第14話:幸運と未来
「ちょっといいかい、ハニー。」
口を開いたのは皇だった。響いた声に、その場の空気が一瞬で張りつめる。如月は無意識に背筋を伸ばした。
「プッシュアップバーは確かに役に立つけど、本質は違うよ。素質が滲み出る瞬間を捉えること――それを見抜ける人間は限られている。斎藤先生は、その眼を持っているんだ。」
如月は思わず息をのむ。皇の言葉は説明ではなく、断言だった。
「それに社長は特別さ。道具なんて必要ない。君のスパーを見ただけで、最初の一歩、視線、間合い……すべてから確信していたはずだ。」
その一言に、如月の背筋を冷たいものが駆け上がった。やはり本田はあの時、一瞬で見抜いていた――補助具など関係なく。ただ自分の動き1つで、隠しようのない何かを掴まれていた。
視線を逸らそうとしたが、皇の眼差しに釘付けとなる。島村と望月も黙り込んでいた。尊敬と畏怖、そして置き去りにされたような感情がその表情に浮かんでいる。
如月は喉を鳴らし、やっとの思いで声を絞り出した。
「……そんなもん、一目でわかるわけねえだろ。」
返ってきたのは、皇の含み笑いだった。王者の余裕と、抗いがたい力を纏った笑み。その横顔に射す光すらも、彼女の威光のように思えてしまう。
本田が静かに口を開いた。
「そして、貴方の能力は――皇が欲していたものです。」
「え……?」
如月は反射的に首を傾げた。隣では皇が、何かを待ち望んでいたかのように、にっこりと微笑んでいる。意味が掴めず戸惑う如月を見て、本田は表情を変えずに淡々と告げた。
「実はあなたにスパーリングパートナーを経て、皇の正式なタッグパートナーになってもらいたいと考えています。」
「な……!」
声が裏返った。如月の驚愕はすぐに島村と望月へ伝染し、二人はその場で硬直し、思わず目を見開いていた。
――皇 翼。
Queen Beeの絶対王者にして、年に一度だけ開かれる特別トーナメントQueen’s Crown三連覇の“女王”。その名を冠するだけで、すでに一種の伝説であり、ただの勝者という枠をはるかに超えた象徴だった。
彼女の名は称号以上の意味を持つ。団体の屋台骨であり、観客が熱狂と畏怖をもって叫ぶ存在。試合会場にその姿が現れるだけで空気が変わり、ざわめきが熱狂へ、そして熱狂がやがて“崇拝”に変わっていく。
リングに立てば圧倒的。対峙するレスラーたちにとっては、超えるべき壁という言葉すら生ぬるい。“敗北を覚悟して挑むしかない相手”として、その名はプロレス界に深く刻まれている。
仲間でさえも一線を引き、敵にとっては圧倒的絶望を突きつける――それが皇 翼という存在だ。
彼女は、女子プロレス界のトップクラスに位置し、比喩ではなく“女王”として君臨する唯一無二の存在だった。
本来なら、ラーブに与えられる枠はごくわずかの前座か、せいぜい第二試合いわゆる“つなぎの試合”が限界だ。それを飛び越え、いきなりメインイベンターのパートナーに抜擢――常識ではあり得ない話だった。
場の空気は一瞬にして凍りついた。ただ一人、斎藤だけが何食わぬ顔で腕を組み、まるで「必然」とでも言わんばかりに静かに目を閉じていた。
異常事態を前に、如月の思考は追いつかない。頭の中が真っ白になり、言葉すらまとまらなかった。背後では島村と望月が呆然と立ち尽くし、まるで夢の中に放り込まれたように理解を拒むかのように視線を泳がせていた。
「……要するに、この綺麗なお姉ちゃんとトップ戦線でやれってことだろ?」
口を突いて出た軽口。自分でも何を言っているのか分からない。ただ場を埋めるように出た言葉に、皇の瞳がぱっと輝きを帯びた。
「綺麗だなんて……ふふ、ハニー、君の目には私がそう映っていたんだね。……あぁ、それを聞けただけで胸が熱くなるよ。」
