第18話:如月っち、指名!
きらびやかな照明が瞬きを繰り返し、色とりどりの光が交差する。ステージ中央では数人の選手が音楽に合わせて躍動し、歓声が熱気をさらに高めていた。
ここはQueen Beeの施設内にある多目的ホール。普段は地域イベントやフィットネス教室など、市民に広く開かれた憩いの場として親しまれている。
だが今宵、その表情は一変していた。床下に収納された可動式リングの代わりに特設ステージが据えられ、スポットライトやムービングライトがミュージシャンを照らし出す。ホール全体は音楽と熱狂の渦に包まれ、試合会場とはまた違う興奮に満ちていた。
Queen Beeには、レスラーの入場曲を手掛けるアーティストを支援してきた歴史がある。無名時代にこのホールで腕を磨いたバンドが全国デビューを果たす例も珍しくない。
時には「Queen Beeバンド」と呼ばれる縁深いアーティストがライブを行い、クライマックスではレスラー本人がサプライズ登場してマイクを握り、自らの歌声で観客を魅了することもある。その瞬間、音楽とプロレスの境界は消え、リングとステージは1つになった。
こうして積み重ねられた歴史は、このホールに特別な輝きを宿している。
かつては人気バンドがシークレットライブを敢行し、数千人規模のホールを埋めるアーティストが、わずか数百人の観客と至近距離で向き合った。その濃密さと贅沢さはいまだに「伝説の夜」として語り継がれている。
このホールは単なる施設ではない。プロレスと音楽、2つの表現が交差し、融合し、新たな伝説を生み出す“巣”――それこそが、Queen Bee多目的ホールの真価であった。
そして今、その中央でマイクを握りしめ、魂を吐き出すように熱唱するのSAKEBIだった。全身を震わせる激しいシャウト、鋭く胸を抉るような歌詞。粗削りで荒々しいはずなのに、会場にいる選手、関係者の心を掴んで離さない、不思議な吸引力と説得力があった。
ステージの照明が汗に濡れた彼女の髪を煌めかせ、まるで炎のように揺れる。会場の誰もが拳を突き上げ、叫び声に応えるかのように大歓声を返していた。
その圧巻のパフォーマンスを、ホール後方のテーブル席から眺めているのは島村、望月そして如月、の三人だった。背後の壁際には豪華なビュッフェテーブルが並び、そこから好きな料理を自分たちで取り分け、皿に盛って席へと持ち帰る形式だ。
彼女たちのテーブルには、三人がそれぞれ持ち寄った料理の皿が所狭しと並んでいた。
望月の前には唐揚げと炒飯が山のように積まれ、島村の皿にはきっちり整えられたサラダとパスタが彩りよく盛られている。一方の如月の皿はというと、ソーセージや焼き鳥、甘いデザートまで無造作に積み上げられ、すでに小さな戦場のようだった。
その食べ方や盛り方1つで、三人の性格がそのまま表れているようで、テーブル自体がちょっとした見世物になっていた。
それぞれが好みで盛り付けてきた皿が積み重なり、気づけばテーブルいっぱいに小皿や大皿が雑多に並ぶ。料理の香りと熱気が漂い、ステージからの轟音と相まって、食欲と興奮が混ざり合う独特の空気を生み出していた。
「ヤバ!これマジで美味しい!」
望月が嬉々として唐揚げを頬張りながら声を上げる。衣はサクサク、中から肉汁が溢れ出し、熱々の旨味が口いっぱいに広がった。
「そんなに唐揚げばっかり食べてたら、また太っちゃいますよ」
島村が呆れ顔で突っ込む。しかし、その手元の皿もまた山盛りの料理で埋まっていた。
「太ってんじゃないの!筋肉が増えたの!」
