第2話:異なる身体と変わらぬ闘志
あたりは漆黒に沈み、目を開けているのか閉じているのかすらわからない。視界だけでなく、体の輪郭さえ曖昧で、自分という存在がどこまで続いているのか掴めない。
英二は必死に体を動かそうとした。だが、まるで四肢が他人のものにすり替えられたかのように感覚がない。脳からの命令が伝わっていないのか、それとも受け取る器官が失われているのか――どちらにせよ、動く気配すらなかった。
霞がかった思考の奥で、それでもはっきりと理解できることがひとつあった。全身を貫く、鈍く重たい痛み。皮膚の下で血管や筋肉が軋み、骨の髄にまで痺れるような痛覚が広がっている。
「全身が……うずく。痛てぇ……なんだこれ……」
かすれた声だけが虚しく闇に散り、それすらもどこか自分の声とは思えなかった。遠い場所で、別人が同じ言葉を繰り返しているような奇妙な感覚がまとわりつく。
手足に力を込めても、沈んだ鉛の塊を動かそうとするだけ。身体は重力に押しつぶされるように沈んでいるのに、同時に浮遊しているようでもあった。
その矛盾に、ふと気づく。
ただ暗いわけではない。この感覚の欠落は――異常だ。
重力も、温度も、床や壁も、さらには空気すら感じられない。まるで宇宙空間に放り出されたかのような、“何もない”場所。
英二は、自分の存在が闇に溶けて消えてしまうような錯覚に襲われた。
「な……なんだ、これ!」
英二は叫んだ。だが、その声は自分の耳にすら届かぬように闇へ吸い込まれていった。残響や反響もなく、ただ虚空に溶けて消えていく。
静かだった。あまりにも静かすぎた。耳の奥がきしむように痛むほどの沈黙――まるで世界そのものが呼吸をやめてしまったかのようだった。自分の心臓の鼓動すら曖昧で、鼓膜に届くのは「無音」という圧力だけ。
英二の背筋を冷たい汗が伝う。声を出しても届かない、耳を澄ませても何も返ってこない。その事実が、ここが現実ではないのではないかという不安を、雪崩のように押し寄せさせる。
「まさか……俺、死んだのか?」
その最悪の言葉が、頭の奥底から勝手に浮かび上がる。振り払おうとしても、余計に意識が絡め取られる。死――その一文字が脳裏に焼き付いた瞬間、抑えていた記憶が鮮烈に蘇る。
――ハンドルを切る間もなく迫ってきたトラックのライト。
――衝撃。金属の軋み。
――視界を裂いた閃光と、体を突き抜けた痛み。
あの事故の光景が、まざまざと瞼の裏に蘇った。否応なく、今の状況と結びついていく。
英二は息を詰め、必死に首を振った。
「違う……まだだ、俺は――」
だが言葉の先は出てこない。無音の世界は、彼の抗いさえも飲み込み、ただ無情に広がり続けていた。
思わず頭をよぎった最悪の可能性。英二はそれを打ち消そうとするが、脳裏にはっきりと、事故の記憶が浮かんでいた。
――バスの中。
薄暗い山道。狭く曲がりくねった道。突然、前方のトンネルの先に“何か”が現れた。獣か、落石か、それとも……それ以上に説明のつかない“何か”。
咄嗟にハンドルを切る運転手。バスが激しく横滑りし、車内に叫び声とブレーキ音が渦巻く。
「うわっ!」「止まれぇぇっ!」――選手たちの声。
英二は、自分が一瞬だけ受け身を取ろうとしたのを覚えている。身体が反射的に動いた。あの瞬間、プロレスラーとしての習性が出たのだろう。
でも――。
ガードレールがきしみ、弾ける音。車体が傾き、空を飛ぶように揺れた。
そして、フロントガラスの向こうから迫る地面。真っ逆さまに落ちていく感覚。浮き上がる体。ひっくり返る重力。その先の記憶はなかった。
「クソッ……ちゃんと受け身とったつもりだったけどな……」
小さく呟いてみせるが、心には苦味しか残らない。
「師匠に……どう言えばいいんだよ……」
思い返す。プロ入り後、鳴かず飛ばずの時代に“あの人”と出会い、プロレスの厳しさや戦う姿勢も、身体で教えてくれた恩師。叱咤も激しかったが、その一言一打が、自分をプロレスラーとして鍛え上げてくれた。
心が折れそうになった時も、逃げ出したくなった時も、思い出したのは、あの人の背中と言葉だった。その教えを胸に、ここまでやってきた。
団体の未来を背負うと誓い、地方巡業にも精を出し、日々壊れていく体をだましだましで試合にも挑み続けてきた。リングの上では常に険しい眼差しを崩さず、痛みや弱音も客席には見せなかった。それが、プロとしての矜持だった。
