第21話:咆哮と氷菓
Queen Beeには、スパーリング専用の道場がいくつもある。普段はほとんど使われないが、ベテラン勢が気を遣ってこの場所を使用したり、新人がフェイバリットギフトの弱点を隠すために秘密特訓をしたりと。
――そんな時だけ灯りが点く、静かな“裏のリング”だ。
昨夜の祝勝会の熱がまだ体内に残る朝、リングに向かい合うのはSAKEBIと如月。ロープは乾き、マットは薄く汗を吸った色に沈んでいる。声援もなければ、観客もいない。あるのは呼吸の音と、足裏がキャンバスを押すかすかな軋みだけだ。
「如月、もう少しペース落とした方がいいよ!」
セコンドの望月が声を飛ばす。横で島村は、食い入るように攻防を見つめながら、自分が当事者ならどう対処するかを頭の中で無数にシミュレーションしている。
だが当の如月は、その助言すら風に流すようにステップの速度を一段上げた。
SAKEBIも食らいつく。彼女は距離を保ち、相手のテンポに合わせて自分の呼吸をねじ込むタイプ――自分のペースへと引きずり込もうと、必死に針路を探っている。
「SAKEBI!距離を取るのもいいけど、うまくグラウンドに持ち込め!立ち技じゃ如月の方が上だ!」
檄を飛ばしたのは、デビュー二年目にしてサブミッションの鬼と呼ばれる山崎多恵子。今日の彼女はSAKEBIのセコンドだ。
助言に従うように、SAKEBIは間合いを一足ぶん詰め、如月のミドルを受け止めた。鈍い衝撃音。蹴り足を脇でクラッチし、ドラゴンスクリュー――素早くひねって如月の体をきりもみ状に倒す。
如月は即座にガードを組む……はずだった。
だが、視界の前からSAKEBIの姿が“ふっ”と消える。直後、背後から腕が回り、首をロック。首と片腕をまとめて刈り取るドラゴンスリーパーホールドだ。
(……なんだ今の?不意を突かれて倒れたからといって、相手の位置を見失う俺じゃない)
受け身を取るまでのわずかな間に、必ず相手の体勢と位置は焼き付ける――それが染みついたレスラーの習性のはず。なのに――。
視界がわずかに波打ち、耳の奥で世界が反響する。倒れた瞬間、確かに正面にいたはずのSAKEBIの姿が、意識を戻したときには影すら消えていた。
まるでキャンバスの上から存在そのものが擦り消されたような感覚。ほんの一秒にも満たない、しかし致命的な“空白”が生まれていた。
足場が傾いた錯覚。ロープの位置がずれる。呼吸のリズムが合わない。
プロレスラーにとって、体の基準点は常にリングの四隅とロープだ。
だが今、その四隅がまるで霞をまとったように定まらず、体幹が軋む。頭は冷静に「正面」と告げるのに、肉体は別の方向へと引きずられる――。
(おかしい……視界と思考が一致しない……!)
額にじわりと汗が浮かぶ。視線を走らせても、SAKEBIの残像があちこちに焼き付いて、どれが実体なのか掴めない。
この違和感は偶然ではない。意図的に仕組まれた“罠”だ――そう直感する。
背後から絡みつく腕。そのタイミングの正確さに、如月は確信する。
これはただのスピードや反射神経じゃない。もっと根の深い、感覚そのものを揺さぶる“力”だ。
(……フェイバリットギフト……!そうか、この子“ギフト”を使って……俺の視覚を歪ませてやがる!)
