第28話:讃美歌と鉄槌
如月は勝ち名乗りを受ける。
掲げられたその右腕に、観客と仲間の歓声が渦を巻くように重なり合い、リング上には鮮烈な光と影――。
勝者と敗者の対比がくっきりと浮かび上がった。
その瞬間、スタジアム全体が揺れる。割れんばかりの拍手、歓喜と驚嘆が入り混じる音の奔流が、如月の存在を祝福するかのように押し寄せる。
実況席から古田の熱を帯びた声が響く。
「今回の試合、とても新人同士の戦いとは思えません!」
声がマイクを通じて増幅され、会場の熱狂をさらに煽る。観客は立ち上がり、拳を突き上げ、誰もがこの瞬間を焼き付けようとしていた。
その声をもかき消すほどに、観客の声援は試合終了後も鳴り止まなかった。歓声は波のように寄せては返しリングを中心に広がっては収束する。
その響きは、ただの喝采ではない。
まるで――新たな女王の誕生を祝う讃美歌のように、整然と、しかし圧倒的な熱狂となって会場全体を包み込んでいた。
如月はその渦中に立ち、全身で声援を浴びながら、思わず息を漏らす。
「……すごい熱量だな。こんなの初めてだ」
所属していたIWAのリングでさえ、これほどの一体感に包まれたことはなかった。海外遠征に出た時も、確かに観客は熱狂していた。
ブーイングと歓声が、嵐のように飛び交った。
だが、あれは激しさと荒々しさに満ちた熱であり、今この場を支配する温度とは違う。
ここにあるのは、もっと純粋で、もっと真っ直ぐな想い。如月の戦いそのものを讃える光のような声援だ。敵味方の区別すら超えて、ひとりの選手の存在を受け入れ、祝福する。
それは如月がこれまでに経験したどのリングでも味わえなかった、初めての熱狂だった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。勝利の喜びとはまた別の、言葉にできない衝動が心を揺さぶる。
(……これが、この世界でリングに上がるということか)
如月は拳を握りしめ、観客の方へ深く頭を下げた。歓声はさらに膨れ上がり、まるで天井を突き破るほどの轟きとなった。
高らかに如月の右手を掲げたレフリー・斎藤が、低くも力強い声で告げる。
「――それだけ今日の試合内容が素晴らしかったということだ。胸を張れ、如月……」
その言葉は称賛であり、同時に試練を乗り越えた者への餞のようでもあった。
鋭い眼差しはなおも厳しさを湛えていた。
だが、その奥底には拭いきれぬ哀愁がほのかに差している。一瞬――ほんの刹那、斎藤の視線はリング中央に大の字となって倒れ伏す天道カナレへと流れた。
決して贔屓をしていたわけではない。レフリーという立場上、そんな感情を持ち込むはずもない。
だが――カナレの奔放さ、観客を巻き込む天真爛漫なファイトスタイル。あの明るさと真っ直ぐさは、どこか眩しく、斎藤自身にとって心地の良いものだった。
入団から日が浅いはずなのに、気づけば目をかけ、時に叱咤し、時に励ましてきた。知らず知らずのうちに、彼女を教え子のように思っていたのだ。
だからこそ、勝者を称える言葉の裏に、敗者を気遣う想いが同居してしまう。
――リングに倒れる少女を見つめるその横顔には、レフリーとしての矜持と、人としての情が複雑に入り混じっていた。
如月もまた、隣に立つ斎藤の横顔を見た瞬間、胸の奥に古い記憶がよみがえる。それは、自らの師――アルフォンスとの日々。
無骨で、時に冷酷に思えるほど厳しかった。だがその叱責の裏には、必ず温かい眼差しと深い愛情があった。痛みと共に刻まれた教えの数々は、如月の骨の芯にまで染みついている。
(……師弟っていうのは、こういうものなのかもしれない)
斎藤とカナレを見つめるその一瞬に、かつての自分とアルフォンスの姿が重なり、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
勝利の余韻に浸るよりも、その絆の重みを思い返す自分に、如月はわずかな驚きを覚えていた。
――と、その静かな内省を破るように。
気づけば――ぐらつく身体を引きずりながら、カナレはゆっくりと立ち上がっていた。顔には青痣、肩で息をし、満身創痍であることは誰の目にも明らか。
だが次の瞬間、唇からこぼれ落ちたのは、まるで冗談のような軽やかな一言だった。