頬をほんのり赤らめながら、女王はゆっくりと腕を広げる。その姿は勝者の余裕と、少女めいた無邪気さを同時に纏っていた。
そして次の瞬間――唐突に如月を抱き寄せようと迫る。
「や、やめろー!」
慌てて身を引く如月。しかし皇は一歩、また一歩と距離を詰め、逃げ場を奪うように歩を進めてくる。その表情には邪気などなく、ただ純粋に楽しんでいる笑みが浮かんでいた。だがその笑みこそ、如月にとっては恐怖そのものだった。
「ただのハグじゃないか。何をそんなに怖がっているんだい?」
軽やかな声音に潜む異質な圧。冗談のはずなのに、冗談には聞こえない。手を伸ばせば触れてしまうほどの至近距離に、女王の熱が迫る。
如月は背筋をぞわりと震わせ、必死に両腕で距離を作ろうとするが――圧倒的な存在感に押し潰されそうだった。
そのとき、斎藤が低く咳払いをした。控えめな音にすぎなかったが、重苦しい沈黙を断ち切る刃のように場を裂き、張り詰めた空気が一気に引き締まる。
皇の動きがぴたりと止まり、室内の誰もが無意識に息を呑んだ。
「これは社長と、Queen’s Crown優勝者である皇が決めたことだ。女王の命令は――絶対だ」
短く、しかし絶対的な響きをもつ言葉。その瞬間、如月は悟った。逃げ場など、どこにも残されていない。
背後を振り返っても壁。目の前には女王と社長。その視線の網に捕らえられた時点で、抗う余地は消えていた。
力を抜いたように肩を落とし、深い溜息を吐く。観念するしかないのだと、頭では理解していても、胸の奥では波立つざわめきが収まらない。敗北感にも似た重さが、肺の奥を圧迫していた。
「まあ……別に構わないけどさ。」
口調は軽い。わざと軽くした。そうでもしなければ、自分の本心が顔に滲み出てしまいそうだったからだ。
けれど内心では、女王の隣に立つという事実の重さを噛みしめている。軽口を叩いた舌の裏側で、緊張と恐怖がじっと居座っていた。
そして――どうしても拭えぬ疑問があった。
なぜ、女王がこの自分を求めるのか。その理由を知らずに前へ進むことはできない。
「でも、なんで俺のギフトが必要なんだ?あんた、十分強いだろ?」
吐き出した声には、諦めきった響きと、どうしても知りたいという好奇心が入り混じっていた。女王と並び立つ覚悟を決めた以上――彼女が自分を選んだ理由を、知る権利がある。
如月の問いに、沈黙を破ったのは本田だった。社長机の奥に腰掛けたまま、組んだ指をほどき、表情ひとつ変えずに淡々と告げる。
「彼女のギフト《胡蝶蘭》を簡単に説明すると――“幸運”です。」
短い言葉だった。しかし、その一語に含まれる意味はあまりに大きい。皇が静かに微笑む。まるで、自らの秘密を他者に明かすことを楽しんでいるかのように。
三文字ギフト――胡蝶蘭。
試合中に小さな偶然を引き寄せる持続型の幸運。相手の蹴りがわずかに狂い、ダイブの角度が彼女のカウンターに噛み合う。観客から見れば「紙一重で避けた!」「狙ってたのか!?」と映るが、実際は流れが彼女に味方しているのだ。
その力により、彼女は“受けの美学”を体現する。大技を耐え、観客を沸かせ、そして――逆転の一瞬を掴み取る。
ただし万能ではない。幸運はあくまで“芽”であり、長引けば不運へと転じる。偶然を掴み損ねれば、それはただの揺らぎとして消えてしまう。
流れを呼び、観客を味方につけ、最後に逆転を決める――それが「胡蝶蘭」の本質だった。
如月は思わず呟く。
「……三文字。それって珍しいんじゃなかったっけ?」
「そうだ」
斎藤が短くうなずく。
「三文字ギフトは極めてまれ。その存在だけで特別視される。現役の中でも皇を含め、わずか二人しかいない。」
静寂が場を包む。皇はどこか誇らしげに胸を張り、島村と望月は呆気に取られたように顔を見合わせた。如月は眉をひそめる。二人しかいない――ならば、もう一人は誰なのか。
「……で、その最後の一人は?」
