第12話:女王の帰還
寮の食堂には、まだ昼間だというのに試合会場さながらの熱気がこもっていた。大きなモニターに映し出されているのは、遠征先でのカナレの勇姿。
リング中央で、TMHのシングルベルト――Burst Empressのベルトが彼女の腰に巻かれる瞬間。観客席からは割れんばかりの拍手と歓声が響き、紙吹雪が宙を舞う。
その歓声は画面越しでも伝わってくるようで、食堂に集まった選手たちの息遣いすら一瞬止めるほどだった。
カナレは意気揚々とカメラに向き直り、わずかに顎を引いてポーズを整えた。その口角がきゅっと上がり、白い歯を覗かせる笑顔が弾ける。次の瞬間、迷いなく突き出されたのは人差し指と中指――軽やかなピースサイン。
だが、それはどこか子供じみた仕草とは違い、舞台上の女優が決めるラストカットのように華やかで、計算された“絵”だった。
食堂のモニター越しですら、その仕草に釘付けとなる。歓声を上げているのはロビーの選手たちだけではない。画面の向こうにいる観客全員が「自分に向けられた」と錯覚する、圧倒的な磁力があった。
如月は思わず息を止める。――アイドルでもなく、レスラーでもなく、そのどちらもを呑み込んだ“女王の笑顔”。それは、この団体が築き上げてきた美学そのものの象徴に思えた。
絹糸のように輝く金髪ツインテールがライトに反射し、きらきらと揺れる。豊満でありながら、無駄のない引き締まった肉体。背中に宿る筋肉の張りが、努力の歴史を雄弁に物語っている。
「かわいい!」
「勝てる気がしない……」
食堂のあちこちから声が上がる。女子レスラーたちが口々に感想を漏らし、椅子から身を乗り出す者までいた。まるで推しアイドルのライブ映像を見ているかのような熱気で、空間は一瞬にして同じ方向へと飲み込まれていく。
その様子に如月は、まるで異世界を覗き込んでいるような感覚を覚えた。画面に映るカナレの姿は、単なる王者のそれではない。リングという舞台を一歩踏みしめるだけで、観客が立ち上がり、異国の人々ですら魅了してしまうオーラ。女神へと捧げる信仰に近い熱狂が、波のように押し寄せていた。
テレビの映像越しからでも、その熱気は容赦なく伝わってくる。観客たちは、ただレスラーに歓声を送っているのではない。勝敗を超えた存在――ギフトを背負う“象徴”としてのカナレに、祈りを重ねるように声を上げているのだ。
如月は拳を握りしめながら、胸の奥で呟く。
(……これはもう、競技とかエンタメの域じゃねえ。――一種の信仰だ)
観客たちが見ているのは、カナレという一人のレスラーではない。その肉体を通して顕現する“ギフト”そのもの。
あの光に触れることで、人々は畏怖を覚え、同時に祈るような眼差しを向けている。
――信じる対象であり、すがる象徴。歓声は祝福であり、祈りであり、崇拝の声そのものだった。
如月は思う。これは女子プロレスという枠を越えた光景だ、と。世界規模の興行であると同時に、彼女たちの肉体に刻まれたギフトが、1つの宗教のごとき信仰対象になっている。
――女子プロレスという枠を越えて、まるで宗教的な高揚すら感じられる。
如月は腕を組み、唸るように息を吐いた。
(……この世界規模の興行と人気……ギフトがただの力じゃなく“信仰”になるわけだ)
周囲を見渡すと、望月や島村も、目を輝かせながらカナレについて語り合っていた。彼女たちにとって、同じ団体に所属する同期生でありながら、同時に「遠い憧れ」の存在。
如月はその光景に、ほんのわずかな嫉妬と、そして抑えきれない闘志を抱いていた。
テレビの前の食堂は興奮の渦。皆アイドルの生放送を追うファンのようにカナレの活躍を語り合う。望月は「フェイバリットギフト《剛腕》」について、熱弁を振るっていた。
「お前、本当に詳しいのな」
思わず漏らした如月の言葉に、望月がぴしゃりと眉をひそめた。
「あんたが知らなさすぎるの!」
即座の反論は、半分呆れ、半分はツッコミの勢いだった。普段から何度も繰り返してきたやり取りに島村がすぐに笑いを含んで口を挟む。
「まあ、まあ、私たちみたいなマニアじゃないんですし」
その柔らかな調子は、望月の語気を和らげ、場の空気を中和するかのようだった。
「私はマニアじゃない!」
望月は真っ赤な顔で強く否定する。だが、その声にはどこか照れ隠しめいた響きが混じっていて、余計に可笑しみを増す。
食堂の空気がふわりと和やかに弾けた。笑い声に包まれる中、如月は肩をすくめる。――この二人の掛け合いは、息がぴったりすぎて、見ているこちらが観客にでもなったような気分にさせられる。
望月は興奮したとき早口になる癖がある。普段は控えめでしっかりしているのに、レスラーや団体の話題になると急に饒舌になり、声のトーンまで一段高くなるのだ。