フォークを握りしめ、胸を張って言い切る望月。確かに最近は筋力トレーニングの成果で体格ががっしりしてきていた。だが、別皿に積み上げられたプチケーキやティラミスが、説得力を少しばかり削いでいた。
「筋肉ねぇ……」
如月は苦笑しながら、ウィンナーをフォークで刺し、のんびりと口に運んだ。SAKEBIの歌声が響き渡る熱気の中でも、彼女らのテーブルは妙にゆるい空気が漂っていた。
カナレとSAKEBIの帰国、カナレのチャンピオン戴冠、そしてSAKEBIのエキシビションマッチ勝利を祝して開かれた祝勝会。涼子料理長が厨房スタッフと共に一日がかりで仕上げたビュッフェ料理の数々は、どれも高級ホテルに劣らぬ完成度だった。
本田や斎藤、安西、そして選手会の面々に囲まれながら、涼子は調理の合間をぬって楽しげに談笑していた。大きな体から響く豪快な笑い声は場を明るくし、誰よりも早く空いた皿やグラスに気づいては料理や飲み物を勧めて回る。
その姿は、料理長であると同時に“母親”でもあり“宴会の主役”でもあった。
ただ料理を作るだけではない。選手たちの好みや体調を把握し、時には「こっちのほうが今の体にはいいぞ」と気遣いながら皿を差し出す。そんな細やかな心配りに、周囲の選手たちも自然と笑みを浮かべ、硬かった空気が和らいでいく。
大所帯の中にあっても、涼子の存在感はひときわ大きい。豪放磊落で頼れる姉御肌――彼女がいるだけで、この場は一層あたたかく、賑やかに彩られていた。
その様子を眺めていた如月は、ふとフォークに刺したソーセージをひょいと掲げる。まるで「ほら、あそこにいるだろ」と指差す代わりに、フォークの先で涼子の姿を示した。
「あのでかい姉ちゃん、何でも作れるんだな」
如月はフォークに刺したソーセージをひらつかせ、まるで証拠品を突きつけるように涼子へ向ける。
一口かじってから、それが涼子のお手製だと聞かされて目を丸くしたばかりだ。舌の記憶に残っているドイツ遠征で食べた本場のソーセージよりも、ずっと旨い。既製品どころか本場すら超えていることに、如月は内心ひどく面食らっていた。
「ちょっと如月、お下品だよ!」
望月が眉をひそめてたしなめると、テーブルのあちこちからクスクスと笑いが漏れた。料理の香りと笑い声が混ざり合い、宴の場らしい温かな空気が広がっていく。
如月はソーセージを一口で平らげ、皿を軽くテーブルに置きながら周囲を見回した。豪華な料理やにぎやかな仲間の顔ぶれも圧巻だったが、それ以上に彼女の胸を打ったのは――施設そのものの規模だった。
「にしても……すげぇよな。まさか自前のスタジアムまで持ってるなんてよ」
思い出すのは来る途中に見た光景。
Queen Beeの施設には全天候型の六角形スタジアム――通称“ヘキサゴン”が併設されている。IWA時代、年末やビッグマッチのときに借りていたドームクラスの規模と遜色ない。プロレス団体が「戦いの場」を自前で持ち、選手が自室から直行できるなど夢のような環境だ。
「自前の会場に、うまい飯……至れり尽くせりだな」
如月が感心したように呟くと、望月が肩をすくめて笑った。
「何言ってるんですか、如月さん。うち規模の団体なら普通ですよ」
さらりと言い放つその声音には、所属団体への誇りがにじんでいた。望月も「うん」と頷き、フォークを皿に置く。
「ただ――涼子さんは別格ですけどね」
島村が言葉を足すと、三人の視線が自然と涼子へ向かう。
そこでは涼子がエプロン姿の厨房スタッフたちにテキパキと指示を出し、まるで戦場の司令官のように采配を振るっていた。つい先ほどまで本田や斎藤たちと談笑していた彼女が、今は一転して料理長の顔に戻り、会場全体の動きを掌握しているのだ。