問いかけに、斎藤は口を閉ざした。視線が自然と本田へと向かう。社長は動じることなく、薄い笑みを浮かべ「どうぞ」とでも言うように小さく頷いた。斎藤は渋々、重い口を開いた。
「……KDPに所属する選手――《金剛力》のギフター、久遠寺カヲルだ」
その名を聞いた瞬間、空気が一段と張り詰める。島村と望月は思わず息を呑む。だが如月の胸に走ったのは驚きではなかった。むしろ――“やはり”という感覚。得体の知れない影の正体に、ようやく輪郭が与えられたような確信めいた直感だった。
そして――皇の表情に、わずかな陰りが走った。ほんの一瞬、顔が引きつったように見えたのを如月は見逃さなかった。
またKDPの名が出る。敵対関係にあるのは疑いようもない。そもそもプロのリングという世界は、自分の団体こそが絶対で最強だと信じて疑わない、癖の強い人間たちの集まりだ。誇りと縄張り意識がぶつかり合えば、火花が散るのは避けられない。いざこざや小競り合いは日常茶飯事。
「久遠寺……カヲル……」
如月は低くその名を反芻する。それは単なるライバルではない。皇ですら揺さぶられる存在――三文字のギフトを持つ、もう一人の“異端”。
「でもうちは、他流試合とか、多団体の参戦は基本NGじゃなかったっけ?」
Queen Beeはすべてを内部で完結させる純血主義を貫いてきた。本田が掲げるその鉄則は揺らぐことなく、外部との交流を頑なに拒んできた。異なる団体と交わることで血統が濁る――そう信じて疑わないからだ。
「半年後に行われる奉納タッグトーナメントがあってね。それに選ばれた団体は、例外なく出場義務を負うんだ。うちもその1つに選ばれてね」
皇は肩をすくめながらも、控えめながら誇らしげに、言葉を継いだ。
「しかもQueen Beeは前回大会で準優勝していて、その実績でシード権まで与えられてる。つまり、本田社長の掲げる純血主義であっても、この舞台からは逃れられないってことさ」
皇の声音には、諦めと覚悟が入り混じっていた。純血主義という絶対の掟すらねじ曲げざるを得ないほど、そのトーナメントには強い権威と重みがある。誰も逆らえない――そう言外に告げる響きだった。
如月は肩をすくめ、まるで大したことじゃないと言わんばかりに言い放った。
「ってことは、そいつをトーナメントで潰せばいいんだな?」
あまりにあっけらかんとした口調に、島村と望月は同時に顔をしかめた。「はあ!? 何言っての!」と表情の中にくっきりと浮かんでいる。二人にとっては、とんでもない敵の名前を前にした衝撃の一言だった。
だが――本田と皇は違った。彼女たちの目には、如月の無謀な言葉がただの無鉄砲には映らなかった。むしろ、格闘家としての本能と、ギフトを持つ者ならではの直感がにじみ出た瞬間のように思えた。
本田は静かに目を細め、まるで本能で答えを知っていたかのように頷いた。皇は隣で口元を吊り上げ、どこか嬉しげに如月を見つめている。
その視線には、ただの新人に向けるものではない――未来を共に背負う存在を直感で見抜いた者だけが持つ、揺るぎない確信が宿っていた。
「で、このお姉ちゃんの幸運を活かすには……俺の《神眼》が必要ってわけか。」
如月の言葉に、本田はゆるやかにうなずいた。その目は、単なる社長の眼差しではない。まるで盤上の駒が揃い、ようやく“最強の組み合わせ”が完成したことを見届けた棋士の眼光だった。
「理解が速くて助かるわ」
如月の《神眼》は――未来の断片を一瞬だけ映す、不確かな予兆。見えた光景が必ず現実になるとは限らず、曖昧さの霧に覆われた力。それだけでは勝負を決める決定打にはなりえない。
だが皇の《胡蝶蘭》は違う。試合の最中、わずかな揺らぎを引き寄せ、偶然を味方へと変える“持続型の幸運”。その偶然が如月の視た未来の断片と噛み合った瞬間――曖昧な幻影は現実の舞台に降ろされる。
