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第15話:修羅の舞台

 朝の十時。本道場の床板がぎしりと鳴り、掛け声と靴音が入り混じる。斎藤が基礎トレーニングを仕切り、訓練生たちに檄を飛ばしていた。だが、その場に島村、望月、そして如月の姿はない。


 三人は本田の指示で本道場へ。中央多目的ホールに隣接するその広間は、これまでギフト訓練で使っていた道場よりも広く、吐く息が白く見えるほど空気が張りつめ、汗と木の香りが入り交じる。


 壁際には、ギフト訓練の道場よりは簡素で使い込まれた鉄製のトレーニング器具が無造作に並び、鈍い光を反射している。数十名の選手たちが一斉に汗を流し、重みのある呼吸と、器具の軋む音が、場の熱をさらに濃くしていた。


 島村と望月は、基礎体力の不足を埋めるための徹底した鍛錬。息を切らせ、重りを抱え、必死に体を叩き直す。一方で如月は――皇との本格的なスパーリングに臨んでいた。


 表向きは力とギフトを測る調整。しかし実際には、未来のタッグを見据えた“適合の試金石”。二人のぶつかり合いは舞台の中央を支配し、場にいた全員の視線を縫い止めていた。


 皇が踏み込み、刃のような攻撃を放つ。その一撃を、如月は舞うように流れる水のごとく受け流す。華やかさとしなやかさをまとい、舞台に立つ舞姫のように身を翻す。


 逆に如月が攻めれば、皇は自然そのもののように応じる。星々が夜空に軌道を描くように、揺るぎない規則性をもって鋭くいなし、わずかな隙すらも見逃さない。彼女の動きには、個の美しさではなく、宇宙的な必然のような重みがあった。


 舞と星々――相反する2つの在り方が1つの場に交わり、攻防はただのスパーリングを超えて異様な調和を帯びていく。その光景は闘いでありながら、同時に観る者を魅了する芸術でもあった。


 端で汗を滴らせながら鍛錬に励んでいた島村と望月でさえ、動きを止めてしまう。胸の奥を掴まれるような感覚に息を呑み、ただ拳と足が奏でる律動を見つめていた。


「ほら、あんた達!なにボーっとしてんの!」


 安西の一喝が飛び、はっと我に返る二人。張りつめた空気の中、ただ見惚れてしまうほど、如月と皇のスパーリングは研ぎ澄まされ、格闘の美に昇華していた。だが、本道場専任コーチである安西の眼には、よそ見など許されない怠慢に映った。


「ほら、集中しろ!集中!集中ッ!」


 怒号に、二人は慌てて動き出す。用意されたのは、無骨な鉄の器具ではなく、表面が削れて角ばった天然の巨岩。重さは50kgを優に超える。二人はそれを肩に抱え、ぎしぎしと軋む音を立てながらスクワットを繰り返す。保護用のトレッキンググローブが握力に悲鳴を上げ、呼吸は荒く、肺の奥から焼けるような熱がこみ上げる。


「はい!あと50回!足を止めるな!」


 安西の檄は一切の容赦を持たない。器具頼りではなく、大地そのものと格闘する負荷。それはただの筋力ではなく、しなやかに粘り、踏ん張り抜く“膂力”を鍛えるため。プロレスラーに必要とされる肉体改造の基礎を、彼女は徹底的に叩き込んでいた。


 望月は意識が霞むたび、倒れたい衝動を必死で押し殺す。一本一本の筋繊維が燃え上がるように悲鳴を上げるのを、己の意志で繋ぎ止めていく。


 島村はすでに限界を超えていた。それでも「足が砕けても構わない」と覚悟を固め、課せられた回数をただ愚直にこなす。


 その姿を、スパーの最中でありながら如月が横目でとらえていた。皇との攻防の合間に、一瞬だけ彼女の神眼が二人を映す。


(……頑張れよ、二人とも……)


 胸中で呟いたその想いが、刹那、如月の踏み込みをさらに深くした。


 如月の“神眼”が開く。瞳の奥に奔流のごとく流れ込むのは、幾万もの可能性で編まれた未来の光景。無数に枝分かれする分岐から、必要のない線を切り捨て、残されたただ一条の軌跡を掴み取る。まるで墨絵の乱線から浮かび上がる清明な一筆――。