「いや〜、負けた負けた!」
その飄々とした声に、観客席からどっと笑いが起こった。
試合の緊張を引きずる空気が一瞬にして和らぎ、会場に温かな笑いが広がる。重苦しい敗北の色など微塵も見せない。
それこそが、天道カナレという存在を象徴する明るさだった。まるで、痛みすらも冗談に変えてしまうかのように、リング上の空気を鮮やかに塗り替えていく。
軽口を叩くその姿に、傷心の影はない。
飛び級で本隊入りを果たし、さらにはTMHチャンピオンという肩書きを手に入れた彼女。輝かしい実績を持ちながら、敗北を潔く認めるその姿勢こそが、観客の心を掴んで離さない。
それはただの負けではなく、彼女自身の強さを映し出す証明でもあった。
如月は思わず笑みを浮かべる。自然と微笑を交わし、互いの存在を確かめ合うように視線を合わせる。
その瞬間、レフリーの斎藤が如月の腕を静かに離した。
「如月っち!私の負けだ。今までの無礼、許してくれ!」
深々と頭を下げるカナレ。その真っ直ぐな謝罪に、観客席から再び大きなどよめきが走った。勝者と敗者。
その境界を超えて、リング上には清々しい敬意の光景が広がっていた。
だが、次の瞬間カナレはすっと顔を上げ、まだ荒い呼吸のまま視線をリング下へ向けた。
そこでは、リングアナの田辺が試合の締めを進めるため、マイクを手にリングへ上がりかけていた。
――まさにそのタイミングだった。
「田辺さん!マイク貸して!」
突如飛んできた要求に、田辺は思わず足を止める。会場にも小さなざわめきが走った。
唐突な要求に、空気が一瞬揺らいだ。観客席からも「え?」「何?……」と小さなざわめきが漏れる。
如月の胸にざらりとした違和感が走る。
(……嫌な予感しかしない)
恐る恐る斎藤の横顔を伺えば、その眉がぴくぴくと動いていた。無言の圧。彼女を知る者なら誰もが知っている。
――これは「我慢の限界が近い」サインだ。
(やばい……本当にやばい……)
しかし、すでに流れは止められなかった。止める間もなく、カナレは勢いよくマイクを掴み取った。
そして――。
「会場のみんな!聞いてくれ!」
爆音のような第一声がスピーカーを震わせ、観客席を一瞬にして静寂へと変えた。あれほど熱狂していた数万人が、まるで呪縛にかかったかのように息を呑む。
その光景に、如月は呆れるよりもむしろ感心していた。
(……本当に、天然だな)
計算など一切ない。ただ思うままに放たれる声が、なぜか会場全体を支配してしまう。それはカナレだけが持つ不思議な力だった。
次の瞬間、彼女の声はさらに力を帯びる。
「私は今日、如月っちに負けた!でも後悔はしていない!」
その宣言は澄み切った鐘の音のように響き渡り、観客の胸を直撃する。静寂の中に、じわりと感情の波が広がっていく。
観客が一斉に呼応する。
「カナレー!最高だ!」
「次は絶対に勝ってくれよ!」
声は次々と重なり合い、フロア全体が温かな熱気に包まれていく。先ほどまで勝敗の緊張に支配されていた会場が、いまや彼女を励ます希望の声で満ちていた。
その中心に立つカナレは、息を荒げながらも胸を張り、無邪気な笑みを浮かべる。
「むしろスッキリしてるくらいだ!」
言葉通り、晴れやかな笑顔だった。敗北を恥じるどころか、むしろ清々しささえ漂わせる。観客はその姿に再び歓声を返し、会場の熱はさらに高まっていった。
赤コーナ側のコーナーポスト近くで見守る斎藤の厳しい表情も、知らず知らずのうちに和らいでいく。敗者であっても胸を張る姿に、彼女の成長を確かに見て取ったのだ。
叱りつける必要も、慰める必要もない。
――その背中はもう、次のステージに向かって歩き出している。
一方で如月の胸には、意外な感情が芽生えていた。勝者であるはずの自分が、いまこの瞬間、一番輝いて見えるのはカナレだと感じてしまう。
(……俺も、まだまだだな)
その嫉妬に似た想いは、静かに胸の奥で燃える挑戦心へと変わっていった。
だが、思いを形にする間もなく、カナレが再びマイクを掲げる。その動きに観客の視線が一斉に集中し、空気が張り詰める。
「今回の勝負――完全な如月っちの勝利だ!私は認める!如月っちこそが……ツバサさんのパートナーだと!」
瞬間、会場は大爆発した。割れんばかりの大歓声が四方から押し寄せ、まるでスタジアム全体が地鳴りを起こしているかのよう。観客は立ち上がり、拳を突き上げ、涙ぐむ者すらいた。
