第17話:刻まれた証と特別裁定
再び斎藤の怒声が、Queen Beeの館内を揺さぶるように響き渡ったっていた。重く低いその響きは、壁や床を伝って社長室全体を震わせる。
呼び出された関係者は息を潜めるように、ただその怒りの矛先が自分に向かぬようにと祈るばかりだった。
そこには、TMH遠征を終えて戻ってきたばかりのカナレとSAKEBI。真正面には鬼コーチ・斎藤が仁王立ちし、机の奥には社長・本田が腕を組んで控えている。
ストッパー役として皇も同席していたが、さすがの彼女も場の緊張には苦笑を浮かべるしかなかった。
さらにその背後、出入り口近くには如月の姿もある。「……なんで俺まで」と言いたげで壁際に身を寄せて、いざとなればすぐ逃げ出せるよう身構えている。
「貴様は一体、何を考えているんだ!」
斎藤の怒号と同時に窓ガラスがビリビリと震え、外の光がわずかに揺らめいて見えた。重苦しい空気が室内を圧し潰し、呼吸すら難しくなる。怒気をまとったその声は、まるで嵐の前触れの雷鳴のように響き渡り、場にいた全員の背筋を強張らせた。
矢面に立たされたカナレは、ぐっと肩をすくめて小動物のように震える。涙で潤んだ瞳を必死に動かしながらも、口から出る言葉はたどたどしく、子供が親に叱られた時のように頼りない。
「だ、だって……だって……」
声はか細く、喉の奥で震えていた。強気でリングに立ち、対戦相手を吹き飛ばす“剛腕”の使い手とはとても思えない。今そこにいるのは、理不尽に怒られたと信じ込んでいる幼い少女のような姿だった。
その痛々しい様子を見て、皇がそっと口を開いた。重苦しい空気を和らげるように、あえて柔らかな声音で問いかける。
「カナレは……良かれと思って、ベルトを返してあげたのかい?」
カナレは慌てて袖で涙をぬぐい、うつむいたままコクリと小さく頷いた。震える声で、精一杯の言い訳を口にする。
「だ、だってぇ……ベルト返した方が、みんなハッピーになると思って……」
その言葉には、子供じみた単純さと、無邪気な善意が同居していた。しかし同時に、それがどれほどの軽率さであったか、彼女自身はまだ理解していない――その事実が、室内の空気をさらに重くさせていた。
その瞬間、斎藤の拳が再び震える。今にも振り下ろされそうなその手を、必死に押さえ込んで言い放つ。
「“チャンピオン”とは、団体の象徴であり、魂だ!それを軽々しく返上するなど……侮辱以外の何物でもない!」
言葉の重さに場が凍りついた。雷鳴の残響のように静寂が続き、誰も口を開けずにいた。だが、その沈黙を破ったのはSAKEBIだった。
「……ほら、言わんこっちゃないッス。僕が言ったとおりになったッス」
その声には、ただの愚痴ではない、やるせなさと諦めが滲んでいた。
遠征中、彼女は必死に止めようとした。空港のロビーでも、ホテルの廊下でも、試合後の控室でも、何度も言ったのだ。――「そんなことしたら絶対斎藤さんに怒られる」と。
けれどカナレは聞く耳を持たなかった。耳を塞ぎ、笑顔で突っ走り、結局は誰にも相談せず勝手にベルトを返上してしまったのだ。
それでもなお、カナレは口を開く。小さな声ながら、その頑なさは子供が言い訳をする時のように真っ直ぐで。
「でも……そのほうが記憶に残るし。みんなも喜ぶって、TMHのオーナーが言ってたし……」
――その一言で、場の空気が一変する。
ベンジャミン・ロックフォード――新興団体TMHのオーナー。その狡猾な笑みが、カナレの口から名が出た瞬間に場を覆った。社長室の温度が数度下がったかのように冷え込み、誰もが息を呑む。
プロレス関係者なら誰もが知っている。あの鋭い眼光と狡猾さ。常に口端を吊り上げるような嘲笑。歴史は浅く基盤もまだ脆い団体を率いながらも、したたかな策略で大手と渡り合い、時に強引な交渉術で相手を丸め込んできた。