 如月はその「最適解」を刹那ごとに選び続けて的中させていた。


 その未来視を支えているのは、才能だけではない。魂に刻まれた二十年以上の格闘キャリア、血と汗と敗北の記憶が裏打ちとなっている。積み重ねた研鑽が無駄を削ぎ落とし、迷いを斬り捨て、正解だけを掴み取る眼を完成させていた。


 一方、皇の動きは対照的だった。彼女には未来視のような眼はない。


 ただし彼女の肉体は、研ぎ澄まされた勘とギフトの経験値が織りなす「最短の解答」そのもの。必要最小限の一歩で軌道を外れ、無駄のない角度で打撃をかわす。


 そして、空白を見つければ即座に反撃を放つ――まるで夜空にきらめく星座が、既に決められた軌跡を辿るように。


 如月は流麗な舞を描く。舞うたび、その背後に軌跡が残り、あらかじめ書かれた運命の譜面をなぞるかのごとく。


 皇は静謐せいひつにして規則的、自然の摂理に従う天体のように。


 星座と舞、自然と未来――二人の攻防は正反対の理を宿しながらも、見事に噛み合い、観る者を異界の光景に引き込んでいた。


 そして皇の三文字ギフト《胡蝶蘭》――の幸運は、予定調和そのものを呼び寄せる。


 ゴングが鳴り、セット終了を告げる。


 十八本目――十五分間に及ぶ死闘の幕が下りた瞬間、場の空気がどっと緩む。


 開始は朝の五時。たった三十分のストレッチを終えると、そのままぶっ通しでここまで続けてきたのだ。休憩らしい休憩は一切なし。水分補給すら数秒の合間に済ませ、ただ攻防だけを積み重ねてきた。


 互いに正面からぶつかり合いながらも、誰一人決定打を許さぬままの攻防。その濃密さは、見守る者の肺まで焼きつくほどだった。息を吸うことすらためらわれるほど、場には緊張が張り詰めている。


 二人はリング中央に立ち尽くす。肩が大きく上下し、胸は荒く波打ち、汗は滝のように流れ落ちて床を濡らす。


 だが、その眼光だけはなおも濁らず、獲物を睨む獣のごとく鋭さを失わない。


 常人ならばとうに限界を迎えているはずの時間と強度――それを突破し、なおも立ち続ける姿は、もはや人間の域を外れたものだった。見守る選手たちは声を飲み込み、ただ立ち尽くす。目にしているのは“努力の延長”ではなく、“異能の証明”だったからだ。


 確かに、二人にはギフトの恩恵がある。肉体は強靭に補われ、回復も早い。だが、それを差し引いてもなお、ここまでの連戦を可能にする精神力と集中力は、到底ただの才能だけでは説明がつかなかった。


「ハニー、君は底が知れないスタミナの持ち主だね」


 皇が口角をわずかに上げ、荒い呼吸の合間に感嘆かんたんを漏らす。声は軽やかに響いても、その瞳には一片の冗談もなく、深く澄んだ真剣さが宿っていた。勝負を通じてのみ浮かび上がる敬意――それがそこにはあった。


「あんたもな……俺だって、こんなに動いたのは久しぶりだ」


 如月は額を濡らす汗を拭いもせず、吐息の合間に低く応じる。


 その声には疲労の重みと、同時に抑えきれぬ高揚が滲んでいた。喉は焼け、肺は悲鳴を上げても、全身の奥底から「まだ闘える」と叫ぶ声が響いている。


 肉体の限界を踏み越えながらもなお進もうとする闘志――その境地は、常人には到底理解できぬ狂気に近かった。だが、皇や如月も、それを誇らしげに受け止めている。己を削り、研ぎ澄まし、最後に残る「純粋な闘争心」だけで立っているのだ。


 二人の間に漂う空気は、もはやスパーリングの域を超えていた。技を決めることそのものが目的ではなく、互いをねじ伏せることですらない――。


 ただ相手の力を受け止め、その強さを確かめ合い、なお次を欲する。血と汗で結ばれた戦友であり、同時に命を賭して挑む宿敵でもある。


 リングを取り巻く選手たちは、思わず息を呑んで立ち尽くした。視界に広がるのは練習試合ではなく、肉体という武器を極限まで研ぎ澄ました「闘争の舞踏」。その迫力は畏怖にも似て胸を圧し、誰一人声を発することができない。


