第24話:割れる歓声
会場の大歓声が、まるで波のようにリング上の二人を飲み込む。
如月は、ほんの僅か、かすっただけなのに膝が一瞬揺らいだ。
――カナレのマキシンラリアット。
その衝撃は皮膚を裂いただけではなく、頭蓋の奥で脳を激しく揺さぶり、視界が一瞬ホワイトアウトするほど。常軌を逸した威力が、わずかな接触で如月の身体全体を痺れさせたのだ。
だが、足元が揺らいだのはほんの一瞬だけだった。膝が崩れかけたその刹那、如月は奥歯を噛み締め、全身のバランスを強引に立て直す。揺らぎを見せまいとするかのように、瞳に闘志の光を宿した。
そこへ畳みかけるように、カナレの右ミドルキックが唸りを上げて飛んでくる。
だが、その瞬間――如月の視線が鋭く閃いた。
――来る!
脇腹を狙った鋭いミドルキック。
その衝撃をまともに受ければ、試合の主導権を一気に握られる。
だが如月は踵を滑らせて衝撃を逃がし、すかさずその足首をがっちり掴み取った。
次の瞬間、如月は腰を深く落とし、体重を軸足に乗せる。内側へとひねり込むように一気に身体を捻り――ドラゴンスクリュー!
きりもみ状態の回転力がカナレの脚を襲い、ねじを打ち込むような衝撃が膝から腰へ突き抜ける。
その勢いのまま、カナレの身体は床へ叩きつけられた。
観客席からどよめきが爆ぜる。無駄な予備動作は一切ない。閃光のような切り返しに、カナレは思わず目を見開き驚愕する。
だが如月は間髪入れずに動いた。倒れ込むカナレへ滑り込み、腰を回しながら腕を絡め取る。狙うは首と腕――逃がさぬ獲物を仕留める捕食者の動きだった。
――ドラゴンスリーパー!
SAKEBIに伝えた通り、2つの締め点を“線で結ぶ”。完璧に計算された角度から、如月の前腕がカナレの喉元を深く食い込み、そして、後頭部をがっちりと固定する。
圧迫された血管が脈打ち、首筋の筋肉が浮き上がる。骨と筋肉が軋み、汗ばむ皮膚がすれ合い、呼吸が容赦なく奪われていく。密着した耳には――ぎしり、と骨のきしむ音が確かに伝わった。
「ぐ……ぅ……!」
カナレの顔が苦痛に歪む。ギフトの出力をあえて落とし、無駄に力で抗わず、ただ次の一瞬の逃げ場を探る。獣が罠にかかりながらも牙を研ぎ澄ませているように――。
その眼差しは決して死んではいなかった。
「カナレ! いけるか!?」
斎藤レフェリーの鋭い声に、ロックされていない右手が小刻みに動き――横に振られた。ギブアップではない、その意思表示に観客席から大歓声が沸き起こる。
次の瞬間、カナレの全身が震えた。筋肉が隆起し、両腕はまるで黒鉄を思わせるほどの硬さと迫力を帯びる。
――ギフト《剛腕》解放!。
そのまま掴んだ如月の腕をこじ開けると、締め上げていたロックは紙を裂くようにあっさりと解放された。
「マジか!?」
如月の驚きが漏れた瞬間、会場が爆発する。地鳴りのような「カナレ! 」コールが波のように押し寄せ、スタジアム全体を揺らす。
「締め点を線で結ぶ?――私に仕掛けるなら、“面”で来い!」
挑発めいたカナレの一言に、如月は一瞬だけ反応が遅れた。意味の読み取れない言葉が、わずかに迷いを生んだのだ。
その隙を逃さず、カナレは強靭な腕で如月を力任せにぶん投げる。
如月は受け身を取りつつ即座に転身。体を2回転させ、勢いそのままに旋風脚! 空気を切り裂く音が響く。
――だが、カナレは微動だにしない。黒鉄の両腕を交差させ、真正面から如月の旋風脚を受け止めてみせた。
衝突の瞬間、空気が爆ぜる。鈍い衝撃音がリング上に響き、振動がマットを通して観客席にまで伝わる。
如月の足に電流のような痛みが突き抜けた。
「っ……痛っ!」
苦悶の声を漏らし顔をしかめる。レガースがなければ確実に骨まで響いていた。致命傷は避けた――。
しかしその威力に、脚が一瞬痺れを覚える。
