第20話:秋風の決意
舞台の光が落ち着き、皇はゆっくりとステージから降りてきた。その歩みは決して急がず、まるで余韻そのものを纏うかのように静かで優雅だった。
さっきまで一国の戴冠式にも匹敵するような華やかさに包まれていた会場は、なおもざわめきと熱狂を引きずり、会場の声援は止むことを知らない。
その熱狂の中で、如月は思わず息を呑んだ。余興のはずの演出――。
しかし、あの入場の一挙手一投足は「見世物」の域を超えていた。光と音に包まれた皇の姿は、レスラーを超え「女王」として立っていた。舞台装置が作り上げた虚飾ではなく、存在そのものが神聖さを放っていたのだ。
――あれは確かに、観客から金を取れる価値がある。そう思わずにはいられなかった。
カナレは、すっかり子どものように頬を上気させていた。演出の余韻に浮かされ、まだ拳を握りしめて興奮を隠そうともしない。彼女にとっては祝勝会の一幕に過ぎないのだろうが、その眼差しは尊敬と憧れがない交ぜになり、無邪気に輝いていた。
その姿を横目で見ながら、如月は心の内で小さく舌を巻いた。カナレにとって皇は、先輩であり、姉のような存在であり、そしていつまでも追いかけ続けるべき背中なのだろう。
一方で皇の表情は、驚くほど穏やかだった。会場の熱狂に酔うでもなく、まして誇示するでもない。ただ「やり遂げた」という満足の色を瞳に宿し、落ち着いた佇まいで二人を見つめている。
その横顔は、勝者の栄光を享受する人間ではなく、舞台を整える側の責任者に近い。
――この空気すら彼女は支配している。
如月はそう直感した。舞台の演出はあくまで仕掛けにすぎない。だが、それを「神聖なる儀式」にまで押し上げたのは、他ならぬ皇翼という存在そのものだった。
会場に拍手が波のように広がり続ける中、三人の立つ空間だけが別の温度を帯びていた。熱狂の渦のただ中で、皇はどこまでも静かに、どこまでも確信に満ちていた。
その言葉にカナレは目を輝かせた。
「ツバサさん!本番でもこれやろうよ!マジで最高だった!」
そこへ、ためらうようカナレの背後から声を上げたのはSAKEBIだった。熱気の渦に包まれた場内の空気を一瞬切り裂くように、控えめながらもはっきりとした声が響いた。
「あの~……これでよかったッスか?」
差し出されたのは、一枚の紙。白地に整然と並んだ文字列は、きれいに整えられた「言質の証明書」だった。
見れば、無駄のないレイアウト、読みやすいフォント、誤字脱字ひとつない。形式に則りながらも柔らかい言い回しが盛り込まれており、まるで長年の事務方が作り慣れた文書のような仕上がりだった。
どうやら先ほどの騒ぎの裏で、カバンからノートPCを取り出して即座に作成し、事務所のコピー機で印刷してきたらしい。お祭り騒ぎのさなかに、こんな冷静な行動を取れる者がどれほどいるだろうか。
(……なんて律儀な子だ)
如月は思わず内心でうなった。リング上で叫ぶよりもずっと目立たないが、この几帳面さこそが団体を支える縁の下の力なのだろう。
だが、その感慨をよそにカナレは一歩前に出ると、当たり前のようにその紙をひったくった。サインペンを握るのと同じ軽快さで如月の鼻先へ突き出し、にやりと笑う。
「よーし!如月っち、ここにサインと拇印!」
無邪気な笑顔は子どもの「約束手形」を強要するようで、如月は思わず苦笑する。
すかさずSAKEBIが横から差し出す。ペン、朱肉、さらに小さなパックに入ったウェットティッシュまで。
「印鑑があればそれでもいいッスけど、あるわけないッスよね。手が汚れたら困るッスから」
用意周到な気配りに、如月はまたも感心した。歓声が渦巻く中、この少女だけが場を冷静に見渡し、次の手を打ち、相手が困らぬように先回りをしている。
「本当に気が利くな……」
小さく漏らした独り言は、如月の飾らない敬意の表れだった。大げさに褒めるわけでもなく、ただ自然に口をついて出たその言葉が、むしろ重みを持って響く。
すると隣で聞いていたカナレが、満面の笑みを浮かべて破顔した。
