第22話:深紅の羽化
「本当に……これを着るのか?」
選手控室。衣装合わせ用に設けられたスペースで、如月は呆然と立ち尽くしていた。目の前には、人生で一度も袖を通したことのない女性用のリングコスチューム。深紅の布地が照明を受けて艶やかに光り、如月をじっと見つめ返しているかのようだった。
周囲を取り囲むのは、いつもの仲間たち。望月は無邪気な笑顔で、まるで人形の着せ替え遊びでもするかのように、皇たちが用意したコスチュームを次々と広げて並べていく。舞台衣装のような鮮やかな色合い、きらめく装飾品がテーブルに積み重なり、控室はまるで劇団の楽屋のような熱気に包まれていた。
如月は居心地の悪さを隠しきれず、ちらりと出口に目をやる。だがそこには、すでにSAKEBIが両手を広げて仁王立ちしていた。にやにやとした笑みを浮かべながら、完全に退路を断っている。
「さぁ観念するッス!せっかく皇先輩たちがデザインまでしてくれたんッスよ!」
その声に、如月の肩が小さく跳ねる。逃げ場はない。
Queen Beeには衣装部門が存在する。だがそれは単なる“縫製班”ではなかった。外部から優秀なデザイナーを招き、団体内で育成し、選手一人ひとりの“羽化の瞬間”を彩るための特別な部門だ。リング上のコスチュームはただの衣装ではなく、選手の象徴であり、魂を映す羽。だからこそ、衣装合わせは避けられぬ儀式のように重みを持っていた。
思い返せば――如月はここ数日、何度もデザイン室に呼び出された。寸分違わぬサイズを測られ、仮縫いを何度も着せられ、立たされたまま延々とチェックを受ける。まるでモデルかマネキンのように扱われるその光景が、彼女の脳裏にフラッシュバックする。
因みにデザインは皇を筆頭に計画された衣装だ。
(……男子のときは、出来上がった衣装を渡されて勝手に着るだけで済んだのに……なんでこうも違うんだよ……)
ため息が漏れる。胸の奥でむず痒い羞恥と苛立ちが混ざり合い、それでもどこか“自分がいよいよ選手として認められた”という実感が芽生えていた。
「さあ!早く着替えてくる!時間ないよ!」
望月は専属マネージャーさながら、楽しげに指示を飛ばす。
如月は観念したように立ち上がり、重たい足取りで試着室へと入った。
慣れない下着でさえまだぎこちない如月にとって、身体のラインを容赦なくさらす舞台衣装――は、あまりにも高すぎる壁だった。
(……逃げられねぇな)
深呼吸ひとつ。震える手で布を持ち上げ、腕を通す。その瞬間、羞恥や抵抗感を通り越して、どこか諦めに近い覚悟が胸に生まれた。
――深紅のコスチューム。
トップスは光を受けて燃える炎のように煌めき、胸元を走る黒の編み上げラインが艶やかに輪郭を引き締める。その存在感はただの戦闘着を超え、観客を魅了する舞台衣装としての気高さを放っていた。
腰を彩るショートパンツは深紅の布地に黒のレースが重なり、動くたびに鮮烈な赤の輝きと影が交差する。その対比が妖艶さを増幅させ、縁を走る銀糸の刺繍はまるで赤い薔薇の棘のように、鋭くも美しい存在感を帯びていた。
さらに脚にはレガースが装着されている。防具でありながら深紅のラインとラメの縁取りが光を反射し、黒革のブーツと一体となって戦う者の威厳を示す。力強さと舞台に映える華やかさを両立したそのシルエットは、まさしくリングに立つヒロインとしてふさわしい姿だった。
そして――試着室のカーテンがゆっくりと開いた。
次の瞬間、控室の空気は一変した。
視線が一斉に如月へと吸い寄せられ、誰もが言葉を失う。
そこに立っていたのは、照れに頬を染めた新人レスラーではない。深紅の炎を纏い、観る者を魅了する覚悟を抱いた――リングに立つ戦士だった。
「うん!やっぱり似合う!如月はスタイルいいから映えると思った!」
「素敵すぎます!」
望月と島村が歓声をあげ、手を叩いてはしゃぐ。その様子はまるで新しいアイドルを舞台袖から応援するファンのようだった。
「めちゃくちゃかっこいいッス!」
SAKEBIが興奮気味に声を張り上げた。
瞳は子どものように輝き、全身が喜びで弾んでいるのが一目でわかる。まるで大好きなヒーローを目の前にしたファンのように、両手をぎゅっと握りしめ、身を乗り出していた。
その熱のこもった一言に、控室の空気が一層明るくなる。望月や島村もつられるように笑みを浮かべ、如月は赤面しながらも姿勢を正す。
称賛の言葉が連鎖していくたびに、衣装の赤がさらに映え、如月の存在感は一段と強まっていった。
「赤はどうかと思ったが……これはこれで良いね。麗は何を着ても様になる」
皇は腕を組み、真剣な眼差しで如月の全身を舐めるように観察していた。視線はフォルムの端から端まで走り、衣装の質感やシルエットを1つ残らず記憶に刻みつけていく。
――パシャッ!