 ――修羅同士だけが辿り着ける昂揚感。その境地は、リングの外にいる者には決して触れられない、閉ざされた世界だった。だが確かにそこに在る光は、見る者の魂を震わせ、心の奥底に焼きつけていくのだった。


 如月は自分のコーナー側に置いてあったペットボトルを手に取り、親指で軽く弾き、キャップを飛ばすと、そのまま二リットルの水を一気に流し込む。ごくごくと鳴る喉の音が静まり返った場に響き、汗に濡れた全身を、冷たい水が包み込むように染み渡っていく。


 その様子を見た皇は、肩で息をしながらも口角を上げて笑った。


「水太りしちゃうよ、ハニー」


 取り巻きの選手たちが、試合後のリングに雪崩れ込むようにわっと駆け寄った。タオルやドリンクはまず皇のもとへと押しつけられる。誰もが女王に仕える侍女のように慌ただしく動き、興奮と憧れの視線を惜しみなく注いでいた。


 だが、次の瞬間――その熱が如月へと移る。汗に濡れた彼女を見つめ、同じようにタオルを差し出し、声を張り上げる。


 一瞬、如月の胸がざわついた。――これまで散々味わってきた嫉妬や敵意が、今まさに浴びせられると思った。


 だが実際に目にしたのは、まるで真逆の光景だった。


 彼女たちの顔は笑顔に満ちていた。瞳を輝かせ、汗に濡れた如月を羨望の眼差しで見つめている。そこに妬みの色はなく、むしろ誇りや憧れが溢れていた。


「如月さん、すごい!皇さんに怯まず向かう姿、最高です!」


「さすが皇さんのパートナー、文句なしね!」


「これは……新しい女王の誕生かも!」


 黄色い歓声が重なり合い、大広間は一気に祝祭のような熱気に包まれた。汗と熱気の匂いの中で響くその声は、如月の耳に生々しく突き刺さる。胸の奥で構えていた警戒が、戸惑いと温もりに溶けていくのを彼女自身が一番よく感じていた。


 黄色い歓声に包まれる中、島村と望月もようやくノルマを終えて合流する。


 足取りは重く、全身から汗が滴っていた。以前なら立ち上がることすらできずに倒れ込んでいた二人が、いまは自らの脚でエプロンサイドへ歩み寄ってくる。その姿は、見ている者に小さな驚きと確かな成長を示していた。


 皇はその様子を目にすると、口元に柔らかな笑みを浮かべる。


「初日で安西先生の指導に耐えるとは、大したものだ」


 その一言に、二人ははっと顔を上げる。


「……っ、ありがとうございます!」


 頬を真っ赤にしながら深く頭を下げる姿は、汗と疲労にまみれながらも、どこか誇らしげだった。


 如月はそんな二人に歩み寄り、タオルで汗を拭いながら二人の元に近づき、声をかける。


「無理はするなよ。“レストアサイクル”が始まる前に潰れたら、意味ないからな」


 レストアサイクル――ギフターが持つ副次効果。


 自己回復の恩恵といっても、決して無制限ではない。発動前に肉体そのものを致命的に壊してしまえば、ただの常人と変わらぬ脆さを晒す。だからこそ、「壊す」と「治す」の境目を見極めることが、そのまま戦う力の1つになる。


 発動条件は――極限状態に追い込まれ、筋繊維が分解され始める“臨界”を迎えた時。個人差はあるが、筋肉が破壊と修復のサイクルへと移行する、そのインターバルにギフトは働き出す。