「さすがSAKEBI!絶対いいお嫁さんになるぞ、私が保証する!」
だが、その賞賛に対してSAKEBIはむっとしたように頬をふくらませ、そっぽを向いた。
「……カナレに言われてもあんまり嬉しくないッス」
その態度は照れ隠しのようでもあり、正直な拒絶のようでもあった。場の空気が一瞬ふっと和らぎ、周囲の数人が小さく笑みを漏らす。
「なんだよ!」
カナレは子どものように肩をいからせ、声を張り上げる。
如月は苦笑しつつ、淡々と口を挟んだ。
「いや、俺もそう思うぞ。気配りはカナレにはない資質だ」
その一言は冗談や挑発でもない。真っ直ぐに放たれた評価だった。だからこそ、SAKEBIの胸にまっすぐ突き刺さる。
「……照れるッス」
今度はごまかすことなく、頬を真っ赤に染めてうつむいた。嬉しさを隠しきれず、口元に浮かんだ小さな笑みが彼女の素直さを物語っている。
カナレはむくれ顔で腕を組み、露骨に不満を示していた。彼女だけが取り残されたように見えるが、その拗ねた姿さえもまた皆に愛嬌として映っていた。
だが笑いの余韻は長く続かなかった。次第に場の空気は落ち着き、自然と次の話題へと移っていく。――試合まで、残された時間はわずか一週間しかない。
如月は冗談めいた表情をすっと消し、代わりに研ぎ澄まされた真剣な眼差しを浮かべた。
その変化は唐突とは異なり、むしろ場の空気を整える合図のように周囲へ伝わる。
拇印を押し終えると、指先についた朱肉をウェットティッシュでゆっくりと拭い落とす。
静けさを取り戻した如月は、顔を上げ、低く落ち着いた声で口を開いた。
「今の俺のポテンシャルは五割程度。不慣れなフェイバリットギフトの扱いを磨く必要がある。それと……カナレ、お前の他の試合も見て研究しておきたいしな」
その言葉は淡々としていながらも、確かな重みを帯びていた。会場の熱気を冷ますのではなく、むしろ次なる熱を予感させる火種となる。
「おいおい!戦う相手の前でそんなこと言うか?」
カナレが眉をひそめ、珍しく核心を突いた言葉を返す。その声音には茶化しではなく、本気の警戒がにじんでいた。皇も、SAKEBIも思わず息をのんで彼女に視線を向けた。
だが如月は口元をわずかに吊り上げ、挑発とも自信ともとれる笑みを浮かべた。
「この程度のことを知られたところで、俺には何のデメリットにもならないよ」
その言葉は余裕の一言にすぎなかったが、眼差しは鋭く、揺るぎなかった。静かな威圧感がカナレの胸に突き刺さり、彼女の心臓が不意に高鳴る。無邪気な笑顔で周囲を振り回す彼女にとって、如月の冷静さは時に最も厄介な壁となる。
「なんなら、お前のスパーリングパートナーになってやってもいいんだぜ」
吐き出されたその一言は、挑発としか思えない響きを持っていた。テーブル席のざわめきが再び膨らみ、カナレの顔色がみるみる変わっていく。闘志とも苛立ちともつかない熱が、その頬を赤く染めていた。
だが、その空気を切り裂いたのは意外な人物だった。
SAKEBIが一歩前へと踏み出し、凛とした声音で告げる。
「それなら如月さん、僕があなたのスパーリングパートナーになるッスよ」
その言葉は迷いやためらいもなく、場を震わせるほどの力を帯びていた。普段は周囲に気を配り、陰で支えることに徹していた彼女の、真っ直ぐな意思表示。
如月は思わず目を見開く。カナレや皇も、そして場内の選手たちまでもが驚いたように息を呑んだ。笑いと和やかさで包まれていた空気は一転し、次なる火花が散る瞬間を誰もが予感していた。
そんな時、後方から、誰かが名を呼ぶ声が響いた。如月はその方向へ視線を向ける。先ほどからスポンサー席に座っていた、堂々たる風格の男――その人物が、ゆっくりと立ち上がっていた。
SAKEBIはその姿を見るなり、はっと息を呑み、次の瞬間には声を張り上げていた。
「お父さん!」
その言葉に如月たちの視線が一斉に集まる。
男の名は東城 季吉。巨大企業「太平洋連合」の代表取締役にして、Queen Beeを支える大口スポンサーのひとり。そして同時に――SAKEBIの実父でもあった。