不意に、閃光が控室を切り裂いた。眩しさに如月が思わず目を瞬かせる。
「おい!何撮ってんだ!」
振り向けば、皇が黒々とした一眼レフを構え、夢中でシャッターを切っていた。レンズ越しの視線は真剣そのもの。だが液晶を覗き込み、撮れた一枚を確認した瞬間、表情は陶然と緩む。
「……あぁ。今日は生涯忘れられない日だ……」
うっとりと呟きながら、カメラを胸に抱きしめる皇。その瞳は完全にトリップしており、まるで恋い焦がれた宝物を抱え込むコレクターのように陶然と微笑んでいた。
「やめろって言ってんだろ!」
如月が顔を真っ赤にしながら手を伸ばす。羞恥を必死に怒りへと塗り替えようとしているのが見え透いている。だが皇は軽やかに身をひねり、ひらりとかわした。カーテンを翻すような無駄のない所作は、まるでリング上で技を受け流す時のそれだった。
「無駄だよ。すでにデータはサーバーに保存済みさ」
涼しい顔で言い放つ皇。片手でカメラを掲げ、勝ち誇った笑みを浮かべる姿は完全にヒールレスラーのそれだ。観客にブーイングを浴びても、なお自信満々で挑発を続ける悪役のような気迫。
如月の頬は羞恥でますます紅潮し、視線は泳ぎながらも鋭い。
「この……覚えてろよ!」
唇を噛み、拳を固く握りしめる。まるで次の試合を約束するような、悔しさと闘志が入り混じった声音だった。
その姿に、望月や島村も思わず吹き出し、SAKEBIは「完全に漫才ッスね!」と大笑いする。だが当の如月は真剣そのもので、皇もまた勝ち誇った表情を崩さない。控室の空気は、戦い前の緊張と茶番めいた笑いが同居する奇妙な熱気で満たされていた。
頬を真っ赤にしながらにらみつける如月。だがその姿でさえ、皇にとってはシャッターチャンスの一枚に見えていた。
「なぜそんなに嫌がるんだい?リングに上がれば嫌でも観客の視線を浴びるんだよ?」
皇の言葉に、如月はぐったりと肩を落とし、大きくため息をついた。次の瞬間、力が抜けたように床にしゃがみ込み、両手で顔を覆う。
「……俺、絶対無理だ。こんな格好で戦えるかよ……」
震える声には羞恥と諦めが入り混じっている。普段どんな相手にも怯まず挑む如月が、衣装ひとつでここまで狼狽する――そのギャップに控室の全員が苦笑した。
皇は優しくなだめるように、その肩へそっと手を置いた。だが――その瞬間。
「へへっ……いただき!」
如月は鋭い動きで皇の手からカメラをかっさらった。電光石火の一撃に、皇は目を大きく見開き――。
「あっ!?」
思わず間の抜けた声をあげる。
すぐさま取り返そうと手を伸ばすが、如月はリング仕込みのフットワークでひらりとかわす。
まるで試合さながらの攻防。カメラを背に回し、身体をくるりとひねっては死角を作り、ロープでもあるかのように壁際を蹴って反転する。
極めつけに、備品棚を踏み台にして軽々と飛び越えると、両手でカメラを高々と掲げた。
「ふっ、これでもう写真は撮れまい!」
勝ち誇るような笑顔に、皇は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「麗!返しなさい!」
「無理!二度とあんたに弱みは握らせねぇ!」
控室の空気は一瞬でカオスに変わった。
望月と島村は「何やってんの……」と呆れ顔で顔を見合わせる。一方でSAKEBIは腹を抱え、涙を浮かべながら床を転げ回って笑っていた。
シリアスな緊張感などどこ吹く風。控室は笑いと喧騒に包まれ、まるで学園コメディの一幕のようだった。