 つまり、肉体を削り尽くすほどの負荷を与え、なおかつ“壊れすぎない地点”で踏みとどまれるか――その紙一重の綱渡りが、真に使いこなす鍵だった。


 すると、隣でへたり込みながらも笑みを浮かべた望月が、唐突に口を開く。


「……あんたからレストアサイクルなんて専門用語聞けるとは、びっくりだわ」


 息を弾ませながらも、目元にはからかうような光が宿っている。


「成長してるんだねぇ如月。は~い、いいこ、いいこ」


 そう言って、ロープをつかみリング端に立つと、ずぶ濡れの手で如月の頭を何度もかき混ぜるように撫でる。指先からは熱と汗が混じり合い、妙に生々しい感触が伝わってくる。


「お、おい……やめろ、汗が――」


 不快なはずなのに、不思議と胸の奥に温かさが残る。仲間として受け入れられた証のようなその仕草に、如月の頬がわずかに熱を帯びた。


 如月が慌てて手を払いのけようとするが、望月はさらに楽しげに手を振り回す。島村が横で吹き出し、場の空気は一気に和らいだ。


「仲良しさんだねぇ。こっちまで和むよ」


 皇は口元を緩め、わざとらしく肩をすくめてみせた。


 殺伐とした鍛錬の場に、ひとときの笑いが広がる。その緊張と緩和が、また三人を次の一歩へ押し出していくのだった。


 からかい混じりではあったが、如月の言葉には仲間を思う真剣さが宿っていた。


 二人は苦笑をこぼし、互いに視線を交わす。その表情には疲労の影と同時に、確かな信頼がにじんでいた。


 その姿に、如月は内心で――(まだ伸びるな)と確信を深めるのだった。


 そんな三人を見る周囲の取り巻きたちの視線は鋭かった。


 まるで獲物を狙う肉食獣の目――如月の本能が警鐘を鳴らし、背筋に冷たいものが走る。


 ひとつ息を呑む間に、汗に濡れた空気さえ重たく感じられた。


「怖がらなくていいさ、ハニー」


 皇が軽く肩を叩き、口元に微笑を浮かべる。だがその双眸そうぼうは冗談を許さぬように鋭く、笑顔との落差がかえって緊張を深める。


 次に来るのは試すような挑発か、あるいは“女”としての尊厳すら脅かされる危機か――周囲までもが息を潜め、時間が止まったかのような一瞬だった。


「心配しないで。如月さんたちのコスチュームのことを考えてるだけだよ」


 取り巻きの一人が笑顔で言葉を投げ、張りつめた空気を一気に吹き飛ばした。場は意外な明るさに包まれる。聞けば、三人の試合用のコスチュームをどうするか、夜な夜な皆で案を出し合っているのだという。


 煌びやかな布地の色、羽の飾り、入場時のガウンの長さ――彼女たちはまるで宝物を扱うように、夜を徹して真剣に語り合っていたという。衣装の話題でありながら、その声には熱がこもっていた。聞かされる如月たちにとっては、驚きと同時に、背筋を伸ばさずにはいられないほどの重みを感じさせるものだった。


「せ、先輩たちが……!?」


 望月は目を丸くし、素直な驚きの声を漏らす。頬はみるみる紅潮し、隣の皇に頭を撫でられると、ますます赤くなって俯いてしまった。


「当然さ。大事なハニー達の門出には、最高の舞台と衣装を用意するよ」


 皇の声音には、誇らしさと同時に、何かを背負う者だけが持つ重みが宿っていた。


 取り巻きの笑顔、望月の照れ――しかし如月の心はざわめいた。


(……いつの間に“達”になってんだよ……)


 胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感を覚えた、その矢先。本道場の重い扉が、突き破るように開いた。


「よっしゃー!帰ってきたぜ!」


 甲高い声と同時に、視線をさらうような存在感が流れ込む。金髪ツインテール、陽光をそのまま編み込んだかのようにきらめき、肩に担いだ大きなトラベルバッグが彼女の無尽蔵のエネルギーを物語っていた。


 その横に並ぶのは、全く対照的な女性。白いロングウェーブヘアーが滑らかに揺れ、褐色の肌は深い海のような静けさを湛えている。彼女――SAKEBIは声を荒げることなく、ただ片手を上げるだけで十分な存在感を示していた。


「お帰り、ハニー達!」


 皇が声を弾ませる。カナレは満面のピースで応え、SAKEBIは穏やかに微笑む。2つのコントラストが、場に鮮烈な印象を刻みつける。


(……天道カナレ。……空気そのものを変える力を持ってやがる……)


 画面越しでは伝わらなかった。強者だけが持つ、場の温度を一瞬で変える圧。銃声のように鋭く、稲妻のように速く――ただ現れただけで、空間の秩序が書き換えられていく。


 如月は拳を握りしめ、ただ真っ直ぐにカナレを見据えていた。

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