第16話:説教、地獄、ふたたび
カナレとSAKEBIが海外遠征から帰国した。
Queen Beeの関係者専用ゲートを抜けて真っ先に向かったのは本道場。二人の姿は、同じ時間を過ごしてきたとは思えないほど対照的だった。
カナレの顔には一片の疲れも浮かんでいない。むしろ遠征を終えたばかりだというのに、その表情からは「まだ暴れ足りない」と言わんばかりの闘志がにじみ出ていた。
瞳はぎらぎらと光を放ち、肩で風を切るような歩き方は、今すぐにでもリングへ駆け上がっていきそうな勢いだ。まるで獲物を求める猛獣が檻から解き放たれたかのようで、周囲に自然と緊張を走らせる。
対照的に、その後ろを歩くSAKEBIの足取りは重かった。背筋こそ伸ばしているものの、ところどころに覗く小さな欠伸と疲労の色が隠せない。顔には遠征先での慣れない生活の名残が刻まれており、特に時差ボケの影響が濃いのか、まぶたの動きはどこか鈍い。
だがそれ以上に、彼女を消耗させていたのは、隣を歩くカナレの存在そのものかもしれなかった。
現地での試合に臨む間も、移動中も、食事の場でさえも、常にテンションの高いカナレに振り回され続けた。SAKEBIにとっては試合以上のサバイバルだったのかもしれない。だからこそ今は、道場の床に倒れ込んで眠ってしまいたいほどに体が重い。
だがそんな弱音を吐く暇もなく、彼女は笑顔を作りながら歩みを進める。カナレの隣にいる以上、それが彼女に課せられた「役割」だと分かっているからだ。
「どうも姉さん、何とか無事に帰ってきたッス」
少し掠れた声で、だが確かに安堵を込めて、SAKEBIは皇に挨拶をした。
その声音には「やっと帰ってきた」という安らぎがにじんでいたが、同時に長旅とカナレに振り回された疲労感も隠しきれなかった。
そう言って皇のもとへ歩み寄ると、皇は待ってましたとばかりに両腕を広げた。まるで母鳥が巣に戻った雛を抱きしめるかのように、温かな笑みとともに一気に距離を詰め、SAKEBIを包み込もうとする。皇のハグは誰もが知るところで、受ける側にとっては祝福であり慰めであり、時には逃れられない愛情表現でもあった。
だが、そんな「皇の恒例行事」をSAKEBIはするりとかわす。すでに身に染みついた動作なのだろう、ぎこちなさは一切なく、まるで風を受け流すような自然さで身を翻した。
「姉さん……僕、カナレにずっと付き合わされてヘトヘトなんッスよ。少しは労って欲しいッス」
訴える声には切実さがこもっている。単なる冗談めかしたぼやきではなく、旅の間に積み重なった疲れの結晶のようだった。
しかし皇はおおらかな笑みを崩さず、手を止めることもなく、再びじりじりと迫る。
「だからこうして、ハグで癒やしてあげようとしているじゃないか」
その言葉は、冗談めいていながらも、どこか真剣に聞こえた。皇にとっては本気で相手を思いやった行動であり、そこに一切の打算もない。ただ純粋に「帰ってきたのだから抱きしめたい」という女王としての心があふれているのだ。
しかしSAKEBIは再びひらりと身をかわした。表情は疲れているのに、体の反射神経だけは見事に研ぎ澄まされているのだから、彼女がどれほど「この儀式」に慣れているかがよく分かる。
周囲にいた面々はその様子をただ見守っていた。誰も驚かないし、止めようともしない。むしろ「また始まったか」とでも言いたげに肩を竦めたり、苦笑を浮かべたりしている。
皇とSAKEBIのこの攻防は、もはやQueen Beeの日常の一幕。ひとつの“儀式”として定着してしまっているのだ。
だが、痺れを切らしたのはカナレだった。
彼女は周囲のやり取りを黙って見ているうちに、胸の奥にモヤモヤとしたものが溜まっていき、とうとう爆発させるように声を張り上げた。