如月はカメラを高々と掲げ、勝者のように口角を上げる。
「悪いな皇さん、これであんたのコレクション収集は終わりだ!」
得意げなその表情に、仲間たちから拍手と口笛が飛ぶ。まるで如月がタイトルマッチに勝ったかのような盛り上がりだ。
だが皇は腕を組み、わざとらしくふてくされたように唇を尖らせた。
「……いいよ。本番のリングで、嫌でも何百枚も撮らせてもらうから」
そう言うと、懐からごそごそと取り出したのは――まさかのもう一台のカメラ。
「まだ持ってる!?」
望月と島村がシンクロするように絶叫する。控室がさらにざわめき、笑いの渦が広がった。
如月は額に手を当て、大げさに天を仰ぐ。
「あんた……どんだけカメラ仕込んでんだよ。スパイか何かか?」
皇は勝ち誇ったように片目を細め、カメラを掲げてみせる。
「これは記録であり、芸術であり――歴史の証人さ。君の姿を世界に残すのは、私の使命だからね」
芝居がかった調子で言い切る皇。その真顔っぷりに、呆れるどころか感心してしまうほど。
如月は完全にあきれ顔。しかし、その頬はほんのり赤く染まり、否定の言葉を飲み込むように唇を固く結んでいた。
「……もう好きにしろ」
観念したように吐き捨てる如月の肩を、SAKEBIがバシバシ叩きながら大笑いする。
「さすが皇先輩ッス!愛が重すぎて笑うしかないッスね!」
その瞬間、控室全体が爆笑に包まれた。戦いの前の緊張などどこにもなく、そこにあったのは――同じ夢を追う仲間たちの、確かな絆だった。
控室は再び笑いに包まれ、緊張感はどこかへ吹き飛んでしまった。悔しさと余裕の入り混じった声。如月はその言葉に一瞬だけ黙り込む。
しかし顔を赤らめたまま「覚えてろよ……」と小さく吐き捨てた。
コン、コン、と短くノックの音が響いた。
「どうぞ」
返事と同時に控室の扉が静かに開く。笑い声と喧騒で満ちていた空間に、冷たい風が一筋吹き込むように空気が変わった。
本田が姿を現した。その真剣な眼差しが如月を射抜いた瞬間、誰一人として声を発さなくなった。ほんの一拍の沈黙の後――。
一同「お疲れ様です!」
本田は軽く会釈を返し、何も言わずに親指を立てた。それだけで十分だった。
――“この衣装で決まり”。
場にいた全員が、その無言の合図を理解した。
「では、5時間後の入場まで――各自、如月麗をサポートしてください」
短く、しかし重みのある言葉を残し、本田は踵を返す。別棟にいるカナレの元へ向かうのだろう。扉が閉まる音はやけに大きく響き、控室は再び静けさに包まれた。
如月は深呼吸をひとつ置き、軽めのスクワットを始めた。動きは滑らかだが、その1回にこめられる気迫は、先ほどのコミカルな姿とはまるで別人だった。
島村は手を胸の前で握り、声にならない祈りを浮かべる。
(……女神様、どうか如月さんを勝たせてあげてください……)
だが胸の奥にあるのは祈りだけではなかった。羨望と焦燥、そして――いつか必ず追いつきたいという強い願いだった。
望月は腕を組み、眉を寄せながらじっと見つめる。
(如月なら大丈夫……でも、あの舞台に立つのか……怖い。でも……羨ましい)
望月の胸には複雑な感情が渦巻いていた。仲間としての信頼と安心。それに反して、自分なら到底立てないと感じる舞台への畏れ。
そして――それでも隣に立ちたいと願わずにはいられない、強烈な憧れ。
SAKEBIは、口角を上げて笑みを浮かべた。
(……次は自分が並んでみせるッス!)