それでも如月は軽やかに着地し、バネ仕掛けのように跳ねると即座にステップを刻む。呼吸を整えながら、鋭い眼差しでカナレの動きを探る。距離を取るその姿に、観客は再び大きなどよめきを上げた。
まだ開始からわずか一分。だがリング上では、すでにメインイベントの終盤戦さながらの攻防が繰り広げられている。観客の熱は収まるどころか、刻一刻と高まり、スタジアム全体が1つの巨大な生命体のように脈動していた。
――その熱は、控室にも届いていた。
島村・望月・SAKEBIの三人は、設置されたモニターにかぶりつき、瞬きすら忘れて画面を凝視していた。試合映像の光が瞳に映り込み、顔を青白く照らす。汗ばむ掌を膝に押し付け、胸の奥で心臓が暴れ馬のように跳ねるのを必死に押さえ込んでいた。
「な、なんなの……?これ、本当に新人同士の試合なの……?」
望月の声は震えていた。驚愕と羨望がないまぜになり、思わず膝を抱きしめる。プロレスを学び始めてから頭に描いてきた「理想のデビュー戦」――。
その何倍もの光景が、いま目の前で繰り広げられている。
「……入場の時から堂々としていましたよね。如月さん、まるで何年もリングに立ってきたみたい……」
島村が呟く。唇は乾き、手は無意識に握り拳を作っていた。緊張が滲む声は、まるで自分が次に入場を控えているかのようだ。
SAKEBIは二人の言葉に相槌を打ちながらも、目を一瞬たりとも画面から離さない。唇を噛み、呼吸すら浅くなっている。
「すげぇッス……これが、これが二人の戦いッスか……!」
画面の向こうで繰り広げられる攻防は、彼女たちと同じ“新人”同士の闘い。
それでも、恐怖や迷いも見せず、大観衆の前で己の全てを叩きつけている。その事実が、三人の胸を圧倒していた。
まるでテレビの画面が鏡になったかのようだった。次にデビューするのは自分たち。歓声の中で躍動する如月の姿に、無意識に自分を重ね合わせ、背筋が震えた。
「……私たち、こんな舞台で戦えるのかな」
望月の小さな声に、島村が固く首を振る。
「やるしかないんですよ。だって――あそこが、私たちの目指す場所ですから」
SAKEBIは両拳を膝に押し付けたまま、低くうなるように答えた。
「……うん。二人なら絶対に立てるッス」
彼女たちの胸に燃える炎は、試合の熱と共鳴するようにさらに大きくなっていた。
「入場から堂々としてましたよね二人とも……」
島村も食い入るように画面を見つめる。
「SAKEBI……さんも、やっぱり緊張した?なれない海外のリングで?」
望月が恐る恐る問いかけると、SAKEBIは画面から視線を外し、振り返った。少し不満そうに眉を寄せる。
「……SAKEBIでいいッス。“さん”はいらないッス!」
語気を強めたあと、彼女はふっと息を吐き、再び画面に目を戻した。望月は少し戸惑い、頬を赤らめながら「……わかった」と小さくつぶやく。
だがSAKEBIの胸中には、望月の言葉でよみがえった記憶があった。
数週間前、彼女はTMH《Burst Empress》の大会にスポット参戦した。異国の巨大アリーナ、暗転と同時に響き渡る観客の地鳴り。見知らぬ言語で飛び交う罵声と歓声、会場を揺らす足踏みのリズム。
――“ここ”とは根本的に熱量の“質”が違った。
花道を歩く足元から、床の震動が靴底を突き抜けて心臓を叩いた。照明の閃光が網膜を焼き、体内の鼓動と重なって視界が揺れる。
あの瞬間、彼女は緊張で膝が笑っていた。けれど同時に、「これがリングだ」と魂が震えていた。
(……忘れられないッス。あの空気は、怖さと興奮が同時に押し寄せる波みたいだったッス)
画面の中で戦う如月とカナレ。
その姿は、かつて自分が味わったあの熱狂をさらに何倍にもして押し返してくる。
SAKEBIは思わず膝に力を込め、唇を噛みしめた。
「……うちの会場もデカいけど、TMHの会場は“観客がリングを飲み込む”感じだったッス。歓声や、笑いも、全部が壁みたいに迫ってきて……。正直、緊張どころの話じゃなかったッスよ」
