第19話:決戦前夜祭
如月の宣言によって、天道カナレVS如月麗の試合が正式に決まった。祝勝会という名の宴は、一瞬にして特別マッチの発表会へと変貌し、会場にいた全員の視線が二人に集中する。料理の香りや音楽も霞み、今この場の主役は完全に彼女らになっていた。
「よーし!言質とったぞ!」
カナレは興奮のあまり、如月からマイクを強引に奪い取った。その顔は子どもが大好きなオモチャを手に入れた時のように輝き、無邪気さと暴走が入り混じっている。
「おい、SAKEBI!今の全部書き留めとけ!後で如月っちにサインさせるからな!」
突然の無茶ぶりに名指しされたSAKEBIは、椅子を蹴るように立ち上がり、叫んだ。
「なんで僕がそんなことしなきゃいけないッスか!僕は書記じゃないッスよ!」
マイクのない声でも、場内に届くほどの本気の抗議。その姿に会場のあちこちから笑いが漏れる。
如月はその様子を眺めながら、心の奥で申し訳なさが込み上げてきた。
(……本当にスマン。完全にとばっちりだよな)
しかしカナレはそんな空気をものともせず、さらにヒートアップする。今度は選手会のテーブルを勢いよく指差し、声を張り上げた。
「社長!試合の日取りはいつなんですか!私は今ここででも構わないですよ!」
その瞬間、会場はどっと沸いた。選手たちが床を足で鳴らし、テーブルを叩き、まるで本当にゴングが鳴ったかのような騒ぎになる。
だが、その熱狂の輪の中で、ただ一人だけ体を震わせる者がいた。社長の隣に座る斎藤である。彼女の顔はみるみるうちに赤く染まり、こめかみに青筋が浮かんでいる。宴の場をかき乱すカナレの無鉄砲さに、怒りと困惑が入り混じっていた。
さすがのカナレもその気配に気づいたのか、「あ、やば」と小さくつぶやくと、バツが悪そうに如月へとマイクを差し戻した。
「ほ、ほら!如月っちもなんか言ってくれよ!」
突然のキラーパスに、如月は眉をひそめた。受け取るべきか一瞬迷うが、場内の視線はすでに彼女へと注がれている。数百の視線が一斉に突き刺さるその圧は、リングでの大観衆ともまた違う重みがあった。
如月が返答に迷っていると、その横をすっと影が通り抜けた。本田だった。彼女は慌てる様子もなく、静かに歩み寄って如月からマイクを受け取ると、会場の中央で立ち止まる。
「会場におられる選手の皆さま、そして選手会、今回の準備に尽力いただいた関係者各位へ、まずは心から感謝を申し上げます」
澄んだ通る声がスピーカーを通して響き、場内の空気を震わせた。軽口のようなカナレの叫び声とは正反対の、堂々とした威厳。
本田は深々と腰を折り、静かに頭を下げた。わずかな所作に、Queen Beeの代表、そして指導者でもある風格が宿っている。
次の瞬間、場内から大きな拍手が沸き起こった。選手や関係者も、自然に手を叩いている。さっきまでのグダグダとした空気は完全に払拭され、張り詰めた緊張と敬意に包まれた。
(……やっぱり並じゃない。これが“トップ”の器ってやつか)
如月は内心でうなりながら、マイク一本で会場の空気を掌握する本田の力量を思い知らされていた。
そんな時だった。如月の視線がふと、ひとつのテーブルへと釘付けになる。
そこは他の選手たちの席とは明らかに雰囲気が違っていた。スーツに身を包んだ年配の男性陣が居並び、背筋を伸ばして座っている。
その中には、黒紋付き袴に身を固めた古風な姿もあれば、ダブルの黒スーツを着こなす者もいる。角刈りやオールバックの髪型と相まって、その威圧感はどう見ても“裏社会の顔役”そのものだった。
「どう見ても、道を極めし者たちって感じだよな……」
思わず口から漏れたつぶやきに、隣のカナレが慌てて振り返り、声をひそめて突っ込む。
「おい!失礼なこと言うなよ!あの人たちは堅気の人だぞ!」
そう言いながら、カナレは会場入口に飾られた祝い花を指差した。そこに掲げられていたのは、立派な札の数々だった。
――祝 王座奪還 天道カナレ選手 株式会社バード商会 会長 水無月総一郎。
――祝 勝利 SAKEBI選手 天竜技研工業株式会社 CEO 河島竹友。
――祝 凱旋帰国 天道カナレ選手 太平洋連合 代表取締役 東城 季吉。
――祝 栄光の勝利 SAKEBI選手 鳳凰建設株式会社 会長 鳳条 時宗。
立ち並ぶ札の名前は、“英二”の世界でも誰もが知る一流企業ばかり。その豪華な花が、彼らの席に“ただならぬ格”を添えていた。
「なるほど……超優良スポンサーってわけか」
如月は息をのむ。さっきまで裏社会の重鎮にしか見えなかった男たちが、今は団体を後ろから支える大口スポンサーとしての顔を見せている。
けれど同時に、心の奥底にひとつの違和感がざわりと広がった。
(……なんで俺のいた世界の会社が、こっちにもあるんだ?)