「おい!なんだよみんな!チャンピオンの私をスルーかよ!」
その叫びには、まるで子どもが「こっちを見ろ」と駄々をこねるような無邪気さがあり、同時に本物の覇者としての自負が堂々と宿っていた。
そう言いながら、彼女は持っていた大きなトラベルバッグを足元にドサリと置く。空いた手でトラベルバックから取り出し、誇らしげに掲げたのは、重厚な額縁に入ったTMHチャンピオンボード。木枠の艶やかさと、中央に刻まれた「TMH 6th Burst Empress Champion」の文字がまぶしく輝き、道場の空気を一瞬で引き締めた。
まるでそれ自体がカナレの戦果を物語り、彼女の存在感をさらに際立たせるかのようだった。
「素晴らしいじゃないか、カナレ!デビュー直後に多団体の王座に輝くなんて!」
皇は心からの称賛を口にした。その声音には揶揄や誇張は一切なく、純粋な驚きと喜びだけがこもっていた。
そしてその瞬間、いつの間にか皇の両腕はSAKEBIを逃さず捕らえていた。先ほどまで巧みにかわしていたはずのSAKEBIは、今度ばかりは完全に羽交い締めにされてしまい、抗う間もなくその胸に押し込められる。
皇は渾身のハグを決めたまま、なおもカナレを見据え、微笑みを深めて言葉を続ける。
「本当に誇るべき偉業だよ。胸を張りなさい、我らがチャンピオン」
その声に押されるように、カナレはさらに胸を反らし、勝ち誇ったようにチャンピオンボードを掲げ直した。
その姿は、まるで自分こそがこの場の主役だと世界に示す女帝のようで、道場の空気を一段と熱くした。
だが、そんな華やかな空気を打ち破るように、低く押し殺した呻き声が響いた。
「……く、苦しいッス……」
SAKEBIの顔は皇の豊かな胸にすっぽり埋まり、腕と脚はじたばたと無駄に動くだけ。その必死の抵抗も虚しく、彼女の声は場の喧騒にかき消されそうになりながら、むなしくこだました。
一方、その光景を遠巻きに見ていた如月は、静かに目を細めた。
如月の脳裏へと鮮烈に蘇ったのは、あのテレビ中継で初めて目にした天道カナレのフェイバリットギフト《剛腕》――。
タメもなく放たれる至近距離からのラリアット。踏み込みや予備動作もほとんど見えない。なのに、一度振り抜かれれば、その瞬間にはすでに勝負が決している。
まるで見えない稲妻に打たれたかのように、TMHのチャンピオン、ケリーは宙を舞い、何度も回転しながらマットへと叩きつけられた。
如月は長いキャリアの中で数え切れないほどの試合を行てきた。幾多の団体、幾多の猛者たちが繰り出す必殺技を受け、それを分析し、時にはかわし、時には真正面から受け止めてきた。
だが――あのラリアットは、そのどれとも違っていた。重さだけではない。速さだけでもない。力と技と感覚、そのすべてが一点に収束し、純粋な“破壊”へと昇華されている。
自分の師が生涯をかけて追い求めた「一撃必殺」の理想。その幻の境地を、まだ若い少女が、まるで呼吸をするかのごとく当たり前に体現している――その事実が、如月の胸を静かに震わせた。
(……あの一撃。まともに食らえば、俺でも立ち上がれないだろうな……)
想像するだけで背筋に冷たいものが走る。 頭の中でいくらシミュレーションしても、序盤は自分が優位に立てる絵が浮かぶのに、どうしても最後には《剛腕》から放たれるラリアット一閃で、宙に吹き飛ばされる未来しか思い描けなかった。
それほどまでに、カナレのギフト《剛腕》は、如月にとってプロレス人生の中で最も危険で、最も恐ろしい存在に映っていた。
観察眼で相手を丸裸にする如月の脳裏には、どうしてもカナレの一撃に沈む自分の姿しか浮かばなかった。
その視線に気づいたのか、カナレが怪訝そうに振り返った。鋭い眼光で射抜くように如月を見据えると、眉をひそめて首を傾げる。
