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第27話:神眼の証明

 リングを中心に、熱が渦を巻いていた。数万人の視線と声援が一点に集中し、その熱量はもはや空調やコンクリートの壁すら押し返すほど。


 歓声は地鳴りのように床を震わせ、観客の興奮と期待が巨大な嵐となってアリーナ全体を飲み込んでいた。


 中央に立つ二人の姿は、その渦の核。


 ――まさに、この瞬間のために世界が存在しているかのようだった。


 両者が一歩も譲らず、ただリングの中央で立ち尽くす。それだけで、アリーナ全体は地鳴りのような歓声と熱気に包まれ、壁が震えているかのようだった。


 観客の誰もが、次に繰り出される一撃こそが勝敗を決する瞬間だと悟っていた。


 息を呑む者、拳を突き上げる者、涙を浮かべる者――数万人の想いが1つに収束し、空気が張り詰めていく。


 最終局面。


 まさに、この一瞬のためにすべてが積み重ねられてきた。


 実況席の古田は、もはや椅子に座ってはいられなかった。立ち上がり、身を乗り出し、両目を限界まで見開いてリングを凝視する。装着したヘッドマイクには汗が滲み、胸は激しく上下し、鼓動が声と一体になって喉を突き破ろうとしていた。


 抑えきれない興奮と緊張を、ただ声に乗せてぶつけるしかない――。


「さあ!如月選手、完全にこの場を制したか!左目の《神眼》が勝利へと導くのか!?」


 その声は、単なる実況を超えていた。祈りにも似た叫びがスピーカーを震わせ、さらに観客を熱狂させる。地鳴りのような歓声が押し寄せ、スタジアムの屋根すら吹き飛ばしかねない勢いで揺れる。


 観客の視線はすべてリングの中心に注がれていた。数千、数万の眼差しが一点に収束し、二人のレスラーを射抜く。如月とカナレ――この瞬間、彼女たちはただの選手ではなく、観衆の魂を背負った存在となっていた。


 ――その只中で、如月は静かに右目を閉じる。


 残された左目だけで、正面に立つカナレを射抜くように凝視していた。


 その眼差しには常人の知覚を超えた集中が宿っていた。確かに今――ギフト《神眼》が発動している。


「……やっぱり、こうした方が精度いいな」


 低くつぶやく声。左目だけに宿る特異な力。


 その光が未来の断片をかすかに掴み取る。その代償として、いつのまにか右目を閉じる癖がついていた。まるで余分な情報を遮断し、残る一点にすべてを注ぎ込むかのように。


 だが、それは同時に致命的な欠点でもある。


 ――ギフトの使用を悟られれば、相手に阻害される危険があるのだ。一手先を読まれれば、その瞬間に戦況はひっくり返る。


 それでも如月は微動だにしなかった。胸の奥で静かに腹を括る。来るなら来い。すべてを見切って、すべてを避る。自分の未来は、己の眼でこじ開けると――。


 キィィィン――。


 頭の奥で金属を擦り合わせるような甲高い音が鳴り響く。左目の奥が熱を帯び、視界に淡い残像が浮かび始める。未来の断片、不完全な可能性の数々が、糸のように彼女の眼へと絡みついていった。


 見えるのは、カナレがリング中央で大の字に横たわる姿。確かに「勝利の映像」はそこにあった。


 だが、その手前を覆い尽くすのは数え切れぬほどの“別の未来”だった。


 ――カナレの反撃を浴び、吹き飛ばされる如月自身の姿。顔面を撃ち抜かれる未来。マットに沈められる未来。敗北の光景ばかりが何重にも折り重なり、左目の奥を焼き付けていく。


 両腕を封じても、カナレの怪物じみた身体能力は健在だった。特にパワーにおいては、如月はどう足掻いても一段劣る。


 不用意に大技を狙えば、待っているのは破壊的なカウンター。かといって持久戦に持ち込んでも、先に息が切れるのは自分だ。先ほどからの空中殺法や連続攻撃で、スタミナはじわじわと削り取られている。


 つまり――時間が経てば経つほど分は悪くなる。 未来視が示すのは残酷なまでの現実だった。


 如月は強く奥歯を噛みしめ、低く吐き出すように呟いた。


「……速攻しかない」


 迷いを断ち切るような声。


 それは、神眼が突きつける地雷原を真正面から駆け抜ける、覚悟の宣言だった。長年の経験と勘が、全身の神経を焼くように訴えていた。――ここで決めろ、と。


「考え込んでる暇はねぇ……賭けるしかない!」


 如月は息を吐き切り、爆ぜるように前へ踏み込んだ。


 ダンッ!