「――これで終わりなのか?」
誰にも見守られず、拍手や歓声もないまま、テンカウントのゴングを聞くことなく静かに幕を引くなんて……そんな結末、認められるものかと。
リングの上で生き、リングの上で終わる。ずっとそれだけを信じて、ここまで歩いてきた。こんな場所で、誰の記憶にも残らず、ただ消えるだけなんて――そんな終わり方、自分の生き様が許さないと。
絶望がじわじわと胸を満たしていく。静寂は、容赦なく、その思考を引き伸ばす。
……その時だった。
どこからか、声が聞こえた。
「……ごめんなさい」
それは、優しいけれど、どこか泣き出しそうな女性の声だった。かすかな囁き。けれど、確かに英二の鼓膜を震わせた。
「……誰だ?」
英二は声を返す。
「おーい!誰かいるのか!?」
返事は、ない。けれど、何かがそこに“いる”という確信だけは、なぜかあった。
仲間でもない。ヒロミでもない。この声の主は、自分とはまったく違う場所にいる“誰か”だった。
女の声は、それきり沈黙した。
代わりに、空間をきしませる音が英二を包み込むように広がっていった。まるで世界そのものが、ひび割れ、崩れ始めたような感覚。
視界が、白く、滲む。
それは光だった。真っ白な、眩しすぎるほどの光。最初は小さな点のようだったそれが、あっという間に視界全体を覆い尽くした。
音が消える。痛みも、感覚も消える。ただ、光だけが英二を包み込んでいく。
「……もっと、リングにいたい……」
ぽつりとこぼれた言葉は、静寂の中に消えていった。悔しさが、胸の奥にじんわりと、けれど確かな熱をもってこだまする。ふざけ半分の軽口に、客席から飛んでくるブーイングや笑い声。観客を巻き込むようなマイクアピールも、無言のぶつかり合いも――もう一度味わいたかった。ただ、それだけだった。
もう一度、立ち上がって、誰かとぶつかりたかった。真正面から睨み合い、火花を散らし技と意地をぶつけ合い、たとえボロボロになっても最後には観客に胸を張って立ち上がる——それがプロレスだった。それが、英二の“生き様”だった。
かつては華麗な飛び技も使いこなしていた。トップロープからのムーンサルト、場外へのケブラータ、観客の度肝を抜くような空中殺法。強靭な足腰から放たれる重量級のドロップキックに、豪快なジャーマンスープレックス。マットに叩きつけられた相手の体が弾むたび、客席からはどよめきが上がった。
華のあるレスラーとして名を馳せ、団体のポスターの中央に映ることも珍しくなかった。客席の歓声を引き出す派手なパフォーマンスも得意で、団体の“顔”と呼ばれる時期もあった。
だが、それはもう十年以上も前の話だ。
度重なる怪我、擦り減った関節、そして――膝に巣食う関節鼠。動かすたびにゴリゴリと音を立てる膝関節。ある日突然、足がロックされて動かなくなる恐怖。リング上でも無意識に庇うようになり、ステップも踏めなくなった。
飛ぶこともできない。着地の衝撃が命取りになる。あの頃のように空を舞うなんて、もう想像すらしたくない。
派手な技も出せず、SNSでバズるような仕掛けもできない。若手のように軽やかに動き回ることも、口先で注目を集めることもできない。華もない。ただ、それでも――英二はリングに立ち続けた。
背中を向けない。投げられても、何度でも立つ。ただそれだけを武器に、20年近くを闘ってきた。英二にとって、リングは人生そのものだった。歓声も、ヤジも、スポットライトの熱も、全部がかけがえのないものだった。
(……まだだ。まだ何も見せちゃいない)
自分がリングに込めてきたもの。叩き込んできた技、流した汗、握りしめた拳——それは、単なる“格闘”じゃない。誇りだった。誰にも届かなくてもいい。理解されなくてもかまわない。でも、たった一人にでも響くものがあるなら、それで十分だった。
(自分の足でリングを降りる。それが俺の望んだ“最後”だったのに……)
どんなに痛くても、どれだけ打たれても、リングの上でなら耐えられた。あそこは戦場であり、唯一、自分が“自分”でいられる場所だった。拍手がなくてもいい。客が少なくても構わない。ただ、リングに立つことで、英二は英二であり続けられた。
それが、いつか師匠に誓った「生き方」だった。
だからこそ——終わりたくなかった。
幕が下りるなら、自分の意志で立ったまま終わりたかった。今みたいに、こんな暗闇の中で何の音もなく誰にも看取られずに消えるなんて、英二は——それだけは、どうしても許せなかった。
