第26話:封じられた剛腕
カナレとの対戦を控えたある日のこと。本道場へ向かう如月の背後から、やけに弾んだ声が飛んできた。
「如月さ~ん!やっと見つけたッスよ、カナレの試合動画!」
振り返ると、息を弾ませたSAKEBIがノートパソコンを胸に抱え、嬉しそうに駆け寄ってくる。
その顔には、まるで宝物を掘り当てた子供のような高揚感が浮かんでいた。
格闘技マニアの間で密かに知られるストリーミングサイト――BuzzMat。
違法アップロードの温床でありながら、プロや練習生たちもこっそり研究材料として利用するという曰く付きのサイト。
画面には無数の動画サムネイルが並んでいた。どれも荒い映像で、場内の照明の反射や歓声のノイズに埋もれている。
だがその粗さゆえに、逆に“本物の記録映像”であることを強調していた。
「お目当ての動画だといいッスけど……っと」
SAKEBIは片手でノートパソコンを器用に支え、もう一方の手でタッチパッドをクリックする。
カチッという小さな音。黒い画面が切り替わり、やがて荒い解像度の映像が再生を始める。
薄暗いアリーナ。ゴング直前、リング中央に立つ二人の影が揺れる。
そのうちのひとり――豪快な笑みを浮かべ、堂々とリング中央に立つ女性。デビュー戦のカナレだった。
観客に手を振るでもなく、虚勢を張るでもなく、ただ「全力でぶつかり合える喜び」に身を任せるような眼差し。
その飾り気のない闘志が、逆に観る者の胸を熱くさせた。
対するは「関節の鬼」と呼ばれる山崎多恵子。キャリアと技術を誇り、特に関節技の切れ味で恐れられるベテラン。
観客のざわめきがノイズ混じりにスピーカーを震わせ、映像越しにすら空気の緊張が伝わってきた。
ゴング。
二人が同時に踏み込む――。
ゴングが鳴り響くと同時に、山崎が一気に踏み込む。獣のように低く構え、素早くカナレの脚を絡め取った。得意の足四の字を狙った、流れるような鮮やかな連携でカナレの体はあっという間にマットへ引きずり倒される。
観客席からは「よし、決まった!」というどよめきが走る。キャリアに裏打ちされた職人芸の攻防。普通なら、この時点で新人は抵抗する間もなく捕らえられるはずだった。
だが――カナレは微動だにしなかった。表情はむしろ楽しげで、口元に豪快な笑みを浮かべている。まるで「もっと来い」と言わんばかりに、眉ひとつ動かさず構えを崩さない。
次の瞬間、足に絡みついた山崎のロックを、まるで絡まった紐を引きちぎるかの如く強引に解き放つ。ギフトすら使わない、純粋な身体能力だけで。
場内にざわめきが広がる。
そして――。
そのまま右手一本で山崎の首を掴み、ぐいと持ち上げる。
宙づりにされた山崎は慌てて逆十字絞を仕掛ける。必死にカナレの首を絞め上げるが――それも一瞬で打ち砕かれた。
黒鉄のような両腕に、異様なうねりが走る。ギフト《剛腕》解放。
隆起する筋肉の圧力と共に、十字に交差した両腕は引きはがされ、カナレは山崎を軽々と頭上へ掲げる。観客が総立ちになり、悲鳴と歓声が入り混じった。
まるで獲物を天へ捧げる処刑人のように――。
「うわっ……!片手で……!」
映像越しに聞こえる観客の叫び。
次の瞬間、カナレは全身の力を叩きつけるようにしてマットへ叩きつけた。
――ドォンッ!