漂う可能性を現実化する幸運。
数多の分岐から正解を選び抜く眼。
本来ならば決して噛み合うことのない性質。だが、そのずれこそが歯車の“遊び”となり、重なったとき初めて1つの“必然”を生み出す。
その図式が如月の脳裏に、鮮烈なヴィジョンとして焼き付いた。
――自分と皇が組むことで、ただの“偶然”が“必然”へと変わる。観客が「奇跡だ」と叫ぶその瞬間を、意志の力で掴み取れる。
2つが合わさることで、初めて“意志で幸運を操る”タッグが誕生するのだ。
「……わかった、俺は構わないぜ。よろしくな」
如月が手を差し出すと、皇は待ってましたとばかりに勢いよく飛びついた。その抱擁はまるで獲物を仕留めた猛獣のように力強く、しかも一片のためらいもない。
「あぁ……ハニー……きっと私たちは前世から結ばれていたんだね……運命共同体として……もう絶対に離さないよ……」
柔らかな声とは裏腹に、腕にこめられた力は凶器そのものだった。骨が軋む音さえ聞こえてきそうで、如月は顔を真っ赤にして必死にもがく。
「ぐ……苦しい……!」
どうにか身をねじって脱出した時には、肺の奥まで酸素を奪われ、息は荒く、不規則に途切れていた。
「あぁ……死ぬかと思った……。」
額の汗をぬぐいながらも、気を取り直すように如月は本田へ視線を向ける。
「で、KDPの久遠寺のパートナーは?」
本田が答えかけたその瞬間、斎藤が口を開いた。彼女の低い声は、室内の温度を一気に数度下げたかのような重みを帯びていた。
「彼女にパートナーはいない。常に二対一の変則マッチだ」
「……は?」
耳を疑う言葉に、如月は固まった。脳裏に浮かぶのは、自分と皇が必死に力を合わせて戦う姿――だがその相手が、常に“孤高の怪物”として立つ久遠寺カヲル一人であるという現実。
つまり、久遠寺カヲルはタッグすら必要とせず、己の体ひとつでリングの双頭の巨獣をねじ伏せてきたということだ。常識から外れた圧倒的な力。その意味を悟った瞬間、如月の背筋を氷柱のような冷たさが貫いた。
笑い飛ばすこともできず、怒鳴り返すこともできず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
さらに本田が一瞬言葉を選ぶように目を伏せ、それから重々しく続けた。
「さらに言うなら、久遠寺カヲルは――利き手の左手を使わない状態で、デビュー戦から無敗」
その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついた。如月は一瞬、聞き間違いだと思った。だが本田の声音には一片の冗談もない。
利き手を封じてなお無敗。
それは単なる戦法ではなく、もはや常人には理解できない領域の証明だった。圧倒的な余裕、自らに課した枷すら楽しむような異常な強さ――。
如月の喉がごくりと鳴る。体が本能的に「正真正銘の化け物だ」と告げていた。島村と望月は言葉を失い、ただ目を見開くばかり。
一方、皇だけはその事実に怯むことなく、むしろ愉快そうに口元を緩めていた。
本田の言葉に、如月の胸中はさらに重く沈む。利き手を封じたまま無敗――それだけで常軌を逸している。だが、まだ底があるのかと訝しむように視線を向けたそのとき、皇が静かに口を開いた。
「もっと“愉快”なことを教えると――」
その声音には、普段の余裕や冗談めかした色は一切なかった。覇者の眼差しが鋭く光り、空気をさらに張り詰めさせる。
「彼女――実は、今まで一度もギフトを使ったことがないんだ」
凍りついた沈黙が場を支配する。島村や望月も声を失い、如月は思わず喉を鳴らした。ハンディキャップマッチ、片腕封印――それすら“ハンデ”に過ぎず、真の力はまだ誰にも知られていない。背筋を這い上がる冷たい戦慄に、如月は思わず拳を握りしめた。