そのギャップを面白がるように、島村は時折からかい半分の相槌を挟む。結果、望月は余計に熱を帯び、耳まで赤く染めて言葉を重ねていく。
如月はそんな二人を眺めながら、心のどこかで懐かしさを覚えていた。厳しい練習や試合の合間に、ほんのひとときだけ顔を出すこうした笑い合い――それは、戦うために集められた場所でしか生まれない、特別な温度のように思えた。
だが、如月の胸には別の感情が芽生えていた。
(……俺の経験を生かせば、こっちの世界でも十分通用する……)
画面の中のカナレに重ね、心の奥で英二としての闘志が熱を帯びる。頭の奥底から、流転前の記憶がふいに浮かび上がる。
汗で濡れたマットに両掌を突き、何100回と繰り返したプッシュアップ。
胸が焼けるほどに追い込み、腕が痙攣しても、なお「あと1回」と声を絞り出していた日々。
誰も見ていない深夜の道場、ただ己に勝つため鍛え上げることだけを信じていた――あの孤独な時間が、今も確かに血肉となって残っている。
如月は静かに息を吐き、拳を握り込んだ。汗に濡れた床を這うように積み重ねてきた記憶と、いま足裏で確かに感じる大地の重みが重なり、胸の奥で燃える熱はますます強くなる一方だった。
同時に、夜中に交わした本田との会話が脳裏をよぎった。
――魂を入れ替えるようなギフトはあるのか、と問うたあの時。本田の答えは冷ややかに否定だったが、胸の奥にはまだ細い糸のような希望が残っている。掴めば切れてしまいそうで、それでも手放せない糸が。
その糸の先に、確かに如月の魂が存在するのではないか――そんな思いが拭えない。肉体を失ってもなお、彼女の本当の魂はどこかで息づいているのではないか。もしそうなら、再び元に戻り、彼女にこの体を返すことができるかもしれない。
魂を入れ替えるような現象――あれはギフトの力なのか、それとも三女神の力なのか。確認のため、如月は二人に聞く。
「なあ、二人は、その……三女神ってのに会ったことあるのか?」
その問いに、望月と島村は一瞬だけ目を合わせる。唐突な話題に戸惑ったのか、あるいは笑いを堪えているのか、微妙な沈黙が流れた。
だが次の瞬間、二人の顔にはすぐに“当たり前”の色が戻る。
「神様なんかに会えるわけないでしょ」
望月は肩をすくめて笑い飛ばす。迷いのない声音だった。
「あくまで象徴で、崇拝の対象にすぎないものですから……」
島村も柔らかく補足する。説明するというより、常識を確認するかのような落ち着きぶりだった。
あまりにも自然で、当然とでも言いたげな返答に、如月は胸の奥で小さく息をついた。――そうだ、ここではギフトさえ特別なことではなく、女神ですら信仰の象徴にすぎないのだ。
「――そうだよな。実体なんかあるわけねえわな」
彼女たちにとって三女神は、単なるお伽話の延長のような存在らしい。だが如月にとっては違った。まるで当たり前のように「ギフト」なるものが現実に存在するこの世界でさえ、自分の感覚はどこか追いつかず、むしろ「神の介在」なんて話の方がまだ理解しやすい。
ギフトが常識となっている彼女たちにとっての“不在”と、ギフトすら有り得ないと思っていた自分にとっての“違和感”。そのズレが一瞬、胸の奥に奇妙な安堵と不気味さを同時に広げた。
食堂の時計は12時半を指していた。
冷めかけたバター焼きを三人で急いで平らげ、皿の上には油とソースだけが残る。笑いながら箸を置く二人の横で、如月もつられて笑みをこぼす。
「冷めてても、うまいな」
自然と漏れたその一言に、望月と島村が同時にうなずいた。女子特有の屈託のない笑顔が、テーブルの上の水滴まできらめかせるようだった。
食器を返却して、三人は休憩スペースへ移動する。狭いソファの真ん中に腰を下ろした如月は、両脇の二人が近すぎて、肩が軽く触れる距離感に思わず背筋を固くした。
甘いシャンプーの匂い、やわらかな声色、仕草ににじむ華やかさ――リングの上では戦士の顔をしている彼女たちが、ここでは年頃の娘に戻る。その空気に囲まれると、妙に息苦しく、場違いな感覚が強まっていく。
(……女くさい……俺は、やっぱり異常な状況にいるんだな)
心の中で苦笑する。笑い合う彼女たちの横顔が、どこか遠い世界のものに見えて仕方なかった。
そのとき如月は、何気なく口を開いた。
「ラーブ(Larva)……早く羽化してぇな」
何気ない一言のつもりだった。場に合わせた軽口で、自然に会話の流れに乗った。
――そう見せたかった。だが、心のどこかで「また地雷を踏んだかもしれない」と薄く汗がにじむ。
結果は予想通りだった。
「どうせまた、知らないんでしょ? うちの“ハニーカースト”」
望月が呆れ顔で返す。その口調には、もう何度目か分からない既視感のような響きがあった。