 マットが大きく沈み、板は軋み鈍い音が会場全体へと広がる。衝撃がリングを伝い、最前列の観客の胸にまで響いた。


 その瞬間、スタジアムの空気が張りつめる。観客の喉が詰まり、次の展開を飲み込むように息が止まる。


 如月は加速を止めず、一気にカナレとの距離を消した。


 刹那、全身のバネを解き放ち、飛翔する。


 ――高速のソバット。


 鋭く伸び切った片脚が閃光のごとく走り、カナレの顔面めがけて突き出される。


 その速度は肉眼で追えぬほど。観客席からどよめきが爆ぜ、悲鳴と歓声が渦を巻いた。


 観客の歓声が爆発する。


「決まった!」と誰もが思い込んだ瞬間――。


 如月の伸びた足は、顔面を狙ったかに見せかけて軌道をずらし、鋭くカナレの首へと巻きついた。


 空中で身体ごとひねり、ぐるりと回転。そのまま背中合わせの体勢でマットへ着地する。


 意表を突かれたカナレの思考が、一瞬だけ空白になる。防御本能すら追いつかない刹那の隙。


 反応より早く――。


 如月の足がしなる鞭のように頭上をえぐる。鋭烈なオーバーヘッドキック!


 鈍い衝撃が場内に響き、カナレの身体がぐらりと揺れる。眉間に苦痛が刻まれ、抑えきれない呻き声が漏れた。彼女の体が、初めて前のめりに崩れる。


「今だ……!」


 如月の腕がカナレの腰をがっしりと抱え込むと、全身の力を籠めて爆発するように持ち上げる。


「うおぉぉりゃああッ!」


 雄叫びが会場の空気を震わせた。


 その声に呼応するように、観客は一斉に立ち上がる。数万の視線が一か所に突き刺さり、リング全体が巨大な心臓の鼓動のように脈打つ。今まさに、場内の熱が爆発の臨界点を越えようとしていた。


 如月はカナレを高々と担ぎ上げ、そのまま後方へ――豪快に倒れ込む。


 ――バックドロップ!


 ドォンッ!


 マットが大きくたわみ、重低音が鉄骨を伝ってアリーナ全体に響き渡った。観客の胸板を叩くような鈍い衝撃音。リングサイドのカメラまでも揺れ、画面越しの視聴者にすら震動を伝える。


 シンプルにして最も骨身に響く投げ。無駄のない破壊力が、確実にカナレの肉体を蝕んでいく。


 受け身を取る余裕すらなく叩きつけられたカナレの身体は大きく跳ね上がり、背中から焼けつくような痛みが走る。蓄積されたスタミナの消耗も重なり、意識は大きく揺らぎ、視界は霞んでいく。


 リング上では片膝をつき、必死に呼吸を整えようとするカナレ。その姿に、客席から悲鳴と歓声が入り混じった。


「如月ーッ!行けぇぇぇ!」


「カナレーッ!立ぇぇぇーッ!」


 応援は真っ2つに割れ、声の波がぶつかり合って会場全体を震わせる。熱狂、悲鳴、祈り――十人十色の声援が渦を巻き、リングはまるで巨大な嵐の目のようだった。


 霞む視界の中、カナレはうつろな目でリングを探す。


(……どこいった、如月っち……)


 揺れる意識の底で、なおも闘志の残滓が燃えていた。


(……今度は……私の番……)


 意識をかき集めるように、カナレは膝に手をつき、ぐらつく身体を無理やり起こした。全身の筋肉が悲鳴を上げる。視界は霞み、耳鳴りが鼓膜を震わせる。


 それでも――カナレは崩れない。


 だが、かろうじて焦点を結んだ視線の先。如月の姿はすでにリング端を向きトップロープの上に立っていた。


 観客のざわめきが膨れ上がる。張りつめた空気を裂き、如月が軽やかに跳び出す――スワンダイブ!