――「キャンセルハウル」。
発動と同時に、相手の平衡感覚をひと拍だけ狂わせ、視界の座標をズラす。派手な消失ではない。
だが、リングでは数十センチの誤差が致命傷になる。熟練者なら、どんな投げを食らっても着地の一瞬で相手の位置を固定し、次に繋げる――その“基準”を根こそぎキャンセルするのが、この技だ。
そして――。
SAKEBIが目覚めたギフト――。
二文字ギフト――咆哮。
空気を震わせる振動は平衡感覚を狂わせ、視界さえ波打つように歪ませる。相手はまるで荒れ狂う海に放り込まれたかのように立つことすら困難となる。
1つは、誰の耳にも届く轟音の咆哮。観客の鼓膜を震わせ、場内全体を揺らすその叫びは、まさにプロレスの「見せ場」。実況席のマイクを割り、照明が揺れるほどの衝撃に観客は総立ちとなる。
相手にとっても単なる音では済まされない。胸を叩き割るような音圧により、動きは一瞬止まり、技の流れを乱される。轟音は“魅せる”と同時に、“止める”力を持つのだ。
もう1つは、人間の可聴域を超えた超音波の咆哮。耳には聞こえないが、内耳を直撃し、平衡感覚を狂わせ、呼吸や視線のリズムさえ破壊する。相手はふらつき、足を踏み出すタイミングを見失う。空気を震わせる振動は平衡感覚を狂わせ、視界さえ波打つように歪ませる。
対戦相手はまるで荒れ狂う海に放り込まれたかのように立つことすら困難となり、試合を支配するための実戦的な一手である。
だが、この異能は代償を避けられない。轟音を放てば体力とスタミナを大きく削り、声帯を酷使する。超音波を繰り返せば喉と呼吸器を蝕み、一時的に声を失う危険すらある。ゆえに連発は不可能。
――魅せるか、崩すか。まさにリングを揺るがす「咆哮」である。
如月は首をロックされたまま、喉にかかる圧力を冷静に測った。苦しげな表情を浮かべながらも、顎をわずかにずらし、締めの“点”を外す。ほんの数センチの遊び。その瞬間にできた隙間を逃さず、腕にかかったホールドを外す。
そしてSAKEBIを持ち上げ、腰を切り、肩を軸に――一気に背負い投げ!
しなやかな体が慣性に引きずられ、SAKEBIが宙を舞う。マットに叩きつけられる直前、必死に受け身は取ったものの、衝撃は肺を圧迫し、呼吸が詰まる。
「かはっ……!」
空気を失った身体が硬直した刹那を、如月は見逃さなかった。すでに脚は動き出している。倒れ込む体に絡みつくように、自らの脚を編み込む――四の字へ。わずかな呼吸の乱れを起点に、攻防の主導権を奪い返すその連続の速さ。完成形までの時間は、瞬きより短かった。
セコンド陣が一斉に息を呑む。島村は思わず前のめりになり、望月の手がロープを強く握りしめた。
「は、早ぇ……!なんだよ今の……!」
関節技を得意と自負する山崎でさえ、思考が追いつかず声を失う。視線の先で、如月はまるで最初から全てを計算していたかのように、無駄なくロックを決めていた。筋肉の張力が重なり合い、関節の一点を突き上げる。逃げ場はどこにもない。
「い、痛いッス!ギブ!ギブ!ギブアップ!」
叫び声はマットに吸い込まれ、乾いた空気を震わせた。その一言を合図に、場に張り詰めていた緊張が一気に弾ける。マットを叩く音が、臨時のゴング代わりに鳴り響いた。
如月は四の字をすっと解く。余裕すら漂う仕草で立ち上がり、涼しい顔のままSAKEBIへと手を差し伸べた。
汗に濡れた頬をかすめる前髪が、試合の余熱を物語る。だがその表情は、不思議なほど澄んでいた。
「ドラゴンスクリューからドラゴンスリーパーまでの流れは絶妙だった。――ただ、少しクラッチが甘かったな」
淡々とした口調。叱責や称賛でもなく、純粋な“技術の指摘”。
伸ばされた手に導かれるようにSAKEBIが立ち上がる。足をかばいながらも、その瞳はどこか誇らしげだ。