鉄骨の軋みを伴う重低音がアリーナに響き渡る。マットが大きくたわみ、リング下のカメラがぶれるほどの衝撃。山崎の身体は跳ね上がり、ぐったりと崩れ落ちた。
試合時間、わずか30秒。
レフェリーがノックアウトを告げると同時に、観客席からは歓喜と恐怖入り混じる悲鳴が湧き上がった。
「ヒュー!すげぇ……」
思わず息を漏らした如月の顔には、素直な驚きが浮かんでいた。
だが、すぐにその瞳は細められる。感嘆や畏怖でもなく、冷徹な観察者の眼差し。リングを揺らした衝撃の奥に潜む“仕組み”を、探るように凝視していた。
観客席からは悲鳴混じりの歓声が渦を巻いている。「すげぇ!」「一撃で終わったぞ!」と声が飛び交い、会場の熱気は頂点に達していた。
だが如月だけは、その熱狂の外に立っているかのように静かだった。
SAKEBIが誇らしげに解説を添える。
「カナレのオリジナル技――《アルティメットボム》。滅多に使わないッスけど、破壊力はQueen Bee随一ッスよ」
如月はわずかに肩をすくめる。表情は呆れたようでいて、口元にはかすかな笑み。
「本当に……力技のごり押しか」
その声音は一見すると軽口。
しかし、その胸の奥では別の熱が静かに燃えていた。圧倒的な破壊力――それ自体は脅威だ。
だが、それが「力に依存する戦い方」である限り、必ず綻びがある。
如月の鋭い眼差しは、まるで獲物を観察する狩人のように、カナレの立ち姿を射抜いていた。言葉だけを聞けば皮肉めいている。
しかし、その横顔には計算する者の冷ややかな光が宿っていた。カナレの戦い方――力と勢いだけに見える攻防。その奥に潜む隙を、如月は確かに見出していたのだ。
「まだ別の試合動画もあるッスけど……」
ノートパソコンを操作しようとするSAKEBIに、如月は首を横に振る。
「いや、これで十分だ」
如月の低い声は、確信に満ちていた。迷いのない響きに、SAKEBIは思わず瞬きを繰り返す。やがて頬を赤らめ、抑えきれない笑みがこぼれた。
――この人なら、本当にやってのける。そんな確信が胸に芽生えていた。
そして今――。
リング上では、まさにその言葉の答え合わせのような光景が広がっていた。
カナレが如月の身体を抱え込み、必殺の《アルティメットボム》を狙う。場内は割れんばかりの歓声に包まれ、観客席の一人ひとりが息を止める。次の瞬間、勝敗が決まる――誰もがそう信じて疑わなかった。
だが、控室でモニターを食い入るように見つめるSAKEBIの胸中に、別の光景がよみがえる。数日前に見たBuzzMatの動画。あのデビュー戦の映像が、脳裏で鮮烈にフラッシュバックしていたのだ。
(……あの時と同じ体勢。いや、これは――“罠”ッス!)
呼吸が速くなる。背筋に冷たい汗がつたう。
画面の中で、カナレの足が大きく一歩踏み込む。その重い音がマットを震わせ、観客の鼓膜を揺さぶった。
――決着の合図。
カナレが勝利を確信したかのように、リング全体がその瞬間を待ち構える。
「よーし!決めるぜ!」
カナレの豪快な咆哮が天井を突き破るかのように響き渡り、スタジアムの空気が一気に爆ぜた。
観客席の熱は爆発し、無数の拳が宙を突き上げられる。まるで地鳴りのような足踏みの振動が床を伝い、アリーナ全体が巨大な生き物のようにうねり始めた。
実況席の古田も声を張り上げる。
「カナレ選手、必殺のアルティメットボムだぁぁぁ!」
その叫びはマイクを通してテレビの向こうにいる視聴者の心臓をも鷲掴みにし、画面越しでも圧倒的な決着の予感を叩きつけた。
――その瞬間。
如月の身体がわずかに傾ぐ。
だがそれは偶然の揺らぎではない。計算され尽くした仕掛け――意図的にカナレの進行方向へと重心を落とし込む動きだった。
ほんの一瞬の傾き。リングサイドから見れば気のせいにも思えるほどの僅差。だが、体を抱えるカナレにとっては決定的な乱れとなる。
支えとなる軸が狂い、両腕と脚にかかるバランスが一瞬にして崩れる。
場内の熱狂の裏で、控室のモニターを凝視していたSAKEBIの目だけが、その「仕掛けられた揺らぎ」に気づいていた。
「おおっと!? カナレ選手、アルティメットボム……不発か!?」
古田の声に、観客席からどよめきが広がる。歓声と困惑が入り混じり、熱気の波が一瞬乱れた。
すかさず如月は反動を利用し、空中で身体をしならせ脱出。背筋のバネを極限まで引き絞り、爆ぜるように前方へと回転。
両脚が矢のように突き出され、空気を切り裂く――蹴り!