あまりに率直で単純な疑問。しかし、頭から離れなかった。
(……やっぱりおかしい。俺の世界と、こことは繋がってるのか?)
脳裏をよぎったのは、初めてQueen Beeの施設内に併設されたコンビニへ足を運んだときのことだった。まだキャッシュ機能付きのカードキーを受け取る前で、仕方なくこの身体――“本当の如月麗”が持っていた財布を使ったのだ。
そのときの違和感はいまも鮮明に残っている。硬貨の手触り、刻まれた年号、レジに並ぶ商品――どれもが、英二が元いた世界と寸分違わなかった。
IWAの巡業先でよく食べていたカップラーメン、遠征帰りに買い込んでいたつまみ類まで同じ。さらに支払いに使った硬貨も、英二の世界とまったく同じデザインと価値を持っていた。
思えば、最初に島村と望月が差し入れてくれた大量のパンや補助食もそうだった。英二がよく好んで食べていたメーカーのものばかり。
あまりにも率直で単純な疑問。なぜ“この世界”に、英二の知る会社や商品、通貨までもが存在するのか。偶然では済まされない。
――まるで2つの世界がどこかで地続きになっているかのように。
考え込む如月に、カナレが声をかける。
「社長が現役の頃からの知り合いで、Queen Beeを立ち上げる時にも協力してくれたおっちゃん達だ」
そう言いながら、カナレは満面の笑みを浮かべて大きく手を振った。するとスポンサーたちは一斉に柔らかな笑みを浮かべ、にこやかに手を上げ返す。その仕草は、ただの形式的な挨拶ではなかった。まるで孫を見つけたかのような温かさがそこにあった。
大企業のトップや業界の重鎮たち――普通なら距離を感じて当然の相手でさえ、彼女の前ではただの「応援者」に変わる。場の中心に立ち、無邪気に手を振るその姿に、誰もが自然と引き寄せられてしまうのだ。
選手としての実力やチャンピオンという肩書き以上に、人を惹き込み、笑顔にさせる不思議な光。その空気を支配する華やかさを、如月は否応なく感じ取っていた。
(……本当に、人を引き寄せる花を持った子だ。敵に回したら厄介だが、味方なら――これ以上心強い存在はいない)
如月は感心半分、呆れ半分で心の中でつぶやいた。人を笑わせ、人を燃えさせ、そして巻き込んでしまう力。レスラーとしては最高の資質かもしれないが、同時に一番厄介なタイプでもある。
本田は、来賓や関係者に向けた定型のスピーチを淡々とこなしていた。穏やかな拍手と社交辞令の笑みが交わされ、会場はまだ祝宴のざわめきを引きずっていた。
――だが。
本田がマイクを持ったまま静かに一歩、中央へと歩み出ると、その場の空気ががらりと変わった。わずかな足音すら場内のざわめきに吸い込まれるように消えていく。社長が「ここから本当に言うべきこと」を発する――その予感だけで、浮ついていた空気はぴたりと止まり、水を打ったような静寂が広がった。
場内の視線は、一斉に彼女へと吸い寄せられる。
「今回、二人が争うのは――ただの勝敗ではありません。Queen’s Crownの女王・皇 翼。その栄光のタッグパートナーの座を懸けた一戦です!」
その宣告が落とされた瞬間、会場は炸裂した。
「おおおおっ!」
怒涛のような大歓声。立ち上がった椅子が倒れる音、テーブルを揺らしながら床を踏み鳴らす重低音。壁や天井が揺れるかのような地鳴りに、会場は一気に試合会場さながらの熱狂に包まれていった。