 しなやかな身体が宙を描き、ライトを背負って流星のごとく飛翔する。


 その一瞬、時が止まったかのように観客は息を呑んだ。


「ここしかない!」


 如月の心臓が高鳴る。狙うは決着の一撃。未来視の神眼に導かれた道筋――そのすべてを賭けた飛翔だった。


 一方で、カナレの瞳もまた獣のように光る。


 朦朧とする意識の中、それでも直感が叫んでいた。これを受ければ終わる。逆転するなら――今しかない!


 全身の残り火をかき集め、カナレは渾身の力で腰を落とし、迎え撃つ構えを取った。


 その姿は、まさに最後の一撃にすべてを賭ける挑戦者のそれだった。


 狙いは逆転の切り札――カウンターのパワーボム。


 飛び込んでくる相手の勢いを丸ごと抱え込み、そのまま叩き落とす必殺の逆転劇。スタミナを削られ、体中傷だらけ。それでも一度決まれば、すべてを覆す力がそこにはある。


(勝った……!今度こそ捕らえた!)


 カナレの瞳に確信が宿った。迫り来る如月の影をその両腕で受け止め、叩き伏せる瞬間を思い描いた――その刹那。


 如月の姿が、ふっと掻き消えた。


 いや、消えたのではない。飛び越えた。頭上を駆け抜ける流星のように、カナレをすり抜け、その背後へと抜け去っていた。


 観客が一斉にどよめく。まるで魔術のトリックを目撃したかのように、驚愕と歓声が渦を巻いた。


 カナレの両腕は虚空を抱き、重力に引き戻された身体はわずかに揺らぐ。


「よっしゃ、大当たり!」


 如月の声が響いた瞬間、すべてが理解できた。これは偶然のひらめきではない。左目に宿る《神眼》――未来視の導きが、確実に勝利への道を射抜いたのだ。


 対応が遅れるカナレ。振り向くよりも早く、如月は着地と同時に地を蹴った。


 一瞬で間合いを詰め、密着した距離――逃げ場のない至近距離で放たれる、ゼロレンジからのハイキック。


 ――バシィッ!


 乾いた衝撃音がリングに響き渡った。刃物のように鋭い蹴りがカナレの側頭部を撃ち抜き、カナレの視界が真っ白に弾け飛ぶ。


 脳に響く鈍い衝撃、足元から崩れていく感覚。意識が途切れるまでに要した時間。


 ――わずか、0.5秒。


 それで十分だった。如月にとっては、ほんの刹那の隙こそが勝機。狙い澄ましたその一撃が、すべてを決めた。


(……俺の読みの勝ちだ!)


 如月は胸の奥で確信を噛みしめる。


 ――これは未来視に導かれた結末ではない。


 神眼に頼った勝利ではなく、研ぎ澄ませた感覚と積み上げた経験で切り拓いた、己自身の勝利だと。


 乾いた強烈な音が響き、カナレの意識は刹那に吹き飛ぶ。身体が一瞬揺らぎ、重力に抗えず傾いだ。


 カナレの股下に腕を差し入れ、腰布を掴む。爆発するような気合とともに上体を反らし、カナレの体を逆さまに抱え上げた。


 観客席から悲鳴と歓声が入り混じる。「持ち上げた!」「いけー!」――そのざわめきをかき消すように、如月はさらに跳躍。


 180度の旋回――その瞬間、世界がスローモーションに変わる。


 観客の視線も、実況の声も、すべてが凍りつき、ただ空中に翻る二人の姿だけが映し出されていた。


 如月は両足を大きく開き、空中でその体勢を安定させる。


 逆さに担ぎ上げられたカナレの巨体が、その脚の間を通り抜けるようにして背面へと落下していく。


 ――ファルコンアロー!


 時間が止まったかのような刹那。スタジアムに詰めかけた何万人もの観客が、息を呑み、目を見開き、ただその瞬間を凝視していた。


 ――ドンッ!