巨大な団体が自前の会場と設備を持つこと自体はこの世界では珍しくない。
だが、試合の盛り上がりと同じ熱量で選手の胃袋を満たす料理長を擁する団体など、他にはほとんど存在しない。涼子はまさに“もう1つの看板”であり、団体を支える縁の下の力持ちそのものだった。
如月は再びソーセージを豪快に口へと運びながら、心の中で感嘆する。
(……まるで1つの国だな。リングも、飯も、全部が揃ってやがる)
「いや~お姉さん、いい食べっぷりッスね!」
背後からかけられた声に三人が振り返ると、そこに立っていたのは歌い終わったばかりのSAKEBIだった。
照明に映えるステージ衣装を身にまとい、額には汗がきらめいている。タイトな布地がスタイルの良い体に張り付き、舞台の熱気を纏ったまま歩み寄る姿は、まさにアーティストそのものだった。白銀のロングウェーブヘアが光を反射し、まぶしく輝いて見える。帰国のときに見せた素朴な雰囲気とは打って変わり、今は大人びた存在感を放っていた。
「いやいや、お姉ちゃんの歌声もなかなかだぞ」
如月が冗談めかして言うと、その軽妙な言い回しは、まるで場慣れした後援者か古株のプロモーターのようで、思わずSAKEBIが吹き出した。
「あはは、お姉さんやっぱいいッスね!思ってた通りッス!」
笑いながら席へとついた彼女に、島村がピッチャーからウーロン茶を注ぐ。SAKEBIはゴクリと一気に飲み干し、深く息を吐いた。
「はぁー……やっぱこの一杯のために歌ってるッスよ」
その率直すぎる言葉に三人が笑うと、如月が首を傾げる。
「でもいいのか?主役が上座にいないと絵にならないだろ」
ちらりと上座に目を向けたSAKEBIは、苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「いや、そうなんですけど……お姉さんたちの方が落ち着くんスよ」
視線の先には、仲間に囲まれて自慢話を大声でまくし立てるカナレの姿があった。
「いい子なんですけど、すぐ調子に乗るし、人のことなんか考えないッス、あの子」
愚痴交じりのその声は、どこか姉が妹を案じるような柔らかさも含んでいた。
如月が空いたコップに再びウーロン茶を注ぐと、SAKEBIは嬉しそうに笑みを浮かべ、また愚痴をこぼし始める。飛行機の乗り場を間違えて乗り遅れたこと、ホテルではいびきに悩まされて寝不足のまま試合に臨んだこと。
遠征中で抱えたストレスを一気に吐き出す姿に、三人は顔を見合わせて苦笑した。
「そんな時に限ってノイズキャンセラー付きのイヤフォンを忘れたッス!」と嘆き、SAKEBIはウーロン茶を一気に煽った。氷の音が鳴り、如月ともう一人は思わず吹き出した。
「……なぁ、このウーロン茶、アルコール入ってないよな?」
「入ってませんよ……」
島村が小声で頷く。安心したように如月は肩を落とした。
SAKEBIの愚痴を聞いているうちに、遠征中のカナレの奔放さがどれほど酷かったのかがありありと浮かんでくる。飛行機の乗り場を間違えて乗り遅れ、夜は豪快ないびきに悩まされ、挙句にベルトを勝手に返上――。
(……かわいそうに)
そう胸中でつぶやいたところ、ふと想像がよぎる。もし自分の彼女だったら――。
好き勝手に振り回され、気まぐれに突っ走り、周囲を巻き込んで平気な顔をしている姿が脳裏に浮かぶ。
(……絶対無理)
なぜこんなことを想像してしまったのだろう――如月は自嘲めいた笑みを胸の内に浮かべ、静かにグラスを口へ運んだ。
ちょうどその時だった。
――キィィィン!