「如月ー!おめでとう!」
「早くタッグの姿を見せてくれ!」
その声の奔流は如月へと雪崩れ込み、全身を包み込んでいく。思わず息を呑む如月。歓声の熱が肌を突き刺し、勝者としての責任の重みが、ずしりと肩にのしかかってきた。
だが、カナレはさらに畳みかける。
「ツバサさん!来てくれ!」
会場の空気が一変した。
次の瞬間――闇。
照明が一斉に落ち、スタジアムは漆黒に沈む。観客は一瞬息を呑むが、すぐに歓声と悲鳴が入り混じる熱狂の渦に変わった。
轟音とともに、皇翼の入場曲《Fortune Bloom》が響き渡る。イントロの一音が鳴り響いた瞬間、スタンド全体が割れるような叫びを上げ、観客のボルテージはこの日最高点へと跳ね上がった。
地を揺るがす大歓声。割れるように瞬くスポットライト。無数のペンライトが波打ち、光の海がうねる――。
そのすべてが、皇翼ただ一人のために用意された舞台装置であるかのようだった。
そして、ついにその姿が現れる。
観客の熱狂を一身に浴びながら、タキシードに身を包んだ皇が花道を悠然と進む。派手な演出など一切ない。ただ歩くだけで場を支配する。気品と威厳を纏い、しかもどこか自然体。
その余裕こそが、彼女を唯一無二の存在にしていた。
「キャー!お姉さま!」
「翼様!こっち向いて!」
歓声に応えるように、皇は軽やかに視線を投げ、片目を閉じてウィンクする。それだけで悲鳴が上がり、数人の観客が熱に浮かされたように倒れ込む。スタッフが慌ただしく駆け寄る光景すら、演出の一部に見えてしまうほどだった。
リング上でその光景を見ていた如月は、苦々しいような、しかしどこか清々しい笑みを浮かべた。
「……完全に持ってかれたな」
嫉妬とも敗北感とも違う。皇翼という存在の圧倒的な力を、ただ素直に認めざるを得なかった。
リングに舞う皇の一言が、さらに会場を揺るがす。
カナレからマイクを受け取ると、指先で軽やかに弄び、観客を一望する。薄く笑みを刻み、わざとらしく肩をすくめて――。
「――やあ、ハニー達!」
たった一言。その声音がマイクを通じて響いた瞬間、会場は炸裂した。悲鳴のような歓声、床を震わせる足踏み、ペンライトの光が乱舞し、スタジアム全体が生き物のようにうねる。
その轟音は嵐を超え、まるで大地ごと揺るがすかのようだった。皇は観客の反応を余裕の笑みで受け止め、ゆったりと続ける。
「今日は、私の大事な妹たちの試合――そして、私のパートナーを争う戦いでもあった……」
言葉の一つひとつに観客が反応し、歓声が波のように押し寄せる。この空間を支配するのは、もはや誰でもない。完全に、皇翼その人だった。
そして――彼女はマイクを高らかに掲げる。
「そして、選ばれたのは……彼女。如月麗!」
スポットライトが一斉に切り替わり、リング中央の如月を白光が照らし出す。会場がどよめき、熱狂が一気に如月へと向かう。
粋な振る舞いに、如月はわずかに動揺しつつも、胸を張って堂々と立つ。まるでこのリングが、自分自身を誇示する舞台であるかのように。
観客席から歓喜の声が降り注ぐ。
「如月!おめでとう!」
「お姉さまを守ってあげてー!」
称賛と期待が渦となり、如月の背中を強く押していた。
そのさなか――カナレはふらつく足取りのまま、皇へと歩み寄る。
観客は「何をする気だ?」とざわつき始める。
――だが、次の瞬間。
カナレはためらいもなく皇の手からマイクを奪い取った。
「あっ!」
思わず皇の口から素の声が漏れる。いつも冷静沈着な彼女にしては珍しい、完全な不意打ちだった。観客も一斉に息を呑む。何万という視線が、カナレへ突き刺さった。
しかし当の本人は意に介さない。奪ったマイクを握り締めると、肺いっぱいに空気を吸い込み――。
「みんな!聞いてくれ!」
爆音がスピーカーを震わせ、さっきまで歓声に包まれていた会場は、逆に水を打ったような静寂に変わった。現・Queen Bee女王である皇の宣言をかき消すかのような一言。誰もが凍りつき、言葉を失っていた。
だがカナレは止まらない。
「私は、今日から如月っちとタッグを組むことに決めた!」
その突拍子もない告白に、観客は一瞬反応できず、ただ呆然と彼女を見つめる。如月は額に冷や汗を浮かべ、斎藤はこめかみをピクピクと痙攣させていた。
