のあるこの場所は、長年誰かが使い続けてきたことを物語っていた。


 そのロビーの奥には、別棟へと続く引き戸がある。後ろからパタパタという足音が近づいてきて、年若い少女が一人、息を弾ませ、ジャージ姿のまま、そのまま勢いよく引き戸に手をかける。


 ガチャッ——。


 勢いよく開け放たれたドアの音がロビーに響いた。少女は一瞬足を止めたものの、迷いを振り払うように再び駆け出していく。すれ違いざま、彼女は如月に気づき、ぺこりと小さく頭を下げた。


 「おはようございますっ!」


 その声には、張りつめた緊張と抑えきれない興奮が同居していた。何かに挑もうとする目。朝の冷たい空気の中に、ふっと立ちのぼったその熱を、如月は肌で感じ取った。少女がこの場所で生きていることを、如月は直感で理解した。


 残された引き戸の隙間から、熱気のようなものがわずかに漏れてくる。如月はゆっくりと手を伸ばし、そのドアを開けた。


 ガチャ……。


 戸の向こうに広がっていた景色を前に、思わず息を呑む。


 「……でかっ」


 そこはもはや道場という言葉では足りなかった。天井の高い広大な空間に、リング、マット、ミット、バーベル、そして最新鋭のトレーニングマシーンがずらりと並んでいる。ジムと体育館の中間のような施設。まるでプロのアスリートが使う専用トレーニングセンターのようだ。


「すっげぇ……うちの何倍の広さだ?」


 自然と口から感嘆の声が漏れた。IWAの道場とは比較にならない広さと、整然と並んだ最新の設備、張り詰めた空気。


 そして限界まで自分を追い込んだ者だけが放つ、あの独特の汗の混じった匂い——。それらすべてが、如月の胸を強く打った。


 初めて見るはずの光景なのに、どこか深い部分がざわつく。心ではなく、筋肉が反応している。骨が、関節が、まるで「帰ってきた」とでも言うように。この場所で、体が何かを思い出している。言葉にはできない、でも確かに刻まれている感覚だった。


 如月は無言のまま、しばしその場に立ち尽くした。目を細めるその先には、かつて幾度となく立った“あの場所”と同じ熱が、確かにあった。


 すでに数人の女子選手たちが、床の上で黙々とストレッチを始めていた。誰もが真剣な表情を浮かべ、身体のすみずみまで意識を巡らせるような動きで、自分自身と向き合っている。その姿は、一見するとごく普通の若い女性たちのようにも見えるが、どこか芯の強さを感じさせる雰囲気をまとっていた。


 年齢や見た目は、今の如月とほとんど変わらない。むしろ彼女たちの中に自分が混ざっていても、違和感がないと思えるほどだ。


 ふと壁際に目をやると、白くたたまれた柔道着や各種トレーニング道具が、理路整然と順序よく並べられており、その光景はまるで軍隊の装備庫のようだった。そこには無駄が一切なく、秩序と規律が息づいている。


 空間全体からは、「遊び」や「お試し」といった甘さを許さない空気が漂っていた。まさに“本物”のプロレス育成の場。その場に足を踏み入れただけで、自然と背筋が伸び、胸の奥で熱が灯ったかのように感じた。


「久々だなこの感覚」


 如月は静かに輪の中へと歩み寄り、他の選手たちにならって床に腰を下ろした。緊張感の漂う空気の中で、自分もまたこの場に溶け込んでいくように、自然と呼吸が整っていく。


 ゆっくりと脚を開き、股関節を意識しながらストレッチを始める。まずは左右にじっくりと重心を移し、少しずつ可動域を広げていく。そして深く前屈——。かつて酷使しすぎて、痛みとともに動かなくなっていたはずの自分の体が、今は何の抵抗もなく、スムーズに動く。


「おぉ!……」


 思わず声が出てしまった。驚きだけでなく、わずかな誇らしさが滲んでいた。だが同時に、それは自分の努力だけの結果ではない、という確かな実感もあった。


(——これは、壊れた自分の体じゃない)


 過去に限界まで酷使し、ボロボロになった体とは明らかに違う。可動域の広さ、筋肉のしなやかさ、そしてどこまでも澄んだ感覚。これは「新しく与えられた器」そのものが持つポテンシャルだった。


 床に手をついたまま、如月は静かに息を吐いた。内側から湧き上がるエネルギーが、まるで眠っていた本能を呼び覚ましていくように感じられた。肉体の記憶は、確かに過去から受け継いだもの。でも、その器は新しい。今、自分は本当に“戦える体”を手に入れている——そう確信できた。