 マット全体が爆ぜるように揺れ、鉄骨も軋み轟音がスタジアムに反響する。衝撃波が空気を震わせ、最前列の観客の胸にまで重低音が突き刺さった。


 大の字に沈むカナレ。


 カナレの両腕はもはや力を宿さず、天井のライトを映す瞳は焦点を結ばない。あれほど観客を圧倒し続けた体が、ついに動きを止めた――その光景はまさしく終焉を告げる一幕だった。


 会場には悲鳴と歓声が入り混じり、割れるような轟音が渦を巻く。涙を流す者、信じられないと首を振る者、そして熱狂で拳を振り上げる者。観客ひとりひとりの感情が爆ぜ合い、スタジアム全体が巨大な心臓のように脈打っていた。


 だが――如月は立ち止まらない。


 勝利を確信してもなお、一瞬の隙さえ残さぬ冷徹さで、間髪入れずコーナーへ駆け上がる。


 その背中は、ただ勝ち星を刻むだけの戦士ではなかった。


 観客の祈りを背負い、カナレを打ち倒す「証明」をリングに刻みつける存在へと変貌していた。


 助走もつけず、そのままコーナートップへ跳躍。


 宙を切り裂く、前方1回転半のボディプレス!


 ――ファイヤーバードスプラッシュ!


 華麗な弧を描き、夜空に瞬く彗星のごとく宙を舞う如月。


 その動きはあまりにも滑らかで、現実離れして見えるほどだった。まるで空中に重力が存在しないかのように――異常なまでの滞空時間。


 ほんの数秒のはずなのに、観客には永遠のように感じられた。時間が引き延ばされ、世界そのものが静止したかのように、誰もがただ一条の軌跡を見上げていた。


 その姿は人の技ではなく、奇跡そのもの。リング上に刻まれる伝説の瞬間を、何万人もの視線が固唾を呑んで追いかけていた。


 その中心で、如月の軌跡が光の矢となってカナレを射抜こうとしていた。


 ――ドォンッ!


 重なり合う肉体と肉体。如月の全身が大の字に沈むカナレへと突き刺さり、マットが大きくたわんだ。爆音のような衝撃音がアリーナの床を伝い、観客の胸を直撃する。


 次の瞬間――。


 観客の声が、ぴたりと止んだ。


 何万人もの息が一斉に凍りつき、スタジアム全体が「沈黙」という巨大な真空に包まれる。落下する一瞬の刹那が、永遠に続くかのように感じられた。


 そして――張り詰めた空気は決壊する。


 雪崩のような大歓声!


 轟音が爆ぜ、天井を突き破るほどの咆哮がスタジアムを揺るがす。観客は立ち上がり、拳を振り上げ、涙を流し、互いに抱き合う者まで現れる。


 フォール!


 レフリー・斎藤のカウント。


「――ワンッ!」


 観客の波。


「――ツーッ!」


 控室で島村・望月・SAKEBIが息を呑む。


 ――そして。


「……また……山勘……はずれちゃった……」


 カナレがかすかに呟く。


 その声は、誰に届くこともなく、マットに吸い込まれるように消えた。


「スリーッ!」


 乾いた音と同時に、試合終了を告げるゴングが響き渡る。


 レフリー・斎藤が如月の右手を高々と掲げる。その瞬間、アリーナが爆発した。大歓声、悲鳴、歓喜、悔しさ――数万人の感情が渦となり、スタジアムの天井を揺らした。


 リングアナ・田辺の声が、喧騒を切り裂くように響き渡る。


「23分15秒! 体固めで、如月麗の勝利!」


 その一言で、場内の熱狂はさらに沸点を超えた。旗が振られ、涙を流す観客の姿もある。誰もが今、自分が歴史的瞬間の証人になったことを理解していた。


 如月は大きく息を吐き、肩を上下させる。酸素を求めるように荒い呼吸を繰り返しながら、両膝に手をついて必死に体を支える。


 だが――その瞳は揺るがない。疲労と痛みを抱えながらも、そこに刻まれていたのは勝者の証明だった。


「はぁ……何とか勝てたな……」


 低く漏らしたその言葉には、安堵と、激闘を生き抜いた者だけが持つ重みがあった。


 顔に浮かぶ汗の雫ひとつひとつが、この23分15秒を物語っている。


 如月の背中には、ただの一勝ではなく――格上を倒したという決定的な歴史が刻まれていた。

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