スピーカーから突如、耳をつんざくハウリングが響き渡った。甲高い音が壁を震わせ、会場のざわめきが一瞬にして掻き消える。視線が一斉にステージへと吸い寄せられた。
「おい!如月っち!こっちに来い!」
カナレの大声がマイクを通して響き、ホール全体を揺らす。まるで雷鳴が落ちたかのように、食器の触れ合う音さえも止まり、空気が凍りついた。
呆然とする如月と、腕を振りかざすカナレ。本田や選手会一同、そして選手も、二人を交互に見比べるばかりだった。
だがカナレはお構いなしにさらに声を張り上げる。
「みんな聞いてくれ!私は――如月っちと!ツバサさんのタッグパートナーをかけて勝負する!」
高らかなその宣言は、まさに挑戦状。場内に大きなどよめきが走り、祝宴を彩っていた音楽と笑い声は一気にかき消えた。
空気が逆流するように、会場はたちまち試合会場さながらの緊張感へと変貌していく。選手たちの息遣いが荒くなり、リングがあるわけでもないのに、誰もが「ゴング」を想像していた。
如月の胸中に冷たい現実が突き刺さる。社長室で告げられた「特別マッチ」――忘れかけていたその言葉が、鋭利な刃のように思考を切り裂いた。
肩の力が抜け、心の温度が一気に下がる。
だがカナレはさらに畳みかけた。
「私はチャンピオンだ!デビュー戦もしていない奴に負けるわけがない!」
誇らしげに叫ぶその姿に、選手たちからは「おおっ!」と歓声混じりのどよめきが湧く。カナレの挑発に会場が煽られ、祝宴は完全に「戦いの前夜祭」へと姿を変えてしまっていた。
「お姉さん、気にしなくていいッス。あの子、いつでもあの調子ッスから」
SAKEBIが肩をすくめて慰めるように言う。しかし、次の瞬間またしてもマイクから響くカナレの大声。
「おい!如月っち!どうなんだ!はっきりしろ!」
場内にいた全員の視線が、一斉に如月へと突き刺さる。テーブルの上に並んだ皿やグラスは手つかずのまま、選手たちの呼吸さえも浅くなる。まるでリング上に立たされているかのような緊張感だった。
如月は深いため息をつき、めんどくさそうに腰を上げる。椅子が軋み、その音がやけに大きく響いた。
その背中に、SAKEBIの声が飛んでくる。
「あんまり怒らないであげてほしいッス。あの子……お姉さんのこと、結構気に入ってるみたいッスから」
島村と望月も無言で頷いた。どうやらカナレは、気に入った相手や特別視する人間に「○○っち」と呼びかける癖があるらしい。挑発や悪口も混じるが、それは同時に「お前を認めている」という裏返しでもある――と。
如月は小さく笑い、片目だけを閉じて三人にウィンクを送った。ほんの一瞬の何気ない仕草だった。
だが、そのさりげなさがかえって妙に色気を帯びて見えたのか、テーブルにいた三人の心臓を不意に撃ち抜いた。
「なんか胸がキューンとしたッス……」
SAKEBIが両手で胸を押さえ、ぽつりとこぼす。普段はシャウト混じりの毒舌を飛ばす彼女にしては珍しく、まるで乙女のような声音だった。
望月も「……わかる」と小声で呟き、島村にいたっては頬をほんのり赤らめながら、こくこくと何度も頷いている。
三人のリアクションはまるでシンクロしたかのようにそろっていて、誰もが不意打ちを食らったように動揺していた。
本人は全く自覚がない。ただ軽口の延長でやっただけの如月が、無造作に放った仕草――。
それは、彼女たちにとっては心をかき乱す一撃のファンサービスになっていた。
カナレの前に歩み寄ると、差し出されたマイクを無造作に受け取る。如月は顎を少し上げ、軽く息を吹き込んだ。
「あー、テス、テス」
無駄に通る声でマイクテスト。わざとらしいその調子に、会場のあちこちからクスクスと笑いが漏れる。さっきまでの緊張がふっと緩み、顔にも余裕が戻り始めた。
如月はその反応を見て、心の中で小さく頷いた。
――マイクアピールもまた1つの戦い。リングで技を繰り出すのと同じく、言葉1つで会場の空気を支配できる。その感覚を、“彼”はかつての世界で骨の髄まで知っていた。
マイクを握りしめ、静かに言葉を紡ぐ。
「俺は――いつでも構わないぜ。お嬢ちゃん」
その一言に、選手たちが一斉にざわめいた。挑発とも余裕とも取れる声音。軽口のようでいて、プロのリングを知る者にしか出せない圧と説得力がそこにはあった。
マイクを通した声は、単なる言葉ではない。空気を震わせ、会場の心を一瞬で掌握する――まるで必殺技を決めた時のように、場の空気を一変させる力を持っていた。
如月の言葉に引き寄せられるように視線は一斉にステージへと集まり、ざわめきはやがて歓声へと変わっていく。その余波を真正面から受けたカナレは、笑みと闘志を同時に浮かべ、燃えさかる炎のように一層激しく熱を帯びていった。