外では冷徹な策士、交渉の場では毒蛇のように相手を絡め取る男――その顔がまるで幻のように場にちらつき、空気は一層重苦しく濁っていった。
「え!?……僕そんなこと聞いてないッスよ!」
SAKEBIが慌てて声を上げる。目を丸くし、立ったままの身体が思わず前のめりになる。彼女にとっても初耳だった。遠征の間、あの強引なオーナーの言葉にどれほど苦しめられたか知っているからこそ、なおさら信じられなかった。
そのやり取りを黙って見ていた斎藤の顔が、さらに険しくなる。ぐっと眉間にシワを寄せ、奥歯を噛み締める音が聞こえてきそうなほど。社長室全体の空気が一層張り詰め、肌に突き刺さるような緊張が広がった。
「……おのれ。阿呆なカナレを騙し、利用して……自分たちの団体の威信を守ったわけか!」
その声はもはや怒りを超え、憤怒そのものだった。
斎藤の瞳は炎のように燃え盛り、誰もが思わず息を呑む。雷鳴のような怒号の直後に落とされたその言葉は、刃のように鋭く場を切り裂いた。
“阿呆”と呼ばれたカナレは、みるみる肩を落として縮こまる。だが斎藤はすぐに本田へと向き直り、深々と頭を下げて進言した。
「社長!どうなさいますか?TMHに抗議を――」
本田はその場のざわめきを片手で制し、低くも落ち着いた声音で言った。
「別段、問題はないでしょう。一応、全世界に生中継され、天道カナレがベルトを巻いた事実は誰の目にも残っているわけですし」
その言葉は氷のように静かだったが、不思議と確信に満ちていた。怒りを爆発させる斎藤とは対照的に、まるで最初からすべて計算していたかのような余裕。
意外な返答に、斎藤は思わず言葉を失った。口を開きかけ、しかし反論の言葉が出てこない。場に漂う空気は一瞬揺らぎ、全員の視線が本田へと集まった。
そこで本田はゆっくりとタブレットを取り出し、机の上に置いた。画面に浮かび上がったのは、ネット記事のトップページ。
見出しにはこう書かれていた。
『TMH第6代チャンピオン、栄光の瞬間と、その証明!』
その下には、チャンピオンベルトを巻いた満面の笑みを見せるカナレの写真が大きく掲載されていた。光を浴び、汗に輝くその姿は、確かにQueen Beeの誇りそのものだった。
本田はさらに画面をスライドさせる。すると、別の写真が現れた。TMHのチャンピオンベルト。その片隅に、新たに追加された小さなサブプレートが映っていた。
拡大されたそのサブプレートには、確かに――天道カナレの顔。
重厚なベルトに刻まれたそのプレートは、ベルトを返上してなお彼女を永遠に刻み込む証であり、消えることのない足跡だった。
本田はその画面を指先で軽く叩きながら、静かに言葉を続けた。
「ご覧の通りです。ベンジャミン氏も私たちに相応の敬意を払ってくれています。――それだけで十分、Queen Beeの強さが世界に通じる証明となったはずです」
その落ち着いた断言に、場の空気が少しずつ和らいでいく。斎藤の胸に渦巻いていた怒りも、言い返す言葉を失い、ただ唇を噛み締めるしかなかった。
本田の言葉に、斎藤はなおも煮え切らない表情を浮かべた。だが、ベルトそのものはなくとも、カナレの名と存在が永遠に残る――そう理解すると、やがて深く頭を下げて黙り込んだ。
本田は場に漂っていた重苦しい空気を断ち切るように、声の調子を和らげた。
「とりあえず、この件については決着がつきました。天道カナレ選手とSAKEBI選手のために、一席用意してあるそうですよ」
意外な言葉に、カナレとSAKEBIが同時に顔を上げる。どうやら斎藤を中心に、選手一同が多目的ホールで宴の準備を進めているというのだ。
皇もにこやかに頷き、補足する。
「特設ステージも用意したよ。せっかくだから、盛大に祝わなきゃね。二人が頑張った証なんだから」