その声には、苦笑と誇りと、ほんの少しの震えが混じっていた。
映像の中の二人――ほぼ同じ新人。
なのに大舞台で己をさらけ出し、観客を圧倒している。
その姿は三人の胸を焦がした。
「おっ!?」
思わず声を上げたのはSAKEBIだった。液晶モニターに映し出されたのは、宙を舞う如月の姿。
カナレは足に力をため、リングを蹴り割るかのような踏み込みから一気に距離を詰める。必殺――至近距離から放たれる「マイティータックル」。右肩を突き出し、全身の瞬発力を凝縮して叩きつけるその一撃は、スピアーのようでいて、さらに鋭く破壊力に特化した衝突。まさに“衝撃の塊”だった。
轟音が場内を揺らす。衝突の瞬間、如月の身体はくの字に折れ、まるで弾き飛ばされた人形のように後方へ吹き飛んだ。空気を吐き出した口元から鮮血が飛沫となり、宙に散る。ライトを反射した赤は、一瞬、花火のように観客席から見え、観衆の悲鳴と歓声を同時に引き起こした。
「やばいッス!」
「決まっちゃった……?」
控室でも島村と望月が息を呑む。観客席からは割れんばかりのカナレコール。スタジアム全体が地鳴りのような振動で響き渡っていた。
その勢いのままカナレは如月を押さえ込み、斎藤レフェリーが滑り込む。マットを叩く音が観客の心臓の鼓動と重なった。
「ワンッ!ツーッ――!」
誰もが決着を確信した刹那。
如月の瞳が鋭く光る。仰向けに押さえ込まれ、背中にカナレの重み。
だが腰をひねり、脚で隙間を作ると、するりと相手の背後へ滑り込む。
次の瞬間、両腕が首へ絡みつき、肘を支点に締め上げる――裸締め!観客には一瞬の逆転にしか見えない。
だが如月には、最初から描いた絵図だった。
――逆転の鬼殺し!
その瞬間、場内の歓声が悲鳴に変わった。
「ぐあっ!」
カナレの首がきしむ。頸動脈を圧迫され、血流が遮断される。わずか数秒で視界が暗く染まり、耳の奥で世界が遠ざかっていく。
力強い四肢が暴れ狂い、如月を引き離そうと必死にもがく。
しかし、その必死の抵抗すら如月にとっては好機だった。蛇のように身をしならせ、カナレの動きにシンクロするように体を左右へ振り回す。
そのたびに頸動脈への締め圧と解放が繰り返される。血流が一瞬途切れては流れ、再び止められる。脳が酸欠と供給の狭間で翻弄され、カナレの平衡感覚は大きく狂っていった。
「ぐ……ぅ……!」
歯を食いしばる声が漏れる。カナレの首に食い込む腕。頸動脈を締め上げる圧力がじわじわと増し、視界の端が暗く滲んでいく。
観客席からは悲鳴と歓声が入り乱れ、スタジアム全体が揺れ動く。
「耐えろカナレーッ!」
「決めろ如月――!」
声援が渦を巻き、まるで地鳴りのような振動がリングを震わせる。
だが、その熱狂の渦中にあって、如月だけは異様なまでに冷静だった。額を汗がつたい、口元からは血が滴っている。
それでも瞳は凍り付いたように冴え渡り、吐き捨てるように低く呟く。
「……正攻法じゃ、今の期間と調整じゃ勝てねぇから。悪いが――絡め技だ」
その言葉は観客には届かない。しかし、耳元で圧を感じ続けるカナレの耳には確かに響いた。
喉を圧迫され、肺が酸欠を訴える。血流は遮断され、頭蓋の奥で世界が遠ざかっていく。平衡感覚がぐらりと揺れ、己の肉体が誰のものでもないかのように軋み始める。
「ぐ、う……」
顔を歪めるカナレ。このままなら崩れ落ちる――観客の誰もがそう確信しかけた。
だが――その瞬間。
カナレの瞳が見開かれた。そこに宿ったのは、敗北の色ではなく、獲物を狙う獣の眼光だった。
「おおおおおおッ!」
咆哮と共に、カナレは自ら回転に身を委ねた。暴れるのではなく、むしろ如月の締めを利用して加速するかのように。二人の身体が巨大なコマのように回転し、遠心力が一気に高まる。
観客席が総立ちになる。
次の瞬間――!
