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第11話:バター焼きと剛腕

 数日が過ぎ、午前のギフト訓練を終えた如月は、まだ火照る額の汗をタオルでぬぐいながら食堂へ向かった。最初は戸惑いばかりだったが、繰り返すうちに体が慣れ、筋肉のきしみを心地よく感じられるほどになっている。


 道場から漂ってきた血と汗の匂いが、ドアをくぐった瞬間、こんがりと焼けた肉の香ばしさに塗り替えられ、空腹をいや増しに刺激した。


 入口脇のカウンターに並び、ステンレスの受け台に自分のトレーを置く。目の前では、涼子料理長が分厚い肉をトングで返し、バターの香りを立ちのぼらせながら、熱した皿へと滑らせる。


 その動きは豪快でいて無駄がなく、一皿ごとに仕上げられたステーキが、湯気とともに如月の前へ差し出された。


「はい、お待ち!」


 短くも力強い声と同時に、手渡された皿の熱が指先を通じて腹の奥まで届くようだった。


 正面の席にはすでに島村と望月の姿があった。二人はトレーをテーブルに置き、向かい合って談笑している。如月はそのまま足を向け、席についた。島村が軽く会釈をして、望月は「おそーい」と口を尖らせる。


 今日のランチは、週末恒例の「バター焼き定食」一本勝負。分厚いステーキがじゅうじゅうと音を立て、溶けたバターが縁から滴って皿に広がり、その香りが食堂全体を包み込んでいる。空腹だった如月の腹が、ぐうと正直な音を立てた。


 鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てるのは、霜降りのサシが美しく入った牛肉。一人前で数千円は下らない高級ビフテキに、惜しげもなくバターが絡められている。


 付け合わせのジャガイモは、粒を少し残したなめらかなマッシュポテト。ニンジンは同じくバターで艶やかにソテーされ、芳醇な香りが食堂を満たしていた。


 そして最後に置かれるのは、つやつやと光を反射する真っ白なご飯。


 ふっくらと立った一粒一粒から、ほのかに湯気が立ちのぼり、肉の香りを受け止める準備は万端――まるで「ここに乗せてこい」と言わんばかりに、白いキャンバスが皿の横で待っている。


「……こりゃ、完全に男メシだな」


 如月は心の中で呟いた。


 熱気とバターの香りが充満する食堂の中、目の前の光景は、まるで地方巡業の打ち上げで大鍋の肉を奪い合っていた頃を思い出させる。


 女子レスラーたちは、皿の上の肉を大口で頬張り、油の乗った唇を無造作に拭い、咀嚼音も気にせず笑っている。


 その表情は真剣勝負のリング上のそれとはまるで別物で、まさに“戦士が戦場を離れた時の素の顔”だった。


 男の前では絶対に見せないだろう無防備な姿。だが、この空間では、それが当たり前の景色として息づいている。


 如月は、そんな彼女たちの横顔を見ながら、口の端をわずかに緩めた。


 普通の道場の食堂といえば、メニューは統一、味よりも量が正義。それが定番だ。だが、この厨房は違った。


 磨き込まれたステンレスの調理台では、数人のスタッフがリズミカルに包丁を走らせ、湯気と香りが立ち上り、鍋が次々と火口を占領している。


 平日はAセット(あっさり系)とBセット(ガッツリ系)が選べ、夕食ともなればメイン20品、副菜10品の大盤振る舞いになるという。そのラインナップは社員食堂すら顔負けで、まるでホテルのビュッフェのよう――もっとも、大皿に作り置きするわけではない。


 ここでは一人ひとりの注文を受けてから、料理長・涼子を筆頭に、引退後それぞれ社会経験を積んだ、出戻り組の元女子プロレスラーたちが息の合った手際で鍋やフライパンを操る。


 今は昼時、カウンター奥では涼子料理長がバターの香りを立ちのぼらせながら、ランチ用のバター焼きを一皿ずつ丁寧に焼き上げている。


 湯気の向こうで、銀色のトングが肉を返すたび、ジュッと油が弾け、その香ばしい匂いが食堂中に広がっていった。


 目に入るのは、今日のランチメニューであるバター焼き定食を盛り付ける料理長の手元だけだ。


 湯気とバター、甘辛いタレの匂いが混ざり合い、空腹中枢を容赦なく刺激してくる。


「……ちゃんこはねえのかな?」


 如月は箸を止め、少し不満気味にぼやいた。


 プロレス道場といえば、ちゃんこ鍋、という刷り込みは長年の習慣だ。鍋を囲み、同じ汁をすくっては笑い合う――そういう絵面が当たり前だと思っていた。だが、この場所は違う。ここでは、食事すらも個々のコンディションに合わせ、徹底的に管理されている。