「おお……軽っ……」


 何十年も忘れていた感覚。若く、柔らかく、反応が速い。まるで新品のスポーツカーに乗り換えたかのような快適さに、心が躍る。


 ふと気配を感じて隣を見やると、小柄な少女がストレッチの姿勢のまま話しかけてきた。


「如月さん、すごく体が柔らかいですね!」


 180度開脚しながら如月はにやりと笑ってその少女に、返す。


「そうかい?これくらい準備運動にもなってないぜ」


 そう言って、そのまま開脚した状態から体を持ち上げ、器用に倒立してみせる。周囲の女子選手たちが「おおっ」と小さくざわめく。


 だが、その平和な時間は長く続かなかった。


「集合ーっ!」


 突如、体育館全体に響き渡る鋭い号令。反射的にビクリと肩が跳ねる。


 その瞬間、それまで黙々とストレッチをしていた全員が、まるで糸を引かれたようにピタッと動きを止めた。そして一斉に、迷いなく指示された方向へと駆け出していく。無駄な動きは1つもなく、統率の取れたその様子に、如月は一瞬見とれそうになる。


「おぉ……中々いい動きだ」


 慌てて体勢を立て直し、如月も遅れまいと後を追う。新しい体は軽く、足もスムーズに動く。だが頭がついていかない。心拍数が一気に跳ね上がる。


 しかしそれは緊張感というより、なぜか心地よく懐かしい。この空気、忘れていたはずなのに深いところにずっと残っていた感覚が、今、呼び起こされた気がする。


「いいねー、この感じ……」


 集団行動。緊張感。息のそろった一体感。若手時代の記憶が一気によみがえり、胸の奥がざわついた。


 だが、その余韻を吹き飛ばすように、再び怒声が飛ぶ。


「如月!さっさと集合しろ!」


 声の主に目を向けると、そこには明らかに異質な存在――コーチらしき男が立っていた。女子プロレスの道場に男が指導者としていることに驚きながらも如月は、その顔に浮かんだ薄ら笑いを見て違和感を覚えた。


 選手たちはすでに柔道着に着替えはじめていた。下にはタンクトップと短パン。誰もためらう様子はなく、当たり前のようにジャージを脱ぎ、次の準備を進めている。


 一方の如月は、その様子にやや戸惑いながらも、空気を読んで柔道着に着替えようとした――そのとき。


「あっ!」


 甲高い声が場に響き、数人が同時に振り返った。


「如月さん!下っ!」


 警告のような叫びに、如月は思わず手を止めて足元へと視線を落とす。次の瞬間、目を大きく見開いた。


 ジャージの下にあるべき短パンは――存在せず。視界に飛び込んできたのは、パンツ一枚という無防備な姿だった。


「……うわっ、やっべ……!」


 心臓が跳ね上がる。冷や汗が背筋を伝い、頬が一気に熱を帯びていく。慌てて腰に柔道着を巻きつけながら、必死に下半身を隠す。如月にとっては不覚の極みだった。


 焦りから普段の習慣をすっかり忘れていた。もともとジャージの下に短パンを履かないという性分が、こんな場面で裏目に出るとは思いもしなかった。


 周囲では、一瞬息を呑む気配のあと、小さな笑いがこぼれ始める。気まずさがじわじわと広がり、如月の耳まで真っ赤に染まっていった。


「いや、その、申し訳ない……」


 口から出たのは、心底場違いな謝罪の言葉だった。頭では状況をどうにか収めたいとわかっているのに、言葉はうまく出てこない。


「謝られても……」


 返ってきた声は、戸惑いと呆れが入り混じったもの。場の空気が微妙にざわめき、いっそう如月の肩を押し下げる。


 小さくうなだれながら、そそくさと着替えを進める。指先は急いているのに動きはぎこちなく、布の感触さえ妙に気に障る。早く終わらせてしまいたい――その一心だった。


 先ほど声をかけてきた少女が、首をかしげながらさらに一言を投げかける。


「ねえ如月さん、もしかして……ブラ、つけてないの?」


 ピタリと動きが止まった。


 瞬間、全身の血が耳へと集まるのを感じる。如月は無意識に胸元へ手を当てた。布越しに伝わる小さな突起の感覚。そこに――男だった頃にはなかった、わずかなふくらみが確かにあった。


 わずかな盛り上がりに触れただけで、自分のものなのにどこか他人の体を触っているような妙な違和感が走る。そこが存在している事実を認めたくないのに、指先は確かにそれを感じ取ってしまう。