二人の身体は勢いに身を任せてロープ下を潜り抜け、巨大な影となって場外へと転落していった。
ドォン!
鈍い衝撃音がアリーナ全体に響き渡る。四方の観客が同時に悲鳴を上げ、立ち上がった。反対側に落ちた二人の姿を追うために、視線が一斉に大型ビジョンへと集中する。
大型ビジョンが二人の姿を映し出す。カナレは背中を強打しながらも立ち上がり、腕を掲げる。会場が爆発的なカナレコールに包まれる。
――しかし。すでに如月の姿は消えていた。
観客が一瞬息を呑む。
その刹那、リングの端に黒い影が駆け上がる。エプロンへと跳び乗った如月が、疾風のごとき速さで飛翔した。
「うおおおおッ!」
観客の視線が一斉に空へ向かう。
まるで時間が引き延ばされたかのように、如月の身体が宙を舞う。両腕を広げ、翼のごときフォーム――。
トペ・コン・ヒーロ!
だが、着弾寸前でカナレの両腕が閃いた。
「捕まえたぞッ!」
衝撃を受け止め、そのまま如月をクラッチ! カナレの逞しい腕に絡め取られた如月の身体が浮き上がる。次はカナレの番――。
ランニング式パワーボム!
観客席から悲鳴と歓声が同時に上がる。
「うわあああッ!」
「カナレー!」
「如月ぃッ!」
だが如月も即座に判断した。頭上に掲げられたその体勢から、両脚をしなやかに伸ばし――カナレの頭部をがっちりと挟み込む!
「はああああっ!」
次の瞬間、如月の身体がしなやかに反転する。背を弾ませるようなバク宙の軌道。鋭い回転が炸裂する――フランケンシュタイナー!
場外のコンクリートにカナレの頭部が突き刺さるかと思われた。観客が一斉に息を呑む。
だが――。
ドンッ!
寸前でカナレが両腕を突き、受け身を取った! 巨体が弾かれ、背中が地面を擦る鈍い音がアリーナに響き渡る。
まるで場外のコンクリートそのものが悲鳴を上げたかのようだった。
歓声が2つに割れた。
「カナレーッ!」
「如月ぃぃぃ!」
数万人の声がせめぎ合い、波がぶつかるように交錯する。スタジアム全体が巨大な溶鉱炉のように熱を孕み、轟音は天井を震わせた。観客は立ち上がり、拳を振り上げ、涙を流し、喉を枯らして絶叫する。
リング上では、斎藤レフェリーが必死に場外を覗き込み、声を張り上げながらカウントを取っていた。
「……エイト! ナイン!」
カウントが進むごとに、観客の息が詰まっていく。
だが、まだ終わりではない。二人とも、地に伏したままながら立ち上がる意思を失ってはいなかった。
場外のコンクリートに這いつくばりながら、二人は互いの瞳を射抜いた。荒い息を吐きながら、それでも笑みを浮かべる。血と汗に濡れた顔で、なお余裕を見せるその笑みは、観客にとって狂気にしか映らなかった。
「……いい感じに、歓声も割れてきたな」
如月の口端が吊り上がる。
その笑みは挑発であり、観客を巻き込む者としての誇りでもあった。
カナレもまた、血の気を帯びた眼を見開いて笑う。
「まだまだ! これからだろう!」
その声はマイクを通さずとも観客席に届くほどに響き、スタジアムの熱をさらにかき立てる。
カナレの眼差しが獲物を狩る獣の光を宿し、如月の闘志と正面から火花を散らす。その闘志の炎は、観客一人ひとりの胸にまで燃え移っていく。
スタジアム全体が揺れた。人々の叫びは、もはや応援ではなく祈りにも似た咆哮。
「カナレーッ!」
「如月ぃぃぃ!」
両者の名が交互に叫ばれ、音の奔流となってアリーナを飲み込む。
リングに戻ろうと身を起こす二人に、スポットライトが重なった。
その姿は、汗に濡れ息を荒げながらも闘志を絶やさぬ戦士であり、同時に神に挑む祭司のようでもあった。
試合は、まだ序章にすぎない――。
誰もが、これから先に訪れる地獄と栄光を予感していた。