 入口近くの壁際には、銀色に光る食券販売機が鎮座していた。正式メンバーはカードで購入するらしいが、如月たち訓練生はまだそれを持たない。機械に顔を向け食べたいメニューのボタンを押すだけで食券が出てくる――いわば“顔パス”。便利ではあるが、どこか仮の存在に過ぎないと突きつけられているようでもあった。


 ――と、そんな説明を、今まさに目の前でしているのは島村だった。


 フォークを器用に操り、ウサギのように、小刻みにニンジンのソテーをがじりながら、口調はあくまで軽やかだ。けれど、その仕草はどこか品があって、食堂のざわめきの中でも不思議と印象に残った。


 如月は思わず苦笑しながら、自分の現状を漏らした。


「俺の部屋なんて、カードキーどころか、内鍵すらねぇぞ」


 その言葉に、島村はフォークを口から離し、小さく笑って首を振った。


「当たり前ですよ。私たちはまだラーブ(Larva)にすらなれていない訓練生ですから。今の部屋は仮住まいなんです」


 聞き慣れない単語に、如月の眉がわずかに動く。ラーブ――幼虫を意味する英語だが、Queen Beeの新人レスラー候補生の階級名らしい。、まだ羽や針も持たず、羽化の時を待ちながら巣の奥で力を蓄える存在というわけだ。


 言葉は軽やかだが、その奥に、ほんのわずかな寂しさが混じっている――如月には、そう聞こえた。島村はフォークを一度皿に置き、ふと視線を落とす。


「如月さんは社長から本隊への合流許可が出たから、もうすぐ行けますよ」


 口元に浮かぶ笑みは、どこか無理に作ったようにも見えた。


「なんでそんな寂しそうな顔すんだ?」


 如月の問いかけに、島村は小さく息をつき、言葉を選ぶようにして続ける。


「……決められた期限までにギフトが覚醒しないと、能力不能とみなされて退寮なんです」


 そこで短く間を置き、苦笑にも似た表情を浮かべる。


「本隊にも行けず、レスラーにもなれないまま、終わっちゃうんですかね私……」


 言葉は淡々としているのに、その響きは妙に重かった。まるで彼女自身の背中に、その“期限”という見えない時計の針が、静かに、しかし確実に迫っているようだった。


 望月がすかさず声を張った。


「何言ってんの!あれだけの猛特訓に耐えてんだ。絶対覚醒するって!」


 その勢いに島村は少し目を丸くしたあと、ふっと頬を緩めた。


「……ありがとう、望月さん」


 はにかみながら言うその声は、ほんのり熱を帯びていた。


 望月は「べ、別に」と言いかけて、照れ隠しのように人差し指で頬を掻く。そんな二人のやりとりを眺めていた如月は、どこか遠い目をして呟いた。


「やっぱ一緒に苦労してる友達ってのは、いいもんだな……」


 ――まだ「英二」と呼ばれていた頃。


 汗と息が混じる道場で、互いに足を引きずりながら部屋に帰った夜。


 ボロい寮の廊下で、缶コーヒーを回し飲みしながら笑い合った日々。


 倒れそうな時ほど、隣に誰かがいてくれた――あの頃の空気を思い出していた。


「……なんか爺くさい」


 望月の一言が、せっかくのしみじみとした空気を容赦なく打ち砕いた。如月が「誰が爺だ」と、言い返そうと口を開きかけた、その瞬間――。


 言い合う二人の間に、島村がぽつりと落とした。


「……私と望月さんが友達なら、如月さんも友達ですよ」


 小さな声だったが、不思議とその場の空気をすっと静める力があった。声音は淡く、けれど芯のあるまっすぐさを帯びていて、二人の胸の奥に素直に届く。


 望月や如月も同時に動きを止め、視線だけでちらりと見交わす。頬にじわりと熱がさし、気まずさと照れくささが入り混じる空気で、三人の間を満たした。


 そんな二人を見つめながら、島村はゆっくりと言葉を置く。


「……午前の練習中、言ってましたよね。私と望月さんは、友達だって」


 その声音はやわらかいが、しっかりと芯を持っていた。


「……聞こえてたの?」と望月が思わず問い返す。


 島村は静かに頷いた。その仕草は何気ないのに、なぜか胸の奥に小さな引っかかりを残す。


 そして、如月の心に疑問が浮かぶ。


(……二十メートル以上は離れてたよな。しかも俺は抑え気味に……望月は相変わらずでかい声だったけど)


 島村はふっと口元をゆるめ、まるで秘密を打ち明けるようにさらりと言った。


「私、地獄耳なんです」


 一瞬の沈黙。如月と望月は、ほとんど同時に視線を交わし、同じ考えに行き着く。


(……これ、もうギフトに目覚めてるんじゃないか?)