「秋風、おかえり」
穏やかに告げられた父の声に、SAKEBIははっとして振り向き、思わず小走りで駆け寄っていった。立ち止まると同時に小さく肩をすくめ、照れくさそうにうんうんとうなずく。本名で呼ばれることなど滅多にない。しかも大勢の前で呼ばれたことで、どこか複雑な表情を浮かべ、頬を赤らめていた。
その一言で先ほどまで漂っていた緊張と余韻は、ふっと解けていった。会場全体に柔らかな空気が戻り、ざわめきが小さく広がっていく。
そのタイミングを見計らったかのように、本田がマイクを手に取ると、静かに立ち上がった。場を優先し、会話の熱が行きすぎないうちに流れを整えるような所作だった。
「それでは――皆さま、お食事をお楽しみください」
澄んだ声が場内に響くと、自然と視線が本田へと集まり、緊張が完全に解き放たれる。拍手が会場を埋め尽くし、祝宴本来の賑やかさが戻ってきた。
「なんだSAKEBI、お前、“秋風”って名前だったのか」
無邪気に口を挟むカナレが二人のところへ。
その一言にSAKEBIは思わず頬を赤らめて視線を逸らし、父の東城は逆に嬉しそうに目を細めた。娘の素顔をからかわれることさえ、誇らしげに受け止めているようだった。
如月は、黙ってその光景を眺めていた。Queen Beeの主要スポンサーの代表取締役が、団体の若手レスラーの父親――それだけでも大きな驚きだが、そこに複雑な事情が潜んでいることは容易に想像できた。だがあえて何も口にせず、ただ観察に徹する。
そんな如月の沈黙をよそに、カナレが唐突に言い出した。
「そうだ!“秋風”の家って、自分のところで女子プロ団体も経営してるんだよな!」
その一言にSAKEBIは小さく顔をしかめ、蚊の鳴くような声で恥ずかしそうに「……本名で呼ばないで」とつぶやいた。
太平洋連合――この国の海運の要とも呼ばれる巨大企業。その傘下に存在する女子プロレス団体「パシフィックゲート」。その規模は桁違いだった。巨大な客船を改造し、内部に試合会場、練習施設、寮までを完備。世界中を巡業するその様は、他の団体には真似できない圧倒的なスケールを誇る。
如月は、そのスケールを背負う東城の姿をじっと見つめた。落ち着いた物腰の奥に、組織を動かす者だけが持つ独特の圧と胆力を感じ取る。
(……うちの社長と同じ匂いがする。間違いなく、やり手の人間だ)
そんな如月の考えをよそに、東城はふと笑みを浮かべてカナレへ声をかけた。
「カナレ選手、TMH王座獲得おめでとう!あの試合は素晴らしかった。私も胸が躍ったよ」
聞けば、仕事そっちのけでテレビの前にかじりついて観戦していたらしい。スポンサーというより、ひとりのプロレスファンの顔を覗かせる。
如月は「この人も相当なプロレス好きなんだな」と内心で苦笑した。
だが東城は少し寂しげに言葉を続けた。
「……ただ、あのベルトは生で見たかったね」
その表情を見たカナレは、不意に胸を突かれたように目を潤ませ、うつむいた。嬉しさよりも申し訳なさが勝り、涙をこぼしそうになっている。
慌てて東城が両手を振り、平謝りする。「そんなつもりじゃないんだ」と弁明するが、カナレは「ごめんなさい」と繰り返すばかり。場の空気は微妙に沈みかけた。
如月がゆっくりと歩み寄ってくる。数メートルほどの距離を静かに詰めながら、視線を東城へと向ける。場の呼吸を確かめるように短い間を置き、それから口を開いた。さりげなく――しかし誰の耳にもはっきり届く声音で、話題を切り替えた。
「失礼ですが――東城社長。御社では女子プロレス団体も経営されていると伺いました。そんな環境がありながら、なぜSAKEBI選手はQueen Beeに?」
敬語を使った如月の声音に、カナレが涙を拭いながら振り返った。
「あんた、敬語もしゃべれるんだ」
その言葉に如月はあきれ顔で「お前と一緒にするな」と返し、またカナレがむきになって声を荒げる。皇が慌ててなだめに来た。
やがて皇が補足するように説明を加えた。