 周囲の空気がざわりと揺れた。囁き声、くすくすと笑う声、興味と好奇心の入り混じった視線。そのざわめきの渦の中で、如月の神経を最も逆撫でしたのは――男のコーチの目だった。


 ただ見ているだけではない。観察でもなければ、心配でもない。


 じっと、なめるように。獲物を品定めするかのように。いやらしさを隠そうともしない視線が、容赦なく胸元や腰回りをなぞる。まるで皮膚の上を這いずり回るような視線の重さに、呼吸が浅くなる。


 ゾクリ、と背筋を冷たいものが這い上がった。鳥肌がぶわりと立ち、腕を擦りたくなるほどの不快感が一気に込み上げる。唇は自然と歪み、吐き出される言葉は低く、鋭かった。


「……気持ち悪りぃ」


 思わず、声が漏れた。低く、小さな声だったが、棘のあるその言葉は、自分の中に渦巻いた拒絶感そのものだった。誰に聞かせるでもなく、誰に届く必要もなかった。ただ、口に出さなければ、自分を保てないほどの嫌悪だった。


 感情が喉元までこみ上げてきて、言葉という形で吐き出すしかなかった。それほどに、あの視線は――“同性”としても生理的に受けつけなかった。


 それでも、練習は容赦なく始まる。静けさを切り裂くように響くコーチの声が、体育館中にピンと張り詰めた空気をさらに研ぎ澄ませた。


 コーチは一歩前に出ると、無駄のない動きで腕を組み、全体をぐるりと一瞥いちべつした。無言のまま圧を放つその姿に、誰もが言葉なく背筋を伸ばす。


 「円陣を組め」


  再び短く、的確な指示。選手たちは即座に反応し、畳を踏み鳴らしながら円陣を組むように身体を動かした。その一連の動きにも、経験と規律が刻まれている。


 如月も、すっと足を運び、その輪の一部へと身を委ねた。肩がふれる距離に他の選手がいる。呼吸の音が聞こえる。熱気が伝わる。——この場所に、自分は今、確かに立っている。


 どうやら、ここからは連続組手が始まるらしい。コーチの声が、静かに場の空気を裂く。


 「――よし!島村、望月。中央へ」


 一瞬の沈黙。次いで、輪の中の空気がピリッと張り詰めた。呼ばれた名前のひとつ、「島村」は、先ほど如月に気さくに話しかけてきた、あの小柄な少女だった。どこか幼さを残しながらも、芯の強そうな目をしていたのを、如月は覚えている。


 少女――島村は、躊躇なく立ち上がると、軽やかに円陣の中央へと歩み出る。その背中にはもう、先ほどの柔らかい雰囲気はなかった。まるでスイッチが切り替わったように、静かな闘志が全身から立ちのぼっている。


 一方、「望月」という名には心当たりがなかった。だがすぐに、茶髪のポニーテールを揺らす体格の良い選手が立ち上がり、島村の正面に歩み寄った。


 如月は円陣の一角から、ふたりの様子をじっと見つめる。先ほどまで隣にいた少女が、今は“対戦相手”として、全く別の顔をしている。その変化が鮮烈で、どこか眩しくも感じられた。


 如月は、まだ慣れない体の感覚に微かな戸惑いを覚えながら、円陣の外から島村と望月の動きを追っていた。


 柔道着の擦れる音、畳を踏みしめる足音、そして女子特有の甘さを含んだ汗の匂い。男だった頃には馴染みのなかった感覚が幾重にも押し寄せ、思わず喉が詰まりそうになる。だが、それすらも今は「現実」として飲み込まねばならなかった。


 息を吐き出し、視線を鋭くする。


 島村の構えに一切の迷いはない。望月もまた、正面から堂々と受け止めようとする。二人の間に張り詰めた空気は、観客のいないこの道場を一瞬で「戦いの舞台」へと変貌させていた。


 如月の胸の奥で、止まっていた歯車が再び動き出すように熱が芽生えた。


 ――新しい肉体、新しい環境、そして新しい自分。それでも、プロレスへの情熱と闘う魂だけは何ひとつ変わらない。むしろ、目の前で若きレスラーたちが火花を散らすほど、その炎は強く燃え上がっていく。


 如月の目が鋭く細められ、真剣な光を宿す。その表情には、迷いを断ち切った覚悟が浮かんでいた。


「……とりあえず俺がどう進むか、ここで決めてやる」


 小さな独白は、誰にも届かない。だがその瞳には、すでに傍観者の曇りはなかった。戦いを前にしたレスラーの光が、確かに宿り始めていた。

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