ここに来てから何度もやらかしている。如月がこの世界の“当たり前”を知らないたびに、望月は眉をひそめてため息をつく。本人は悪気がないのだろうが、横で見ている島村まで肩をすくめて笑うのだから始末が悪い。
(……まただ。俺はほんとに、何ひとつ知らない新入りの“ふり”を続けなきゃならねぇのか)
内心で苦く呟きながらも、表情には出さない。ただの天然ボケ扱いで済むうちは、まだ救いがあると信じた。
そんな如月の戸惑いをよそに、望月の解説が始まった。
――女王の座に立つ“クイーン”。団体の象徴にして、絶対の頂点。
その護衛であり、同時に舞台を彩る顔でもある“ロイヤルガード”。
海外遠征や外部交流を任され、団体の看板を背負って立つ“フォージャー”。
数を支え、興行を動かす屋台骨“ワーカー”。
そして、まだ羽化を待つ未熟者――“ラーブ”。
望月の声は、まるで自分自身の誇りを語るように熱を帯びていた。島村も「うん、うん」と頷きながら相槌を打つ。二人にとって“ハニーカースト”はただの制度ではなく、自分たちの生きる舞台そのものなのだと伝わってくる。
さらに望月は続けた。
「毎年の査定“ハニーレビュー”で昇格が決まれば、盛大な“初翔の儀”が行われるの。全員で祝福する、ここにとって一番華やかな瞬間だよ」
島村が笑って補足した。
「で、もし引退しても、育成に戻れば“ハニーハンド”として、ここを支えられるんです。働き方は変わっても、繋がりはずっと残るんですよ」
如月は小さく息を吐いた。
(……やっぱりここも戦場だな。甘ったれた夢物語じゃない。這い上がるには、牙を突き立てて結果を残すしかない……いや、ここじゃ、牙じゃなくて――針か)
心の中で言い直しながら、胸の奥で静かな熱がふつふつと燃え上がっていくのを感じていた。
そう考えていた矢先、ロビーのほうから歓声が響いた。
ざわめきが波のように押し寄せ、食堂にいた全員の視線が自然とそちらへ吸い寄せられる。まるで空気そのものが一段明るくなったような変化だった。
帰国した本隊組が現れたのだ。
遠征を終え、国内に戻ってきた精鋭たち。その肩書きや戦績だけでなく、彼女たちの存在自体が“巣の顔”であり、若手にとっては憧れの象徴だった。
中でもひときわ目を引いたのは、金色のミディアムショートの女性。照明のないロビーでありながら、その髪はまるで舞台のスポットライトを浴びているかのように輝き、立ち居振る舞いは舞台女優を思わせる華やかさを放っていた。
彼女が歩くたび、群がる選手たちが小さな悲鳴にも似た歓声を上げ、次々に抱きついていく。腕に飛びつく者、手を握って離さない者、涙ぐみながら再会を喜ぶ者までいた。
その輪の中心に立つ姿は、まるで劇場のスポットライトを一身に浴びる主演女優そのものだった。
同じ「選手」であるはずなのに、その距離感は限りなく“アイドル”や“女王”に近い。ファンとスターの垣根を取り払ったような熱気が、ロビー全体を震わせていた。
「はーい、ハニーたち。寂しかったかい?私はね……すごく、すごく寂しかったよ」
その声は甘く、よく通り、ひときわ大きな鐘の音のように空間を支配した。軽やかな調子でありながら、聞いた者の胸を確実に掴んで離さない。舞台の幕が開く瞬間のように、場の空気が一瞬で彼女のものへと変わっていく。
如月は思わず息を呑んだ。
単なる人気者の帰還――そんな言葉ではとても片付けられない。纏うオーラは濃密で、視線を奪い、心を震わせる。リング上の強さや技巧ではなく、人の心を支配する「華」の力。
(……なんだ、この圧。俺の知ってる“人気レスラー”ってレベルじゃない。完全に“女王様”のご帰還だな……)
目の前で繰り広げられる光景に、如月は言葉を失った。抱きつく選手たちの顔は、弟子が師に、あるいは信者が偶像に触れるときのような純粋な熱に染まっている。拍手、歓声、涙、笑い――すべてが渦を巻き、空気が震えるほどの熱狂を生んでいた。
気づけば、自分までその熱に引き寄せられ、知らず知らず小さく言葉を漏らしていた。
「……ここって本当に女子プロレスの施設なのか?」
望月と島村は、憧憬の色を隠さず、その華やかな中心を食い入るように見つめている。まるで自分もあの光の輪に加わりたいと願っているかのように。だが、如月の胸には違う感覚が膨らんでいった。
――疎外感。
彼女らにとって当たり前で自然なこの景色が、どうしても如月には馴染まないようで、歓声の渦の中に立ちながら、ただ一人だけ別の世界から迷い込んできたように居場所を失った心地がする。
同時に、不安の影が静かに忍び寄る。
(……ここで本当にやっていけるのか?リングで闘う前に、この“空気”に飲み込まれちまうんじゃないか……)
華やかな光景の裏で、如月はひとり、胸の奥に重く沈む影を押し殺していた。