 そんな、微妙に熱を帯びた空気を揺らすように、食堂のあちこちからざわめきが立ち上った。


 最初は誰かの小さな声だった。それが隣のテーブルへ、さらに奥の席へと伝染し、まるで水面に落ちた一滴が円を広げるように広がっていく。金属のフォークが皿に当たる音や、肉を切るナイフが皿に擦れる音1つ、また1つと消え、代わりに低くざわめく人いきれが食堂を満たしていった。


 やがて、三人の首が同じ方向へと回る。視線の先――壁際に掛けられた大型テレビ。そこから漏れる実況の熱を帯びた声と観客のどよめきが、まるで生き物のようにこちらの空気を揺らしていた。


 厨房でも、涼子料理長が手を止めずにフライパンを振りながら、横目でちらりと画面を盗み見ている。火花が弾ける音と、テレビの実況が入り混じって耳に届く。


 如月たちも、自然とその流れに引き込まれ、食器を置いて画面へと顔を向けた。そこには、スポットライトと歓声の渦の中、火花を散らす二人の女子プロレスラーの姿があった。観客席はまるで嵐のような熱気に包まれ、リングの四隅から立ち上る空気まで震えて見える。


「……あっ!カナレだ!」


 望月の声が一段高く響き、すぐ後ろの席から「静かに!」と鋭い叱声が飛ぶ。望月は小さく舌を出して肩をすくめた。


 画面右下には試合情報がテロップで流れている。


 ――TMHシングル王座戦。挑戦者は、現在スポット参戦中の天道カナレ。対するは、これまで9度の防衛を誇る王者ケリー・デュラント。


 金髪のツインテールがスポットライトを反射してきらめき、挑戦者カナレの鋭い視線がカメラ越しに突き刺さる。その眼差しは、リングの向こうからでも圧を感じさせ、ただの試合ではないと直感させる迫力があった。


「あの金髪ツインテの姉ちゃんがカナレって子か?」


 如月が画面を指しながら問うと、望月は口元を緩めて頷いた。


「そっか、あんたは知らないんだったね」


 その声色は、いつもよりわずかに弾んでいた。プロテスト前からギフトを覚醒させ、その才能を見込まれて特例合格と同時に本隊に合流した逸材、――同期の中で唯一の特待生。


 望月は椅子を軽く蹴る勢いで立ち上がる。背もたれが小さく軋み、足音を響かせながら、一直線に休憩スペースの雑誌ラックへ向かった。


 ごそごそと雑誌を探し出し、目的の一冊――『週刊グラップル』半年前の号を引き抜く。表紙の光沢は少し色褪せ、角もわずかに丸くなっているが表紙に印刷されたリング上で気炎を上げる女子レスラーたちの姿は、わずかに色褪せてもなお鮮烈で、その瞬間の熱を紙面に閉じ込めていた。


 望月はそれを片手に小走りで戻ってくると、立ったままページをパラパラと勢いよくめくった。指が止まったのは、中ほどの見開き。そこには大きく組まれた特集記事。彼女はそのページを両手で持ち、如月の目の前に勢いよくドンと差し出した。


 記事には、太字のインパクトフォントでこう踊っていた――。


「飛び入りの一般客、メインイベンターを一蹴!」


 内容は、女子プロ団体、女子熱血格闘技団が毎年開催する年に一度の大イベント『闘魂!大逆転まつり!』での出来事だ。


 まだプロテストすら受けていなかった天道カナレが、飛び入り参加の一般枠でリングに上がり、メインイベンターを相手にまさかの大金星。


 しかも決め手は、ギフト覚醒の片鱗すら漂わせるようなラリアット一撃――観客の悲鳴と歓声を同時に巻き起こし、会場を一瞬で沸騰させたという。


「……なんだこの頭の悪そうなネーミングは」


 如月は思わず眉をひそめる。女子熱血格闘技団――その名だけでも暑苦しさ満点だが、さらに『闘魂!大逆転まつり!』ときた。真夏の炎天下に全力で鍋焼きうどんを食べさせられるような、体力を根こそぎ奪われそうな響きだ。