(……やっぱりやらかした)
それでもカナレは得意げに続ける。
「これを見てくれ!カメラさん!」
胸元から取り出したのは、透明なファスナー袋に収められた一枚の用紙。リング下のカメラマンに突き出し、掲げるように高く振りかざす。
それは――先日の祝勝会で、仲間のSAKEBIに作らせた「言質証明の紙」であった。内容は――。
本日、祝勝会の席上において、以下の件について当事者間で合意が成立したため、ここに書面として記す。
一、天道カナレは、皇翼のタッグパートナーの座を賭けて、如月麗に対し一対一の試合を申し込むものとする。
一、如月麗はこれを受諾し、正式な試合において勝敗をもってその座を決定することに同意する。
一、試合の勝者をもって皇翼の正規タッグパートナーと認め、敗者は異議を唱えないものとする。
日付は「20XX年3月25日」、場所は「Queen Bee施設内多目的ホール」と記されている。
署名欄にはすでに、カナレ、如月、そして立会人であるSAKEBIの名前が力強く並んでいた。それぞれの横には朱の拇印が押され、紙面に鮮烈な色を刻んでいる。一見すると、きちんとした正式書類に見える。
――しかし、よく目を凝らすと妙な違和感が浮かび上がった。
文面の一部が、明らかに手書きで修正されているのだ。「皇の正規タッグパートナーと認め」の箇所に無理やり二重線が引かれ、その上から拙い字で「皇および、カナレの正式タッグパートナーと認め」と書き換えられている。
しかもご丁寧に、訂正印として押された拇印が、本文のあちこちへ乱雑に散らばっていた。まるで子供がスタンプ遊びでもしたかのように。
会場の大型スクリーンにその紙が映し出された瞬間、観客から「えぇぇ!?」と大きなどよめきが広がる。如月は思わず頭を抱え、皇は口を半開きにして呆然と立ち尽くした。
――そして控室。モニター越しに映像を見ていた三人が、同時に同じ結論へ至る。
「……有印私文書偽造罪ッス」
「何考えてんの、あの子……」
「まぁ……行動力はすごいですけど……ね……」
三者三様の声が重なり、重苦しさと失笑が入り混じる空気に包まれる。
画面に映るのは、悪びれる様子もなく胸を張るカナレ――その無邪気さこそが、最大の罪であった。
会場の大型ビジョンに、勝ち誇ったようなカナレのドヤ顔が映し出された――その瞬間。
「ゴンッ!」
斎藤の拳が、雷鳴のような勢いで振り下ろされる。乾いた衝撃音がリングに響き渡り、会場全体にまで震えを走らせた。
その一撃は、試合中のどんな技よりも鋭く、そして容赦なく重かった。
モニター越しに見ていた観客は一斉にざわめき、次の瞬間、大爆笑と歓声が入り混じった。
「今のが今日一番の決まり手だろ!」
「斎藤さんナイスぅー!」
実況席の古田も、思わず絶叫する。
「か、完全に決まりましたぁぁっ!本日のリング最強の一撃は……レフェリー斎藤のゲンコツです!」
カナレは痛みに悶絶しながら、リング上を七転八倒する。観客は笑いと驚きの入り混じった歓声を上げた。
「ぎゃぁぁぁ!痛いぃぃぃ!」
断末魔のような悲鳴が響き、さらに会場の爆笑を誘う。その姿は、勝敗以上に観客の記憶に焼き付くインパクトを残していた。
――だが、そのドタバタ劇を別の場所で目にしている者がいた。
煌びやかなシャンデリアに照らされたプライベートバーの一室。重厚な革張りのソファに腰掛け、長い脚を組むひとりの女性。ロングのウェーブがかった茶髪が肩から流れ落ち、その陰影が彼女の表情をより艶やかに見せている。
すらりと背の高いその姿はソファにあっても存在感を放ち、彼女は手元のグラスを弄びながら、机の上のタブレットを見つめ、ふっと笑みを浮かべた。
切れ長の瞳にわずかな艶を宿し、その目元は、見る者を惹きつける美しさを湛えていた。
「なんやこれ?あいかわらず笑わしてくれるやんか、――夢路ちゃん」
その声は一見、子供をからかうような軽やかさに満ちていた。だが耳を澄ませば、その底には鋭い刃のような響きが潜んでいる。
笑い混じりの調子は嘲りに近く、けれど決して無関心ではない。むしろ、獲物を弄ぶ猛獣の声音だった。
軽快な口調の裏に漂うのは冷ややかな圧――油断すれば喉笛に食らいつかれそうな息遣いが、言葉の隙間からじわりと滲み出していた。