その軌跡は鋭利で冷たい光を放ち、まるで抜き放たれた妖刀が宙を裂いたかのようだった。
――村正キック。助走で一気に加速した勢いを殺さず、空中で前方に大きく回転しながら放つ両足の浴びせ蹴り。英二のオリジナル技。
相手に直撃すれば、巨漢レスラーすらもマットに叩き伏せられる、一撃必殺の空中殺法である。今回は応用技の形で放たれたため、地を蹴る力が足りず、威力は半減していた。それでも効果は絶大だった。
次の瞬間――直撃。
カナレの左肩を容赦なく撃ち抜く。鈍い衝撃音が響き、カナレの膝がわずかに沈む。これまで一切揺るがなかったカナレの顔に、苦悶の表情が走った。眉間にシワが寄り、奥歯を噛みしめる唇の端から、かすかな呻きが漏れる。
会場からは悲鳴と歓声がないまぜになった雄叫び。観客は拳を振り上げ、ある者は顔を覆い、ある者は涙を浮かべる。熱狂と困惑が渦を巻き、アリーナ全体が混沌そのものに包まれていた。
――控室。
望月がモニターを指差し、思わず叫んだ。
「な、なんで!? 上体を傾けただけで、あのカナレの足腰が揺らぐなんて……!」
望月の声は驚きに満ちていた。カナレの圧倒的な安定感――それを誰よりも知るからこそ、今の光景が信じられなかったのだ。仲間として如月を信じたい気持ちと、目の前で起きている“あり得ない事実”との間で、胸の鼓動が跳ね上がる。
だが――隣に座るSAKEBIは、眉ひとつ動かさなかった。まるでリング上の攻防をすでに読み切っていたかのように、落ち着き払った声音で言い放つ。
「理由はカナレのスタミナ枯渇ッス。それが――如月さんの仕掛けッス」
淡々とした言葉。だがそこには確信と鋭さがあった。
その瞬間、控室の空気が一変した。望月の声で張り詰めていた緊張が、逆に押し黙るように凍りつく。島村も息を呑み、硬直したままモニターへと釘付けになる。呼吸の音すら憚られるほどの静寂――ただ映像の中で繰り広げられる攻防だけが、彼女たちの鼓動を支配していた。
説明が続く。
カナレは「全てを受け切る」スタイルのレスラーだった。相手の攻撃を正面から受け止め、豪快な力でねじ伏せる。それこそが彼女の誇りであり、観客を熱狂させる最大の魅力。ギフト《剛腕》はその象徴であり、発動すれば岩壁のごとき防御と鉄槌のような反撃を可能にする。
だが――それには致命的な弱点があった。力を振るえば振るうほど、スタミナを激しく消費してしまうのだ。全力で解放した状態では、3分も持たない。それ以上続ければ、体を支える膝も、鉄のような腕も、確実に悲鳴を上げる。
如月はそこを突いた。最初はカナレのマキシンラリアット、続くドラゴンスリーパー、そして鬼殺し――いずれも決めるつもりで仕掛けたわけではない。むしろ「敢えて受けさせる」ための布石だった。カナレがギフトを解放し、力でねじ伏せるたびに、スタミナを削らせていったのだ。
さらに観客を煽るような派手な空中戦や大技の応酬を仕掛け、カナレのプライドを揺さぶる。スタジアム全体が熱狂すれば、彼女がそれを無視できるはずがない。
――そうして如月は、最後、カナレに必殺の《アルティメットボム》を引き出した。
その瞬間こそが狙い。何分も前から織り込んだ策略が、いま結実しようとしていた。
控室の望月は、モニターに映る光景から目を離せずにいた。画面越しに見えるのは、如月の細身の体に絡みつくカナレの巨腕――。
そして外れるロックが、あり得ない形で揺らいでいる。理解が追いつかず、思わず声が震えた。
「で、でも……あのロックを外すなんて……そんな芸当、本当に可能なの……?」
その言葉には、困惑と恐怖がないまぜになっていた。自分がリングに立っていたら、同じように逃げ場を失い、力で押し潰されるのが当たり前――。
そう信じて疑わなかったからこそ、目の前の逆転は常識を裏切る奇跡にしか見えなかった。
沈黙を破ったのは島村だった。低い声で、しかし確信を孕んだ口調で呟く。
「……腕十字の時、手首を決めたんじゃないですか」
その一言で、望月はハッと息を呑む。思い返せば、如月が組みついた瞬間、ほんのわずかに、カナレの表情が歪んだように見えた。だが次の瞬間には持ち上げられ、気のせいだと思い込んでいた――。
SAKEBIは力強く頷き、言葉を重ねる。
「そうッス。腕十字は布石。本命は“手首潰し”ッスよ。アルティメットボムを封じるために、最初から仕込んでたんス」
望月は静かに、しかし押し返すように言葉を返した。仲間として如月を信じたい、でもどうしても理解が追いつかない――。
その葛藤が声ににじみ出ていた。