「ん?……あんた誰だ?」
唐突な問いかけに、場が一瞬だけ静まり返る。すると皇が一歩前に出て、穏やかに紹介する。
「彼女は私のタッグパートナー、如月麗だ」
その言葉に如月は姿勢を正し、礼儀正しく腰を折って静かに会釈した。長年のキャリアから滲み出る落ち着きと緊張感を帯びたその仕草は、まさに歴戦の格闘家のもの。
だがカナレの反応は、まるで正反対だった。
彼女は大股でずかずかと如月の元へ歩み寄り、躊躇もなく右手を差し出す。その笑顔は無邪気で、勝者としての誇りと新人を迎える上級者の気安さが入り混じっていた。
「“私が”天道カナレだ!よろしくな、新人!」
ぐっと差し出された手は力強く、まるで挑戦状のように熱を帯びている。如月は一瞬だけ戸惑いつつも、その手を受け取り、握手を交わした。
その瞬間――カナレの目がキラリと光り、握手の力がほんの少し強くなる。しかし敵意というよりも、どこか「仲間ができた」ことを素直に喜んでいるような表情。その無邪気さに、如月は直感する。
(……もしかしてこの子、少し天然なのか?それともただの熱血バカか……)
握手を交わす姿はどこか微笑ましく、周囲の者たちも思わず顔を見合わせ、静かに息をついていた。
破壊力抜群の《剛腕》のギフトを持つ少女は、同時にどこか憎めない天真爛漫さを隠し持っていたのだ。
そう思った矢先、カナレの笑顔がすっと消え、表情が曇った。握っていた如月の手を離さぬまま、視線だけを皇に向ける。
「ん?……ツバサさん。今……タッグパートナーって言った?」
問いかけは低く、しかし内に火を孕んでいた。
皇が柔らかく頷いた瞬間、カナレの顔はみるみる険しくなり、胸の奥から噴き上がる激情を隠そうともしない。
「どういうことだよツバサさん!タッグパートナー!?そんなの聞いてねーぞ!」
声が道場に響き渡る。まるで幼い子どもが大事なおもちゃを横取りされたときのような怒り――だがそこには、姉を取られることへの独占欲と焦りが滲んでいた。
その剣幕に、場の空気が一瞬だけ凍りつく。
しかし皇は相変わらずの微笑みを崩さず、ゆったりとした口調で告げた。
「決まったのはここ二、三日のことだからさ。だからカナレも麗と仲良くするんだよ」
その言葉にカナレの瞳がぎらりと光る。彼女は握りしめた如月の手に力を込めた。まるで「お前は敵だ」と言わんばかりに。
「お前……どういうつもりだコノヤロー!」
怒声とともに、指先から伝わる圧は握手の域を超え、骨を軋ませるほど。周囲の者たちも思わず息を呑む。
しかし如月は微動だにせず、その力を真っ向から受け止めるでもなく、巧みに逃がしていた。
握られた手をしなやかに保ちながら、無言でじっとカナレの目を見返す。その冷静さは、烈火のごとく荒ぶるカナレに対し、凪いだ湖面のような落ち着きを帯びていた。
(……この子、激情の塊だな。けれど――俺まで呑まれるわけにはいかない)
如月は心中でそう呟きながら、静かに状況を見守った。
その時だった。本道場の扉が、雷鳴のごとく激しい音を立てて開け放たれる。場の空気が一瞬にして張り詰める。
「カナレ!SAKEBI!貴様ら、こんなところで何をしている!」
低く唸るような怒号が響き渡り、全員の背筋が思わず伸びる。現れたのは、鬼コーチ・斎藤。
鋭い眼光はまるで刀の刃のようで、視線を向けられただけで心臓を鷲掴みにされるような圧迫感がある。
先ほどまで皇に噛みつき、如月に食ってかかっていたカナレも、その一喝にすっかり腰を抜かされた小動物のように萎縮する。
「あっ……斎藤さん……ただいま、帰りました」
蚊の鳴くような声で、か細く答える。
そんなカナレを無視し、斎藤はゆっくりと歩み寄る。軍靴のように重い足音が、道場の板の間に響き渡った。