「僕は渾身の力でクラッチしてたッスけどね……痛たた……」
ロープにもたれ、荒い呼吸を整える。その横顔には敗北の悔しさよりも、「自分の力を出し切った」という充足が浮かんでいた。
如月はその様子を見て、小さく息を吐き、さらに続ける。
「2つの締め点を“点じゃなく線で結ぶ”感覚で圧をかけろ。骨と骨、腱と腱を一直線に通す。そうすりゃ外れにくい」
言葉と同時に、如月は自分の腕を軽く掲げてみせる。指先から肩へ、一本の線を描くように。
それは単なる助言ではなく、彼自身が幾度も実戦で体得した“説得力”のある教えだった。
「ふむふむ……次はそれでいくッス」
SAKEBIは痛む足をさすりながらも、真剣な眼差しで頷いた。
汗に濡れた前髪が額に貼りつき、呼吸はまだ荒い。だがその瞳には、敗北の影は微塵もない。あるのは次へつなげる意欲と、学んだものを必ず実戦で活かそうという熱だけだった。
敗れた直後でさえ、吸収する気持ちを失わない――。
その姿に、セコンドの山崎も思わず唸る。
(普通なら落ち込む場面だろ……。それを“勉強になった”って顔で終わらせるか。ほんと、筋金入りだね)
心の中で呟きながら、山崎は腕を組んだ。
彼女自身もまた、数えきれない敗北を経てここまで来た身だ。だが、この若さでここまで貪欲に学ぼうとするレスラーを前にすると、胸がざわつく。
(……こいつら、本当にプロレス馬鹿だな。勝ち負けより先に、“次の糧”を見てやがる……)
呆れにも似た感情が湧き上がる。
だが同時に、それは羨望でもあった。
リングに立つ者は皆、結局は同じ道を歩む。勝利の高揚も、敗北の痛みも、全部まとめて糧にしていく――その単純さこそが、プロレスラーという生き物の証なのだ。
リング上に残る熱気はまだ消えていない。汗とマットの匂い、激しい呼吸の余韻。それらすべてが、この空間をまだ“試合の場”として支配していた。セコンドたちも言葉を失い、ただ胸の奥に熱を抱えながら立ち尽くす。
その中で――山崎多恵子は、如月の技術解説に深く感心していた。
「2つの締め点を線で結ぶ」という言葉が脳裏で何度も反響する。プロレス馬鹿にとって、その理屈はすぐに「実戦でどう応用できるか」へと変換される。
気づけば彼女の体は自然に動いていた。無意識に隣に立っていた選手の腕を掴み、肩を回し込み――。
首を巻き込むように腕を極め、がっちりとドラゴンスリーパーが決まっていた。
「いっ……痛い!ちょと待て!なんで私が技かけられてんだよ!」
悲鳴が響いた瞬間、全員の視線が一点に集中する。そこで極められていたのは――カナレ。
彼女の顔は驚愕と怒りの入り混じった真っ赤な表情。必死に腕を掻きむしりながら暴れる姿に、一同は思わず目を丸くする。
「な、なんでお前がここにいるんだ!?」
山崎自身もようやく“無意識”に気づき、慌てて技を解いた。カナレは解放されるなり、むすっと頬を膨らませ、如月を指さす。
「如月っち!私のドラゴンスリーパーはSAKEBIほど甘くないぞ!」
唐突な乱入と、あまりに的外れな宣言。場の空気は、シリアスから一転して弾けた。
望月は肩を落とし、島村は「え、何?」と口を半開きにし、SAKEBIは呆れを通り越して天を仰ぐ。
残っていた熱気が、今度は脱力へと変わっていく。
その温度差が、逆にこの空間が“仲間の道場”であることを強く感じさせた。張り詰めた勝負の匂いと、くだらない掛け合いが同居する――それこそが彼女たちの居場所だった。
「カナレ!ここは関係者以外入っちゃダメッス!」
SAKEBIが慌てて声を張る。しかし当のカナレは全く怯まない。
「なんだよ!私だけ仲間外れかよ!」
頬を膨らませ、子どものように駄々をこねるカナレ。