その言葉が決定打となり、カナレとSAKEBIの瞳が大きく揺れた。緊張と叱責で押し潰されそうになっていた心が、一気に解き放たれる。二人は感極まったように深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
その声は涙に濡れ、震えていたが、確かな感謝が込められていた。さらに宴の発案者が斎藤だと知ると、カナレは堪えきれずにぽろぽろと涙をこぼした。
「……斎藤さん、ごめんなさい……私が勝手にベルト返しちゃって……本当ならみんなの前で誇れるはずだったのに……うぅ……」
泣きじゃくりながら、言葉にならない想いを必死に絞り出すカナレ。
その姿は、さきほどまで「チャンピオン」と胸を張っていた猛々しい姿とはまるで違い、まだ若い一人の少女にすぎなかった。
斎藤はしばし黙して彼女を見下ろす。その険しい眼差しに一瞬、場が緊張する。
だが次の瞬間、不器用に手を伸ばし、カナレの頭を大きな手で軽く叩いた。
「もういい……」
短い言葉とともに、ぽん、ぽん、と子供をあやすように優しく頭を撫でる。怒りの拳を振り下ろしていた鬼コーチが、今はただ一人の少女を支える肝っ玉母ちゃんのように立っていた。
その温もりに、カナレの涙はさらに溢れ出す。だがそれは、叱責に怯える涙ではなく、赦された安心の涙だった。
皇はその光景を見て、うんうんとうなずきながら如月へと視線を向ける。
「斎藤先生はね、カナレに期待してるんだ。なんだかんだ言って、一番かわいいんだよ」
そっと耳打ちする言葉を聞いた瞬間、如月の胸の奥に、遠い日の記憶がふっとよみがえった。
――デビューして間もない頃。なかなか結果を残せず、地方巡業の端っこの試合に回され続けたあの日々。
そんな中で迎えた、とある地方大会。観客の拍匠一手に包まれて、ようやく手にしたデビュー初めての白星。
試合後、控室に戻ると、滅多なことでは人を褒めないIWAの社長兼花形レスラー・陣川匠一が、わざわざ顔を出してきた。
「よくやったな」たった一言だったが、その声色には確かな温かさと、未来への期待が宿っていた。
普段は選手を突き放すような冷徹な眼差しをする人間だからこそ、その言葉は胸に焼き付いた。
さらにその夜。地方の後援者が“お米”と称して分厚い封筒を差し出してくれた。仲間たちはそれを机の真ん中に置き、酒を酌み交わしながら笑い合った。
「これで当分、遠征費に困らないな!」
気づけば朝まで騒ぎ通しだった。笑顔も、泣き声も、手を合わせた感触も、すべてが眩しいほど鮮烈に蘇る。
だが――今はもう、その仲間たちはいない。その記憶は、英二が生きていた“元の世界”のものであり、この世界には恐らく存在しない仲間たちだった。
それでも、目の前で泣くカナレと、不器用に頭を撫でる斎藤の姿が、なぜかその懐かしい記憶と重なって見えた。
胸の奥に、懐かしい温もりが広がっていく。しかし、次の瞬間、その温もりを打ち消すように冷たい思考がよぎった。
(……だけど……)
ふと我に返る。今の自分は「如月麗」という他人の体に宿っている存在だ。本来の自分――かつての肉体は、今どうなっているのか。もしこのまま時が流れれば、“本当の如月麗”は消えてしまうのではないか。
答えの出ない問いが、重苦しい石のように胸に沈む。目の前にあるはずの温もりを、素直に抱きしめることができなかった。
その表情を、本田は何も言わず静かに見つめていた。
「よーし!それじゃあみんなのところに行くか!」
気持ちを切り替えたカナレは勢いよく立ち上がり、SAKEBIを連れて部屋を出ようとした。
だが、その足が止まり、振り返った視線は如月に吸い寄せられる。
「おい!お前!」
突然の声に、如月は思わず目を丸くする。
「いいか!ツバサさんは認めても、私はお前のこと認めてないからな!」
心の中で「またか……」と如月は小さく眉をひそめる。正直、皇のタッグパートナー問題はどうでもよかった。デビューもしていない自分が、いきなりメインに並ぶつもりもない。