SAKEBIの胸に宿るのは、あの日のスパーリングで味わった苦い敗北。その痛みは悔しさとして残り続けていたが、同時に強烈な炎へと変わっていた。負けたままでは終われない。隣に立ち、肩を並べるまで――その炎は消えることなく、彼女を前へと突き動かしていた。
そして皇は、腕を組みながら静かに息を吐いた。
(……本当に、ここまで変わるなんて。ハニー……いや、如月麗。君はいったい、どこまで伸びていくんだ)
その目には嫉妬や憧れでもない、戦友を見つめるような鋭さがあった。控室の空気は、もう先ほどまでの賑やかな笑いではない。
――嵐の前の静けさ。
5時間後、彼女たちが向かうのはリングという名の戦場。その予感が、一人ひとりの胸に重くのしかかっていた。
――対戦相手は、TMH王者・天道カナレ。これまで皇が抱いていた印象はただひとつ。「猪突猛進」――。力任せに突っ込み、腕力でねじ伏せる単調なレスラー。そう決めつけていた。
だが、合同練習で見たカナレは違った。自分より大きな相手の懐に、驚くほど自然に潜り込み――。腰を捉えた一瞬の重心移動で、見事に投げを極める。ギフトをただ振り回すのではなく、緻密に組み込んで“流れ”の中で使いこなす。その動きは、荒々しさの裏に確かな計算と知略があった。
その光景を目の当たりにしたとき、皇の中で音を立てて崩れ落ちたものがあった。「力押しの凡庸なレスラー」という評価。 「作戦を持たない直情的な選手」という偏見。
見誤っていたのは自分の方だった――。その事実を認めざるを得なかった。
カナレはただの天才肌ではない。己のギフトを「どうすれば最も輝かせられるか」を誰よりも考え抜き、愚直なほど研ぎ澄ませてきた。それが、合同練習で見せた洗練された一投、そして連携の一撃に表れていた。
――皇は悟る。天道カナレは、決して“粗削りな怪力娘”ではない。リングを支配するために必要な知略と胆力を、すでに手にしていたのだ。
そして如月――。入門してから、わずか四週間。その短い期間で、彼女は目を見張るほどに成長していた。
ただ体力がついただけでも、技を覚えただけでもない。彼女の動きは、すでに「新人」という枠を越えていた。
緻密な計算に裏打ちされたフットワーク。相手の呼吸を読み取り、半歩先を封じる間合いの取り方。
そして、相手が一瞬でも隙を見せれば必ず突き刺さる――完璧すぎるカウンター。
それは偶然でも、天性の勘、そしてギフトの能力による恩恵だけではない。まるで何年もリングの上で生き抜いてきた者のような、積み重ねられた“経験”そのものを体現していた。
だが、恐ろしいのはそこからだった。如月はまだ本気を出していない。彼女の立ち回りには、どこか余裕すら漂っていた。まるで「まだ奥に手札がある」と無言で告げているかのように。
その上で、なお成長を続けている。昨日の如月と今日の如月は、すでに別人。積み重ねるごとに強さの質を変え、磨き上げ、止まることを知らない。
――その異常な成長速度に、見守る皇の胸に浮かんだのは、ただの驚きではなかった。羨望、焦燥、そして畏怖。
この四週間で、如月麗はすでに「化け物」の領域へと足を踏み入れていた。
(――女子プロレス界は、この二人を中心に動き出す)
皇は心の底でそう確信する。
「私も、まだまだ頑張らなくてはいけないね」
その呟きに、控室に入る面々は首をかしげるばかりだった。
気づけば時計の針は進んでいた。控室に漂っていたざわめきも、談笑も、いつの間にか影を潜め――。緊張と期待だけが静かに積もっていく。準備に追われていた数時間は、まるで一瞬の出来事のように過ぎ去り、気づけば決戦の時刻が目前に迫っていた。
――再び部屋にノックの音が響いた。
控室の扉が、静かに、しかし確かな緊張を伴って開かれる。顔を覗かせたのは進行係のハニーハンド。無駄な言葉は一切なく、場の空気を引き締めるように口を開いた。
「――如月麗選手、入場ゲート前までご準備をお願いします」
静かな室内にその声が落ちると、如月の表情が一変する。笑い合っていた面影は消え、戦士としての面構えへと切り替わった。
「……よし、行くか!」
立ち上がる背中を、仲間たちが一斉に見送る。
「絶対勝って来いよ、如月!」
「頑張ってください!」
「応援してるッス!」
真剣な声援が重なる中、皇が一歩前へ出る。間たちの視線を背に、彼女は静かに言葉を紡いだ。
「すべてを出し切っておいで――麗」
如月は振り返らず、片手をひらりと上げて応える。その仕草に控室は小さな笑いと、大きな期待の熱気で満たされた。
入場ゲート前。すでにカナレが腕を組み、仁王立ちで待っていた。
「調子はどうだ、如月っち!」
「俺はいつも通り、完璧だぜ」
「よーし!それなら私も100%で行けるな!」
拳を突き出すカナレ。その拳に如月が応じ、力強くグータッチ――。
次の瞬間、会場が暗転した。どよめきが一気に飲み込まれ、直後には地鳴りのような大歓声が爆発する。ライトが切り替わり、客席から押し寄せる熱。バックステージからでも、その波が全身を打つように伝わってくる。
如月は深呼吸をひとつ。吐き出す息と共に瞳が研ぎ澄まされ、戦闘の色に切り替わる。
カナレもまた同じ。さっきまでの軽口は跡形もなく、二人の間にはすでにリングと同じ緊張が張り詰めていた。
「――皆様……大変長らくお待たせいたしました!ただいまより試合を開始いたします!」
高らかなリングアナウンスが響き渡り、同時にQueen Beeのテーマ曲が場内を震わせた。