その理不尽さに、SAKEBIは呆れたように額に手を当てる。如月はといえば、肩をすくめただけで気にも留めていない。
「別に見られて困るもんでもない。好きに見学してけよ」
その一言に、カナレの顔がぱっと明るくなる。彼女は得意げに左手を高く掲げ、大きなビニール袋をぶんと振った。中にはアイスとジュースがぎっしり詰まっている。
「スパイじゃないぜ。――陣中見舞いだ!」
袋を掲げる姿は、まるで宝の山を持って現れた英雄のよう。場の空気が一瞬で和んだ。
「おっ!カナレ、気が利くッスね!」
SAKEBIは真っ先に飛びつき、丸々製菓のアイス“モチモチ”を引き抜く。封を切ると、甘い匂いがふわりと漂い、思わず笑みがこぼれる。続けてカナレが「みんなも食べようぜ!」と声を上げると、望月や島村も吸い寄せられるように集まってきた。
如月も「じゃ、遠慮なく」と手を伸ばし、“シャリシャリバー”を袋ごと歯で破る。氷の裂けるシャリッという音が静かな道場に響くと、誰からともなく笑い声が漏れた。緊張感に満ちていた空気が、氷菓の冷たさで溶かされていく。
「如月っち、三日後は私がリングで勝利宣言だからな!」
カナレはアイスを片手に、もう片方の手で如月を指差す。瞳には冗談半分、しかし闘志半分の輝き。
「上等。そんくらいの気合じゃねぇと、こっちも燃えねぇ」
如月が涼しい顔で応じる。その軽口は挑発のようでいて、同時に最高の褒め言葉でもあった。
(この二人……プロレス馬鹿ッスね……)
そのやり取りを見つめながら、SAKEBIはアイスを頬張る。冷たい甘さが喉を通る瞬間、胸の奥に決意が灯る。
(……僕も、もっと馬鹿にならなきゃ――)
彼女はそう心に誓った。
道場の空気は一時の安らぎに包まれる。だが甘さの余韻の奥に潜むのは、リング特有の緊張の匂い。三日後、如月とカナレが再び向かい合うその舞台は、今日のこの温もりとは正反対の熱を帯びるだろう。
アイスの冷たさとマットの匂い。その落差こそが、戦う者たちの日常だった。
「――如月っち!私は負けないからな」
沈黙を破ったのはカナレだった。アイスを食べ終えた後の木の棒をぎゅっと握りしめ、白い指先がわずかに震えている。それは恐怖ではなく、沸き上がる闘志の証。普段の調子者の顔はそこになく、挑戦者の眼光だけが鋭く光っていた。
「おう!望むところだ」
如月は涼しい声で返す。だが、言葉と裏腹に拳は自然と握られていた。さきほどまでの軽口の余韻は跡形もなく消え、視線の奥には何度も繰り返した攻防の記憶が燃えている。まるで「ここが本番のリングだ」と告げるかのように。
二人の間に、空気の密度が変わった。望月と島村は、思わず息を呑む。つい先ほどまで仲間として笑い合っていた二人が、もう次の試合の対戦相手として立っている。
その切り替えの速さ――いや、当たり前のように“仲間でありライバル”として振る舞える強さに、背筋がぞくりと震えた。
「……すごいですね」
島村が小さく漏らす。
望月は胸の内で呟く。
(……これが“Queen Bee”の空気。友情も、笑いも、全部ひっくるめて戦いに持ち込む。それが、この団体の強さなんだ)
木の棒を握りしめたまま、望月の心にも熱が灯る。
(次は私の番だ。置いていかれるわけにはいかない……!)
アイスを頬張っていたSAKEBIもまた、そんな二人を見つめながら決意を固めていた。
(如月さんも、カナレも、本気で“プロレス馬鹿”ッス。でも――だからこそ僕も、この輪にもっと深く入り込まなきゃいけないッス!)
やがて、笑い声は完全に消えた。道場には再び静けさが戻る。だがその沈黙は、ただの休息ではなかった。
胸の奥で脈打つ鼓動とともに、三日後のリングで鳴り響く鐘の音が、すでに全員の耳にははっきりと聞こえていた。