ただ漠然と、「本番のリングで全力を出せば、何かが変わるかもしれない」と思っていただけだった。
本田が机越しに口を開いた。その声音は柔らかくも威厳を帯び、場の中心を一瞬で支配する。
「天道カナレ。――あなたは、如月麗が皇翼のタッグパートナーであることに異を唱えるのですか?」
カナレは腕を組み、胸を張る。まるで挑戦を受けて立つかのような態度で、堂々と答えた。
「はい!こんなどこの馬の骨かわからないやつに、ツバサさんを任せるわけにはいきません!」
言葉こそ勢いがあるが、周囲の空気を読めない直情的な叫びだった。
斎藤の眉がピクリと動き、その場に一瞬の緊張が走る。SAKEBIは内心「頼むから余計なことは言わないで」と祈るように黙り込み、ただ視線を逸らした。
本田は動じることなく、今度は如月へと視線を移した。
「では――如月麗。あなたはどうなのですか?」
突然の問いかけに、如月はすぐには答えず、少し考え込むように天井を見上げた。
少し間をおいて「うーん……」とだけ唸り、難しい顔をする。その曖昧な態度が、カナレの神経を逆撫でする。
「なんだお前、自信がないのか?だったら今すぐあきらめろ!そのほうがみんなのためだ!」
カナレの言葉は鋭い刃のように突き刺さる。如月の眉がぴくりと動いた。興味のない話題のはずだったが、その一言にはさすがに不快感を覚えざるを得なかった。
やがて如月は視線を戻し、少し声を低めて呟く。
「……なんだ、お嬢ちゃん。あんたは自信があるとでも言いたげだな」
挑発するつもりはなかった。ただ、長年のプロレス人生で染みついた“マイクパフォーマンス”の癖が自然と出てしまったのだ。
案の定、カナレは勢いよく食いついた。
「あたりまえだろ!私はデビュー前のお前と違って、チャンピオンなんだぜ!」
横からSAKEBIが口を挟む。
「まぁ、すぐにベルトを返しちゃった、お人よしの“元チャンピオン”ッスけどね」
その一言に、カナレはぎろりと睨みつけ、「余計なことを言うな!」と無言で釘を刺す。そして改めて如月へと指を突きつけ、高らかに叫んだ。
「お前に――四天王の実力、見せてやるよ!」
胸を張って高らかに叫ぶカナレ。その勢いに、如月は少し首を傾げて冷静に返す。
「……二人しかいないじゃん」
いつの間にか“四天王”の勘定に入れられているSAKEBIが、すかさずぼやく。
「数字盛りすぎッスね。僕も初耳ッスよ……」
しかしカナレは怯むどころか、さらに勢いを増す。
「SAKEBI!お前も四天王の一人だろ!何とか言ってやれ!」
「勝手に仲間入りさせないで欲しいッス……」
肩を落としてぼやくSAKEBI。そのやり取りを見て、如月は心の中で深いため息をついた。
(……あぁ、やっぱり残念な子なんだ)
その考えが、無意識のうちに顔へと滲み出てしまったのだろう。カナレはすぐに察知し、顔を真っ赤にして詰め寄る。
「あっ!お前今、失礼なこと考えてただろ!」
場の空気は一触即発。だがその緊張感と熱気を見守りながら、皇は「やれやれ」と肩をすくめ、苦笑するだけだった。
そして――その空気を根本から変えるように、本田が静かに口を開いた。
「わかりました。ならば――二人で皇 翼のタッグパートナーをかけた特別マッチを開催することにしましょう」
本田の低く落ち着いた声が、室内の空気を震わせた。その響きは雷鳴のように鋭く、場の全員を直撃する。
一瞬、誰も言葉を返せなかった。吸い込んだ息が喉に張りついたまま、胸の奥で止まる。
思いもよらぬ裁定――いや、宣告。
その重みは、斎藤の怒号とはまた別種の威圧感を持って場を支配した。静かだが揺るぎない支配力。それはまさに、社長としての権威そのものだった。
室内の空気が重く沈み込み、誰もが微動だにできない。時計の針の音さえ遠のき、時間さえも一瞬、凍りついたようだった。