「SAKEBIはパシフィックゲートでデビューしたんだけど、本田社長に憧れて、うちに移籍してきたんだよ」
その言葉を受け、SAKEBIは無意識に視線を向けた。視線の先には、先ほどまで東條がいたスポンサーたちの集まるテーブルで談笑する本田の姿があった。凛とした背中を見つめる瞳は、憧れと決意で揺るぎなく輝いていた。
「いつか僕も、本田社長みたいなレスラーになって……うちの団体を守っていくッス!」
その言葉にこもる響きは、ただの少女の夢物語ではなかった。自信というより必然のように吐き出された意志。
その真っ直ぐさを前に、如月は胸の奥で「自分にはない資質だ」と認めざるを得なかった。
東城もまた、娘の決意に頷き、静かに言葉を添えた。
「本当は早く戻ってきてほしいけれど……本田社長に預けたからには、Queen Beeのベルトを巻いてから帰ってきてほしいと思っているよ」
その言葉に、SAKEBIは力強くうなずく。
「お姉ちゃんよりも強くなるッス!」
その名が告げるのは、パシフィックゲート現チャンピオン・東城 春風――SAKEBIの姉で、彼女も現在は遠征中の身だという。
姉妹そろってレスラー。これほど恵まれた環境と熱を抱える存在が、今ここのリングにいる。
(……この子の未来は、きっと、とんでもなく面白いことになるな)
如月は胸の内でそうつぶやき、静かに笑みを浮かべた。
やがて島村と望月が如月のもとへ歩み寄ってきた。二人は場の空気を壊さぬように東城へ軽く会釈し、そっと声を潜める。
「如月、早く食べないと、冷めちゃうよ」
笑みを添えたその言葉には、気遣いと、いつもの仲間らしい柔らかさが滲んでいた。戦いの話ばかりに意識が傾いていた如月の肩を、自然に日常へと引き戻す一言だった。
SAKEBIもまた、父に深々と頭を下げる。普段は強気な彼女も、父の前では一瞬だけ少女の顔に戻り、名残惜しそうに感謝の言葉をつぶやいた。
その声音は小さく、しかし確かに誠意がこもっていた。やがて彼女は島村と望月に続き、テーブルへと戻っていく。
残された如月は、東城に対して短くも丁寧に一礼を送った。その眼差しには、スポンサーとしての重みも、一人の父親としての威厳も確かに刻まれていると感じていた。
そして如月は、横に立つカナレへと視線を移す。わずかに口角を上げ、静かに一言を残した。
「……じゃあ、リングで」
その言葉は挑発や約束でもなく、ただ淡々とした宣告。しかし確かに、試合は避けられぬ運命であることを告げていた。
如月が三人の仲間の元へと歩み去っていく。その背中を、東城は興味深そうに見送り、皇は静かな確信を持って見つめ、カナレは燃え盛る炎のような眼差しで睨み続けていた。
同じ光景を見ていながら、そこに重ねる感情は三者三様。しかし1つだけ確かなのは――この場にいる全員が、来るべき一週間後の決戦を強烈に意識していた、ということだった。
残されたのは東城と皇、そしてカナレ――視線の先には、なおも落ち着いた面持ちで座る如月の姿がある。
東城がゆっくりと口を開いた。
「如月選手でしたか、とてもいい空気感を持っていますね。若さの奥に、まるで死闘をくぐり抜けてきた熟練者の風格がある。あれは作ろうとして作れるものじゃない」
長年にわたり海運業という荒波を渡り歩いてきた男の眼差しには、誇張のない本音がにじんでいた。
その言葉に皇も静かにうなずき、柔らかな笑みを浮かべる。
「ええ……彼女はいずれ、私や本田社長をも超えるレスラーになります。そう確信しています」
堂々たる女王の断言。賛辞というより予言めいた響きに、場の空気がわずかに張り詰める。
そしてカナレは、その言葉を聞き流すように両の拳をぎゅっと握りしめ、全身に闘志を漲らせる。
真っ直ぐに如月へと突き出された右拳。その瞳は紅蓮の炎のように燃え盛り、挑戦者の覚悟と闘志を何よりも雄弁に物語っていた。
――一週間後、二人は同じリングに立つ。
その試合、どちらに勝利をもたらすのか、それは誰にも予測できない。ただ一つ確かなのは、そこで生まれるのは歴史に刻まれる“決戦”であるということだった。