そして彼女の目は、カナレの手に誇らしげに抱えられた“チャンピオンボード”に止まる。
「……それは何だ?」
険しい眉がさらに寄り、鋭い視線がボードを射抜く。斎藤はずっと待っていたのだ。遠征に出たカナレが、ベルトを腰に巻いて帰還する日を。
誰よりも早く、誰よりも誇らしく、その栄光を自分の目で確かめたかった。
その期待が裏切られていないか――鬼教官の声には、抑えきれない苛立ちと焦りが滲む。
「ベルトは?……バックの中か?」
静まり返った道場に、低い声が落ちる。それは命令のようでもあり、祈りのようでもあった。
「え?そんなもんないぞ?これだけ」
カナレは悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに掲げてみせた。額縁に収められたボードには、堂々とした筆致でこう刻まれている。
“TMH 6th Burst Empress Champion KANARE TENDO”
そこにあるのは、ただ冷たく硬質な額縁に収められた一枚の証明――“6代目チャンピオン”の名を刻んだ、無機質なチャンピオンプレートだけであった。
ぽかんとする周囲を前に、カナレは飄々と続けた。
「ベルトは団体に返してきたんだよ。ほら、TMHってまだ出来て一年ちょっとでしょ?そんな若い団体からベルトを持ち出したままにしたら、かわいそうだから!」
その言葉は、まるで拾った石ころを返すくらいの気安さ。一切の後ろめたさもなく、正しいことをしたと信じきっている少女の顔だった。
「……僕は、やめとけって言ったんッスよ……」
SAKEBIが疲れ切ったように肩を落とし、呻くように口を挟む。だが結局、カナレの一直線な性格が勝り、素直に返上してしまったのだ。
その瞬間、斎藤の顔から血の気が引いた。目はカナレを見据えたまま、氷点下の冷気を発するように細められ、場の空気が凍りついていく。
誰も息をするのを忘れるほどの静寂。
「……で。素直に返上してきたと?」
語るたびに噛みしめるように、低く、地鳴りのような声が道場に響いた。それは怒号ではなかった。だが、だからこそ恐ろしい。鬼が本気で怒ったときの、凄絶な静けさだった。
皇が、乾いた笑みを浮かべて小さくつぶやく。
「みんな……逃げた方がいい。私は逃げるよ……」
その言葉が引き金となり、場の全員が一斉に動き出した。如月、島村、望月や、SAKEBIも、そして見物していた選手たち、安西すら、蜘蛛の子を散らすように本道場から飛び出していく。
誰一人として、振り返る者はいなかった。
最後に扉へと駆け寄った如月が、恐る恐る手で戸を閉める。
その刹那――。
ゴンッ!
重く鈍い音が、板の間を揺らした。振り返らずとも分かる。斎藤の怒りの拳が、カナレの頭に直撃したのだと。
扉の隙間から見えた一瞬の光景――。
額縁のボードが宙を舞い、鈍い音を立てて床に転がった。
カナレの体はぐらりと揺れ、まるで大木が伐り倒される寸前のように傾いでいく。
だが、倒れるその一瞬でさえ、彼女の顔には「なぜ殴られたのか」という幼子のような疑問が浮かんでいた。
怒られる理由をまだ理解していない――その無垢さこそが、斎藤の怒りをさらに煽る燃料となる。
仁王立ちした斎藤の巨体は、雷雲を背負ったかのような威圧感を放っていた。その眼光はカナレだけを射抜き、道場の空気は鉛のように重く沈む。
見下ろすその姿は、まるで嵐の前に海面を圧迫する黒い雲――逃げ場のない災厄そのものだった。
カナレがゆっくりと板の間に膝をつく。静かな時間が、まるでスローモーションのように流れる。
その沈黙の中にこそ、迫り来る暴風の予兆が潜んでいた。
――怒りの嵐は、まだ始まったばかりだった。