(まだ、終わりたくねぇよ……)
その声は、もう口に出すことすらできなかった。英二の意識は、ゆっくりと、しかし確実に——沈んでいく。
……
無音の中、光だけが、世界を染め上げていた。次に目を開けたとき、そこには見慣れない白い天井が広がっていた。どこか無機質だが、やけに静かで落ち着いている。
「……病院、か?」
高く漏れた声に、自分でも違和感を覚える。英二は上体を起こす。頭に鈍い重さはあるが、痛みはない。身体も動く。ただ、病院というよりは、誰かの部屋のような空気があった。
清潔に整えられた小さな棚。カーテン越しに差し込む柔らかな朝日。色褪せたぬいぐるみと、ベッド脇に立てられた写真立て。
写真には、制服姿の少女と、彼女を囲む家族らしき人々の笑顔が映っている。
「……誰だ?この子」
まったく見覚えがないはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。懐かしさとも、切なさともつかない感情が、心をかき乱す。
「知らない……はず、だよな……?」
そのとき、視線がふと胸元へ落ちた。
——何か、おかしい。
胸のあたりが妙に重い。しかも、ふくらんでいる。トレーニングで鍛えた大胸筋の張りとは、まるで違う。
嫌な予感が脳裏をよぎる。おそるおそる、パジャマ越しに胸を両手で包む。
「……やわらかい……!?」
一瞬、思考が真っ白になる。まさか、と急いで布団を跳ね除け、鏡を探して部屋の隅に駆け寄る。
壁に掛けられた鏡。その姿見に映し出されたのは、見知らぬ——いや、あの写真に写っていた——少女だった。
「……は?俺……だよな?え、マジで?」
混乱の極み。思わず自分の頬を指でつねる。
「いってぇ……」
痛みは現実を告げている。これは夢じゃない。鏡の中の少女——セミショートの黒髪に、整った目鼻立ち。そして、見事に発育した胸元。おそるおそる、パジャマの胸元に手をかけ、そっと開いて中を覗く。
「……うわ、ホントに……ある……」
「マジかよ……俺、女になってんのか?」
声も変わっている。高くて透き通った少女の声。しかも、それが妙に喉にしっくりきているのが、さらに恐ろしい。
パニック寸前だったそのとき、扉の向こうからコンコンとノックの音が響き、続けて人の声が聞こえてきた。廊下の向こうで誰かが叫んでいる。
「如月、起きてる!?もう朝稽古の時間だよー!」
英二は思わず反応する。
「如月……?俺のことか?」
混乱しつつも、とにかく扉の向こう側に出てみるしかない。状況を把握するのが先だ。胸元を直し、恐る恐る扉を開けると、甘い匂いと柔らかな光が廊下に満ちていた。ジャージ姿の少女たちが、三々五々、あわただしく行き交っている。
全員、明らかに今の自分の容姿と同年代の女子たちだった。
「女くさい……」
冷たいコンクリートの床に足音が響くたび、空気がわずかに揺れる。女子特有の柔らかいざわめきと、少し鼻をつくシャンプーの匂い。
そのとき——。
「おーい!」
背後から声が飛んできた。振り返ると、頭上からこちらを見下ろす30代くらいの女性がいた。長身で、ショートカットに褐色の肌。筋肉質で引き締まった体は、健康的ながらも抜群のスタイルを誇っている。目つきには鋭さがあり、言葉にせずとも「只者ではない」空気を放っている。
「何ぼーっとしてんだい!さっさと着替えて道場に行きな!」
怒鳴ってはいないのに、全身がビリッと反応する。まるで、昔の鬼コーチに怒鳴られたときのような迫力だ。
背中をバシバシと叩かれながら、階段を下りていく。
「いって……な、なんなんだここは……」
(——道場?)
確かにそれっぽい単語は出た。だが、女子ばかりのこの雰囲気。英二は、なぜか懐かしい感覚を覚える。
違う身体。違う環境。
だが——。
「この匂い……リングに染み付いた、血と汗の匂いだ……」
心のどこかが高鳴る。闘いの場に向かう、あの鼓動。アドレナリンの予感。
そのとき、階下から別の声が響いた。
「如月、まだー?今日はスパーリングの順番早いよー!」
また「如月」と呼ばれた。それが今の自分の名前で、どうやら間違いないらしい。英二は部屋に戻り、鏡に映った少女の顔をもう一度しっかりと心に刻んだ。
「如月……ってのが“今”の俺ってことか。だったら——」
階段を踏みしめ、一歩ずつ、彼女——いや、“自分”の今を歩き始めた。