 だが、そのバカバカしさと紙面に溢れる熱気が、不思議と目を離させない。気付けば如月は、ページにかじりついていた。


 食堂が再びどよめきに包まれた。画面の中で、ケリー・デュラントの体が空中で何回転もし、頭からマットへ突き刺さる。衝撃音がスピーカー越しに響き、食堂の空気まで震わせた。


「……あれ、ギフトの力か?」


 如月の呟きに、島村が視線を画面から逸らさずに頷きながら答える。


「カナレ選手の得意技――マキシンラリアットです」


 島村の声は、画面から目を離さずに淡々としていたが、その言葉には確かな熱があった。


「ほとんど密着距離から繰り出したんです。それなのに――あの一撃で、ケリー選手を宙に舞わせたんです」


 如月は、言葉を失ったまま画面を凝視した。リングの上で起きた出来事が、ただの映像ではなく、現実の衝撃として全身に叩き込まれてくる。


 スピーカーから響く低い衝突音が鼓膜を震わせ、同時に胸の奥まで重く響いた。まるで自分もその場の空気を吸い込み、観客席のざわめきの中に立っているかのようだ。


「……至近距離で、あんな吹っ飛ばし方……どうやって……」


 絞り出すような声は、半ば自分に向けられた疑問だった。常識の枠から外れた光景に、頭が追いつかない。


 望月がすかさず補足した。


「あの子のギフトは『剛腕』。両腕だけを、異常なまでに強化する局所特化型だよ」


 その声には、説明というより畏敬の色が混じっていた。


「発動した瞬間、二の腕から前腕まで、筋繊維が極限まで圧縮されて密度を増す。腕は金属みたいな硬さになって、重さや剛性も桁違いになる」


 望月の言葉を聞きながら、如月は画面のカナレの腕をまじまじと見た。確かに、動くたびに鋼のような質感が一瞬だけ覗く。


「そして、その状態で一瞬にして爆発的なパワーを生み出す。だから――」


 彼女の声が、ほんのわずかに熱を帯びる。


「相手の体重や、立ち位置の距離だろうが、物理の壁を全部無視して、真正面から叩き伏せるんだ」


 カナレの目覚めたギフト――。


 二文字ギフト――剛腕。


 両腕の筋繊維は発動と同時に極限まで密度を増し、骨ごと金属のような硬度を帯びる。瞬間的に生み出される爆発力は常人の数十倍。至近距離からの一撃でも、相手を空中で何回転もさせる威力を誇る。


 防御面でも異常な強度を発揮し、相手の打撃を受け止めれば衝撃を腕全体で殺すだけでなく、逆に攻撃した相手の拳や脚に深刻なダメージを与えることすらある。


 ただし強化範囲は腕のみ。他の部位は無防備な上、スタミナ消耗は凄まじく、長期戦では力が急速に鈍っていく。


 一撃必殺――それが「剛腕」の本質。


 勝負は決まった。


 マットに沈んだケリーが身じろぎもせず、レフェリーが慌てて駆け寄る。腕を取って反応を確かめ、危険と判断した瞬間、両腕を交差させて試合終了を宣告――レフェリーストップ。次の刹那、ゴングと同時に、観客席から爆発するような歓声が押し寄せた。


 天道カナレは、汗と息を荒げながらも背筋を伸ばし、勝利宣言を受ける。レフェリーに手首を掴まれ、その腕が高々と天へ掲げられた瞬間――ライトの光を浴びた金髪ツインテールがきらめき、彼女の瞳にはまだ戦いの余熱が宿っていた。


 「……なんて威力だ……」


 如月は思わず口に出していた。胸の奥がざわめき、指先が微かに震える。歓声と実況の熱が、スピーカー越しに耳を打ち、同時に心臓まで揺さぶってくる。


 カナレが放った一撃で、画面の隅に「リプレイ」の文字とともにスロー再生される。至近距離から振り抜かれた腕が、ゆっくりと王者の顎を捉え、その衝撃で体が浮き上がる瞬間までが、秒差で再び流れてきた。


 「……化け物かよ」


 その呟きは、驚きと畏怖と、ほんの少しの憧れが入り混じった響きだった。

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