会場に招かれたメディア関係者たちも、一斉にシャッターを切った。本田を中央に、左右に並ぶカナレと如月を写し込む構図で、フラッシュが止むことはなかった。
さらに本田の声が重なる。
「さらに――この試合は如月麗のデビュー戦を兼ねています。舞台は1週間後、Queen Beeが誇る特設スタジアム“ヘキサゴン”。歴史に刻まれる初陣となるでしょう!」
天井を突き破るかのような歓声。フォークやグラスを掲げて叫ぶ者、両腕を振り上げて跳びはねる者。選手やスタッフ、そしてスポンサーも、すべてが一斉に熱狂の渦に飲み込まれ、祝宴は完全に「決戦前夜祭」へと変貌していた。
その一方で、メディア関係者の何人かは静かに席を立ち、スマホを手に会場の外へと向かっていた。熱狂のただ中から離れ、外の世界へと情報を届けるために。
ただ一人――如月を除いて。浮かべた表情は曇り、熱狂を見つめる視線の奥には、微かな戸惑いが滲んでいた。
(デビュー戦……?しかも、1週間後だと……?)
頭の中で思考が空回りする。身体を仕上げる時間も、作戦を練る余裕もない。喜びと期待で沸き立つ場内の中で、ただ一人、如月だけが取り残されたように孤立していた。
「……調整も必要なのに」
小さく漏らした声は、熱狂の渦にすぐさま飲み込まれ、誰の耳にも届かない。
だが、隣に立つカナレは真逆だった。スポットライトを浴びて堂々と胸を張り、両拳を握りしめて燃えるような笑顔を浮かべている。
「なんだ、自信がないのか如月っち!私は今からでも構わないぜ!」
その声音には揺るぎない自信と挑発が混じり、会場をさらに沸かせた。拳を突き上げる選手の姿とカナレの笑顔が重なり、場の熱気はますます上がっていく。
帰国したばかりで心身ともに疲労しているはずなのに、彼女の姿は少しの疲れも見せない。むしろこの空気を浴びて力を増しているかのようだった。
如月は半眼になり、呆れたようにその姿を見やる。
(……帰国したばかりで元気全開かよ。ほんと、どっか大事なネジが外れてんじゃねぇか、この子)
その視線に気づいたのか、カナレは一瞬で顔を真っ赤にし、子どものように叫んだ。
「また私を馬鹿にしてるな!」
その声に会場が、どっと笑いがこだまする。熱狂と笑いが渦を巻く。張り詰めた空気と緩んだ空気が交互に入れ替わり、会場は完全にカナレと如月のやり取りに飲み込まれていた。
笑い声と歓声が入り混じり、祝勝会はもはや「ただの宴」ではなくなっていた。二人の前哨戦を楽しむ全員の空気は、いつしか「決戦前夜祭」と呼ぶにふさわしい高揚へと変わっていた。
そして――その熱を一刀両断するように、本田が厳かに口を開いた。
「それでは――お願いします」
低くも響き渡る声。その瞬間、会場の照明が一斉に落ちた。暗転。ざわめきが奔流のように走り、思わず誰もが息を呑む。直後、中央ステージに一本のスポットライトが突き刺さる。
――荘厳なイントロ。
会場から、抑えきれない悲鳴のような歓声が爆発した。
その時、カナレが身を乗り出し、目を輝かせて声を上げた。
「おっ……これって、ツバサさんの入場曲……!」
無邪気に叫ぶその声が合図のようになり、会場の熱狂はさらに膨れ上がった。皇 翼の名を象徴する楽曲が会場全体を震わせ、まるで空気そのものが黄金色に染まるような圧倒的な存在感を放っていた。
「《Fortune Bloom》だ!」
耳慣れた旋律が会場を揺らし、天から降り注ぐような音の奔流が空気を支配する。
ステージ中央の床が静かに開き、白煙が噴き上がる。その奥から浮かび上がったのは――Queen Beeの女王、皇 翼。