「でも……いくら手首を極めたって、体の軸まで崩れるわけないよ! あの足腰は鉄壁じゃない!」
言い切ったその瞬間、隣に座る島村がゆっくりと口を開いた。声は小さいが、確信を帯びていた。
「……多分、フェイントの低空ドロップキックで、膝にダメージを与えたからじゃないですか」
モニターに映し出される過去の一撃。観客が歓声に呑まれて見過ごしたかもしれないその瞬間を、島村は見逃していなかった。カナレの左膝がわずかに沈み、軸が狂ったあの一瞬――。
それが今につながっている。
SAKEBIは口元をほころばせ、にこりと笑う。
「正解ッス。あのドロップキックで膝を壊して、腕十字で手首を挫いた。二重に仕掛けを入れれば――どんな怪力でも“軸”はブレるッス」
SAKEBIの説明に、望月と島村は思わず息を呑んだ。彼女の言葉は軽く放たれたようでいて、その裏に潜む意味は重い。
――つまり、あの時点で《アルティメットボム》は既に封じられていたのだ。
観客からすれば偶然に見える逆転の瞬間も、実際は如月が緻密に敷いた布石の上で成立していた。膝を揺らし、手首を挫く。その全てが、カナレを追い詰めるための計算された一手だった。
控室の空気が凍りつく。モニター越しに映る光景は、ただの偶然でも勢いでもない――必然の積み重ね。そう理解した瞬間、三人の胸に戦慄が走った。
その説明に、望月は絶句した。
息が詰まる。
戦いのさなか、全身に汗を滴らせ、観客の轟音に包まれながら――如月はそこまで冷静に、先を読む計算をしていたのかと。
しかも、その意図を読み取り、言葉にできる二人の仲間がいる――。
胸の奥が震えた。羨望か、恐怖か、それとも憧れか。自分がその場に立っていたら、果たしてここまで見抜けただろうか。
望月は思う。間違いなくカナレと同じく翻弄され、力尽きていただろう――。
(……もし私が如月とプロのリングで対峙してたら、今のカナレと同じように追い詰められて……)
望月もまた、カナレと同じ身体強化型。《剛体》と呼ばれる全身強化型で、カナレの局所強化《剛腕》とは仕組みが違う。
だがシミュレーションすれば答えは1つ――今の攻防ではやはり同じ結末に至る。
その事実を認めた瞬間、望月の瞳にひらめきが走った。
「あっ……!じゃあ、さっきの左肩への攻撃も……?」
気づいた時には、声が自然と漏れていた。
あの一撃で、完全に《剛腕》は封じられていた。膝と右手首、そして左肩。力の源を立て続けに突かれたことで、カナレの最大の武器はこの時、すでに封じ込められていた。
リング上。左肩と左膝に鈍痛を抱え、右手は思うように動かせないカナレが、よろめきながらも立ち上がる。その姿は確かに傷ついているはずなのに、背筋は折れず、なお観客に「チャンピオン」の威厳を示していた。
対する如月は冷静そのもの。軽やかなステップを刻み、わずかに距離を測りながら、鋭い眼差しを逸らさない。呼吸も荒れず、まるで次の一手が既に決まっているかのような落ち着き。
「悪いな……これしか思いつかなくてな。今度は搦め手だ」
低く吐き捨てるような声。その響きには、覚悟と諦観、そして冷徹な勝負勘が滲んでいた。
しかし、カナレはなおも笑った。
「まだまだ!ギフトなんかなくったって、私は強い!……そうだろ、如月っち!」
豪快な声がスタジアムを揺らす。傷を抱えてなお、自らを誇るその姿に観客は総立ちとなり、両者の名を叫び続ける。
一瞬、如月は面食らったように目を細める。
だが、すぐに小さく口角を上げ、軽く会釈して応じた。
その仕草は「受けて立つ」という静かな宣言にほかならなかった。
――次が最後の攻防だ。
互いの視線が交錯した瞬間、両者は同時に悟る。
観客席からは割れるような大歓声。祈りにも似た絶叫がスタジアム全体を包み込み、リングを中心にひとつの巨大な生命が脈打つように震えていた。
控室の望月・島村・SAKEBIもまた息を飲み、三人の心臓は観客と同じリズムで高鳴り、まるで自分たちもリングに立っているかのように胸が焼ける。
「20分経過……」
アナウンスが告げるや否や、観客席からどよめきが広がった。開始から二十分――新人同士の一戦にしては異例の長期戦だ。
決着の瞬間を待ちわびる熱狂が、場内をうねりのように包み込む。拍手、声援、足を踏み鳴らす音が重なり合い、空気そのものが震えていた。
その渦の中心に、二人の新人レスラーが立っていた。汗に濡れた髪を振り乱し、荒い息を吐きながらも、その瞳だけは決して揺らいでいない。
観客の熱狂すら呑み込むように――互いを睨み合い、次の一手を探っていた。