きらびやかでありながら凛とした衣装を身に纏い、背筋を伸ばしたその姿は、まさに男装の麗人。静かに歩み出すだけで、場内の空気は完全に支配された。
彼女を囲むのは、Queen Beeが誇る選ばれし精鋭――“ロイヤルガード”。数々の修羅場を潜り抜けた猛者たちであり、Queen Beeのベルトを現在、あるいはかつて腰に巻いた者たち。
その存在だけで会場は圧倒され、ざわめきは歓声へと変わり、やがて崇拝のような熱狂へと昇華していった。
煙と光の中で浮かび上がる皇とロイヤルガードの一団。その光景は、祝宴を彩る演出などという言葉では収まりきらない。まるで――一国の戴冠式。神聖な儀式の幕開けのようだった。
統一感のある衣装、厳かな所作。女王のためだけに用意された舞台装置が次々と動き出す。ロイヤルガードの一人が両手で王冠を捧げ持ち、ゆっくりと如月の頭上にかぶせる。その瞬間、マントを羽織った舞台全体が光に包まれ、女王が浮かび上がる。
如月は思わず息を呑んだ。
(……ここまで徹底して“女王”を演出するのか……)
煌めくライトの中心に立つ皇 翼。その一挙手一投足が舞台装置と完璧に呼応し、ただマイクを取る仕草でさえ、まるで映画のワンシーンのように絵になっていた。
静かに唇を開く。
「やあ、ハニーたち」
その柔らかで澄んだ声がホールを満たした瞬間、会場の空気が爆ぜた。黄色い歓声が飛び交い、拍手が重なり、悲鳴にも似た熱狂が波のように広がっていく。
中には涙ぐむ者さえいる。スポンサー席に並ぶ年配の男たちも、まるで孫の晴れ舞台を見守る祖父母のように目を細め、穏やかな笑みを浮かべていた。
メディア関係者たちもまた、夢中でシャッターを切り、ペンを走らせ、その光景を逃すまいとしていた。
「今日は大事な、私の“姉妹”の祝勝会……本来なら出しゃばるつもりはなかったが――」
言葉を切ると、すかさず選手から声が飛んだ。
「お姉さまーっ!」
「もっと聞かせてー!」
その熱に後押しされるように、皇はゆっくりと視線を動かし、如月とカナレをまっすぐ見据える。その瞳は優しさと厳しさを併せ持ち、女王としての威厳を帯びていた。
「カナレ。君はQueen Beeの巣に、大切な夢を運びこんでくれた」
その瞬間、スポットライトがカナレを照らし出す。カナレは大観衆の前で少し照れくさそうに頭をかき、頬を赤らめながらも、胸を張ってその光を受け止めていた。
「そして麗」
皇の声が低く落ち着いた響きを帯びる。光が如月を包み込んだ。
「君はこれから巣から羽ばたく、最も偉大なレスラーになる素質を秘めている」
照明の白光の中で、如月は一歩も動かず立ち尽くしていた。その姿は凛々しく、全員の目には静かな威風をまとって映った。
皇はふっと微笑んだ。
「この美しきキラービーの戦いこそ、女王に仕える者を決する“神聖なる儀式”。栄光を掴むのは、果たしてどちらか」
その言葉は雷鳴のように会場へ響き渡り、会場全員の胸を震わせた。息を呑む者、拳を握る者、涙ぐむ者――誰もが次の瞬間を待ちわびていた。
そして皇はマイクを高々と天へ掲げ、声を張り上げた。
「――さあ、決戦のときだ!」
その一声に、ホール全体が爆発した。歓声、拍手、足を踏み鳴らす轟音。床が震え、天井の照明が揺れるほどの熱狂が渦を巻く。祝宴は完全に姿を変えた。
ここから始まるのは、ただの余興や宴でもない――新たな伝説の幕開けだった。